平凡パンチの韓国特集-1985 | 一松書院のブログ

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 1985年の新年早々、週刊誌の『平凡パンチ』が韓国特集の合併特大号を出した。

 

 

 今でも「日韓関係」や「韓流」が語られるときには、1985年のこの特集が話題になることが多い。

 

 この『平凡パンチ』の韓国特集の統括責任者だった塩澤幸登が、この時の取材や発刊後の裏話しをブログに書き残している。

 

新大久保の謎を追え(一)韓国特集01

新大久保の謎を追え(二)韓国特集02

新大久保の謎を追え(三)韓国特集03

 

 非常に興味深いし、日韓の大衆文化交流史の貴重な証言である。ここにはこう書かれている。

34年前にこの雑誌が巻き起こしたセンセーションは、大衆文化レベルでの日本と韓国との交流のエポック、嚆矢となった歴史的事実だと思っている。

 確かにその通り。ただ、若干の思い違いや時代状況についての説明不足もあるので、ここに書き留めておきたい。

 

転換点の1984年 

 書き出し部分にはこうある。

そのころの韓国は、旅行にいくにしてもキーセン観光ばかりが話題になって、評判が悪かった。
(中略)
いまもまだ厳戒令が敷かれていて夜間は外出禁止、軍人出身の大統領がけっこう政治弾圧などもやっているという話で、きな臭いことこの上なかった。人民が弾圧されながら生活している、日本のマスコミはみんなそう思っていた。

 この特集のための韓国取材は、1984年の11月から12月にかけて行われた。そのきっかけはその年の夏に編集部の「唯一のナウいギャルで、若い女編集者の船山直子が夏休みに友だちとふたりで韓国に遊びにいっ」て、「けっこう面白かった」と語ったことだったという。

 

 つまり、「韓国はキーセン観光ばかりが話題になっていた」のは事実だったが、そのキーセン観光一辺倒から変わり始めようとしてたのがちょうどこの時期だったのだ。『平凡パンチ』の韓国特集が検討されていた同じ時期、『東亜日報』にこんなヘッドラインの記事が出ている。

日本からの風が吹くか
韓国観光に押し寄せている

妓生キーセンパーティが減って歴史観光に注目


 

 この記事によれば、1978年に韓国を訪れた日本人観光客は667,319人で、94%が男だった。それが朴正煕大統領の殺害事件(1979年10月26日)で、80年には468,419人にまで激減した。しかし、1981年506,819人、1982年518,013人、1983年528,262人と徐々に回復し、1984年は、9月末までで日本人観光客は42万人を超え、年末までに55万人になるものと予測されている。1978年に6%に過ぎなかった女性は、1983年になって10%を越えるようになった(韓国観光公社調べ)。女性の訪韓者はたかだか10%だったが、修学旅行や新婚旅行、職場女性や高齢者夫婦など、入国者層の多様化が進み、歴史や文化、風習などに関心を持つ観光客が多くなりつつあった。まさに、若い女性雑誌編集者が韓国に行き、「けっこう面白かった」と言う、そんな時代が始まりつつあったわけだ。

 

 ただし、塩澤幸登のブログの「まだ厳戒令が敷かれていて夜間は外出禁止」という記述は勘違いだ。1979年の12・12クーデターで実権を握った全斗煥チョンドゥファンは、反政府運動を弾圧していたが、軍隊が市民・学生と直接対峙する「戒厳令」を出していたわけではない。それに、夜間通行禁止は、解放後のアメリカ軍政下から日常的に行なわれていたもので、戒厳令とは関係がない。逆に、1982年1月に夜間通行禁止を全面解除したのは全斗煥だった。クーデターや光州での武力弾圧をやらかした大統領の人気回復策の一つだった。『平凡パンチ』の韓国取材時には夜中でも自由に出歩けたわけだ。
 ただ、この当時、日本から来る人の中には、「韓国は戒厳令下で夜間は通行禁止」と思い込んでいる人が少なくなかった。それが、日本社会の平均的な韓国イメージだった。 

 

1984年の日韓関係 

 ところで、塩澤幸登のブログでは触れられていないが、1984年には日韓関係で大きな出来事があった。それは、現職の韓国大統領の初の日本公式訪問である。ちょうど『平凡パンチ』の韓国特集の企画が浮上していた1984年9月の出来事だった。

 

 当時の日本の首相は中曽根康弘。中曽根は首相就任直後の1983年1月に最初の外遊先として韓国を選んだ。中曽根訪韓の答礼として全斗煥の訪日が外交上の検討事項となり、日本側は国賓としての来日を打診した。国賓は、国家元首である天皇がホストになる。天皇主催の晩餐会で天皇自身が朝鮮の植民地支配に言及することで、朝鮮植民地支配の「みそぎ」がすんだことにできるのでは…と目論んだわけだ。

 

 晩餐会での天皇の挨拶の文言については、事前に日韓間で綿密に協議が行なわれた。そして、発せられたのが「不幸な過去が存した」だった。

 

 

 「不幸な過去」がまるで天からでも降ってきたような言い草… という批判は多方面から起きた。全斗煥政権側は、一応これを「謝罪とみなす・・・」という意向を示したが、実際には「天皇が日本による朝鮮支配にも触れた」に過ぎなかった。これが、その後も続く「日本は謝ってない」「いや、すでに謝った」という対立の始まりだった。

 

 そうした政府間レベルでの「思わく外交」の駆け引きが先行する中、全斗煥訪日に先立って、「民間レベルで率直な意見交換をする」というふれこみで、テレビ朝日と韓国KBSが、日本と韓国のいわゆる「文化人・知識人」を集めた番組を企画した。

 

 1984年7月17日の夕刻に下関から出港する関釜フェリーに乗り込んだ日本と韓国の参加者は、木元教子と金栄作キムヨンジャクの司会でそれぞれに語った。日本側からは大島渚・岡本太郎・中上健次・竹内宏・筑紫哲也、韓国側からは洪一植ホンイルシク(高麗大教授)・崔仁浩チェイノ(作家)・高時天コシチョン(建国大教授)・崔相龍チェサンヨン(高麗大教授)・金洙容キムスヨン(映画監督)・金恩国キムウングク(作家)・李禹煥イウファン(画家)が参加した。

 

 塩澤幸登はブログの中で、フリーの編集者森永博志のホームページの記載をこのように引用している。森永博志も『平凡パンチ』のこの時の韓国特集の取材・編集に加わっていた。

そのころ映画監督・大島渚がバカヤローと韓国を罵倒し、それに対し韓国の文化人が一斉に反発し、騒動に発展していた。

 これは、この番組内でのハプニングを書いたものだが、大島渚は「韓国を罵倒」したのではない。

 

 フェリー出航後の番組収録は5時間以上に及んだ。酔っ払ってきて興奮した大島渚が「個人の問題を話す場だ」「そうでないのなら、俺は帰る」と息巻いたのに対して、司会役でもあった韓国側の金栄作が、とりなそうとした。しかし、最後はブチ切れて「問題をすり替えないでください」と日本語で言ったのに対し、大島渚が「バカヤロー!」と叫び、「バカヤロー、何言ってんだ、貴様」と金栄作が日本語で応じたものだった。

 

 

 金栄作は、1960年代にソウル大学を出て東京大学の大学院に留学し、紆余曲折があって一時期韓国に戻れなくなり国際キリスト教大学(ICU)で教壇にも立っていた。だから日本語には不自由しなかったのだが、番組は全て日韓の同時通訳で進められていた。金栄作は、激昂したこの部分だけは日本語を使ったが…。同時通訳はさすがに「バカヤロー」は通訳しなかった。が、「바까야로バカヤロ」は韓国人なら訳さなくても誰でもすぐにわかった。

 

 この出来事は、10日後に『朝鮮日報』が報じ、それをうけて共同通信がソウル発で流したので「玄界灘のバカヤロー事件」としてすぐに広まった。



 この討論番組は予定通り日韓両国でオンエアーされた。KBSでは8月15日の午後7時から9時のゴールデンアワーに放送された。大島渚と金栄作のこの部分のやり取りは音声を消して字幕処理された。一方、テレビ朝日は、8月19日日曜日の午後4時から5時25分までの枠で「玄界灘の5時間!日韓の影と新しい光」というタイトルで、音声もそのまま流した。

 

 ただ、韓国でも日本でも、「大島渚がバカヤローと叫んだ」という部分だけが切り取られて一人歩きした感があった。「日韓関係の過去と未来」というテーマ設定では、日・韓双方の「大衆」の関心を惹きつけることはできなかったのだろう。

 

大衆目線からの韓国 

 こうした1984年の政治・外交面での日韓の動きや「文化人・知識人」の日韓交流について、『平凡パンチ』の編集・取材チームが知らなかったわけがない。むしろ、知っていたからこそ、もっと「大衆目線」で韓国を見てみよう、日本社会の好奇心を包み隠さず出してみようといった企画になったのであろう。

 

 この一松書院ブログの「1982年の「11PM」」にも書いたように、「大人向け深夜番組」で日韓の歴史問題が取り上げられるなど、この頃の日本社会では「大衆にウケてこそ社会に伝わる」という発想が結構広まっていた。

ボンド企画というところの専務で安原相国という人がいた。この人はオレと同い年で、このころは松本伊代とか少女隊のマネージャーをやっていて、けっこう威勢が良くて、在日韓国人だということをカミングアウトしていたのである。
(中略)
安原がロッテホテルに交渉して、ホテルの広告にカラー頁を1頁提供することで、滞在時のホテル代を150泊分無料にしてくれることになった。

 安原相国は、この『平凡パンチ』の取材の2年後、「86ソウル国際音楽祭」に「少女隊」を送り込んだ。7月26日に世宗セジョン文化会館で開かれ全国中継されたこの音楽祭で英語で持ち歌を歌った「少女隊」は、1988年のソウルオリンピック前夜祭では、30秒だけ日本語で歌った。当時はまだ日本語の歌唱がオンエアされない時期だった。「マネージャーがやっちゃえと言った」という話もあるが、日本の「大衆文化」を韓国に持ち込むことにアグレッシブに挑んでいた一人が安原相国だった。

 

 

搬入禁止 

 しかし、当時の韓国社会にはそうした「大衆の目線こそが…」という発想はまだ通用しなかった。なので、この『平凡パンチ』の韓国特集は、韓国ではボコボコに叩かれることになる。

 

 

 1985年の年明け早々に発売された雑誌の売れ行きは上々だったという。塩澤幸登のブログにはこうある。

この韓国特集は発行部数はたしか40万部だったと思うが、調査返本率99%、最終返本率5%を切るという大ヒットになった。

 当時、ソウルの在韓日本文化院にいた私は発刊後の早い時期にこの雑誌を入手した。雑誌を見せた韓国人から「これは危ないですねぇ…」と言われた記憶がある。案の定、発売から10日ほどで、金浦キンポ税関が韓国への搬入を禁止する処分を下した。

 

国内女優のセミヌードを掲載
日本の週刊誌、搬入禁止

 金浦税関は16日、日本で発行された週刊誌『平凡パンチ』が1月14日付号に韓国の有名女優のセミヌードを特集・掲載して物議を醸しているとして、この雑誌を持ち込む旅行者から押収することとした。
 税関のある関係者は「今週に入って雑誌を持ってくる旅行者が急増し、韓国の美風良俗を害する恐れがあるため、通関を禁止することにした」と明らかにし、「捜査機関でも日本の雑誌にこのような写真が掲載された経緯を調査中だと聞いている」と語った。『平凡パンチ』は「韓国からの誘惑」というタイトルで、20ページ余りにわたり韓国の有名女優たちの扇情的なポーズの写真をカラーグラビアで載せている。写真が載せられた女優は、李甫姫イボヒ琴宝羅クムボラ呉秀妃オスビ安昭映アンソヨン呉恵林オヘリム兪知仁ユジイン羅映姫ナヨンヒ丁允姫チョンユニのトップクラス9人だ。

 韓国側のこの措置を共同通信がソウル発で配信し、朝日新聞が平凡パンチ編集部のコメントをつけて記事を掲載した。

 

 

 このコメントは、塩澤幸登がブログで、取材を受けたと回想している時のものだろう。

 

 その後、映画協会がこの雑誌に写真が掲載されたタレント・女優に警告をするという騒ぎにまでなった。

 

日本の『平凡パンチ』で物議をかもした俳優に警告
映協、 情状酌量一段落

 映協演技分科委員会(崔戊龍委員長)は19日、日本の週刊誌『平凡パンチ』にセミヌードが掲載されたタレント・女優に対して警告措置を取ることで一段落させることを決めた。演技委は16日から写真モデルになった芸能人のうち、会費未納で除名された呉秀妃と自主退会した丁允姫を除く李甫姫、呉恵林(TVではキム·チェヨン)、琴宝羅、安昭映、兪知仁と直接または電話で事情聴取した結果、彼女らが韓国を紹介するという週刊誌の求めに応じたもので、このように使われるとは知らなかったことが判明したとして、このような結論に至った。
 演技委員会はまた、女優らが受け取った10万ウォンは出演料ではなく、車代として受け取ったものだとしている。彼女らを日本の雑誌に紹介したのは、KBSなどとも事業をしてきたプロモーターの安原氏(ボンドプロダクション代表)だという。 安原氏は昨年11月、KBS事業団主管事業として開かれた現代韓国映画祭を主管した人物でもある。

 ただ、映画人協会は情状酌量の余地有りとして写真が掲載された本人たちへの警告にとどめ、『平凡パンチ』と安原相国に利用されたというニュアンスでことを収めている。

 

 実は、この雑誌の取材には、在日韓国大使館、韓国文化広報部海外広報課、KBSエンタープライズ、釜山MBCTV、韓国映画人協会などが協力していて、あとがきにも名前が挙がっている。

 

 

 日本で、韓国でのこの騒ぎを聞いた塩澤幸登は麻布の韓国大使館に釈明に出向いたという。

 騒動があったあと、韓国大使館に「いろいろとお騒がせしてすみませんでした」といって挨拶にいくと、大使の金さん(李さんだったかもしれない)が歓迎してくれて「ありがとうございました、よくやってくれました」と誉めてくれたのだが、

 当時の韓国大使は、金さんでも李さんでもなく崔慶禄チェギョンノク。彼は軍人上がりで全斗煥に頼まれて駐日大使として赴任した大物大使。それに、韓国映画人協会も取材に協力した団体である。韓国側は、一旦は問題視するポーズは取ったが、これをこれ以上大きな問題にするつもりはなかった。

 

大衆の目線と「大衆文化」 

 上述のように、この当時、日本社会には「大衆の目線、大衆の文化こそが相互理解につながる」という思いがあった。その一方、韓国社会では、日本の「大衆文化」は「韓国の美風良俗を害する」好ましからざる影響をもたらすとの言説が優勢だった。日本の 映画やドラマ、演歌・和製ポップス・フォークソング・ニューミュージックなど は、韓国社会に持ち込むのが難しい状況にあった。

 

 ただ、この時代、「日本モノは禁じられていた」といわれているが、「放送法」「公演法」「映画法」などで、商業的な興行にOKが出なかっただけで、個人が観たり聞いたり歌ったりする、あるいは私的な場所で視聴するのは可能だった。今の北朝鮮のように韓国のドラマをみて極刑に処せられるということではなかった。

 

 また、「大衆文化」は拒絶される一方で、「“高尚な”文化(고급문화)」の交流は意味があるとして、日本モノの色合いが強くても公演がOKになった。1984年に若柳流日本舞踊のソウル公演があり、1985年には東崇洞の文芸会館で「文楽」の公演が行われた。1988年には国立劇場で「歌舞伎」の公演も行なわれた。

 

 

 韓国社会が、自国の大衆文化の海外進出に目を向け始めるのは1990年代後半になってから。韓国の映画・ドラマ・K-POPという「大衆文化」が韓国の売りのメインになってくると同時に、日本の「大衆文化」の流入も規制がなくなっていった。

 

 1985年の『平凡パンチ』の韓国特集は、日本社会と韓国社会の「大衆」の文化や目線については、捉え方に大きな落差があった中で、「知る人ぞ知る伝説の雑誌」になったのである。

 

[文中敬称略]