1982年の「11PM」 | 一松書院のブログ

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 1982年1月から3月まで、日本テレビの「11PM」火曜日の大橋巨泉・松岡きっこ出演の放送回で、5回にわたって韓国・朝鮮問題を取り上げている。

 

 

 この時期、私はソウル在住だったのでこの番組は見ていない。当時、釜山では日本のテレビが映るらしいという話は聞いたが、実際に見たことはなかった。

 今回、Youtubeの某チャンネルに、そのうちの2回分の動画がアップされていた。現在はそのチャンネルは閉鎖されているが、著作権的な問題はないので転載した。2月1日放送の「韓国から見た日本・くいちがう歴史教育と教科書」と、3月8日の「韓国朝鮮と共に生きる」の2本。

 

 この1982年前後の韓国といえば、朴正煕大統領暗殺以降「粛軍クーデター」や光州での民主化要求の武力弾圧などを通じて権力を掌握した全斗煥が再び独裁者として登場。全斗煥の大統領就任後の1981年10月1日、バーデンバーデンで88年オリンピックのソウルでの開催が決まった。さらに、1982年1月には、解放後長年続いていた夜間外出禁止を解除し、中高生の制服や髪型を自由化するなど、大衆迎合政策を打ち上げた。

 

 一方、日本社会では、1981年から教科書検定問題をめぐって自民党が攻勢をかけ、「戦後教育の見直し」キャンペーンが始まっていた。1981年12月26日付の『読売新聞』は、社会面で「検定に統制色くっきり」「新高校教科書」「中国を“侵略”は“進出”」という記事を掲載している。

読売新聞1981年12月26日

 

 5回にわたる「11PM」の韓国・朝鮮シリーズの最後のまとめの回に3月8日の放送の冒頭で、大橋巨泉がこのように述べている。

5回にわたってお送りしてまいりましたこの問題も最後になりました。そもそもこのシリーズを始めたのは、韓国・朝鮮を鏡にして日本人を見つめ直そうという日本人問題として始めたわけです。先ほどナレーションにありましたが、東洋の指導者だとか言われまして全アジアを武力で支配すれば庶民が幸せになるなんて、みんな僕ら子供の頃でしたけど、信じこんだ。結局敵も味方も黒焦げ。

(中略)

戦後その愚かさに一時は気がついたようなんですけど、また戦前の差別意識みたいなものが、日本がお金持ちになるに従ってじわじわ出てきている。先ほど小学校の女の子が言ってたことが非常に意味があると思うんですね。日本人をぶったりなんかしたら理由が必要だけど、朝鮮人をいじめていれば朝鮮人だってことだけでそれが理由になるっていう。さっき小学校五年生の女の子が言って、僕、非常にあの言葉にドキッとしたんですけども…。

 まさに「教科書問題」勃発の前夜だった。

 

◆1982年2月1日放送

 2月1日放送の「韓国から見た日本・くいちがう歴史教育と教科書」のゲストは、早稲田大学講師宮田節子。映画「乱中日記」(1978)、ドラマ「梅泉野録」(1981 KBS2)、映画「義士安重根」(1972)、それに3・1独立運動を描いたドラマ「34人」(1979 KBS)が紹介されている。ただ、「梅泉野録」の閔妃殺害の場面、忍者が出てきたりちょっとデタラメすぎだが…😆

 実は、この頃の韓国で描かれる「日本」があまりにも実像とずれていてイラついていた。しかし、それと同時に、日本社会が侵略の歴史を知ろうとしないこと、あたかも「なかったこと」にできると思っていることに、それ以上にイラついていた。まさか、40年後に「なかったこと」にする人間が溢れている社会になるとは思ってもいなかった… 
 1982年当時の日本には、「自国の加害の歴史」を知らないことに危機感を感じていた人たちがいたことが唯一の救いだった。

 

◆1982年3月8日放送

 

 もう一つの動画は、3月8日の5回シリーズ最後のまとめの回で「差別の壁を越えて」。ベルリンオリンピックのマラソン優勝者孫基貞の秘話やKBSの光復節ドラマ「ユミの日記」(KBS1981年8月16日放送) 、それに「内鮮婚」による日本人妻を取り上げている。ゲストは神奈川大学教授梶村秀樹。

 


 

 この放送の3ヶ月後の6月26日の朝刊各紙は、高校教科書の検定結果について「厳しい検定」「戦前復権」「統制一段と強化」と伝えた。「侵略」について「進攻」といい換えるほか、苛政→圧政、弾圧→鎮圧、出兵→派遣・駐兵、抑圧→排除、収奪→譲渡と「表現の変更」を求めた検定内容が報じられ、近隣各国からの激しい反発を招くことになった。いわゆる「第一次教科書問題」である。

 

 

 中国・韓国はもとより、台湾・香港・東南アジア諸国、それに北朝鮮などからの激しい反発を受けて、日本政府は8月26日に官房長官宮沢喜一名で談話を出して事態の収集をはかった。

「歴史教科書」に関する宮沢内閣官房長官談話

 

一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。
 
二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。
 
三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。
 
四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。

 韓国の全斗煥政権と日本の間には、東アジアの安全保障の問題と日本からの経済協力を要求する問題が懸案となっており、教科書問題とも相まって、韓国では「克日運動」が始まった。

 

 

 「独立記念館」の建設が国民的募金運動とともに浮上し、「独島는 우리 땅(独島は我が領土)」の歌がヒットして日韓間の領土問題への関心が劇的に高まったのもこの時である。日本で「竹島」が広く知られるようになるのは1996年以降のことである。

 

 

 2024年1月29日、「群馬の森」に2004年に群馬県議会の全会一致で建てられていた「朝鮮人追悼碑」が撤去された。

 40年前には「日本はとんでもないことになっている」と思っていたが、今日の日本社会に比べるとまだまだ日本は「まとも」だったなぁ—あくまで比較としてだが—…と思わざるを得ない。