中曽根の「黄色いシャツ」 | 一松書院のブログ

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 1982年11月、鈴木善幸の後を継いで総理大臣に就任した中曽根康弘は、翌83年1月に就任後初の外遊先となる韓国を訪問した。1月12日の全斗煥チョンドゥファン主催の晩餐会の挨拶で、中曽根首相は冒頭部分と最後の部分を韓国語でスピーチした。

 

 共同通信の記事には、「会場からは”日本人でこんな上手な発音は聞いたことがない”との賛辞」とあるが、この当時は日本人が韓国語を話すわけがないと思われていた時代。取材する日本側取材陣にも「韓国語で取材ができる記者」はほとんどいなかった。「アンニョンハセヨ」と言っただけで「わぁ!韓国語、上手ですね!」と驚かれるような時代だった。だから、中曽根スピーチも必ずしも「上手な発音」だったとは言い切れないのだが…。

 

 さらに、公式晩餐会後にセッティングされた2次会では、中曽根首相が「黄色いシャツ」を韓国語で歌ったというので、日本の新聞はそれを大々的に報じた。

 

 

 一方、韓国の新聞は、日本の報道とは対照的に、2次会で韓国語で歌われた「黄色いシャツ」については全く報じていない。あるいは、報じることができなかった…のかも知れない。また、晩餐会での韓国語スピーチについても、韓国紙はほとんど触れていない。『東亜日報』で、東京特派員が日本側の報道ぶりを伝える中で言及しているのが目につく程度。

 日本の新聞は、中曽根首相が晩餐会で日韓両国の不幸な歴史について反省の意を表明したのは、昨年の教科書問題以降、再び高まった「対日不信」などを考慮したものとし、中曽根首相が韓国国民に過去の歴史に対する反省の姿勢を示したものとみている。

 一方、中曽根首相は、全斗煥大統領主催の晩餐会で、スピーチのかなりの部分で韓国語を使って日韓両国の出席者を驚かせ、拍手を受けたと伝えている。

 はじめは「전두환대통령 각하…(全斗煥大統領閣下…)」の部分だけかと思われたが、それ以降も韓国語のスピーチが続き、その間何度も拍手が起こり、最後の「여러분의 건강과 귀국의 번영을...(皆様の健康と貴国の繁栄を…)」のところも韓国語で述べて日韓両国関係者を驚かせたと、日本の新聞は伝えている。

東京=鄭求宗特派員

 「中曽根康弘の韓国語」は、どうやら日本側の報道で、より大きく扱われていたようなのだ。

 

  中曽根康弘の韓国語学習

 中曽根首相訪韓後の『朝日ジャーナル』1月28日号のコラムでも中曽根康弘の韓国語が取り上げられている。そこでは、中曽根訪韓以前の「産経新聞』に掲載されていた記事(掲載日不明)が次のように引用されている。

 中曽根首相が、かなり以前から韓国語を独習していたことは周囲の者すら最近まで知らなかった。「隣の国の言葉がまったくしゃべれないというのは悲しいことだ。韓国の要人はほとんど日本語を話せる。これからはわれわれも積極的に韓国語を習わなければ」。54年、韓国を非公式訪問して帰った首相はこんな感想ももらした。
 なぜ韓国の要人のほとんどが日本語を話せるのか。戦前の36年間にわたる日本の韓国支配。この「悲しい歴史」が韓国民の背後にある。首相もそれを知りつくしている。口にこそ出さないが、人知れず韓国語を習ってきたところに、首相の韓国観がうかがえよう。

産経新聞からの引用

 中曽根康弘は、首相になる3年半前の昭和54年、すなわち1979年の4月14日から17日まで、「岸信介や船田中の後継者として韓国との紐帯を強固にする」との名目で韓国を訪問し、朴正煕パクチョンヒ崔圭夏チェギュハ金鍾泌キムジョンピルなどの韓国政界の要人と会った。韓国語の習得はこの時に思い立ったとあるが、学習はこの訪韓の後すぐに始めたわけではない。上掲の共同通信の記事に「昨年2月から韓国語を独学」とあるように、鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任し、自民党総裁の後継候補として浮上した時期になって学習を始めたものと思われる。


 当時は、まだまだ朝鮮語/韓国語の学習書など少なかった時代。ちなみに、書名に「韓国語」と銘打ったものとしては、高麗書林の『標準韓国語』や『韓国語講座』、コリアン・ランゲージ・サービス『現代韓国語会話』などが出ていた。「人知れず」「独学で」1年程度であれば、普通は文字や発音、基本的な会話文までという程度だろう。訪韓時にはどの程度の韓国語の語学力だったのだろうか…。

 

 晩餐会の首相のスピーチ原稿などは、会場で配布できるようにあらかじめ日本側で韓国語に翻訳する。

 中曽根訪韓時の駐韓日本大使は前田利一。前田は、植民地時代の朝鮮で育ち、京城中学から京城帝国大学に進み1943年9月に法科を卒業して総督府の官吏となり、敗戦後の引き揚げ後外務省に入省。その当時は朝鮮語は全くできなかった。だが、外務省北東アジア課課長として日韓国交正常化交渉に関わっていた1960年代には韓国語ができるようになっていた。もちろん大使が通訳をするわけではない。中曽根ー全斗煥会談で通訳を務めたのは小河内敏朗。1969年に外務省入省で、韓国語のエキスパート。他にも外務省にはコリア・スクールと言われる朝鮮/韓国語の熟達者がいた。ただ、翻訳は、在韓大使館の韓国人スタッフがネイティブチェックをして翻訳文を作っていた。この時には、前田利一の京城中学・京城帝大の3年先輩で日本大使館文化広報室に勤務していた金宇烈キムウヨルが担当した。スピーチは格調高い韓国語に仕上がっていた。その原稿の冒頭部分と最後の部分を、中曽根自身が韓国語として音読したのである。カタカナやアルファベットでルビが振られていたのかも知れないが、ともかく韓国語として「読み上げる」ことができた。

 

 まるでネイティブスピーカーのように韓国語を駆使する非母語話者が珍しくなくなった昨今、その基準に照らせば、中曽根首相の韓国語は「上手な発音」とは言いがたかったかも知れない。だが、1983年当時の「韓国語などできなくて当たり前」の日本からすると、非常に大きなインパクトがあったのだろう。韓国側はもちろんだが、むしろ日本側で大きな「出来事」として報じられた。

 

  「黄色いシャツ」

 公式晩餐会が終了して、中曽根首相夫妻は一旦宿舎のホテル新羅に帰った。その後、中曽根首相と随行者だけが再び青瓦台そばの「安家」の宴会場に準備されていた二次会会場に出かけた。宴会場には前田大使と小河内書記官が同席した。二次会についての記事内容は、前田大使の「ぶら下がり取材」をもとに書かれたのだろう。

 

 この二次会の開催については、訪韓前に日本側でも把握していたという記事が『毎日新聞』に出ている。二次会があることを察知したことから、中曽根首相は韓国に向かう飛行機の中で「黄色いシャツ」を韓国語で歌えるように練習することになったというのである。

 

 天皇や首相、政府高官の外遊時には、現地の儀典担当や警備当局と日本側のロジや警備の担当者が事前に綿密に打ち合わせをする。移動の際には複数台の長い車列で動くので、晩餐会の後の動きについても双方で細部にわたって事前のすり合わせが必要になる。そのあたりから、二次会の設定を察知し、歌の準備をした方がいいということになり、さらに、「この際、韓国語で歌うのはどうか」という話になったのではなかろうか。

 

 

 中曽根首相が歌った「黄色いシャツ」は、元々は1961年に韓明淑ハンミョンスクが歌ってヒットした「노란 샤쓰입은 사나이 」(作詞・作曲孫夕友ソンソグ)という曲。

 

 日本では、浜村美智子がビクターから「黄色いシャツ」として1972年にリリースした。浜村美智子は、1957年にハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」を歌って「カリプソ娘」として売り出した後、結婚してしばらく引退していたが、この「黄色いシャツ」で復活。「黄色いシャツ」の日本での発売は韓国でも話題になり、1973年には浜村美智子が韓国に行って韓明淑と会ったりもした。

 

 

 黒沢東男の訳詞によるこの浜村美智子の日本語のカバーでは、「어쩐지」の部分だけが韓国語のまま「オッチョンジ」になっている。韓国/朝鮮語が日本でほとんど知られてなかった時代にかなり斬新な試みだった。

 

 

 さらに、1977年には、日本デビューした李成愛イソンエが日本語の「黄色いシャツ」を出して、その後半に韓国語バージョンを吹き込んだ。当時、美川憲一が、韓国の1967年のヒット曲「가슴 아프게」を「カスマプゲ」としてカバーし、李成愛もこの「カスマプゲ」のシングル盤を出し、そのB面に「黄色いシャツ」が収録されていた。

 

韓国語歌詞は2分18秒以降

 

 ところで、日本の新聞は「カラオケ合戦」「カラオケ大会」と書いているのだが、上掲の『読売新聞』の記事にあるように、実際は「ピアノ、アコーディオンの伴奏つき」で歌ったもので、カラオケ機械を使った「カラオケ」ではなかった。1980年代の韓国では、料亭やルームサロンでは「밴드」、すなわちキーボードやアコーディオンにリズム楽器などを使った一人もしくは少人数の「生バンド」が伴奏をするスタイルだった。彼らは、韓国の曲はほぼ何でも伴奏できたし、日本の曲も大体できた。日本の歌謡曲などは、放送や公演では規制がかけられたが、飲食店のBGMや、私的な宴会で聞いたり歌ったりすることには全く何の制約もなかった。バンドは日頃から結構日本の曲のリクエストも多かったのだろう、驚くほど多様なレパートリーをこなした。

 

 中曽根首相訪韓時の1983年初頭であれば、韓国の歌謡曲としては「カスマプゲ」が日本でよく知られていたし、趙容弼チョーヨンピルの「釜山港に帰れ」も日本語のカバー曲や韓国語バージョンがすでにヒットしていた。そんな中で、なぜ「黄色いシャツ」が選曲されたのか…

 

 中曽根康弘は、1995年にこの時の「黄色いシャツ」のことを韓国の『京郷新聞』への寄稿記事の中で回想しているのだが、なぜ「黄色いシャツ」だったのかには触れていない。

ソウルで韓国語でおぼえた「黄色いシャツ」は、帰国後にも友人たちと会うとよく歌ったものです

 

 結局、なぜ「黄色いシャツ」だったのか、その選曲理由はわからないまま。

 


 

 この時の中曽根康弘の韓国語によるスピーチは、保守強硬派ナショナリストと目されていた中曽根が韓国語を学習していたという意外性と驚きとともに、「日韓の融和に多大の貢献をした」という肯定的評価を生むことになった。さらに、韓国語で韓国のヒット曲を歌ったことで、日本の政府関係者や官僚、マスコミ、それに韓国/朝鮮研究者などにも、日韓関係が転換するのでは—日本への批判が和らぐのでは—との期待を抱く向きもあった。

 

 中曽根が韓国語を学んでそれを使ったのは、朝鮮/韓国を理解するためというより、外交上のテクニックとして用いられたものだった。すなわち、「韓国側を喜ばせる」ためのパフォーマンスである。もちろん、外交にパフォーマンスはつきもので、日本では全くのマイナー言語であった韓国語を習得しようという中曽根の目の付け所はさすがといえばさすがである。

 

 この1983年の韓国語を媒介の一つとした中曽根の全斗煥政権との関係構築は、翌1984年の全斗煥日本公式訪問につながり、天皇晩餐会での天皇による「不幸な過去が存したことは遺憾」という発言を引き出すことになった。日本側の一部や全斗煥政権からはこれを「謝罪」とみなす見方が出た。

さらに、1985年8月15日、中曽根康弘は内閣総理大臣として靖国神社への「公式参拝」に踏み切った。

 

 他方、日韓首脳会談の合意によって青少年交流や学生交流などが始まり、それまでの中年男性が圧倒的に多かった訪韓者の年齢層や男女比が徐々に変化していく契機になったことも事実である。韓国の一般の人々の日常生活に目を向ける人々が出始め、NHKのTV/ラジオでの語学番組がスタートするのもこの時期である(放送開始は1984年)。

 

 ただ、韓国語が多少できれるようになった日本人の中に、「率直で対等なやりとりをする日韓関係」を強調し「もう侵略のことでとやかく言われる筋合いはない」として、怪しげな「韓国論」を展開する人々が出始めるのもこのあたりからである。

 

 「植民地支配の侵略性の否定」や、植民地支配下での「朝鮮人への強制・強要の否定」という言説が大手を振ってまかり通る時代になってしまった今日、40年前の「中曽根康弘の韓国語スピーチと黄色いシャツ」を振り返ると、あのパフォーマンスがその「小さな一歩」だったのかも知れないとも思えてしまうのだが…