オレと韓国の因縁は、昭和59年の話だから、もう34年前のことになるが、一冊の雑誌を作ったところから始まる。

いまはもうないのだが、かつて『平凡パンチ=Heibon Punch』という男性週刊誌があった。34年前にオレはその雑誌の特集デスクのキャップで、編集長は石川次郎で、本のサイズを変えたりして、リニューアルの真っ最中だった。そのリニュアルがなかなかうまくいかず、苦労している最中だったのである。そこで、オレと次郎さんが丸ごと一冊の韓国についての特集を作ろうと相談したことから話が始まる。

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オレはいま、一週間に一度ずつ、ハングルを勉強するために新大久保に出かけているのだが、この町には他の町にない、独特の雰囲気がある。まず、年齢の垣根を越えた女の子たち、十代の女の子からオレと同年齢くらいのオバーサンまで、美人がいっぱい、町の路地裏までウロウロ徘徊している。その雑踏の雰囲気が好きだ。

これはなぜ、そんな雰囲気が好きかというと、34年前のソウルの盛り場、明洞、梨泰院の雑然とした人混みを思い出すからだ。いまの新大久保は34年前の明洞にそっくりなのだ。そこにあるのはカオスというか、雑然としたエネルギーのかたまりのようなものだが、これはそこにいると、なんだか自分の《異邦人=エトランゼ》が刺激されて、オレはもう70歳になっているのだが、それでも、いまからなにかが始まりそうな気がするのだ。新大久保の町はそういう刺激的なもの=異文化の本質を保持している町だと思う。人によってはそれに対して嫌悪感を持つ人もいるのだろうが、オレはそこで、いまからなにかが始まるのではないか、そういう予感がして、面白いような気がしてしょうがないのである。

オレは自分の書くもののなかで出来るだけ大言壮語を避けるようにしてきているが、34年前にこの雑誌が巻き起こしたセンセーションは、大衆文化レベルでの日本と韓国との交流のエポック、嚆矢となった歴史的事実だと思っている。そのあと、オレは韓国に関わる作品をいくつか作ってきているのだが、ここで、何回かに分けて、韓国とオレとの関わりを書いていきたいと思う。

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これは事実関係をキチンと記録しておくという意味もあるので、すべて実名で書き残しておきたいと思う。まず、ことの発端は、編集部唯一のナウいギャルで、若い女編集者の船山直子が夏休みに友だちとふたりで韓国に遊びにいったことだった。帰ってきて「なんか、けっこう面白かったんです」というのである。

そのころの韓国は、旅行にいくにしてもキーセン観光ばかりが話題になって、評判が悪かった。キーセンというのは妓生、要するに韓国の国公認の売春婦である。韓国はそのころ外貨獲得のためにそういう存在を公的に認めていたのである(いまも認めている?)。また、朴正煕大統領が暗殺されてから、まだ5、6年しかたっていなくて光州の民衆蜂起も2、3年前の話、いまもまだ厳戒令が敷かれていて夜間は外出禁止、軍人出身の大統領がけっこう政治弾圧などもやっているという話で、きな臭いことこの上なかった。人民が弾圧されながら生活している、日本のマスコミはみんなそう思っていた。

そのことをいうと、船山は「だけど、街の人たちは平和そうに幸せそうに暮らしてましたよ」という。そして、彼女は4、5頁でいいから韓国旅行のガイド頁を作らせて欲しいという企画を出してきたのだ。それとは別に、オレが月刊の『平凡』のときから仲良くしていた芸能プロダクションのマネジャーなのだが、ボンド企画というところの専務で安原相国という人がいた。この人はオレと同い年で、このころは松本伊代とか少女隊のマネージャーをやっていて、けっこう威勢が良くて、在日韓国人だということをカミングアウトしていたのである。

船山から韓国の取材をやれたらという企画を受けとったあと、韓国はどんな状況なのだろうと思って、その人に編集部に来てもらっていろんな話を聞いた。そのときも安原は「みんなが考えてるのと全然違うんだ。ソウルはものすごく面白いんだよ」と強調する。オレが調子に乗って「韓国の女優とか、いい女の写真、撮れないかなあ。別にヌードじゃなくていいんだけど」というと、安原は「そんなのなんの問題もないよ。オレが全部口説いちゃう」という話になって、これはいけるかも知れないと思いはじめた。石川次郎は話を聞いて「シオザワ、それじゃあ、これ、一冊丸ごと韓国特集で作っちゃおうか」という話になっていったのである。このころの石川はなかなか動き出さないリニュアルパンチにけっこう悩んでいたのではないかと思う。

韓国特集は、『平凡パンチ』がそれこそ、木滑良久が編集長としてとり組んだ1960年代末の一冊丸ごと外国特集以来の十数年ぶりの外国大特集だった。このころ、すでに『ブルータス』の小黒一三がアパレルメーカーのワールドの支援を受けて、外国特集をいくつか作り、アフリカ特集などはかなりの評判をとっていたのだが、実売的なことをいうと、都市部のおしゃれな人間のあいだでちょっと話題になっているという程度で、世の中の人たちがみんなでビックリしたというような話ではなかった。

当時の実売の部数を調べると、アフリカ特集で発行部数17万部で実売は12万なにがし、販売率74パーセントと、悪くはないが、販売部が驚くような仕上がりというわけではなかった。

当然、石川次郎はこのころ『ブルータス』の発行責任者でもあったから、これらの数字は頭のなかにあったと思う。だから、石川の作る『Heibon Punch』はこの時期、40万部、50万部の部数が発売になっていたが、それが外国特集で勝負するにしても『ブルータス』と同じような実売数だったら、話にならないのである。外国特集を作ることも石川次郎にとっては大きな賭けだった。

それを石川は「シオ、お前、頼むよ」というのである。

ひと戦さするにはまず兵糧、そして武器弾薬の話、つまり、予算の話である。

 『Heibon Punch』は通常号の編集費がたしか1300万円だったと思う。韓国特集は正月の特大合併号、ということで増頁もして、それで予算も増えた。何頁つくれるかわからなかったが、見当は頁10万円の予算で、60頁であれば600万、70頁であれば700万円くらいは原稿料を含めた制作費を使うことができた。当時はたしか飛行機代はいまと同じような状況で成田・ソウルの往復で3万円とかそのくらいだったと思う。安原がロッテホテルに交渉して、ホテルの広告にカラー頁を1頁提供することで、滞在時のホテル代を150泊分無料にしてくれることになった。

オレは石川次郎から「お前、これやってくれないか」といわれたときに、なんとなく、ついに勝負のときが来たのかもしれない、と思った。これは大バクチになるな、と思ったのである。ハンパなことをしてもしょうがないので、全知全能、これまで培ってきた知識や技術やなにやらかにやらを総動員して徹底的にやってみようと思った。予算のことも気にするのはやめよう、大事なことは本を売ることだけだ。負けたらそれまでの、どこかで一度はやらなければならないだろうと思っていた乾坤一擲の大博打である。ここまでいくとマーケティングや理屈ではなく、自分自身からどうやってこの取材をやり遂げるエネルギーを絞り出すか、いっしょにいくスタッフにどう熱中取材をさせるかだった。それで、覚悟を決めた。そして、往復の飛行機代がたいしたことないことを理由に小さな軍隊のような多人数の取材チームを作った。こういうメンバーである。

 

★【取材記者】         

森永博志……カラー頁中心に街の面白い話、面白い人間を取材、記事にする。

生江有二……活版の読み物を中心にしてドキュメント取材を担当する。

池田一紀……グラビア、活版両方にわたって面白い話を探して、記事にする。

末次真弓……女のコ目線で、街のなかの面白い話、面白い人間を取材する。

★【カメラマン】        

長濱 治……主として韓国の女優たちのパフォーマンスを撮影する。

三浦憲治……主として街写真のカラー部分、女写真の一部、人物写真。

小林 淳……モノクロのドキュメント写真を中心にして撮影を担当する。

二石友希……カラー・モノクロに関わらず街取材を受けもち、池田に同行する。

平塚 孝……長濱治のアシスタント。長濱の撮影がないときは街取材もする。

★【イラストレーター】

中原幹生……イラストでなければ取材できないモノ、イラスト素材を担当。

★【スタイリスト】     

高瀬郁子……長濱撮影の韓国女優のパフォーマンス写真のスタイリングを担当。

★【ヘア&メイク】  

トップノットの大沢紀夫……韓国女優のヘア&メイクを担当する。

★【コーディネーター】

安原相国……全体の取材のコーディネーション、女優のブッキングを担当。

★【編集者】     

船山直子

★【統括責任編集者】 

オレ

 

総勢15名。命知らずの突撃隊だった。取材は1984(昭和59)年の11月から12月にかけておこなわれたのだが、まず、11月の20日に、安原とオレがほかのスタッフより一週間ほど早くソウル入りして、文化庁に全体の企画を説明しにいったり、女優たちに会って、取材の折衝をはじめて、本隊が来たら、すぐに取材を開始できる準備をした。

自分たちのやったことを軍隊にたとえて説明すると、ホラやっぱり侵略じゃないかといわれそうだが、気分はそれに近いモノがあり、とにかくソウルの面白いこと、すべてを取材したいと思った。たくさんの人間が未知の世界に出かけ、探検、調査、記録、報告するのだから、かたちのいい仕事に仕上がるように、一人一人の役割分担を明確にしておかなければならないと思った。

軍人将棋にたとえて説明すると、オレの認識のなかでは、長濱、生江が飛行機で目的を決めて重点爆撃、ピンポイントの集中取材ををおこなう。森永、三浦憲治のコンビがタンクみたいな感じで、町のなかに入っていって、面白いところを次々に見つけて、取材攻撃をくり返す。若いふたりのライター、池田と末次は歩兵で、街のなかの小さなポイントでもどこでも入り込んで細かい取材をくりひろげる。カメラマンの小林淳はモノクロのハードな感じのする写真の担当で、生江のドキュメント取材に同行し、また、自分でもモノクロのオートバイでの半島縦断のグラビアを撮影するというふうに、役割分担を決めた。

仕事の内容は、長濱は基本的にホテルから外には出ず、女優たちにはロッテホテルに来てもらって、そこのスイートルームやVIPルームをつかって、女優たちのパフォーマンス写真を撮る。生江は板門店で三十八度線の取材、徴兵制度とか、北朝鮮の兵士が掘ったというスパイが往き来するトンネルの取材、イラストレーターの中原さんには、ソウルの朝市など、人がたくさん集まるところのイラストルポをやってもらった。あとは、みんなで時間の許す限りいろんなところに出かけて、いろんな情報を拾ってくる斥候であり、場合によってはそこで戦闘=取材もおこなう歩兵だった。

現地では安原のアシストに元新聞記者だという人をサブのコーディネーターと通訳の兼任にして、日本からソウルの大学に留学している在日の大学生たちを4、5人集めて通訳兼街中のガイドにつかうことにした。だから、最終的には全部で20人近い取材チームになった。

取材の予定は二週間で、スタッフがソウルに入ったのは11月末。それで、取材をはじめていきなり、トラブルが発生した。ソウルの街の真ん中に南山という、市街を一望できる小高い公園になっている山があるのだが、森永博志と三浦憲治が眺めのいいところにいってみようという話になり、タクシーで南山をあがっていって、途中、黒い建物があり、その脇に見晴らしのいいところがあったのでそこで車に停まってもらって、気楽なノリでバシャバシャ写真を撮っていたらすぐに、その黒い建物から軍服を着た守衛みたいのが飛んできた。撮影は禁止だといって、カメラからいま撮影したフィルムを抜き取られた。この黒い建物がKCIA(韓国秘密情報局)の本部だった。

森永と三浦憲治は怪しいヤツということで身柄を拘束されて、氏名やなにしに来たか、どこに泊まっているかなどのことを事情聴取され、なにも知らず悪意がないことがわかるとメチャクチャに怒られて解放されて「やばいよ、KCIAにつかまっちゃったよ」といいながら、ホテルにもどってきた。

それで、これは放っておいて手入れでもされたらたまらないと思って、安原とふたりで急いで文化庁の取材担当になってくれた人のところに、ことの一部始終を説明しにいった。担当の人が、情報局に連絡を入れて、こうこうだという説明をしてくれた。それでことなきを得た。

ホテルのオレの泊まっている部屋が取材本部のようになり、壁に取材の予定表を大書して貼り出して並べて、取材を進めていった。夜になると、みんな部屋に集まってきて、その日あったことを報告し合って、このあと、どんなことをやりたいかを話してもらって、みんなで思いついたことをいいあった。

日中は、美味しいものに出会うと取材し、面白い店を見つけると取材し、面白そうな人間に会うと話を聞いた。ちょうど、元巨人のエースだった新浦壽夫が韓国のプロ野球の三星ライオンズにいてインタビューをさせてもらった。チョー・ヨンピルやビデオ・アーチストのナム・ジュン・パイク、ロス五輪で柔道重量級の金メダリストになったハ・ヨンジュ、姦通罪で逮捕されて引退した女優のチョン・ユンヒなど、とにかく、話題総ざらいで取材している。途中、北朝鮮のスパイがソウルに侵入したというような話があり、緊急で厳戒令が敷かれて、深夜だというのに闇夜がいっせいにサーチライトで照らし出されて、緊迫した時間を過ごしたこともあった。町の人はほとんどみんな親切だったが、わずかな体験だが、日本人だとわかると、年寄りだったが水をかける人などもいた。白熱した取材の日々がつづいたのである。

 

つづきます。