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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1933年発行の『京城精密地図』で、龍山駅の北側、京城駅へ向かう京義線と龍山線(旧京義線)に挟まれた京町に「豊国製粉会社」の表示がある。
 1934年9月、ここで「豊国製菓」が本格操業を始めた。現在はオリオン製菓の本社と工場が建っている。

 

 

 1945年8月15日の天皇の「玉音放送」により、日本による朝鮮の植民地支配は終わりを告げた。9月8日に仁川へ上陸したアメリカ軍は、翌9日に京城へ進駐し、朝鮮総督府で降伏受諾式が行われて米軍政が開始された。

 

 豊国製粉と豊国製菓は、斎藤久太郎の斎藤合名が経営する企業だった。斎藤久太郎は長崎県壱岐の出身で、日清戦争の際に日本軍の御用商人として朝鮮に渡り、平壌で精米業を始めた。その後、京城の三坂通に製絹糸縫製工場を開き、それを酒造所へ転換して「金千代」ブランドの清酒で成功を収めた。さらに京仁商船や豊国農場、牧場にまで事業を拡大していた。

 

 日本の敗戦により、朝鮮内の日本人名義の資産は「敵産」として米軍政庁に接収されることになった。だが、朝鮮人に名義を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で移すことで接収を免れ、朝鮮人の関係者が引き継ぐケースもあった。後にヘテ製菓となる永岡商店や丸善京城支店では、米軍当局者立ち会いのもとで、日本側の資産保有者と朝鮮人従業員が「管理委任」の文書を取り交わしている。こうしたケースでは、「接収」「管理人の監督下での事業継続」「払い下げ」といった過程を経ることなく、朝鮮人従業員が資産を継承して事業を継続することになった。

 

 斎藤久太郎が経営していた企業ではどうだったのか。金千代酒造については、1945年11月20日付の『民衆日報』に記事が掲載されている。そこでは、斎藤久太郎の委任を受けたという弟・又吉が、自身の社会団体「自覚社」を財団法人化し、そこへ経営権を移そうとしたと報じられている。朝鮮人による理事会が運営する財団法人とし、接収を回避する方法は、学校や宗教団体などでも試みられた例があった。

 

最後まで続く日本人の悪あがき

金千代醸酒問題注目

 全国的に名の知れた金千代醸造会社をめぐる日本人の最後の悪あがき!ソウル市吉野町の朝鮮清酒醸造会社(旧金千代醸造場)は、前社長斎藤久太郎から自治委員会に引き渡され、この間全従業員の力で運営されている一方、軍政庁鉱工課に接収されて今日に至り、近日中に同鉱工課の推薦で顧問も新任されることになった。最近、斎藤久太郎の弟だという斎藤又吉という者が兄から委任されたと現れ、経営権を奪取しようと悪辣な野心を示して全従業員の憤激を買っている。また、斎藤又吉は自らが経営していたソウル市南大門通5丁目の自覚社を財団組織化し同醸造場で生産される日本酒を各地に売りに出す計画で、各商人と契約しているということで朝鮮清酒会社の行方が注目される。

 この記事には、金千代の酒造工場は「自治委員会」に引き渡され、「従業員の力で運営されている」とある。

 豊国製菓でも、解放直後から裵東恒ペドンハン金炳文キムビョンムン金萬福キムマンボク河興吉ハフンギルら従業員による自治運営が行われていた。裵東恒は普成ポソン専門学校卒のエリート社員で、引き継ぎの名義人となっていた。管理委任などに関する契約書を取り交わす場合、高学歴の代表者の方が米軍政庁側の了承を得やすかったからである。

 

 ところが、斎藤久太郎の代理人・斎藤又吉は、金千代酒造の経営権を財団化する「自覚社」に移そうとした。

 「自覚社」は、1923年に斎藤又吉が創設した慈善団体で、朝鮮人貧民の子供たちのための学校を開設し、簡易食堂や簡易宿舎の提供、朝鮮人女性への内職の斡旋などを行っていた。しかし、財政難から一度は破綻したものの、1940年代には西田天香の一燈園の思想に共鳴し、「共同体」の理念を朝鮮で実践しようと、朝鮮女性に仕事を与えて生活の自立を支援する事業に取り組んでいた。敗戦後、又吉は「自覚社」を維持するため、兄・久太郎の金千代酒造の資産を活用しようと画策したのであろう。しかし、その計画は酒造工場の朝鮮人従業員の反発と世論の批判を受け、実現には至らなかった。

 そればかりでなく、金千代酒造や豊国製粉、豊国製菓などについても、管理委任の形をとった朝鮮人従業員への資産の引き継ぎは実現しなくなってしまった。

 

 豊国プングク製菓では、生産は朝鮮人従業員の手で引き続き行われていたが、接収された敵産の事業体、すなわち帰属会社を管理・監督する管理人が指名された。

 豊国製菓と豊国製粉の最初の管理人は大洋産業テヤンサノプ社長の李鍾会イジョンフェで、斎藤久太郎が所有していた帰属会社6社の管理人に指名された。一方、工場での生産は、それまでの朝鮮人従業員が引き続き行っていた。

 ところが、接収された工場などでは、管理人が売却可能な資産を勝手に処分して巨額の金を着服したり、本来軍政庁に報告すべき財産を隠匿して横流ししたりするなど、さまざまな不正が行われていたとされる。

 1946年になると、軍政庁監察部による帰属財産をめぐる不正摘発が始まり、豊国製粉や豊国製菓もその対象となった。そればかりでなく、1947年1月には大韓独立促成全国労働総同盟(大韓労総テハンノチョン)が李鍾会らを告発した。大韓労総は李承晩イスンマン系の反共労働団体であり、不正告発の背景には、大洋産業の李鍾会と豊国の工場従業員との間における帰属会社の運営権をめぐる争いがあったようだ。

 4月、豊国製粉への朝興チョフン銀行の融資資金を、李鍾会が自らの経営する別会社に流用したとして、横領罪で逮捕された。

 

 李鍾会は後に無罪となるのだが、逮捕された時点で帰属会社の管理人を解任された。その後任として豊国製菓の管理人になったのは金炳文だった。金炳文は植民地統治時代からの従業員であり、同じく従業員だった鄭利亨チョンリヒョンが豊国製菓の代表となった。

 一方、豊国製粉の方は大韓金融組合連合会(金連クムニョン)の直営となった。金連は、植民地時代の農業金融機関であった朝鮮金融組合連合会(朝連)の後身で、日本人が所有していた精米・精麦工場などの帰属工場を引き継いでいた。豊国製粉もその中に組み込まれた。

 

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。ソウルは北朝鮮人民軍によって占領された。この占領下で、北側に連行された政治家や官僚、知識人、実業家らがいた。それらの人々の名簿が残されているが、その中に8月4日に連行された「菓子会社員 鄭利亨 50歳」の記載がある。これ以降の豊国製菓関係資料には、鄭利亨の名前は出てこない。

 

 ソウルは1950年6月28日から9月28日まで、さらに1951年1月4日から3月14日までの2度にわたって北朝鮮人民軍に占領された。国連軍と韓国軍がソウルを再び奪還した後、前線は北緯38度線付近で膠着状態となった。1951年春以降、ソウルでは市電の運行が再開され、官庁も復旧し、工場の操業も再開された。

 

 「敵産」として接収され、米軍政庁の管理下に置かれた日本の旧資産は、1948年の大韓民国建国後、「帰属財産」として韓国政府に引き継がれ、1949年に制定された「帰属財産処理法」に基づいて売却・払い下げが進められた。

 

 豊国製菓は、1952年5月、解放前からの従業員であった裵東恒、金炳文、河興吉らに工場建物および設備一式が払い下げられた。その代表であった裵東恒が社長に就任した。しかし、翌1953年には、この払い下げの資金援助を行った李洋求イヤングを社長として迎え入れた。

 

 

 李洋求は咸鏡南道ハムギョンナムド咸州郡ハムジュグンの出身で、咸興の製菓会社に入って頭角を現し、独立して資産を築いた。解放後はソウルに出て菓子販売業を営んでいた。朝鮮戦争時には釜山に避難したが、ソウルに戻ると豊国製菓に投資した。また、サムスンの創業者である李秉喆イビョンチョルや裵東恒と共同出資して東洋製糖を設立した。

 

 豊国製菓は、1955年5月に工場用地の払い下げも受け、1956年7月25日に東洋製菓工業株式会社となった。なお、「オリオン」の名称は創業当初からガムなどの商品ブランドとして使用されていた。

 

 


 

 ここでは、日本の植民地支配下で斎藤久太郎が経営した豊国製菓が、今日のオリオンへとつながっていく過程をたどりながら、特に日本の敗戦によって日本人の資産が朝鮮の人々の手に渡っていく過程を追ってみた。敵産が帰属財産となり、それが払い下げられるまでの経緯は、決して単純なものではなかった。

 

 東洋製菓工業は1974年にチョコパイの製造を始め、1986年に社名を東洋製菓株式会社と改称した。その後、2003年には、それまでブランド名として親しまれてきた「オリオン」を社名として採用している。

 

 2000年公開の映画『JSA 共同警備区域』で、ソン・ガンホ演じる北朝鮮軍兵士オ・ギョンピルが食べるチョコパイは、メーカー名は映っていないが、韓国ではオリオンのチョコパイと理解されているようだ。

 

 

 日本人の企業として始まった豊国製菓は、解放後の混乱と朝鮮戦争を乗り越え、韓国人の手による企業として再出発した。そして今日、その系譜を引くオリオンは韓国を代表する製菓会社となっている。豊国製菓からオリオンへの歩みは、植民地支配の終焉とともに進んだ韓国経済の再編過程を映し出すものとなっている。

 


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 京城の龍山の日本軍駐屯地の北側、練兵町の一画に「永岡商店」があった。1909年に、永岡長右衛門が羊羹の製造を山口県長門市で始め、1923年に軍指定の製菓工場として京城に進出した会社である。

 

左:『大京城寫眞帖』1937 右:『京城精密地図』1933

 

 1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終焉を迎えた。朝鮮半島の北緯38度線以南の敗戦処理を行うため、アメリカ軍が朝鮮に上陸し、本籍が内地にある日本人は朝鮮から退去させられ(「引揚げ」と称した)、日本人名義の企業は「敵産」としてアメリカ軍政の管理下に置かれることになった。

 

 その際に、日本名義の資産を「売却」「譲渡」「管理委任」などの形で朝鮮側の名義に移すことで、「敵産」としてアメリカ軍政庁に接収されるのを回避しようとする動きが起きた。企業だけでなく、学校や宗教団体でも同様の動きがあった。日本仏教系の寺院、東本願寺や浄土宗別院、それに博文寺などでも、朝鮮人仏教関係者への引き継ぎが模索された。学校は、法人化して朝鮮人代表者を置く動きがあった。ただ、引き受け側でも、様々な思惑が錯綜していて、簡単に進んだわけではなかった。

 

 京城の本町二丁目で営業していた丸善・京城支店のケースでは、日本の店舗の委任がどのように行われたかが書き残されている。『丸善社史』には次のように記されている。

 既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当局者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当局者サイン)を取交わした。

昭和26年版『丸善社史』

 その後の現地新聞(『中央新聞』1946年2月23日付)の報道によれば、この「管理委任」成立の後、「敵産」の再稼働を請け負っていた朝鮮実業公司が、丸善社屋の明け渡しを要求してきた。こうした介入が行われることは珍しくなかった。ただ、旧「丸善」の裵渉ペソプらは、翌年3月に、書店名を「太白テベク書籍公司」として営業を再開しており、「敵産」としての接収は免れたのであろう。

 

 丸善は「敵産」としての接収を免れたが、こうした回避策は、成功した例と失敗した例が混在している。

 

 菓子製造と菓子の卸問屋だった「永岡商店」では、どうだったか。

 日本の敗戦時、「永岡商店」には、4人の朝鮮人従業員がいた。1925年に東星商業学校を卒業してグリコに入社し、1940年から永岡商店の販売担当となった閔厚植ミンフシク、1927年に京城電気学校を卒業してウエハス技術担当になった申徳鉢シンドクパル、1938年に善隣商業学校を卒業し、4月から経理事務の社員となった朴炳圭パクビョンギュ、それに高等普通学校を卒業してベーキング担当だった韓達成ハンタルソンである。ちなみに、善隣商業は古賀政男も通った日本人と朝鮮人が共に学ぶ実務系の名門校だった。

 

 朝鮮人従業員のうち、唯一の事務系社員だった朴炳圭を中心に、「丸善」京城支店と同じように、米軍当局者の立ち会いのもと管理委任に関する契約書が取り交わされた。彼らは会社名を「鮮美ソンミ製菓合名会社」とした。ウエハス製造機、ミキサー、ボイラー、電気釜、飴製造機などを引き継いで、菓子の製造を再開した。

 

 当初は10人ほどしかいなかった従業員は、創業3年後の1948年には300人に増えた。この頃、ヘテ・キャラメルが大ヒットし、購入者が夜明け前から、販売所がある南大門ナムデムン市場、東大門トンデムン市場、芳山パンサン市場に押しかけ、長蛇の列をなした。工場からオートバイ一台と自転車一台をフル稼働して商品を運んだ。砂糖や小麦粉は、永登浦ヨンドゥンポ美昌ミチャンから購入して菓子を製造した。この美昌はもともとは朝鮮運送株式会社で、○の中に星をデザインしたマークが商標だったので「マルボシ」と通称されていた。現在のCJ大韓通運の前身である。永登浦の美昌倉庫から、原材料を調達していたのである。

 

 

 「ヘテ」は、包装パッケージに描かれた獬豸(朝鮮語でヘテ、現在はヘチとも呼ばれる)に由来する。上掲の1950年の広告では、「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」と表記されている。その後、1950年代には「ヘテ製菓」が正式な社名となった。

 

 1975年2月24日付の『毎日経済新聞』に、ヘテ製菓を取材した記事があり、それにはこのように書かれている。

今日のヘテグループを象徴するものは、まさに「ヘテ」というブランドである。これは、同社の母体となった永岡商店を経営していた日本人の「ナガオカ」氏が、光化門前を通りかかった際、そこに置かれていたヘテ像を見て名付けたことに由来する。ヘテは火災を防ぐ火護神として、あらゆる不幸を追い払い福を招く霊獣として伝えられてきた吉運の象徴であり、また善悪を正しく判断する不思議な海の獣でもある。

 日本人の「ナガオカ」氏とは、永岡商店の永岡長右衛門のことである。

 

 現在、ソウルの景福宮正門・光化門前には獬豸像が2体置かれている。

 

 

 朝鮮王朝時代から、もともとこの場所に置かれていた。

 日本人にも有名で、早くから絵葉書にもなっていた。さらに、1921年、煙草の製造・販売が朝鮮総督府専売局に移管されたとき、専売局が最初に出した両切り煙草の一つが「カイダ」であった。古いハングル表示で「ヘテ」ともある。

 ところが、1926年、景福宮の正殿の前に朝鮮総督府庁舎が建てられた時、光化門は東側に移築され、獬豸像は撤去されて庁舎の裏に放置された。しかし、3年後の1929年11月になって、獬豸像は総督府庁舎前に再設置された。京城府内で火事が相次いだため、火災を防ぐ火護神とされる獬豸像を再び表に出したとも言われた。『京城日報』にも写真入りで報じられた。

 


1945年9月撮影の写真

 

 永岡長右衛門が獬豸像を目にしたというのは、この再設置以降のことであろう。永岡商店は、主力の羊羹の他に、松の実ドロップ、フルーツゼリー、フィンガーなどを製造、販売していた。そして、新たに、松の実入りキャラメルを開発して「カイダ」として売り出した。1936年3月の『朝鮮新聞』に、「滋養の菓子 松の実入 カイダ」「一粒=不老長寿(栄養価)」という広告が出ている。

 

 

 

 デザインには獬豸(ヘテ)が描かれ、商品名には「カイダ」が用いられている。

 

 そのデザインは、植民地支配が終わった後の「ヘテ本家 鮮美製菓合名会社」のヘテ・キャラメルのパッケージにもほぼ同じ意匠で用いられ、「登録商標」あるいは「美匠特許」と記されている。

 

 

 管理委任契約には、製造設備や製菓技術だけでなく、原料調達ルートや包装デザイン、商標図案の継承も含まれていた可能性が高い。

 

 カイダのモデルの獬豸は、もともと朝鮮のものであって、朝鮮の人々にはなじみのあるものである。抵抗感なく引き継げるデザインであったことも大きかった。

 

 こうした経緯で「鮮美製菓合名会社」は、生産をほとんど中断することなく、カイダ・ブランドをハングルに置きかえてヘテ・ブランドとして生産・販売を行い、それを発展させていったと思われる。

 

 1950年、朝鮮戦争が勃発すると、順調に成長していた鮮美製菓にも大きな試練が訪れた。従業員300人余りは離散し、9月28日のソウル奪還後には従業員数は100人余りに減少していた。
しかし創業者たちは、生産機械を地方に移転するなどして、一時中断していた製品生産を1951年3月から再開した。

 

 1953年には、9月に「ソウル復帰新製品」と銘打った宣伝が出ており、1953年7月27日の休戦協定調印後に、ソウルでの生産を本格再開したのであろう。

 

 

 翌年8月の光復節の祝賀宣伝では、「ヘテ・キャラメル本舗 ヘテ製菓合名会社」と社名が記されており、1953〜5年に、社名を「鮮美製菓」から「ヘテ製菓」に社名変更したものと思われる。

 

 

 その後、全国に販売網を整備し、日本から最新設備を導入して近代化を進め、1970年に朴炳圭が社長に就任すると「脱・製菓業」を掲げ、アイスクリーム、乳業、果汁飲料、酒造、観光事業などへ進出した。サントリー韓国法人や済州島チェジュドの柑橘事業を引き継ぎ、総合食品グループへ発展した。
 また、1982年には韓国プロ野球創設に参加して「ヘテ・タイガース」を創設した。タイガースは宣銅烈ソンドンヨルらを擁して9度の韓国シリーズ優勝を果たし、韓国球界屈指の名門球団となった。
 

 しかし、1997年のIMF経済危機でグループは深刻な経営難に陥った。不動産・観光・流通などへの過剰な事業拡大と多額の負債が重荷となり、1999年にグループは事実上解体された。プロ野球のヘテ・タイガースは2001年に起亜自動車へ売却された。

 主力のヘテ製菓は債権団管理下で再建が進められ、2005年にクラウン製菓によって買収された。

 

 現在は「クラウン・ヘテ製菓グループ」となっているが、ヘテ・ブランドは存続している。

 

 解放後、永岡商店から受け継いだカイダ・ブランドはヘテ・ブランドへと発展し、ヘテは韓国有数の財閥へ成長した。IMF経済危機でグループは解体されたものの、その獬豸ブランドの伝統は、現在も韓国社会で受け継がれている。

 広島市内、相生橋のたもと。1945年8月6日、被爆して動けなくなった第二総軍教育参謀・李鍝イウ中佐がここで発見されたとされる。1970年に建設され、1999年に平和公園内の現在位置に移設された韓国人被爆者慰霊碑の斜め対岸に当たる。

 



 李鍝の夫人・朴賛珠パクチャンジュは、1963年11月に来日して、陸軍士官学校45期慰霊祭に出席し、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも面会している。

 

 

 この時、11月7日に広島を訪れ、亡き夫・李鍝のゆかりの地を巡り、相生橋で献花した。

 

 

 李鍝は、高宗皇帝の息子・李堈 イ   ガンの次男として1912年11月15日に生まれた。1907年に即位した純宗皇帝と、その弟で皇太子の李垠イウンは、叔父にあたる。ここで、李鍝の位置関係を整理しておく。

 

 

 高宗の父・李昰応イハウンは、息子が国王に即位したことで大院君テウォングンの称号が与えられ、その居宅・雲峴宮ウニョングンは権力の中枢の一つとなった。

 

 時は流れ、大韓帝国は日本に併合され、1917年には、大院君の孫で雲峴宮の当主だった李埈鎔イジュニョンが47歳で死去した。李埈鎔には跡継ぎの男児がいなかったため、その従弟に当たる李堈の次男・李鍝を養子として雲峴宮を継がせた。

 

 李鍝は、養子となった時には満4歳だった。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月に日本に送られて学習院初等科に転校した。李堈の長男で、李鍝の兄・李鍵イゴンも日本に送られ、下渋谷常盤松の皇室所有地に住まいがあった。1925年には李鍵の邸宅の隣に李鍝の別邸が建てられた。その後、李鍝は、陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 


 

 1928年、李垠とその妻・方子マサコ(梨本宮方子)夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した際の写真が、1928年4月10日付『朝日新聞』に掲載されている。

 

左から、李鍝、李堈、李垠、方子、徳恵、梨本宮夫妻
 

 神戸で撮られたこの写真で、李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供、李鍝はその孫にあたる。兄の李鍵は、この時、習志野馬術大会出席のため神戸には来なかった。

 

 韓国併合後、朝鮮の王族・公族とその子弟の多くは朝鮮から切り離され、日本内地に居住させられた。さらに、李垠、徳恵、李鍵はそれぞれ日本人と結婚することになった。ただ、李鍝だけは日本人との結婚を拒み、1935年に朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父は朴泳孝である。

 

 朴泳孝(1861-1939)は、朝鮮末期から大韓帝国期にかけて活動した開化派の政治家であり、日本と深い関わりのある人物だった。甲申政変(1884)では日本の支援を背景に政権掌握を試みて失敗し、金玉均らとともに日本へ亡命した。その後政界に復帰し、親日的立場から改革を志向した。韓国併合後は伯爵に列せられ、日本統治体制のもとで活動した。李鍝が、朝鮮人の朴賛珠と結婚することに難色を示す日本側要人もいたが、朴泳孝もその説得に動いたという。

 

 李鍝と朴賛珠の新婚生活は下渋谷常盤松の別邸で始まり、李清イチョン李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 

 李鍝は、1944年3月に北支那方面軍第1軍司令部の参謀将校として中国の山西省太原へ転出し、1945年6月10日に広島の第二総軍の教育参謀として着任した。広島への移動の際には、雲峴宮に立ち寄っている。

 

 1988年に中国放送が制作したドキュメンタリー「民族と海峡」で、李鍝公家公子、すなわち李清と淙の養育係だった金子鎮枝は、この時のことを次のように回想している。

とても、運動なさったんです、京城の師団に留まるように。当時、李鍝公殿下は頭がよくてしっかりなさっていて、朝鮮と日本がこうなっているということは、気持ちがおすみにならないわけだったんですね。で、なんとなしに陸軍の方でそれを恐れていたんですね。事務方もね、その懸念を持っておりましたからね。反対して猛運動をやったらしいんです。京城の方で、やっぱりおばあさま方が猛運動をやってらしたんですけど、阿部総督がこちらについてますからね… で、とうとうこっちへ(広島)へいらしたわけで。京城にいらっしゃったら、あの方は大統領にもなっていらっしゃいましたよ。妃殿下は、さぞ無念でいらっしゃるでしょうと思って…

 ちょっと、歯切れは悪いが、日本側では李鍝の考え方に民族主義的傾向があるのではと警戒感をもっており、朝鮮には配属しない意向だったことが感じられる。養育係の金子鎮枝が京城にいたということは、6月には朴賛珠と二人の息子・李清と李淙は、空襲の激しい東京を離れ、比較的安全と見られた京城の雲峴宮へ移っていたのであろう。

 

 そして、8月6日、李鍝は広島で被爆した。広島市編纂の『広島原爆戦災誌』第2巻(1971)には、このように記載されている。

 宇品の暁部隊内で被爆した竹中泰軍属が、鷹匠町の自宅の安否をたずねて帰り、途中、憲兵にとがめられながらも、午後12時40分、相生橋西詰に到着した際、同西詰北側で、被爆してうずくまっている李鍝公殿下(第二総軍教育参謀)を発見した。「君は軍の者か、町の者か?」と、殿下に問われた。「町の者です。家を見に帰るところです。」と、竹中軍属は答えた。「よう生きて帰ったね。俺は、今朝、やられたんだ。李鍝公という者だが、どうか憲兵隊に連絡を取ってくれないか…」と、頼まれた。
 李鍝公殿下は、顔から胸に火傷し、上衣は吹き飛ばされて、力なさそうであった。竹中軍属は、ともかく此処ではいけないと考え、殿下を背負い、本川国民学校東側の川沿いの道に面した防空壕(2畳敷位)に運んだ。殿下は16、7貫の巨体であるうえ、手は火傷してズルズルになっていたから、壕内に運びこむのも一苦労であった。
 竹中軍属は、連絡しようにも誰もいなくて困ったが、3時半ごろ、十日市派出所の負傷した巡査が歩いて来たので、これに連絡方をたのんだ。巡査は引返して、派出所が埋蔵していた油を持って来て、応急手当をした。そのうち4時半ごろ、軍人が通りかかったので、これに連絡することができた。
 この連絡により、宇品の暁部隊の舟艇が川をのぼって来て、殿下を収容した。
 宇品の凱旋館に収容され、軍医の診察を受けたときの状況については、佐伯司令官の記録(外傷見られずとある。)にあるが、そこから似ノ島の収容所に転送後、翌7日午後4時過ぎに逝去された。

 李鍝公殿下は、朝鮮王最後の王世子李垠殿下の甥にあたり、当時、古田町高須の前田別荘に約3か月滞在中、第二総軍司令部へ出勤途上において被爆したのであるが、このとき、猫屋町の憲兵分隊(光道国民学校内)動務の柳田博憲兵准尉は、李鍝公殿下の護衛憲兵を勤めていた田辺憲兵軍曹が、馬に跨がったままで、相生橋から約500メートル先の十日市町電車停留所付近の倒壊民家の前で死んでいる現場を、7日に確認し、その死体を収容した。
 李鍝殿下の死去にあたり、お付武官吉成弘中佐はその責任を感じ、殿下の病室の前の芝生に正座して、ピストルで殉死したと言われる。殿下の遺骸は総軍の飛行機で、京城の自邸朴賛珠妃殿下のもとに届けられた。ちなみに、昭和38年11月7日、朴賛珠夫人が来広せられ、相生橋上から、川に花束を投げて、故殿下の冥福を祈られた。

 李鍝の遺体は、防腐処理を施されて広島市南部の吉島飛行場(現在の中区光南)から京城に送られた。8月8日午前11時40分、汝矣島の京城飛行場に到着した棺は、南大門・朝鮮総督府を経て雲峴宮に安置された。

 

 この時の様子を前出の金子鎮枝はこのように回想している。

御遺骸が着く日ですか、お迎えに行って帰ってらしたんです。そしたら、嘘だろうって本当のこと聞かしてくれって言って、むこうでお嘆きになってらしたんですって。ずいぶんやっぱりその時にはね、悲しそうにしてらっしゃいました。お帰りになった時に、私に抱きついてね、本当かって。何遍も何遍もおっしゃいましたね。嘘なんだろう。嘘ではございませんと申し上げましたけど、なんとも言いようがなかったです。お子様は、お子様でね、私にへばりついてましてね。おもう様はね、お星様におなりになったんだって、っておっしゃるんですね。なんてお慰めしていいかわかりませんでした。

 葬儀は、8月15日午後5時、東大門の京城運動場で陸軍葬として行われた。正午からポツダム宣言受諾の「玉音放送」があったが、予定通り執り行われた。朝鮮総督府は、すでに8月11日には敗戦に備えて内々に準備に着手していた。8月14日の夜の23時過ぎには、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿の全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。従って、総督府や軍の上層部は、李鍝の陸軍葬の時には、日本の敗戦が周知された後のことだと分かっており、葬儀の準備はそれを前提に淡々と進められていた。

 

 葬儀の前日の8月14日、朴賛珠は、自決した吉成弘の妻・まきのに、「戦死を悼む」と電報を打った。まきのは、李鍝の被爆死は新聞報道で知ったが、夫の生死については知らされずにいた。吉成弘の自決を知った朴賛珠が、京城から大分の宇佐のまきのに一報を入れたのである。

 その後、朴賛珠と子供達は、下渋谷常盤松の別邸に戻ることはなかった。

 

 日本の敗戦によって、植民地統治体制は解体されたが、旧王家の管理を行う「李王職」は米軍政のもとでも存続した。1948年7月、大韓民国の建国に先立って米軍政長官のディーン少将の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝・朴賛珠夫妻の長男・李清であることが確認された。しかし、大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を制定し、「旧王宮財産は国有とする」と定めた。ただし、「旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、王族に譲与することができる」とされた。雲峴宮に関する権利関係も微妙になった。

 

 ここで朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山プサンに避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清が1991年12月11日付の『東亜日報』のインタビューで、このように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏

(前略)

 解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。

 雲峴宮では、先代の李埈鎔の未亡人、それに先々代の李載冕の未亡人が暮らしていた。朴賛珠は、二人の息子を育てながら、二人の未亡人の生活を支えなければならなかった。そのため、大韓民国建国前後に、興宣大院君が持っていた石坡亭(現在の付岩洞所在)や、雲峴宮の洋館と付属の土地を徳成学園に売却している。現在の徳成女子大学鍾路キャンパスがそれである。また、雲峴宮の北側の一画で「雲峴宮礼式場」を営業したり、映画スタジオを計画していた東苑映画社と10年間の賃貸契約を結んだりした。さらに、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、李載冕・李埈鎔・李鍝が葬られている楊州郡和道面の墓所に隣接する公園墓地「牧蘭公園墓地」の造成・分譲にも乗り出した。

 

 大韓民国の初代大統領の李承晩は、朝鮮王朝の王家と同じ全州李氏ではあったが、遠い分家の末流であり、もともと共和主義者で、王制を嫌っていた。高宗・純宗につながる関係者に対しては、彼らが日本と深い関係を持っていたこともあり、冷淡だった。国籍の回復や帰国についても、これを認めなかった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れ、その翌年、5・16クーデターで実権を握った国家再建最高会議の議長朴正熙は、李垠夫妻や徳恵の国籍回復や帰国について、1961年7月に東京の韓国代表部を通じて受け入れの意向が伝達された。11月、朴正熙が訪米する際、当時の日本首相・池田勇人の招きで日本に立ち寄り、迎賓館で方子夫人と面談して、旧王族・公族の関係者の韓国帰国問題が動き出した。

 

 まず、徳恵の韓国帰国の手続きが始まり、翌1962年1月の帰国が決定した。この徳恵の出迎えの使者として、1月16日に来日したのが朴賛珠と次男の淙であった。1月26日に、統合失調症で闘病中の徳恵は羽田空港からソウルに帰国した。

 

ノースウエスト機で金浦空港に到着しタラップを降りる徳恵翁主。横に付き添うのは七寸の甥・李海善 

 

 同じ1962年の6月13日には、墓参を名目として李方子と息子の李玖夫妻が韓国に一時帰国した。夫の李垠は東京で病床にあり、李垠の帰国の下準備のための渡航だった。この時も、朴賛珠が空港出迎え、尹大妃(純貞孝皇后)との再会、朴正煕議長の接見などで李方子に寄り添っていた。

 



 そして、その翌年、1963年11月に朴賛珠は再び来日した。この時に、冒頭に書いたように、陸軍士官学校45期の慰霊祭に出席して、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも会った。そして、11月7日に夫・李鍝の死後初めて広島を訪れたのである。

 

 広島から東京に戻った朴賛珠は、11月16日に東京から韓国に戻り、同月22日の李垠夫妻の帰国を発表している。



 

 11月22日、病床のまま李鍝(英親王)と、方子夫人、息子の李玖が韓国に帰国した。

 

 

 徳恵の帰国、そして李垠・李方子夫妻の帰国という一連の動きの中で、朴賛珠は重要な役割を果たしていたことが分かる。行動力に富んだ人物であったと言える。

 

 その後、朴賛珠は広島にも行っておらず、韓国内での被爆者団体の集まりにも一切顔を出していない。

 李垠・方子夫妻の帰国の下準備で東京を訪れた1963年11月が最後の機会だと考えて広島に行ったのであろう。

 

 「雲峴宮」の当主の李清は、1990年にアメリカから韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。

 

 朴賛珠は、北阿峴洞ブクアヒョンドンに邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。


 1994年に広島の中国放送が朴賛珠のインタビューを申し入れたが、応じなかった。代わりにインタビューを受けた李清は、次のように答えている(1994年03月21日放送「抗日 日韓併合のかげに」)。

 

広島には行きたくないですね。土も踏みたくない。行くとすれば、家族の眠るお墓に行きます。

 

 そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に一般公開された。

 

 


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