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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2026年3月21日、BTSのコンサートで多くの人が集まった光化門クァンファムン広場。

 

 

 韓国の文化遺産を世界に発信する象徴的な場所であると同時に、この広場は、現代史の節目ごとに人々が集い、その時代の鼓動を刻んできた場でもある。

◆大韓民国の建国(1948年8月15日)

 

 この日、制憲国会が開かれた旧朝鮮総督府庁舎前で、大韓民国政府樹立の国民祝賀式が行われた。大統領に選出された李承晩イスンマンは、国内外に政府樹立を宣言。同日深夜零時をもって米軍政から統治権が移譲され、大韓民国が成立した。

 

 朝鮮総督府庁舎建設時(1926)に景福宮キョンボックン東側へ移設された光化門は、この時点ではまだ正面に戻っていない。祝賀式には世宗路セジョンノに十数万人が集まったとされる。

◆ジョンソン・アメリカ大統領訪韓(1966年11月)

 

 当時、韓国は米国の要請に応じてベトナム戦争に大規模な戦闘部隊を派遣していた。ジョンソン大統領の訪韓は、この派兵に対する米国の謝意を示すとともに、朴正煕パクチョンヒ政権への支持を内外に示すものであった。

 

 到着当日、金浦キムポ空港から市内に入ったジョンソン大統領夫妻は、ソウル駅前、市庁シチョン前広場での歓迎集会を経て、中央庁チュアンチョン(旧朝鮮総督府庁舎)までパレードを行った。沿道には延べ200万人の人出があったとされ、世宗路も統率された歓迎人員で埋め尽くされた。

 

 世宗路の西側部分には路面電車の線路があったが、ジョンソン大統領訪韓前に急遽アスファルトで埋められ、その後は緑地帯になっていた。

 

映画「미워도 다시한번」(1968) より

 


 その後、この緑地帯は削られ、世宗路は片側7車線、上下14車線の大通りとなり、歩行者は地下道へと追いやられていく。

 

 

 1970年代から80年代にかけての大規模集会は、汝矣島ヨイドの5・16広場が主な舞台となる。

 

 光化門前の歩道が人で埋め尽くされたのは、1979年、朴正煕大統領の国葬であった。

◆朴正煕大統領国葬(1979年11月3日)

大韓ニュース 第1264-5号-故 朴正煕大統領 国葬

 

 中央庁前広場での告別式は数十万人規模とされ、葬送行進の沿道には延べ100万人規模の人出があったと報じられている(政治的誇張の可能性あり)。

 

 この後、世宗路が大規模な人波であふれかえることは少なくなるが、それに替わって市庁前のロータリー(2004年までは交通の要衝)が、新たな集会空間として機能するようになる。

 

◆市庁前広場 李韓烈イハンヨル君の葬礼(1987年7月9日)

 

 全斗煥チョンドゥファン政権末期、次期大統領選挙を間接選挙で行おうとする動きに対し、直接選挙を求める声が高まっていた。

 その中で、ソウル大学生・朴鍾哲パクジョンチョル君が南営洞ナミョンドン対共分室での拷問により死亡。さらに6月9日、延世ヨンセ大学前で戦闘警察の催涙弾が李韓烈君の後頭部を直撃した。李韓烈君は、7月5日に死去し、9日に民衆葬が行われた。

 

映画『1987』エンディング・ロールより

 

◆旧朝鮮総督府庁舎の撤去(1996年8月)

1995年3月1日 3・1節セレモニー

 

KBS 旧朝鮮総督府庁舎の本格的撤去始まる(1996.08.20) 


 1995年、金泳三キミョンサム政権は、光復50周年事業の一環として、植民地支配の象徴とされた旧朝鮮総督府庁舎の撤去を決定した。負の遺産の文化財としての保存を求める声も一部にはあったが、解体工事は翌年8月に着手され、1996年末までに完全に撤去された。

 

◆市庁前広場 サッカーワールドカップ(2002年6月)

KBS 市庁前24時 2002.06.22
 

 2002年ワールドカップでは、市庁前広場に多数の市民が集まり、街頭応援が展開された。韓国代表戦の日には赤い服の人々が広場を埋め、数万から数十万人規模に達した。

 

 大型スクリーンを囲み、歓声とため息が一体となる空間が生まれ、見知らぬ人同士が自然に連帯する場ともなった。この時、市庁前広場は「同じ時間を共有する場」となっていた。

◆米軍装甲車による女子中学生轢死事件(2002年12月)

 2002年6月13日、京畿道楊州キョンギドヤンジュで女子中学生二人が米軍装甲車に轢かれ死亡する事件が発生。当初は散発的な抗議にとどまっていたが、11月20日の米軍軍事法廷で無罪判決が出ると反発が一気に拡大した。

 

 11月下旬からろうそくデモが始まり、12月上旬から中旬にかけてピークに達する。抗議は光化門一帯にも広がり、世宗路や在韓アメリカ大使館前が主要な舞台となった。

 

 その最中の12月19日、大統領選挙が行われ、盧武鉉ノムヒョン候補が当選した。

◆盧武鉉の弾劾反対デモ(2004年3月)

 
 2004年3月12日、国会は盧武鉉大統領の弾劾訴追を可決。これに対し市民は強く反発し、光化門一帯でろうそくデモが連日展開された。
 
 
 集会は数万人規模に拡大し、民主主義擁護の意思表示の場となる。5月14日、憲法裁判所は弾劾を棄却し、大統領は職務に復帰した。

◆アメリカ産牛肉輸入反対(2008年5月)

 

 2008年4月18日、李明博イミョンバク政権が米国産牛肉輸入再開でアメリカと合意。これに対する不安から、5月2日に初のろうそく集会が開かれる。

 

 5月10日以降は連日開催となり、6月10日には大規模デモに発展。当初は平和的な抗議だったが、警察のバリケード設置や強制排除への反発から衝突が増え、次第に過激化した。

KBS 週末 市庁前広場”1泊2日”ろうそく集会(2008年6月28日)

 政府が6月19日に再交渉方針を示すと、7月以降は徐々に沈静化した。

朴槿恵パククネ弾劾要求ろうそくデモ(2016年10月29日〜)

 2016年10月24日、崔順実チェスンシルの国政介入疑惑が報じられると、10月29日に最初のろうそく集会が開かれた。

 

 以後、週末ごとに光化門一帯で集会が続き、11月12日には約100万人規模に拡大。要求は疑惑解明から大統領退陣へと変化し、抗議は全国に広がった。ソウルでのろうそくデモは、光化門前から青瓦台の近くにまで進出して展開された。

 

 

KBS 最初から6回目まで…ろうそくデモはこのように広がった(2016.12.04

 

 12月9日に国会が弾劾を可決し、2017年3月10日に憲法裁判所が罷免を決定するまで、平和的な大規模デモが継続した。

 


 

 2020年11月、世宗路の車道縮小と広場化工事が開始され、2022年8月6日、新たな光化門広場が開場した。

 

KBS 公園と一体化した光化門広場、1年9か月ぶりにオープン(2022.08.06)

 そして2024年12月3日夜、尹錫悦ユンソギョル大統領(当時)による非常戒厳令宣布以降、光化門広場は罷免要求とそれに反対する勢力の集会が毎週繰り返される場となった。
 
 

 こうして見ていくと、光化門という場所は、単なる都市空間ではないことが分かる。国家の成立を祝う場であり、権力を可視化する舞台であり、またそれに抗する民衆の声が噴き出す場所でもあった。

 車道に押しやられ、地下へと追いやられた歩行者は、やがて再び地上へ戻り、この広場を取り戻した。祝賀、弔い、抗議――そのすべてを受け止めてきた光化門は、まさに韓国現代史そのものを映し出す鏡である。

 


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  •   ◆ その後の上映と拡散

この記事は、事実誤認と史料の扱いに誤りがあったため、一旦削除します。
修正版はこちらです。

 

 

 1924年8月15日付の『東亜日報』「洞・町内の名物」が取り上げているのは、通洞の林檎園である。

 

◇ソウルでヌングム(在来種のリンゴ)畑として有名なのは、彰義門外です。彰義門外に住む人々は、この季節になると多少なりとも現金収入を得るようになります。実際に彰義門外へ行ってみると、あちらこちら一面がヌングム畑で、なるほど名高いヌングムの産地であることが実感できます。松洞の畑と比べても、決して見劣りするものではありません。
◇ところで「京ヌングム」といえば、ソウルのヌングムは彰義門外のものだと思われがちですが、実は通洞のヌングムを指します。通洞のヌングム畑は一か所しかありませんが、その品質はソウルを代表するといえるほど優れています。そのため、広大な彰義門外のヌングムも、わずかな通洞ヌングムには及ばないと評価されています。量より質を尊ぶ世の中では、このようなことも当然といえるでしょう。
◇彰義門外では現在もヌングムの栽培が盛んで、多くの人々がそれを食べ、また売買しています。しかし、いまや通洞のヌングム畑は日本人の所有になってしまったといいます。「京ヌングム」という名前だけが残り、それを実際に知る人は少なくなりました。質より量を重んじるようになると、このような変化が起こりがちですが、いまの世の中は再び質を重んじようとしているようです。
 このように考えてみると、通洞の名物であったヌングム畑は、まさに歴史に名を残す名園であったといえるでしょう。

 通洞とは、現在の通仁洞トンインドンである。1936年、京城府は隣接地域を編入して行政区画の再編を行い、「洞」を「町」に改めるなどの整理が実施された。それまでの「通洞」は「通仁町」と改称され、これが解放後に再び「通仁洞」となった。上の記事に登場する地名を現在の地図に重ねると、次のような位置関係になる。

 

 

 現在、観光客にも人気の通仁市場トンインシジャンがある一帯が通仁洞であり、そこから北へ進むと紫霞門チャハムントンネルがある。トンネルを抜けた先が付岩洞プアムドンである。紫霞門トンネルは、北岳山ブガクサンから仁旺山イナンサンへ続く城壁の山稜を貫くもので、その真上に北小門プクソムンが位置する。この門を彰義門チャンウィムン、またの名を紫霞門という。

 

 この通洞では「林檎園」が名物とされているが、ここでいう「林檎」は、現在われわれが食べているリンゴ、すなわち사과サグァとは別種ともいえる果物である。記事でも「사과(サグァ)」ではなく「능금(ヌングム)」と記されている。

 

 現代の日本ではフジ、紅玉、ジョナゴールドなどが主流であり、韓国でもフジのほか、ホンロやカムホンといった品種が多く出回っている。いずれも野球ボールやソフトボールほどの大きさで甘味が強い。

 

 一方、ヌングムは直径2〜4センチほどと小さく、酸味が強く甘味は弱い。半ば野生種ともいえる「在来のリンゴ」であり、現代のリンゴとはほとんど別の果物といってよいほどの違いがあるという。

 

Trees and Shrubs Onlineより

 

 1935年修正測図の1万分の1地形図を見ると、北門(彰義門・紫霞門)の外側、付岩里一帯に「果園」の記号が多数描かれている。これがヌングム畑であったのだろう。

 

1915年測図 1930年修正測図 1/10,000

 

 同じ地図には「李鍝公別邸(石坡亭)」の記載も見える。これはもともと哲宗チョルチョン代の領議政・金興根キムフングンの別荘を、興宣大院君フンソンデワングン李昰応イハウンが取得して「石坡亭ソクパジョン」と名付けたものである。李昰応の孫・李埈鎔イジュニョンの養子となった李鍝イ ウが当時の雲峴宮ウニョングン当主であり、李鍝はのちに広島で被爆して戦死した人物として知られる。

 石坡亭の風雅な庭園景観は、周囲に広がるヌングム畑と切り離して考えることはできない。王族の遊宴地と庶民の果樹栽培が、同じ斜面を共有していたのである。


 付岩里のヌングムは、住民たちによって京城府内へ売り歩かれていた。1923年8月7日付『東亜日報』には、次のような記事が掲載されている。

 

暑さの盛りに、物売り同士の喧嘩騒ぎが起きた。
去る五日、炎天下で汗を流しながら歩き回っていた油売り四人が、紫霞門の前で腰を下ろし、汗をぬぐいながら休んでいた。そこへ、門の外からヌングム売りがやって来た。油でてかてかになった顔の男が、冗談まじりに、
「おい、ほかに商売がなくて、ヌングム売りなんかやってるのかい」
と声をかけたところ、これがもとで大喧嘩に発展してしまった。
もともと紫霞門の外にはヌングム売りが多い。この騒ぎを聞きつけて一人、また一人と人が集まり、三十人あまりが一団となって、油売りの額がヌングムのように真っ赤に腫れ上がるまで殴りつけたという。ついには巡査まで出動する騒ぎとなった。喧嘩をする当人たちは好きにすればよいとしても、この猛暑のなか、警棒を抱えて走り回る巡査のほうこそ、息切れしないか心配になるばかりである。

 

 京城府内の通洞付近にも、付岩里の果園と同じ記号が地図上に確認できる。この場所は、「売国奴の元凶」と目された李完用イワニョンの邸宅や、尹徳栄ユンドギョンの洋館・碧樹山荘ビョクスサンジャンに隣接する地域であった。

 

 

 『東亜日報』の記事が掲載された1920年代、京城とその周辺では急速な都市化が進行していた。城壁外側の南向き斜面に広がっていたヌングム畑は、住宅地や別荘地へと次々に転換されていった。通洞を含む「西村ソチョン」一帯は、日本人と朝鮮人有力層が混住する地域となり、都市ガスや上下水道などのインフラも整備されていた。

 

 さらに、日本品種のリンゴが市場に流入し、小さく酸味の強いヌングムは果物市場から次第に姿を消していった。

 

 こうして、付岩里から、そして通洞からヌングム畑は消えていったのである。

 

 植民地支配が終わる頃には、ヌングムは「昔よく食べた小さなリンゴ」として、その名だけが記憶に残る存在となった。1960〜70年代になると「사과サグァ」がリンゴの総称となり、「능금ヌングム」は若い世代の日常語から姿を消していく。

 

 しかし一方で、ヌングムは失われゆく時代の象徴として文学の中に生き残った。1963年、朝鮮日報主催の新春文芸賞では、ヌングム農家を題材とした林河イム ハのシナリオ「荒ぶるヌングム(성난 능금)」が当選している。その後も童話や郷土文学、回想録の中で繰り返し登場する題材となった。

 

 そして2021年4月、ソウル市は「ソウル・ヌングム」復元プロジェクトを発表した。付岩洞周辺に残る木や保存株から穂木(台木に接ぐ部分)を採取し、市農業技術センターで260本の接ぎ木繁殖が始められている。

 



 ヌングムの木は果樹としてだけでなく、庭木や薬用植物としての価値も持つという。

 もっとも、私自身はまだ一度も実物を見たことがなく、もちろん食べたこともない。もしどこかで見かけることがあれば、ぜひ教えていただきたい。かつて通洞の名物であったその果実を、いつか手に取って眺め、そして味わってみたいものだ。

 

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