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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 こんな話をX(Twitter)に書いたら、「いいね」が1,100個以上ついた。

1980年代の韓国旅行記でよく見かけた話だ。

食堂に入ると、壁に書かれたハングルがどうやらメニューらしい。

とりあえず一番大きく赤い字で書かれているものを指差すと、「ダメダメ」と手を振って断られた。

あとで、韓国語がわかる人と一緒に行ってみると、「ああ、あれは불조심ですね。火の用心のことですよ」と言われたという。

 

 この系統の話は、関川夏央の『ソウルの練習問題』(1983年1月)や、森枝卓士と朝倉敏夫の『食は韓国にあり』(1986年4月)にも出てくる。

 韓国ではありとあらゆるドアは開けてみるしかない。そうすれば必ず食堂にあたる。またそうしなければ食えない。
…中略…
 食堂を発見したら、席につき、壁に貼り出してある品書きのなかのひとつを選べばいい。よくわからなければ右側からひとつずつトライするのも悪くはない。もっとも、いちばん右側の札を指して、「あれをひとつ」と注文したら、店員が奥に駆け込み、やがて主人を伴って現われ、その主人が日本語で「お客さん、冗談おっしゃっちゃ困ります。あれは“火の用心”でして」といったという話もある。

関川夏央『ソウルの練習問題』

 

 このハングル、食べものがからむと余計、大きな悲劇が待ちかまえている。誰か通訳してくれる人間が一緒だといい。しかし、一人で食べに行くと先ず何があるのか分からない。それどころか、高級店はそれらしくて食べもの屋だと分かるが、庶民的な店だと本当にそんな店なのかさえも分からない。ハングルで何か書いてはあるが、店の作り自体、ガラス戸を閉めてあると代書屋かなんかの事務所みたいなのだ。
 とまれ、匂いとか人の出入りでそれと分かったとして、中に入る。次の問題はどう注文するかだ。壁にメニューは貼ってあるが、もちろんハングル。適当に「これっ」とやったら、『火の用心』か『スパイを見つけたら早く申告しましょう』という文句だったという小話は有名になったようだが、実のところ標語の方には値段が書いてないからすぐ分かる。スパイ申告の件なら賞金額が書いてあるが、何千万という桁だからこれもすぐメニューではないと分かるか、注文する気力がなくなる。

森枝卓士・朝倉敏夫『食は韓国にあり』

 

 関川は1981年に韓国を旅してこの本を書き、斬新な韓国へのアプローチとして注目された。森枝はICU在学中に、当時明大の院生で後に全南大学に留学する朝倉と出会った。1980年代前半に韓国滞在中の朝倉と一緒に韓国で取材・調査をして本を書いた。

 

 1970〜80年代、ソウル中心部からちょっと外れたところや地方都市では、商店や食堂、事務所のガラス戸に青いフィルムが貼られていて、中が見えないのが当たり前だった。メニューの看板も食品サンプルもなし。表のガラス戸を開けてみないと食堂なのか事務所なのか分からない。

 食堂の場合、小さな店ならコムタン専門とか、キムチチゲ・テンジャンチゲとか、冷麺の店とか、出せるものはだいたい決まっていた。大きめの食堂になると、メニューも多くなり、壁に値段と一緒に貼られていた。

 


 

 1968年には北の武装工作員がソウルの大統領官邸裏の山まで侵入する事件があった。1972年には朝鮮戦争後初の南北接触があり「南北共同声明」が出たが、その一方で政権に異論を許さないとして、「維新憲法」で民主化勢力を徹底的に抑え込んだ。

 

 朴正煕体制を安定させるキャンペーンの一環として、街にはさまざまな標語が貼られた。“火の用心(불조심)”もあちこちに。“スパイ通報は113・112(간첩신고는 113・112)”なんてのも至るところで目に入った。

 

 

 「火の用心」を注文してしまう話は、実は関川や森枝の本の10年ほど前、1971年5月号の『婦人公論』に出てくる。写真家・李剛が「漢字全廃」というエッセイの中で、プルチョシムを注文した観光客の話として書いている。

 ソウル市内の商店街を歩いても、漢字で書かれた看板は皆無といってよいほどみあたらない。昨年から今年にかけてほとんどがハングルに塗り変えられてしまった。漢字で書かれた看板が目につけばそれは〇〇飯店等漢字の国の店である。ハングルを読めない外国人には看板だけでは何を商う店なのか判らない。食堂のメニューも仮名ばかり、壁にプルチョシム(火の用心)と書いてあったのを食物の名と思って注文して笑われたという観光客の笑えない話を聞いた。

 

 どうやら、これが活字になった最初の例らしい。李剛は1971年3月刊『世界の旅:目で見る6(香港 マカオ 台湾 韓国)』で韓国部分を担当しており、この取材・撮影時に仕入れた話なのかもしれない。

 

 1970年前後、日本人の韓国旅行は団体ツアーが主流で、ハングルが読めないまま個人で旅行する観光客は珍しかった。他方で、日本人の駐在員や記者、大使館員は増えていた。ソウル日本人学校の前身の補習校ができたのが1970年。1972年5月には漢南洞で日本人学校が開校している。ちょうどその時期だ。

 

 食堂で「火の用心」を注文した観光客が何人もいたとは考えにくい。むしろ、韓国語ができない駐在員がハングルのメニューに苦労するなかで出回った“自嘲的小話”が元ネタ、という方が自然かもしれない。

 

 今では「プルチョシム」や「カンチョプシンゴ」の貼り紙を見ることもなくなった。食堂の窓はやたら大きくなり、中で何を食べているかまで丸見えの店が多い。おまけに今は写真を見ながらキオスクで注文するのが当たり前だ。

 

 「火の用心」を注文した笑い話でウケてもらうには、こうした時代背景の説明が必要かなと思って、長々と書い、失礼しました。

 今年7月から、iPhoneやApple Watchで韓国のT-Moneyが使えるようになった。

 

 ソウルに到着した翌日、さっそく地下鉄駅のT-Moneyチャージ機で現金1万ウォンをチャージし、利用を始めた。

 ※iPhoneでT-Moneyを使う(解説)

 

 いつもソウルでは、街の変化を感じるために地下鉄ではなくできるだけバスを乗り継ぐようにしている。iPhoneでバスの乗り継ぎを検索しながら、停留所の路線図やバスの経由表示を確認して移動する。そんな時、カードを出し入れなしにそのままiPhoneでタッチして乗り降りできるのはとても便利だ。

 

 ところが3日間、バスと地下鉄を利用してみると、多い日には交通費だけで9,000ウォン以上かかっていた。iPhoneでは、支払いや乗り継ぎの履歴が場所と金額とともに表示される。30分以内の乗り換えは「支払いなし」なのだが、ちょっと用事を済ませてからまた移動となると、1,500〜1,550ウォンの支払いが生じる。

 

 

 そうなると、1日定額5,000ウォンでバス・地下鉄が乗り放題になる「気候同行カード」の方が安上がりということになる。そこで、この「気候同行カード」を入手し、1日だけ試しに使ってみた。

 

 

 この「気候同行カード」とは何なのか、どうやれば使えるのか。まとめてみた。

「無制限定期券カード」の導入

 2023年9月、ソウル市は月額65,000ウォンで市内の公共交通機関を利用できる定期券カードを翌2024年上半期に導入すると発表した。対象は市内バスやマウルバス、地下鉄1~9号線や京義・中央線、盆唐線、新林線など、さらにレンタル自転車のタルンイ(따릉이)も利用できるというものだった。

 

 当時、ソウルの市内バスや地下鉄の料金は8年ぶりに値上げされることになっていた。公共交通の利用者比率は2018年の65.1%から2021年には52.9%に減少。一方、乗用車の割合は24.5%から38%に増加した。そうした中での運賃値上げは、利用離れを招くだけでなく、赤字が続く地下鉄・バスの財政をさらに悪化させ、同時に自動車利用増加による炭素排出量の増大が懸念されていた。

 そこでソウル市は、定額の乗り放題券を発行することで、平日の通勤通学だけでなく週末の利用も促し、年間13,000台分の乗用車利用を削減、温室効果ガスを年間32,000トン削減できると試算した。こうした「環境配慮」を前面に出すため、この定期券には「気候同行カード」という名称が付けられた。

 

 2024年1月27日から、月額65,000ウォンでソウル地域の地下鉄・バス・タルンイが乗り放題となる気候同行カードの試行運用が始まった。当初は首都圏の隣接自治体との調整が不十分で、市境をまたぐ利用に制約があったが、3月には金浦市や高陽市などと協約を結び、使用範囲は徐々に拡大していった。

 

「短期券」の発行

 ソウル市は7月1日からの本格運用開始に合わせ、外国人観光客など短期滞在者向けに、定額で公共交通機関が利用できる「短期券」を発売した。短期券は30日単位で販売される一般券とは異なり、1日券(5,000ウォン)・2日券(8,000ウォン)・3日券(10,000ウォン)・5日券(15,000ウォン)・7日券(20,000ウォン)といった短期間を選んで利用できる。ただし、レンタル自転車のタルンイは利用できない。

 

 

 発売開始から1か月で、短期券は計43,454枚販売された。チャージの際の選択で最も多かったのは3日券で15,423枚、次いで5日券10,257枚、2日券6,483枚、7日券6,127枚、1日券5,164枚。購入時の言語選択では、日本語(30%)が最多で、中国語(22%)、英語(20%)、韓国語(28%)と続いた。韓国語での利用28%は、韓国人や韓国居住者の利用もかなり多いことを示している。利用機関別ではバス(32%)より地下鉄(68%)が多く、チャージ場所は地下鉄4号線明洞駅や2号線弘大入口駅・乙支路入口駅・東大門歴史文化公園駅・乙支路3街駅が多かった。(『京郷新聞』2024年8月5日)

 

 9月末には、公共交通機関利用者の約12%が気候同行カードを利用し、そのうち、短期券の利用者も1万人を超えたと報じられた。(『中央日報』2024年10月10日)

気候同行カードの入手

 気候同行カードは、ソウル観光プラザ観光情報センター(鍾路区清渓川路)、明洞観光情報センター、地下鉄1~8号線のアイセンター、地下鉄近くのコンビニエンスストアで購入できる(カード代3,000ウォン)。2025年9月からは、地下鉄駅の新型券売機でも購入可能になった。
 
 私の場合は、地下鉄5号線シンギル駅3番出口近くのアイセンターで3,000ウォンを払い購入した。ただし購入のためには改札を通らざるを得ず、iPhoneで1,550ウォンを支払ったので、実際には4,550ウォンで入手したことになってしまった😢。
 
 
 9月から地下鉄の駅で気候同行カードの購入ができる新型券売機は下のようなタイプのもの。
 [交通カード購入]→[気候カード]の順に選択すれば気候同行カードの購入が可能。その後、チャージのメニューで日数を選び、現金またはカードで支払ってチャージをする。WOWPASSでの支払いも可能。

 

 これで気候同行カードでソウルの公共交通機関を心置きなく利用できる。ただし使い終わっても3,000ウォンは返金されない。だから、リピーター以外は必ずしもお得とは限らない。

 

 

 

 

映画「大統領暗殺裁判」(1) 大統領殺害と朴興柱 から続く

裁判と弁護団

 朴正煕大統領暗殺事件の二日後、1979年10月28日、陸軍参謀総長・鄭昇和によって合同捜査本部長に任命された陸軍保安司令部司令官・全斗煥が、事件の捜査結果について記者発表を行った。

 

KBS映像実録(日本語版)より


 事件から40日後の同年12月4日午前10時、三角地にあった陸軍本部内の陸軍戒厳普通軍法会議の法廷で、8人の被告に対する裁判が始まった。

 

 

 被告8人のうち、金載圭キムジェギュの随行秘書官・朴興柱パクフンジュだけが現役の軍人(大佐)であった。しかし、非常戒厳令下にあることを理由に、全員が軍法会議で裁かれることとなった。

 

 この裁判では、主犯の金載圭の弁護人が21名、被告全体では31名の弁護士が弁護にあたった。その中心となったのが太倫基テユンギ弁護士である。1918年生まれの太倫基は、1942年に明治大学法科を卒業し、満州国高等文官資格考試に合格して満州に渡った。だが、翌年、西安で韓国光復クァンボク軍に入隊した。1945年の解放後に朝鮮に戻り、米軍政下で警備士官学校に入り、陸軍の法務官となった。1955年に大佐で現役を退いた後は弁護士を開業。1970〜80年代には、でっち上げられた在日韓国人スパイ事件の弁護などを積極的に引き受け、反独裁の弁護士として活躍した。この大統領暗殺事件の裁判の時は、すでに還暦を過ぎていたが、金載圭だけでなく、朴興柱の弁護を担当した。

 映画「大統領暗殺裁判」でチョ・ジョンソクが演じたチョン・インフ弁護士のモデルがこの太倫基だとされる。ただ、ウ・ヒョンが演じた弁護団団長イ・マンシクの方がむしろ年齢的には近い。俳優のウ・ヒョンは、映画「1987、ある闘いの真実」では、ソウル大生朴鍾哲を殺した治安本部の本部長役を演じた。だが、実際のウ・ヒョンは1987年当時、延世大学の学生運動のリーダーの一人で、李韓烈君追悼集会の際には太極旗を片手に黙祷していた。映画「1987」が封切られると、この写真がネット上でも話題になった。そのウ・ヒョンが、この「大統領暗殺裁判」では、弁護団団長のイ・マンシクを演じている。

 弁護団は第一回公判で、「10・26事件は非常戒厳令の宣布以前に発生した事件であり、戒厳普通軍法会議ではなく、通常の裁判所で審理されるべきである」とする裁定申請を提出した。しかし、大法院テボボン(最高裁判所)はこれを認めず、審理は軍法会議で続行された。民間人の被告には控訴・上告が可能な三審制が適用されたが、現役軍人であった朴興柱には控訴ができない一審制が適用された。

 

 朴興柱の弁護では、彼の誠実で家庭的な人柄、権力中枢に近い地位にいながらも質素な生活を送っていたことに焦点を当て、死刑を回避しようとした。彼は毎朝出勤前に子どもたちに一人ずつキスをし、事件前日には学芸会で王様の役を演じる娘のために自ら王冠を作ってやったという。暮らしていたのは、貧民街の一角にある11坪の小さな借家だった。

 

 しかし、弁護士による情状酌量を求める弁護方針に対して、朴自身は「答えたくない」と反発し、軍人としての矜持を示した。

 

太倫基弁護士とのやり取り

再開発前の杏堂洞
Songhak Maeulより転載(임충의撮影)

 

 こうした法廷内でのやり取りを受けて、韓国日報の記者・権周勳クォンジュフンが杏堂洞の朴興柱の自宅を突き止め、家族の写真を撮影した。このとき、長女の惠英ヘヨンは、父が作ってくれた王冠を片手に、妹の次女・惠恩ヘウンとともに「朴興柱、うちのお父さんを助けてください」と書かれた幕を掲げ、カメラの前に立った。惠英は当時小学5年生、惠恩は小学3年生であった。

 

判決と死刑執行

 公判開始から14日目の1979年12月18日、軍法会議は、内乱目的殺人および内乱首謀未遂罪で金載圭に、また内乱目的殺人および内乱幇助未遂罪で金桂元キムゲウォン朴善浩パクソンホ、朴興柱、李基柱イギジュ柳成玉ユソンオク金泰元キムテウォンに対し、いずれも死刑を求刑した。

 12月20日、被告7人に対し、求刑通りの死刑判決が言い渡された。

 

 この判決により、現役軍人であった朴興柱の死刑が確定した。朴以外の6人は直ちに控訴し、1980年1月の控訴審でも6人全員に死刑が宣告されたが、秘書室長の金桂元については、内乱に加担していなかったとして、戒厳司令部が無期懲役に減刑した。被告全員は大法院に上告した。
 

 朴興柱は、城南市ソンナムシ南漢ナマン山城近くにある陸軍刑務所に死刑囚として収監された。妻の金妙春キムミョチュンは、収監中に3回の面会を許された。2回目の面会には娘の惠英と惠恩を、3回目には生後10ヵ月の息子を連れて行った。

 朴興柱は、結婚10年目に授かったその息子を抱き、別れ際に妻の手にそっと何かを握らせた。金妙春は、それを差し入れの弁当箱の空き容器の中に隠し、刑務所を出てから開けてみると、そこには家族に宛てた手紙が入っていた。キムチの汁で滲んでいたが、なんとか読み取ることができた。

 その手紙には、こう綴られていた。

この世の如何なる言葉が、あなたの慰めになり得ましょうか。ただ、あなたがこの悲しみを強く乗り越え、愛する我が子のために毅然として耐えてくれることを願うばかりです。
親になるのはたやすいことでも、親としての務めを果たすのは本当に難しいものですね。私がその務めを全うできなくなってしまうとは…。
けれども、賢母のもとで立派な人が育ったことを思い起こせば、すべての重荷をあなたに託すことになってしまうとしても、一方で、子どもたちにとって幸いなことではないかとも思います。
子どもたちには、お父さんが当然なすべきことをしたのだということ、そして当時の状況もそのようなものだったということを、よく理解させ、劣等感に陥らぬよう誇りを持たせてあげてください。
これから生きていく家族のために、言いたいことをすべて伝えられなかったけれど、世の中は知るべきことを必ず知るようになるでしょう。
そして、この社会が死んでいないならば、私たち家族をそのままにはしておかないでしょう。精神的にも経済的にも支えてくれると信じています。
たとえそうでなかったとしても、毅然として堂々と生きていけばよいではありませんか…

 そして、娘たちに宛てて、こう記していた。

ヘヨン、ヘウンへ、
最後に大事なことを一つだけ言っておく。
選択をちゃんとするように。
私たちが生きていくうえで最も重要なのは、どう選択するかということではないだろうか。
自分の判断で選択したなら、その責任は選んだ人が否応なく負うことになる。後悔しないよう、計画性があり合理的な判断のもとに、着実で賢明な選択をするようにしなさい…

 

 1980年3月6日、京畿道キョンギド始興郡蘇莱面シフングンソレミョンの第33師団遊撃訓練場において、銃殺刑が執行された。一審判決からわずか75日後であり、内乱首謀の金載圭の上告審が進行中であるにもかかわらず、幇助にとどまる朴興柱の死刑が先行して執行された。

 遺体は遺族に引き取られ、家族・親族、ソウル高校の同窓生らによって、京畿道抱川市ポチョンシ蘇屹邑ソフルウップ二東橋里イドンギョリ東信トンシン教会墓地に埋葬された。

 

 5月20日、大法院全員合議体は、金載圭らの上告を棄却し、金桂元を除く5人の死刑が確定した。金載圭、朴善浩、李基柱、柳成玉、金泰元の5人は、5月24日、西大門刑務所で絞首刑に処された。

 このとき、全羅南道チョルラナムド光州クァンジュでは、戒厳軍が民主化を求める学生や市民に発砲するという、流血の惨事が起きていた。報道規制が敷かれるなか、新聞各紙は23日、光州での事態を大きく伝えたものの、軍による市民への発砲や虐殺については報じることができなかった。そして翌24日、金載圭ら5人の死刑執行は、新聞の一面トップで大きく取り上げられた。



再審請求

 1987年に「民主化宣言」がなされ、2000年1月には「民主化補償法」が制定された。この法律は、軍事独裁政権時代に緊急措置や戒厳令などによって不当に逮捕・拘束された被害者を救済する道を開くものであった。金載圭やその部下たちの遺族も、そうした時代の流れのなかで名誉回復を模索したことがあった。

 現役軍人以外の死刑囚については、死刑執行から3年が経過した時点で、通常の半額程度ではあるが、公務員年金法に従って遺族に年金が支給された。しかし、現役軍人であった朴興柱の遺族には、年金の支給は一切なされなかった。現行法では、現役軍人が禁錮以上の刑を受けた場合、年金の支給資格を失うためである。そのため、2000年には、陸士18期の同期生たちを中心に、朴興柱大佐の名誉回復と、年金支給・国立墓地への改葬を求める会が結成された。妻の金妙春も、国防部長官宛に国立墓地への埋葬を求める嘆願書を提出したことがある。しかし現在に至るまで、朴興柱は「内乱幇助者」という烙印を背負ったままである。

 

 2020年、中央日報系列のテレビ局JTBCは、10・26事件の一審・二審裁判において法廷で録音されたカセットテープ53本(総計128時間分)をはじめ、裁判記録や捜査記録を入手した。これらは、本来裁判終了後に廃棄されるはずだったが、陸軍本部の関係者が密かに保管していたものである。その中には、これまで未公開だった現場検証の写真や映像、およそ200枚も含まれていた。

 JTBCは、これらの資料を精密にデジタル復元・整理した上で、2020年5月21日放送の報道番組「イ・ギュヨンのスポットライト」で音声の一部を初公開した。番組では、法廷での金載圭や関係者の肉声が40年ぶりに明らかにされ、その証言内容や法廷の雰囲気が生々しく伝えられた。放送後、韓国社会では再び10・26事件と金載圭の動機・責任に対する関心が高まり、専門家や市民の間で事件の再評価を求める声も広がった。

 

 

 そして、2020年5月26日、金載圭の遺族と再審弁護団は、保安司令部がメモを使って裁判に介入した事実などが録音テープにより明らかになったとして、ソウル高等裁判所に再審を請求した。

 


 

 2024年4月から7月にかけて、3回の審問が行われた後、2025年2月、ソウル高等裁判所は金載圭に対する再審開始を決定した。戒厳司令部の捜査において、殴打や電気拷問などの暴行・過酷な行為が存在したと認定され、「内乱」に関する自白の任意性に疑義があると判断されたのである。

 奇しくも、2024年12月3日に尹錫悦ユンソギョル大統領が発した非常戒厳令が「内乱」に該当するとして弾劾され、大統領罷免の審判が進行するなかで、もう一つの「内乱」に関する司法判断が下されたことになる。検察は大法院に即時抗告したが、大法院は2025年5月13日にこれを棄却し、再審開始が確定した。

 7月16日、金載圭に対する再審初公判がソウル高等裁判所で開かれた。この日の法廷には、金載圭の妹・金貞淑キムジョンスクが出廷し、意見陳述を行った。金載圭側の弁護団は、朴正煕大統領の死を受けて発令された非常戒厳令は違憲・違法であり、当時の保安司令部には金載圭を逮捕・捜査する権限がなかったと主張した。

 

 

 次回の再審公判は、9月5日に予定されている。

 

 再審請求は被告個人に対してなされるものであり、金載圭の再審の結果がそのまま他の被告の裁判結果に影響を及ぼすわけではない。しかし、金載圭に適用された内乱目的殺人および内乱首謀未遂に関する「内乱」の法的判断は、内乱目的殺人および内乱幇助未遂で死刑となった5人の法的評価だけでなく、歴史的な再検証にも直結する。

 朴興柱の妻・金妙春が長年望んできた名誉回復や年金支給、そして朴興柱自身が生前から願っていた国立墓地への改葬も、ようやく現実の可能性として見えてきたのである。