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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

大統領殺害事件

 「安家アンガ」とは、韓国の国家機関が機密保持のために一般人の立ち入りを禁じて設置した施設である。現在はムグンファ公園となっているソウル・宮井洞クンジョンドンにあった安家は、中央情報部(KCIA)の管轄下にあった。

 

 本館にはKCIA部長の執務室があり、少し離れた奥にある 棟が宴会場として使用されていた。

 

JTBCの画面キャプチャーに加筆

 

 

 

 1979年10月26日午後6時5分、朴正煕パクチョンヒ大統領と大統領警護室長・車智澈チャジチョルが宮井洞の安家に到着。大統領秘書室長・金桂元キムゲウォン、KCIA部長・金載圭キムジェギュ、さらにKCIA儀典課長・朴善浩パクソンホが連れてきた歌手・沈守峰シムスボンと女優・申才順シンジェスンを加えた6人が宴席に揃った。宴会が始まると、金載圭は何度か席を外して나棟を出入りした。 この時に、朴善浩と随行秘書・朴興柱パクフンジュに、大統領銃撃の決意を伝え、大統領警護官の動きを封じるよう命じた。

 

JTBCの画面キャプチャーに加筆

 

 午後7時40分過ぎ、金載圭は32口径ワルサーPPKで車智澈を撃ち、続いて朴正煕大統領を撃った。ところが、2発発射したところでワルサーが弾詰まりを起こし、別の銃を探すために宴会の部屋を出た。この隙に、金桂元は部屋から脱出した。

 

 金載圭の銃声を合図に、青瓦台警護官の控室にいた朴善浩が2人の警護官を撃った。朴興柱は、KCIA警備官の李基柱イギジュ柳成玉ユソンオクとともに行動を起こし、食堂にいた青瓦台警護官や大統領車運転手に向けて窓から銃弾を撃ち込んだ。この銃撃により、大統領のいた部屋の外でも、4人が死亡、3人が重傷を負った。

 

 金載圭は、部屋を出たところで、警護官を銃撃した朴善浩から38口径リボルバーを受け取ると、再び部屋に戻って車智澈に再度発砲。続いて、倒れていた朴大統領の頭部にとどめの銃弾を撃ち込んだ。

 

 このとき、本館の執務室には、金載圭に呼び出された陸軍参謀総長・鄭昇和チョンスンファが来ており、KCIA第2次官補・金正燮キムジョンソプと共に食事をしながら、金載圭の戻りを待っていた。そこへ、나棟 からワイシャツ姿で靴も履かずに金載圭が駆け込んできた。金載圭はそのままKCIA部長専用車(トヨタ・クラウン ロイヤルサルーン)の後部座席に鄭昇和と金正燮を乗せ、宮井洞の安家を離れた。運転手は柳錫文ユソンムン、助手席には朴興柱が座っていた。車中で金載圭は、「大統領が銃撃された」とだけ伝えた。

 

 車は一度KCIA南山ナムサン庁舎に向かいかけたが、陸軍本部(陸本ユッポン)へ行くべきだという鄭昇和の意見に朴興柱も同調し、行き先を三角地サムガクチに変更した。当時、陸軍本部は現在の戦争記念館の場所に位置していた。陸本の地下バンカーに軍の首脳陣が集まった。

 

 一方、金桂元は安家に残っていた警備員に命じて、撃たれた朴正煕を国軍病院(現在の国立現代美術館ソウル館)へ搬送、救命措置を試みたが、すでに死亡していた。金桂元は金載圭が発砲した現場を目撃していたが、金載圭が鄭昇和を抱き込んでクーデターを起こした可能性もあると考え、すぐには発砲の事実を明言せず、状況を見極めようとした。

 

 朴大統領の遺体を青瓦台チョンワデの官邸に安置した後、三角地の陸軍本部に向かった金桂元は、金載圭が軍を全く掌握できていないことに気付いた。ここで初めて、宮井洞安家で大統領を撃ったのは金載圭だった事実を鄭昇和らに伝えた。これにより金載圭の逮捕が命じられ、日付が変わった0時過ぎに憲兵監・金晋基キムシンギが金載圭を拘束し、陸軍保安司令部に引き渡した。

 

 その間、外にいた朴興柱は、陸軍本部内の動きを把握できず、国防部の駐車場に停めた車内で待機していた。午前2時過ぎ、銃器や無線機などを国防部の職員によって回収されたが、金載圭がどうなったかは伝えられなかった。朴興柱は国防部を離れることにした。それを誰も制止しなかった。柳錫文が運転する部長車でKCIA南山庁舎に戻ると、保安司令官・全斗煥チョンドゥファンから「陸本へ出頭せよ」との命令が出ていると知らされた。だがこれを無視し、漢南洞ハンナムドンの住宅街の路上に車を停めて成り行きを見極めようとした。

 

 明け方4時半、朴興柱は杏堂洞ヘンダンドンの自宅に立ち寄った。舞鶴ムハック女子高校裏手の坂の上にある自宅は、車が入れない路地の先にあった。柳錫文に下の道で車を停めさせ、自宅前まで歩いて行き、妻を外に呼び出して「今日は帰れない」とだけ伝えた。その後、KCIAのもう一つの拠点である里門洞イムンドン庁舎(現・韓国芸術総合学校伝統芸術院)に向かい、次長補の部屋にいたところを保安司令部の捜査官により逮捕された。

朴興柱の生い立ち

 朴興柱は1939年11月15日、平安南道ピョンアンナムド平原郡ピョンウォンングンで生まれ、5歳まで平壌ピョンヤンで過ごした。生活苦から一家は1944年に京城に転居し、そこで解放を迎えた。朝鮮戦争の休戦翌年、ソウル高校に進学。ソウル高校は、日本統治時代の京城中学の校地・校舎(現・慶煕宮キョンヒグンおよびソウル歴史博物館の位置)を引き継ぐ名門校だった。

 

 成績は優秀で、ソウル大学(当時は旧京城帝国大学の跡地・東崇洞トンスンドンにあった)への進学も可能だったが、家計の困難から学費不要かつ生活費支給のある陸軍士官学校(孔陵洞コンヌンドンに所在)への進学を選んだ。当時、貧しい家庭の学生が中等教育の上を目指すには、師範学校か軍の士官学校に進むしかなかった。

 

 1958年、陸士ユクサ18期生として入学。在学中の1960年には4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が崩壊し、翌1961年5月には朴正煕による5・16クーデターが起き、軍事政権が誕生した。朴興柱は1962年に卒業し、砲兵少尉として任官した。

 

 金載圭は1946年、国防警備士官学校(後の陸士)に入学した。ここで満洲国軍から朝鮮に戻った朴正煕と同期となるが、年齢では朴が9歳年上だった。ちなみに、全斗煥は1950年入学の陸士11期。全斗煥は、5・16クーデターで士官学校の生徒を動員してクーデター支持の街頭行進を行い、朴正煕の決起に正当性があるかの如くアピールするのに一役買った。車智澈は、陸士11期の入試を受けたが不合格。非陸士出身の甲種将校となり、朴正煕のクーデターに呼応して金浦キムポで蜂起してソウルへ進軍、第一漢江橋ハンガンギョ(漢江大橋ハンガンテギョ)で阻止戦を引いた憲兵隊を強行突破して、決起軍のソウルへの進路を確保した。

 当時国防部の総務課長だった金載圭は、朴正煕のクーデターに直接関わっていない。映画「南山の部長たち」では、漢江の橋で金載圭が「閣下、行きましょう」と言ったことになっているが、これは車智澈と金載圭とを逆転させたこの映画の創作である。

 その後、金載圭は1964年に第6師団の師団長に任命されたが、この時自分の副官に抜擢したのが朴興柱だった。これが朴興柱と金載圭の縁の始まりだった。第6師団は、1964年の日韓会談反対運動を鎮圧するための戒厳令の時の戒厳軍の主力部隊だった。

 

 1968年、金載圭は保安司令官となり、1973年に軍を退役後、中央情報部次長に就任した。同年の総選挙で国会議員となり、1974年9月には建設部長官に就任して、中東への建設労働者派遣を通じて外貨獲得に貢献した。1976年12月には中央情報部長に任命され、このとき陸軍本部所属だった朴興柱中佐を随行秘書として呼び寄せた。その後、朴興柱は大佐に昇進した。

1979年10月26日朝、朴興柱は杏堂洞の自宅から南山のKCIA庁舎に出勤。昼休みに時間ができたため、光化門クァンファムン交差点近くのエスカイア靴店で新しい靴を購入した。そしてその夜、大統領暗殺事件が発生した。

 

映画「大統領暗殺裁判」(2) 裁判と処刑・その後 へ続く

 iPhoneで韓国の交通カードT-Moneyが使えるようになりました。
 韓国の銀行口座や韓国のクレジットカードがない旅行者でも、韓国現地の地下鉄のチャージ機を使えば、手持ちのT-Moneyカードと同じようにiPhoneへチャージできます。

 

手順は以下の通り

日本にいる間にできること


(1) T-MoneyのアプリをiPhoneに入れる

このあたり↓は無視

 

(2) ウォレットにT-Moneyカードを追加する

 

韓国現地でチャージをする

(3)  iPhoneの[設定] → [ウォレットとApple Pay]

T-Moneyを開いて[ヘルプモードをオンにする]でオン

カードを置くする場所にiPhoneを突っ込んでチャージ

 

[追記]

新型のチャージ機で追加チャージをやってみたら、ヘルプモードをオンにせず、そのままポンと置いただけで現金でチャージができた。

ひょっとして…と思って旧型のでもやってみたらすんなりチャージができた。

うまくいかない時には「ヘルプモードをオン」でやると良いのかもしれない。

チャージのクセをつけてやるとできるのかもしれないし、「できるに決まっている」と堅い信念を持ってiPhoneを機械に載せるとできるのかもしれない😀(冗談半分、本機半分)

[追記2]

チャージ機のファームウェアのアップデートが逐次行われているらしい。

アップデートが完了したものはそのままiPhoneにチャージができ、まだ完了していない場合は「ヘルプモードをオン」でやるとできる…ということではないだろうか(推測)

 

[エクスプレスカード]でT-Moneyをオン

※オフだと、改札を通過する時に「サイドボタンをダブルクリック」という表示が出てしまう

 

 

 

 

 

 

 

 1924年7月30日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事では、「西洋人村」を貞洞チョンドンの名物として挙げている。

貞洞 西洋人村
東亜日報|1924年7月30日
西洋人が我が国にやって来たのは、もうずいぶん昔のことです。最初に来たのは、ローマ・カトリックの宣教師たちで、彼らが布教のために入ってきたのが始まりだと言われています。宣教師は中国から密かに朝鮮に入り、こっそりと布教していましたが、大院君の時代になると、厳しい取り締まりを受けました。
それから間もなくして時代が変わり、「隠者の国」という別名で呼ばれた我が国も、外国と通商条約を結ぶようになり、西洋人が国内を自由に歩き回ることができるようになりました。
当時の朝鮮では『瀛環志略えいかんしりゃく』や『坤輿全図こんよぜんず』といった書物を目にした者はごくわずかで、西洋人に関しては奇妙な噂話ばかりが飛び交っていました。
例えば、洋人のことを「ヤンデイン(洋大人)」などと呼び、「英国野郎には尻尾がある」とか、「鮭が人間になった」とか、様々な珍説が広まっていたようです。
とにかく変な話が多くて、今でも思い出すとキリがないので、このあたりでやめておきます。
さて、西洋人が多く住んでいる場所といえば、ソウルの中ではやはり貞洞です。貞洞の通りを歩いていると、ガラス窓の開いた家からピアノの音が流れてきたり、庭の木々の間に絹のドレスの裾がひらひらと揺れていたりします。それを目にすると、誰もが「なるほど、ここはまさしく西洋人の村だなあ」と感じることでしょう。

◆西欧との接触

 カトリックのフランス人宣教師が鴨緑江を越えて朝鮮に入ったのは1836年とされる。その頃から、朝鮮の中にも西欧への関心を持つ人士が徐々に現れ始めた。
 この記事に挙げられている『瀛環志略えいかんしりゃく』は、清の徐繼畬じょけいよが1848年頃に世界の概要をまとめた地理書であり、1850年代に北京に行った朝鮮の通詞が入手して持ち帰ったとされる。

 もう一冊の『坤輿全図こんよぜんず』は、1674年にイエズス会のフェルビーストによって北京で刊行された両半球世界地図である。これも19世紀になってなお重宝され、1860年には朝鮮で再刊行された。

 1866年3月、「衛正斥邪ウィジョンチョクサ」を掲げた興宣大院君フンソンテウォングンがカトリック教徒を弾圧し、多数の宣教師や神父、信者が虐殺された。これが丙寅邪獄ピョンインサオクと呼ばれる。「衛正斥邪」とは、「正しきをまもり邪(キリスト教など西欧文明)をしりぞける」を意味する。

 西欧に関心を持つ人々(実学シラック派)にも弾圧の手は及んだが、それでも1850年代から60年代にかけて育まれた「開化思想」は、次第に欧米や日本との新たな関係を模索する方向へと進み始めていた。

◆欧米への開国

 この1860〜70年代の段階では、まだ貞洞に欧米人の姿はなかった。貞洞に欧米の人々が集まるようになるのは、1883年に朝米修好通商条約の批准書が交換され、初代公使ルシウス・フート(Lucius Harwood Foote)が着任して以後のことである。

 朝鮮が日本と日朝修好条規を結んだのは1876年のことだった。日本はこれを国際法的な二国間関係の樹立とみなしたが、朝鮮側は「礼」に基づく華夷的な交隣関係の条文化とみなした。その後、清の李鴻章の助言と仲介もあり、朝鮮は、アメリカ・イギリス・ドイツとの修好通商条約締結に踏み切る。清は、日本や欧米諸国を互いに牽制させることで、朝鮮における自国の優越的地位を確保しようとしていた。朝米条約は1882年5月に天津で調印され、イギリスとドイツもそれに続いて漢城ハンソンで条約に調印した。

 ところが、同年7月、興宣大院君が扇動した「壬午イモ軍乱」が起き、日本や欧米との関係構築は暗礁に乗り上げた。しかし、清が介入して興宣大院君を清の保定府に軟禁すると、再び欧米との関係構築が再開される。朝鮮政府は、それまでの華夷的な対外関係を司った礼部とは別に、国際法に則った外交を扱う外衙門ウェアムン(のちの統理交渉通商事務衙門)を設置し、同年12月にはドイツ出身の外交官メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff)を顧問に招聘した。

 メレンドルフは、「壬午軍乱」の時に殺害された閔謙鎬ミンギョンホの邸宅を下賜されて住居とした。現在の曹溪寺チョゲサ寿松スソン公園一帯を占める大邸宅だった。

1883年12月末から1884年3月中旬まで朝鮮に滞在したパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が撮影したメレンドルフの住居

◆アメリカ

 1883年5月、初代アメリカ公使のフートが漢城に着任し、メレンドルフの邸宅を臨時のアメリカ公使館とした。尹致昊ユンチホが英語通訳を務めた。尹致昊は、1881年に紳士遊覧団の魚允中オユンジュンに随行して日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人として英語と日本語を習得した人物である。

 フートは、尹致昊の仲介で朝鮮宮廷と交渉し、閔啓鎬ミンゲホ閔泳敎ミンヨンギョの邸宅を購入してアメリカ公使館とした。現在の徳寿宮トクスグン西側、アメリカ大使公邸の場所にあたる。

 これが、欧米の人々が貞洞に集まるようになる始まりであった。

最新京城全図 1907
この地図では、1905年に大韓帝国が日本の「保護国」とされたため、主権を代表する「公使館」ではなく、自国民の保護業務などの領事業務を行なう「領事館」表記になっている。位置は変わっていない。

◆イギリス

 続いて、イギリスが貞洞に公使館を設置した。1884年4月に朝英修好通商条約の批准書を交換し、貞洞内で公館の敷地を探し、翌5月に申櫶シンホンの邸宅を購入した。現在のイギリス大使館(徳寿宮の北側に隣接)にあたる。

 1890年には韓屋を撤去し、洋式建物に建て替えた。この建物は現在もイギリス大使館敷地内に残されている。

◆ロシア

 ロシアは1884年に朝鮮と外交関係を樹立し、イギリスへの対抗意識から大急ぎで公使館の建設を計画した。貞洞の高台にあった徳寿宮の庭園を購入して建設に着手したが、資金難などで中断。1888年にウクライナ人建築士サバチン(Афанасій Іванович Середін Сабатін)を雇用し、新たに設計・施工を進め、1890年に竣工した。

 サバチンは、1895年の日本人による閔妃ミンビ(のちに明成ミョンソン皇后を追贈)殺害を景福宮で目撃し、本国ロシアにも報告している。また、1896年に朝鮮国王が日本の圧力を避けてロシア公使館に移御した「俄館播遷アグァンパチョン」も、この公使館が舞台だった。日露戦争中は一時閉鎖されたが、ポーツマス条約締結後に領事館として再開された。

◆フランス

 フランスは、1886年6月に朝仏修好通商条約に調印し、1888月に観水洞クァンスドンに公使館を置いたが、翌1889年10月には貞洞に移転した。現在、昌徳チャンドク女子中学校になっている場所である。1896年にはここに西洋式建物を建てた。


 その後、1910年にフランス領事館は蛤洞ハドン中林洞チュンニムドン薬峴ヤッキョン聖堂近く)へ移転した。これはもともと閔泳煥ミニョンファンの邸宅であり、現在もそこにフランス大使館がある。旧フランス公使館だった貞洞の建物は1914年に西大門小学校となり、1930年代まで残っていたが、その後取り壊された。

◆ソンタク・ホテル

 このフランス公使館の南側には、1897年8月までアメリカ人宣教師ダニエル・ギフォード(Daniel Lyman Gifford)が居住していた。その住居を、ロシア公使夫人と共に大韓帝国に滞在していたドイツ人女性、マリー・アントワネット・ソンタク(Marie Antoinette Sontag)が買い取った。ソンタク邸は、ソウル在住の欧米人の社交場となり、1902年10月に洋館へと建て替えられてプライベート・ホテルとして開業した。これが「ソンタク・ホテル」である。

 マリー・アントワネット・ソンタクは1909年にホテルを売却し、9月に韓国を離れた。ソンタク・ホテルは1917年に営業を終了し、隣接する梨花学堂イファハッタンに売却された。1922年までは女子寮として使われたが、その後取り壊された。現在は、梨花女子高校構内の百周年記念館前にプレートが置かれている。

◆1924年の貞洞

 1924年7月に『東亜日報』の「洞・町内の名物」が貞洞を取り上げた時には、ソンタク・ホテルの建物はすでに存在しておらず、フランス領事館も竹添町(現・忠正路チュンジョンノ)方面に移転していた。ロシア領事館は、1917年のロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、1920年頃までに領事館としての役割を果たせなくなっていた。1922年にソビエト連邦が建国されたが、すぐには日本との間に外交関係が樹立されなかったため、1924年には在外公館として機能していなかった。

 とはいえ、アメリカとイギリスの領事館が存在し、その館員や欧米宣教師、ヘンリー・モリス(James Henry Morris)のモリス商会などがこの地に集まっていた。1920年代半ばでも、貞洞はソウルの「西洋人村」であった。

  『京城彙報』1926年2月号によれば、1925年10月現在、京城府貞洞の日本人・朝鮮人・中国人を除く外国人人口は、以下の通りである。

 世帯数 51

 男性 42

 女性 50

 

 貞洞には、総督府の土木部、鉄道部、法務局、土地調査局、専売局のほか、高等法院や中枢院もあり、官庁街を形成していた。ところが、『東亜日報』の「洞・町内の名物」連載が始まる6月の直前、4月28日午後10時半に、貞洞官庁街に隣接する朝鮮印刷工場から出火し、高等法院と中枢院を除く各官庁が焼失した。

 この記事が書かれた当時、貞洞の一角は焼け野原となっていたが、そのことには本文では触れられていない。ただし、読者は「このあいだは火事で大変だったな」と思いながらこの記事を読んだに違いない。

 


 大韓民国建国後、アメリカ・イギリス・ソ連、そして蛤洞のフランス公館がそれぞれ大使館・大使公邸として使用された。アメリカは、貞洞の旧領事館を大使公邸とし、大使館は旧三井物産ビルに置いた。その後、駐韓アメリカ経済協助処(USOM)だった現在の世宗路のビルに移転した。

 ソ連大使館は朝鮮戦争勃発により閉鎖され、戦中の爆撃で塔部分を除いて建物が焼失した。

 1990年、盧泰愚ノテウ・ゴルバチョフ会談で国交樹立に合意し、ソウルに再びロシア大使館が設置された。ただし、旧ロシア公使館の敷地は一部が売却され、塔のみが残された状態であった。ロシア大使館は当初、漢南洞ハンナムドンのビルに入居し、その後、韓国政府の仲介により、倍材ベジェ中学・高校の移転跡地を購入して現在の大使館が建てられた。

 現在の貞洞は、外国機関こそ点在しているものの、もはや「西洋人村」ではない。しかし、その全域が韓国の西欧化の足跡を今に伝える歴史遺産となっている。