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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。



『京城とソウル: 東亜日報 わが街の名物』一松書院

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 2月15日に発売した拙著『京城とソウル――東亜日報「我が街の名物」』は、これまで本ブログに連載してきた内容を全面的に再構成し、一冊にまとめたものです。電子版(Kindle)とペーパーバックの両方で刊行しました。

 

 本書の素材となっているのは、1924年6月25日から8月15日まで『東亜日報』に連載された「一百洞町一百名物 我が街の名物」という企画です。京城の洞や町を一つずつ取り上げ、その土地の「名物」を写真入りで紹介する、いわば読者参加型の都市案内でした。表向きは納涼企画、懸賞付きの軽妙な読み物です。しかし、その紙面を丁寧に読んでいくと、当時の京城社会の構造、植民地支配の現実、人びとの感情までもが、行間から立ち上がってきます。

 

 たとえば第1回の「鍾路チョンノ 鍾閣」。普信閣ポシンガクの鐘を「名物」として紹介しながら、3・1運動の際に乱打された事実や、「自由の鐘」になぞらえた記述に、にじませた抵抗の気配を読み取ることができます。単なる観光案内ではありません。歴史の記憶が、静かに、しかし確かに刻まれています。

 

 また「松峴洞ソンヒョンドン 殖銀村」では、朝鮮殖産銀行が造成した近代住宅地を取り上げ、「これを見れば朝鮮人の京城における没落が分かる」とまで書きます。住宅そのものよりも、その背後にある資本の力、土地の収奪、そして都市空間の再編が問題にされているのです。現在は「開かれた松峴緑地広場」となっているその場所も、かつては植民地期の権力と資本の象徴でした。過去を知ることで、いま見ている風景の奥行きが変わります。

 

 さらに「通義洞トンウィドン 東拓舍宅」では、東洋拓殖会社の社員住宅を「名物」としながら、小作人と土地の問題を痛烈に批判しています。新聞というメディアの制約の中で、どこまで書けるか。そのぎりぎりの表現が、かえって当時の空気を生々しく伝えてくれます。

 

 本書では、こうした記事を単に翻訳・紹介するのではなく、その歴史的背景をできる限り掘り下げました。朝鮮王朝期の制度、開化期の政治的変動、植民地統治の法制度、日本人と朝鮮人の法的区分、都市計画や交通網の変化……。ときには本文よりも背景説明のほうが長くなった箇所もあります。しかし、それは1924年の紙面を、表面だけでなく裏側まで読み解きたいという思いからです。

 

 この連載は京城北部に集中していました。そこから浮かび上がるのは、「朝鮮の人びとの街」がどのように変貌していったか、そして誰のための都市だったのか、という問いです。名物という軽やかな形式の下に、都市の階層構造がくっきりと描かれているのです。

 

 ブログでは一つずつ紹介してきましたが、書籍化にあたり全体の流れを意識して再配置し、地図や写真資料も整理しました。京城電気の沿線案内や当時の市街図と照らし合わせることで、読者の方が頭の中で1924年の京城を歩けるように構成しています。

 

 近現代の朝鮮・韓国を考えるとき、どうしても大きな事件や政治の動きに目が向きがちです。しかし、街角の「名物」を手がかりにしてみると、歴史はぐっと身近になります。鐘の音、住宅地の塀、煙草工場の煙、ソルロンタンの匂い。そうした具体的な風景の中に、時代の力学が凝縮されています。

 

 電子版はすぐにお読みいただけますし、紙のペーパーバックは資料として手元に置くのにも適しています。連載を追いかけてくださった方にも、新たな発見があるはずです。百年前の京城を、もう一度歩いてみませんか。

 

 

 なお、昨年11月には『続 韓国社会を掘る』も刊行しています。

 こちらも本ブログで積み重ねてきた記事を再整理し、テーマごとに再構成した一冊です。現代韓国社会の問題や歴史認識を、資料と具体例に基づいて掘り下げています。本書とあわせてお読みいただければ、1924年から現在へと続く時間の流れが、より立体的に見えてくるはずです。

 

 1924年7月29日付『東亜日報』の「洞内・町内の名物」で、玉仁洞オギンドンの名物として取り上げられたのは松石園ソンソグォンである。

 

◇善い人ばかりが人物でしょうか、悪い人もまた人物です。忠臣孝子だけが名を残すのでしょうか、乱臣賊子もまた名を残します。名目さえあれば名物なんです。北部衛生所は糞の臭いで名物、新門外の天然池はかぐわしい蓮の香りで名物。頼み事など持ち込まれっこない尹子爵の松石園とて、名物でないはずがありません。

◇ドイツ式建築を模し、ありとあらゆる贅を尽くしたこの家は、宮殿すら及ばぬほどだと言います。しかし、この家を見ると幼い子どもでさえ悪魔が巣食っているかのように不気味に感じ、立派な家だと羨む気持ちにはならないのです。とりわけ、あの尖った屋根の形がどれほど忌々しく見えたことか。屋根の上の避雷針を見るだけでも、ありとあらゆる陰険な企みがそこから湧き出してきそうに思われるほどです。この家の庭の池がある年の長雨で決壊し、町内の草葺き家屋が水浸しになったことがありました。その損害は、邸宅側で弁償したそうで、それほどまでにご親切なんだということのようです。

◇会洞には「具善福の橋」という橋があり、桂洞へ上がる西側の路地は「洪述海の谷」と呼ばれています。門の前の橋や、そこで暮らす路地の人々に何かお咎めがあるわけではありません。この家も、「松石園」などとは呼んだりせずに、「尹子爵の邸宅」と呼ぶべきではないですか。青い松も白い石も、さぞかし無念に思っていることでしょう。

■「尹子爵」とは誰か

 この記事にある「ユン子爵」とは、尹徳栄ユンドギョンのことを指している。6月29日付の松峴洞ソンヒョンドンの名物・殖銀村の記事には、尹沢栄ユンテギョンの兄として「でか頭将軍(대갈장군)と呼ばれている尹徳栄」と登場している。後頭部が出っ張っていたことから来たあだ名とも言われるが、韓国併合によって甘い汁を吸った横柄な欲張りという意味合いを込めた揶揄でもあったとされる。

 

 

 

 祖父の尹容善ユンヨンソンは朝鮮王朝から大韓帝国にかけての重鎮で、養子の尹徹求ユンチョルグが早世したため、孫の尹徳栄・尹沢栄兄弟を皇室に積極的に売り込んだ。その結果、尹沢栄の娘が高宗コジョン皇帝の息子と結婚し、皇太子妃となった。皇帝(純宗スンジョン)即位後の純貞孝スンジョンヒョ皇后である。

 この縁戚関係を背景に、兄の尹徳栄も次第に権勢を強めていった。尹沢栄の屋敷があった松峴洞の西側、現在の司諫洞サガンドン97番地に大邸宅を構えた。景福宮キョンボックン東側の一等地である。

 

■巨大邸宅の造営と「碧樹ピョクス山荘」

 尹徳栄は、日本による韓国併合の過程で、宮廷内部において皇族やその周辺に日本への迎合を働きかけた。その見返りとして、日本から子爵の爵位と公債証券46万ウォンの恩賜金を受け取っている。現在の貨幣価値に換算すると、200億ウォンを超えるとも言われる。

 

 尹徳栄は、この恩賜金をもとに、朝鮮王朝時代から「松石園」と呼ばれていた玉仁洞山側の土地を買い集めた。韓国を日本に売り渡した元凶とされる李完用イワニョンも玉仁洞に土地を所有していたが、その所有地の広さは尹徳栄が李完用を凌いでいた。

 

최종현,김창희編『오래된 서울(古きソウル)』(2013)より

 

 ここに建てられたのが、ヨーロッパ貴族の居城を思わせる大規模な洋館である。『東亜日報』の記事ではドイツ式建築とされているが、フランス領事館から持ち出されたフランス貴族の邸宅の設計図をもとに建てられたとも言われている。

 

 1913年に着工し、1917年頃に主要部分が完成したが、細部の仕上げ工事は1935年まで続いた。1924年当時、この洋館は迎賓館や宴会場として使用されていたが、尹徳栄自身はここを居宅とはせず、敷地東側に建てた韓屋に住んでいた。敷地内には側室のための韓屋なども建てられていたという。

 

 この記事では、「具善福グソンボク橋」とか「洪述海ホンスレ谷」とかの例を揚げて、ここも「尹子爵邸」とでも呼べばいいではないか…と皮肉って書かれている。具善福、洪述海はいずれも朝鮮王朝後期の両班で、その名が地名で使われていたということらしい。

 

 この時期には、この尹徳栄の所有地一帯が「松石園」とも「碧樹山荘」とも呼ばれ、洋館の呼称は定まっていなかったようだ。やがて、「碧樹山荘」は、もっとも目立つこの洋館の呼称のように使われるようにもなる。 

 

1929年頃『오래된 서울』(2013)より)

■水害・宗教施設・そして解放へ

 邸内には池があり、舟遊びまで行われていたという。しかし、大雨の際には裏手の仁旺山イヌァンサンからの渓流が増水し、この池が決壊することがあった。1920年8月5日付の『朝鮮日報』には、次のような投書が掲載されている。

世間では水害に遭った人々を救済していると言われているのに、玉仁洞にお住まいの尹大監どのは、自宅の前に大きな穴を掘ったままにしておき、雨が降るたびに決壊しそうになって、その下に住む住民の家を危険にさらしている。今回もまたその穴が崩れ落ち、下にあった家四十余戸が倒壊した。けが人まで出たというのに、まったく知らぬ顔で平然としている。こんなことがあってよいのだろうか。(隣居生)

 近隣住民の強い反発もあり、『東亜日報』の記事にあるように、最終的には水害被害を補償せざるを得なくなったのだろう。

 

 1935年、洋館の全工事が完了すると、この豪奢な建物は「世界紅卍字会ホンマンジャフェ」朝鮮支部の道院として使用されるようになった。宗教的修行の場であると同時に、慈善活動の拠点でもあった。尹徳栄は同会朝鮮支部の長「主会統長チュフェトンジャン」を務めている。「紅卍字会」は中国発祥の道教系新興宗教だが、宗教の違いを超えた救済を理念に掲げ、当時盛んに慈善活動を行っていた団体である。

 

『大京城府大観』(1936)

■解放後の変転と消滅

 尹徳栄は1940年10月に死去した。遺産を相続した養孫の尹康老ユンガンノは、1945年8月、日本敗戦直前に三井鉱山株式会社へこの土地を売却したとされる。具体的な契約資料は確認されていないが、もともと、碧樹山荘の南側、棲上洞ヌサンドンには三井物産京城支店長の社宅があったりして、何らかのつながりがあった可能性は考えられる。

 

 朝鮮戦争中、ソウルが北朝鮮人民軍の占領下に置かれた際には、この洋館は朝鮮民主主義人民共和国庁舎として使用された。その後、国連軍・韓国軍によるソウル奪還後は、アメリカ軍将校宿舎、さらに国連韓国統一復興委員団(UNCURK)の本部として利用されていた。

 1950年代後半に、写真家の金漢鏞キムハニョンが仁旺山から撮影した写真に、この頃の碧樹山荘が写っている。



 

 また、1956年11月に公開された映画『ソウルの休日(서울의 휴일)』にも、この洋館が登場する。朝鮮戦争後のソウル市民の生活を群像劇として描いたこの映画では、女性産婦人科医師の病院の裏手に碧樹山荘が映り込み、遠景には旧朝鮮総督府の建物も確認できる。

 

서울의 휴일(1956) 

 

 しかし1966年4月、改修工事中に火災が発生し、建物は大きな損傷を受けた。最終的に1973年、洋館は完全に解体・撤去された。


 現在、鍾路区チョンノグ玉仁洞47-27および47-33の住宅街には、当時の石造門柱の一部が残されている。また、鍾路区立朴魯寿パンノス美術館として使われている玉仁洞168-1の二階建て家屋は、1938年頃、尹徳栄の娘夫婦のために建てられた建物である。

 

石造門柱(Kakao Mapストリートビューより)

 

 さらに、忠武路チュンムロ南山ナムサンゴル韓屋ハノンマウルには、碧樹山荘関連建築として「玉仁洞尹氏家屋」が移築・保存されている。1998年4月の開園当初は「純貞孝皇后尹氏実家」と表示されていたが、2008年の史料調査によって、碧樹山荘内にあった妾宅の復元であることが判明し、2010年からは説明文が大幅に書き改められている。

 

 


 こうして見ていくと、松石園――碧樹山荘は、単なる洋館の豪邸というよりも、近代朝鮮の権力構造、日本統治、宗教活動、そして解放後の朝鮮戦争と都市再編までを引き受けた場所だったことが分かる。いま現地に立っても、当時の建物そのものを見ることはできないが、門柱の石や残された家屋を手がかりに、その痕跡をたどることはできる。1924年に名物と呼ばれた玉仁洞の松石園は、今日においても依然、名物と言える場所なのである。

 

 


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 Photograph of Koreaに、1926年にアルバート・W・テイラー(Albert. Wilder Taylor)が撮ったとされる写真がアップされている。

Photograph of Korea


 もともと鉱山事業を営んでいたテイラーは、1896年に朝鮮に入国し、鉱山経営のかたわら、アメリカAP通信の臨時特派員として活動していた。1919年の三・一独立運動の際には、いち早くニュースを配信したことで知られる。
 テイラー夫妻が当時住んでいた「ディルクシャ・ハウス(딜쿠샤))」は、杏村洞ヘンチョンドンに復元され、2021年から公開されている。

 この写真について、写っている建物を1930年修正の1万分の1地形図と照合すると、西大門ソデムン交差点西側117.2mのピーク(金華山クマサン)付近から撮影されたものと推定される。

 


 手前左寄り、足場が組まれている建物は日赤朝鮮本部赤十字病院である。
 

 

 同病院は1926年3月竣工であるから、撮影時期は1926年初頭と考えられる。
 その右手に見えるのが西大門警察署で、1920〜21年の設計図が残っている。

 

 

 写真中央に見える2本の高い構造物は、ラジオ放送用のアンテナ塔である。アンテナの間に建つ建物が京城放送局(コールサインJODK)だ。

 本放送の開始は1927年2月16日だが、1924年12月には実験放送が開始され、1925年8月からは朝鮮語の試験放送も始まっている。さらに1926年11月には社団法人京城放送局が設立されている。したがって、1926年初頭の段階でアンテナ塔がすでに存在していたことになる。

 アンテナ左下、前面に柱状の構造を持つ建物が見える。形状から救世軍士官学校(現・貞洞チョンドン1928アートセンター)にも見えるが、

  • 屋根形状が異なる

  • 位置も一致しない

  • 同校の完成は1928年秋である

以上の点から、同定は保留としておきたい。ただし、士官学校建設以前に救世軍施設が存在した記録があり、その関連建物の可能性はある。
 ちなみに、実際の放送局とアンテナ、そして完成後の救世軍士官学校の位置関係は、次のようになっていた。

 

 

 テイラーの写真に写る柱状構造物の左側、森の上に塔の先端だけが突き出して見える建物が、旧ロシア公使館である。

 日露戦争期に一時閉鎖され、その後は領事館として機能したが、ロシア革命後は業務の継続が困難となった。だが、1925年の日ソ国交樹立後、副領事シャドワノフが赴任しており、この写真が撮影された当時はソ連領事館として機能していた。

 

 

 写真右端中段に見える建物は、1896年に建てられたフランス公使館である。
 フランスは1886年の朝仏修好通商条約締結後、宣教師拠点のあった観水洞クァンスドン126番地に公使館を設けた。しかし1889年10月、西洋人が多く集住する貞洞へ移転し、そこに洋館を建設した。

 



 アメリカ・イギリス・ロシアが敷地・建物を買収して公使館としたのに対し、フランスは租借地に公館を置いていた。そのため保護国化・併合を経て外交機能が縮小すると、貞洞公館を放棄し、1910年10月、中林洞チュンニムドン薬峴ヤッキョン聖堂に近い蛤洞ハプドン30番地(閔泳煥ミニョンファン旧所有地)を取得して領事館を移転した。
 ここが現在の駐韓フランス大使館の所在地である。

 

 

 フランスが手放した旧領事館敷地と建物は、西大門普通学校として利用された。

 1926年当時、本写真に写る建物は同校の校舎として使用されていたことになる。1930年代半ばまで校舎として使われた後、フランス公使館当時の洋館は老朽化により解体された。

 大韓民国成立後は西大門国民学校となったが、1973年、児童数減少により廃校となり、跡地には昌徳チャンドク女子中学が斎洞チェドンから移転して、今日に至っている。

 

 


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