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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2023年9月13日、北朝鮮の金正恩キムジョンウン総書記がウラジオストクでプーチン大統領と首脳会談を行った。
その前日、北朝鮮とロシアの国境・豆満江トゥマンガンにかかる鉄道橋を渡ってハサンに向かう、金正恩総書記の乗った特別列車の映像をAP通信が流した。この映像は、中国吉林省の防川の展望台から撮影されたものだ。

 

動画の冒頭の鉄橋がかかっている川の向こう岸が朝鮮民主主義人民共和国、左手前側がロシア連邦

 

 防川というのは、中華人民共和国とロシア連邦、そして朝鮮民主主義人民共和国、この3カ国の国境が交差する場所である。豆満江(中国名:図們江)の河口から約15キロはロシアと北朝鮮の国境線で、豆満江は国際河川だが、中国は海への出入り口を朝・露に抑えられた形になっている。

 

 

 30年以上も昔のことになるが、1992年7月初めに防川に行くことができた。その時の様子を、その直後に知人に書き送った手紙が出てきた。

 7月の初めに、吉林省防川という中国の東端の袋小路の先端に行ってきました。      

 1860年に清がロシアとの北京条約で沿海州を失って以来、15キロ先に日本海を見ながら海への出口を失った吉林省の行き止まりで、中国・ロシア・北朝鮮の国境が一点に集まったところです。4年前から何とか行かせてくれといろいろ頼んでいたのですが、軍の許可が取れず、行けなかった念願の地でした。このところ、中・露・南北朝鮮、それに日本も含めた「環日本海経済圏」や「豆満江の河口開発」などが話題となり、一躍この中国の行き止まり地方も脚光を浴びはじめ、そのおかげもあってか、ようやく許可がおりました。実は『国際学研究』に書いた話の舞台でもあります。
 琿春という町から、トヨタのランドクルーザーで2時間。途中、河川の侵食で領土を失った中国が川の中に堤防を造って「領土」を確保しているところもあり、1938年に日本とソ連が戦略上の要衝として争奪戦を繰り広げ、双方で戦死者1600名、負傷者5000名余りを出した張鼓峰事件の張鼓峰もあります。張鼓峰は150メートルにも満たない小さな丘で、そこに1600人分の墓地を造るのは無理だと思える大きさです。
 最後のところはずっと狭い道が続き、最後の最後に19世紀の終わりに清・露で建てた石碑があって、そこで中国領土はおしまい。その石碑には、
 土字牌
  光緒十二年四月立
とあります。石碑の裏側にはキリル文字で「T」の字が刻まれているはずなので(「土」は発音がトゥなのでTに当てられたもの)、さっそく裏に回って見ようと思ったら、警備の解放軍の兵士に制止されました。石碑の中心線から向こう側はロシア領なので行ってはいけないというのです。「では、ちょっと顔を出してのぞくだけでも」と言ったら、これもダメ。「手だけ出して写真を撮る」もダメ。結局最後まで裏側を見ることはできませんでした。本当に融通のきかない軍人で、私がその場を離れるまでしっかりマークされてしまいました。
 朝・露間の鉄橋が目の前にあり、ロシアから北朝鮮向けに送られるトラックを満載した貨車がゴットンゴットンと鉄橋を渡っており、その向こうには日本海らしきものが見えます。中国人ではない私ですら、「なんでこんな大事なところをロシアに渡したんだ? とりあえず海への出口だけは確保しておけばよかったのに…」と愚痴を言いたくなります。特に、現在の改革・開放が沿海地方を中心に進み、内陸部は取り残されるという傾向が顕著ですから、海に出られるというのは今日的発展のために極めて重要な必要条件なのです。

 そのうち中国側が沿海州の一部を取り返そうなどと考えるかもしれません。まぁ、現実的ではないですが…。

 清が沿海州をロシアに割譲したのは、北京条約を締結した1860年。第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合軍が北京を占領する中、ロシアは「仲介」を名目に介入し、東シベリア総督ムラヴィヨフが清と交渉して黒竜江とウスリー川の間、すなわち沿海州一帯を手に入れた。

 

 清は、中国東北部に住むジュルチェン(のちにマンジュ(満洲)と自称する)が建てた王朝国家。そのため今の遼寧省や吉林省は、皇帝の祖宗の地として立ち入りを禁じた(封禁)。朝鮮は鴨緑江アムノッカンと豆満江の越江を禁じた。

 

 その「封禁」が緩み始め、漢族や朝鮮人、さらにロシア人までがこの一帯に入ってくるのが19世紀半ば以降である。そうしたこともあって、1886年5月、清の呉大澂とロシアのバラノフが清とロシアの境界碑として建て直したのがこの「土字牌」。1860年の北京条約では、清とロシアの境界に、豆満江の河口側からキリル文字でU・T・S・L・P…と表示した標識を立て、清側の面には漢字の音をとって烏・土・薩・啦・帕…と表示すると定められている。つまり、防川の「土字牌」はロシア側にキリル文字でTと描かれているはずなのだ。その痕跡だけでも確認できればと思ったのだが、残念ながらできなかった。

 

筆者撮影(1992年7月2日)

 

松本和久「初期満ソ国境紛争の発生と展開」『境界研究』No. 8(2018)より作成

 私が防川を訪れることができた1990年代初めには、環日本海経済圏構想が注目されていた。1970〜80年代から日本海側の地域振興策としてアイデアはあったが、冷戦の終焉とともに一気に脚光を浴びた。1991年のソ連崩壊、日本と北朝鮮間の外交交渉の開始、南北朝鮮間での高位級会談など、環境が好転したと思われた。日本海が国際回廊となり、日本・ロシア・韓国・北朝鮮・中国東北部をつなぐ物流圏を形成する。そんな期待が高まった。

 

日本経済新聞 1992年10月29日朝刊

 

 特に野心的だったのが、中国の延辺朝鮮族自治州の“海への突破口”構想である。中国東北の延辺は内陸に閉じ込められていることが最大の弱点だった。そこで、豆満江の河口を浚渫し、約15キロ上流の琿春までを国際河川として日本海への航路を確保するという計画が浮上した。実現すれば中国が直接日本海へ出られることになり、ロシアと北朝鮮の間、さらに日本・韓国とも新たな交易ルートが確保できるという大胆な発想だった。国連開発計画(UNDP)も巻き込んだ開発計画で、日本側でもこのルートに注目し、新潟・境港・敦賀などが“対岸ビジネス”に期待をかけた。

 

 1992年夏には、延辺朝鮮族自治州の延辺や琿春では、日本海に出られさえすれば一気に改革・開放の波に乗れるという熱気が渦巻いていた。翌1993年8月、中国新聞国際部の伊東雅之記者が防川まで取材に訪れている。この時には、すでにかなりの観光客が防川まで入っており、展望台や売店の建設が始まっていたという。

 

 1993年4月には、「中露国境東部区間の再画定に関する規則」が中国とロシアの間で合意され、中国側は「土字牌」から135.6メートル、朝露間の鉄道橋から511.9メートルの地点に新たな中露国境標が設置されたと報じられた。これにより国境線はロシア側にやや移動し、「土字牌」の位置は中国領内ということになった。8月に現地に入った伊東記者は、案内人から「あそこあたりまでが中国領になる」という話を聞いたという。おそらく8月はまだ境界線の引き直し作業中だったのだろう。

 

 だが、環日本海経済圏構想の勢いは長続きしなかった。ロシア極東の港湾事情は改善せず、北朝鮮は政治的リスクが大きく、中国も東北振興の優先度は低いままだった。そのため数年でこの構想は熱気が薄れ、次第に忘れられていった。それとともに、延辺朝鮮族自治州の豆満江河口開発の夢もしぼんでしまった。

 韓国政府が国連地名標準化会議で「日本海」ではなく「東海」を主張したのが1992年である。1990年代後半以降、韓国は併記を求める外交を強めた。これが経済圏構想を暗礁に乗り上げさせた直接の要因ではなかったが、環「日本海」経済圏構想の関連会議の運営を難しくし、結果として熱量の低下を招いたことは否めない。

 

 あれから30年。防川は、中・朝・露3カ国の国境が交わる場所、さらにロシアと北朝鮮の往来の現場を目視できる場所として観光地となっている。ブログなどにも訪問記や写真がアップされている。しかし、環日本海経済圏の構想があったことも、豆満江河口開発の話があったことも忘れ去られているようだ。

 

 「土字牌」のロシア側にあったとされる「T」も、いまや中国領内となった以上確認は難しくないはずだが、残念ながら私はもう行く機会はなさそうだ。ネットを探しても表側ばかりで、裏面の写真はついに見つからなかった。いつの日か、誰かがその「T」を確かめ、長年の小さな宿題を果たしてくれることに期待したい。

 日本では、葬儀を行う「斎場」や、「セレモニーホール」「メモリアルホール」と名付けられた施設が市街地でも目につく。ところが、韓国の都市部では、葬礼式場は大学病院など大きな病院の霊安室に併設されているのが一般的である。礼式場と呼ばれる結婚式のための施設は、以前よりは減ったものの、街の中でも見かける。しかし、葬儀場を都会の街なかで目にすることはない。

 韓国の規模の大きな病院には、霊安室に付属する病院内の施設がある。映画やドラマでも、葬儀の場面は病院内の葬儀場で、喪主が弔問を受け、食事をしている。 

 

나의 아저씨(マイ・ディア・ミスター)より

 

 ところで、弔問客への飲食提供や葬儀用品の販売などを含む葬儀式場営業を病院が行えるようになったのは、1994年の「家庭儀礼準則に関する法律」改正以降のことである。この改正で、許認可事項だった葬儀式場の開設が届出制に変わり、厳しく制限されていた病院の付帯事業も大幅に緩和された。

 そもそも、「家庭儀礼準則」が制定されたのは1963年。当初は罰則のない、努力目標的なものであった。1972年3月制作の大韓ニュース第871号「葬式は簡素に」は、このような内容になっている。

 ※「大韓ニュース」は、映画館で本編が始まる前にスクリーンで流されていたニュース映画で、国家が制作し、時事ニュースや国策を映像で伝える役割を担っていた

 人がこの世を去ると、最後の道行きだけでも立派に送りたいという思いから、礼を尽くすものです。しかし、これまでの例を見ると、礼が度を超して虚礼となってしまうことが少なくありません。大声で号泣したり、煩わしい喪服によって、かえって葬儀を台無しにしていることも多いのです。
 先祖を敬う道は、このような形式にあるのではなく、誠実で健やかな心構えにあります。
 政府が1963年に制定した「家庭儀礼準則」では、喪主の服装について、韓服の場合は白い衣服に白いトゥルマギ、白い喪帽をかぶる、あるいは喪章を胸に付けると定めています。平服を着ても差し支えないとされています。
 また、弔問客に食事を振る舞わず、弔問客も供花を送らないことで、簡素な葬礼とするよう勧めています。過度な出費のために家計を傾けた例を思い返しても、私たち皆が葬礼を簡素に執り行うべきでしょう。

 維新憲法の施行後、1973年3月に厳格な「家庭儀礼に関する法律」が施行され、結婚式や葬儀、祭祀、還暦祝いなどに至るまで、罰則を伴う厳しい規制が課されるようになった。

 

 

 結婚式は、許可を得て建てられた礼式場で簡素な式を行い、終わった後は隣接する大広間でククスやカルビタンを食べながら焼酎ソジュを飲むという結婚式が定番になったのは、これ以降のことである。
 

 葬儀についても同じように、簡素化を名目に様々な規制がかけられた。葬儀の場所は「喪家サンガ(自宅)」または「営業許可を受けた専門施設(葬儀式場)」とされ、葬儀式場の営業には市長や道知事などの管轄機関の許可が必要であった。また「葬儀式場の位置は都心部から離れていること」という規定も設けられていた。

1981年に全斗煥チョンドゥファン政権になってからも、この政策は基本的に変わることはなかった。

1981年3月27日 大韓ニュース第1325号

 新春とともに結婚シーズンを迎えました。政府は退廃的な風潮をなくし、我々の美風良俗を生かすことを骨子とした新しい「家庭儀礼準則」を制定しました。
 新家庭儀礼準則における禁止事項と許容事項を見てみると、結婚式や還暦祝いに際して、招待状などの印刷物による招待は禁じられています。ホテルの式場営業は禁じられていますが、市外地域では許されます。結婚式で来客に記念品を贈る行為も禁止されています。また、大衆食堂での飲食接待も禁止です。
 葬礼においては、官公庁・企業・団体名義の新聞訃報は禁じられていますが、訃報通知による個別案内は可能です。葬儀で喪主が韓服式の喪服を着ることは禁じられ、弔旗の使用も禁じられています。
 一方で、遺族を手伝う人や埋葬地・火葬場まで同行した人には飲食接待ができます。また、名義を表示しない供花や鉢植えの陳列は、霊前や墓所では10基以内、式場では2基まで許可されています。さらに、結婚式において、新郎新婦、主宰者、両親のコサージュ着用も許されています。
 従来は家庭内でのみ許された還暦祝いも、大衆食堂で行うことができ、飲食接待も許されました。
 新時代を迎え、みんなで豊かで明るい新しい国を築くために、新家庭儀礼を生活の中で徹底し、見栄を捨て、正しい礼儀と節約の生活風潮を広げていかなければなりません。

 

 1970年代から80年代というと、ちょうど高層マンションが続々と建っていた時期である。1984年公開の映画『長男(장남チャンナム)』には、高層アパートで棺桶をゴンドラを使って降ろすシーンがある。

 

 

 当時は、高層アパートの屋上に軌道式で移動可能なゴンドラ昇降装置が設置されており、引越し荷物の上げ下ろしなどでもそれを使っていた。自宅で納棺した棺桶は、そのゴンドラで降ろすしかなかった。

 


当時の引越し風景

 

 1987年に「民主化宣言」があり、「文民政権」を標榜した金泳三キムヨンサム政権が誕生すると、1993年7月に家庭儀礼法の改正が予告され、1994年から改正法が施行された。

礼式・葬儀業の全面自由化
保健社会部、来年から営業・料金を届出制に

変則運営や暴利の弊害を防ぐため 物品代金などの価格表示制に転換

家庭儀礼法改正案を立法予告

 

 これによって、礼式場以外のホテルや伝統家屋などでの結婚式が可能になり、葬儀についても大規模な病院が付帯事業として、霊安室に隣接して葬儀式場を設置するようになった。

 1996年1月29日付の『東亜日報』には、こんな記事も出ている。

大学病院の「豪華な霊安室」競争

数百坪の空間、カーペット、高級照明、くつろげる雰囲気

葬儀用品の価格を引き下げ、「ぼったくり」も解消
 病院の霊安室が大きく変わりつつある。「陰気な雰囲気」「あの世への路銀につけこんだ暴利」「病院との癒着」といった修飾語が常に付きまとっていた病院霊安室の姿が、徐々に消え去ろうとしている。
 それに代わって、明るいクリスタル照明にふかふかのカーペットが敷かれた清潔な空間」へと変わりつつある。一部の財閥系病院だけでなく、各大学病院までが新しい設備と質の高いサービスを提供する「高級霊安室」づくりに競って乗り出している。
高麗コリョ大学付属安山アンサン病院は、現在の10倍に近い規模の300坪を超える大型高級霊安室を建設中。延世ヨンセ大学セブランス病院も、今年5月頃に地下1階、2階に480坪余りに及ぶ大型霊安室を新設する。ソウル大学病院も、今年中に200坪規模の新しい霊安室を新築し、結婚式場のような高級な雰囲気に変える予定だ。
 新築または改装されるこれらの霊安室には、弔問室だけでなく、弔問客のための別個の食堂や、床に絨毯を敷いた高級葬儀式場も併設される。
 施設だけではない。これらの病院は、霊安室の運営を直営体制に切り替えるなどして、各種サービスの水準も大幅に向上させている。これまで法外に高額だった葬儀用品やサービス料金も合理的な価格に引き下げ、「あの世への路銀」という名目で受け取っていた各種チップなども廃止している。
(中略)
 これら大手病院の霊安室高級化現象は、サムスン医療院の霊安室運営に刺激を受けたものだとされている。サムスン医療院が霊安室を高級化して、適正価格でハイクラスなサービスを提供し始めたことで、韓国内でも霊安室サービス競争に火が付いたと言われる。
(後略)

 こうした病院の霊安室と一体化した葬儀式場とは別に、1990年代以降の法規制緩和の波に乗って、日本の「互助会」と同じような「相助サンジョ会社」ができ、全国的な企業も出てきている。「互いに助け合う」という意味の「相助サンジョ」から出発したが、現在では事実上「喪助サンジョ(葬儀を助ける)」に特化し、直営の葬儀式場を運営している。ただし、郊外や地方都市が中心で、ソウルなどの都市中心部では、病院霊安室に併設されている葬儀場が主流である。

 この1994年の「家庭儀礼準則に関する法律改正」以降、韓国の家庭内での様々な儀礼の場面で、女性、特に「長男の嫁」への負担が増大しているのではなかろうか。また、結婚についても、「家庭儀礼準則」で規制がかかっていた時期の反動で、経済的な負担はもちろん、様々な「虚礼」や「慣例」が復活、あるいはそれ以上に多くのものが求められているようにも思える。押さえ込まれていたもののタガが外れた反動が、過度な「負担」を強いる結果になっているのかもしれない。

 そう簡単に断定はできないが、韓国社会の非婚者の増大や少子化の現実を考えると、なんらかの影響はありそうな気もする。

 



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 国立映画アーカイブが、1932年に制作された『學校敎科フイルム 京城だより』を公開している。

 

 

 解説にあるように、この映画は、『尋常小学国語読本 巻十』の「京城の友から」と『尋常小学読本 巻十二』の「京城の伯母より」の内容に準拠した教材として制作されたものである。

 上掲の広島大学図書館の「教科書コレクション」へのリンクでは、それぞれ39〜42ページが「第十三 京城の友から」、27〜30ページが「第十一課 京城の伯母より」である。
 
 
 
 正面が商業銀行(現:Kファイナンスタワー)、左側が朝鮮銀行(現:貨幣金融博物館)、右端は平尾賛平商店の化粧クリーム「レートクレーム」の巨大広告塔。
 
 

 
 場所は、現在の鍾閣チョンガク交差点の北東側、現在の鍾路チョンノタワーのある場所。
 上の写真の左側のビルは、1935年1月に火事で焼ける前の和信ファシン商会。右側は裕昌ユチャン商会。
 下の写真はその東側の昌信チャンシン商会の前。その横に見えるのが旧漢城ハンソン電気の建物で、のちに鍾路警察署として使われたこともあった。
 
 
 南山ナムサンから北側の眺望に、景福宮キョンボックンの前面に建てられた朝鮮総督府の庁舎が見える。
 
 
 『尋常小学国語読本 巻十』の「京城の友から」には、
景福宮の構内には新築の朝鮮総督府が見えます
と書かれている。ところが、映像の景福宮の場面では、光化門クァンファムン(本来の位置から東側側壁部分に移築された)の裏側からのショット→勤政殿クンジョンジョン慶会楼キョンフェルとなっていて、なぜか総督府庁舎は全く出てこない。
 まるで光化門から勤政殿へと、あたかも連続しているかのような編集になっているのも、やや不可解である。
 
 その後、京城府庁(現:ソウル図書館)、朝鮮ホテル(現:ウエスティン朝鮮チョソンの位置)、中央郵便局が出てくる。
 
 続いて、龍山ヨンサン地区の航空機からの空中撮影映像が映し出される。
 

 
 1935年8月に朝鮮新聞社が航空写真を撮り、それを小野三正が編集・作図して『大京城府大観』を刊行しているが、それよりも3年も早くムービーで空撮を行っていたのは、かなり先進的なものではなかっただろうか。
 
 これ以降は、『尋常小学読本 巻十二』の「京城の伯母より」に依拠した、朝鮮の人々の服装、住居、生活に関する映像である。異文化への理解を促そうという意図も感じられる。
 
 
 「同化」というよりも、「朝鮮人には朝鮮人の生活があるのですよ」というニュアンスの描き方にも見えなくはない。これが1930年代後半になると、「皇国臣民化」が進められ、朝鮮人に日本語を話させ、日本人のような生活や行動を求めていくようになる。
 
 ここに描かれているのは、日本による朝鮮統治の「ある時代」の一断面でしかないことを、きちんと認識する必要がある。
 

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