洞・町内の名物(24) 貞洞 西洋人村 | 一松書院のブログ

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 1924年7月30日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事では、「西洋人村」を貞洞チョンドンの名物として挙げている。

貞洞 西洋人村
東亜日報|1924年7月30日
西洋人が我が国にやって来たのは、もうずいぶん昔のことです。最初に来たのは、ローマ・カトリックの宣教師たちで、彼らが布教のために入ってきたのが始まりだと言われています。宣教師は中国から密かに朝鮮に入り、こっそりと布教していましたが、大院君の時代になると、厳しい取り締まりを受けました。
それから間もなくして時代が変わり、「隠者の国」という別名で呼ばれた我が国も、外国と通商条約を結ぶようになり、西洋人が国内を自由に歩き回ることができるようになりました。
当時の朝鮮では『瀛環志略えいかんしりゃく』や『坤輿全図こんよぜんず』といった書物を目にした者はごくわずかで、西洋人に関しては奇妙な噂話ばかりが飛び交っていました。
例えば、洋人のことを「ヤンデイン(洋大人)」などと呼び、「英国野郎には尻尾がある」とか、「鮭が人間になった」とか、様々な珍説が広まっていたようです。
とにかく変な話が多くて、今でも思い出すとキリがないので、このあたりでやめておきます。
さて、西洋人が多く住んでいる場所といえば、ソウルの中ではやはり貞洞です。貞洞の通りを歩いていると、ガラス窓の開いた家からピアノの音が流れてきたり、庭の木々の間に絹のドレスの裾がひらひらと揺れていたりします。それを目にすると、誰もが「なるほど、ここはまさしく西洋人の村だなあ」と感じることでしょう。

◆西欧との接触

 カトリックのフランス人宣教師が鴨緑江を越えて朝鮮に入ったのは1836年とされる。その頃から、朝鮮の中にも西欧への関心を持つ人士が徐々に現れ始めた。
 この記事に挙げられている『瀛環志略えいかんしりゃく』は、清の徐繼畬じょけいよが1848年頃に世界の概要をまとめた地理書であり、1850年代に北京に行った朝鮮の通詞が入手して持ち帰ったとされる。

 もう一冊の『坤輿全図こんよぜんず』は、1674年にイエズス会のフェルビーストによって北京で刊行された両半球世界地図である。これも19世紀になってなお重宝され、1860年には朝鮮で再刊行された。

 1866年3月、「衛正斥邪ウィジョンチョクサ」を掲げた興宣大院君フンソンテウォングンがカトリック教徒を弾圧し、多数の宣教師や神父、信者が虐殺された。これが丙寅邪獄ピョンインサオクと呼ばれる。「衛正斥邪」とは、「正しきをまもり邪(キリスト教など西欧文明)をしりぞける」を意味する。

 西欧に関心を持つ人々(実学シラック派)にも弾圧の手は及んだが、それでも1850年代から60年代にかけて育まれた「開化思想」は、次第に欧米や日本との新たな関係を模索する方向へと進み始めていた。

◆欧米への開国

 この1860〜70年代の段階では、まだ貞洞に欧米人の姿はなかった。貞洞に欧米の人々が集まるようになるのは、1883年に朝米修好通商条約の批准書が交換され、初代公使ルシウス・フート(Lucius Harwood Foote)が着任して以後のことである。

 朝鮮が日本と日朝修好条規を結んだのは1876年のことだった。日本はこれを国際法的な二国間関係の樹立とみなしたが、朝鮮側は「礼」に基づく華夷的な交隣関係の条文化とみなした。その後、清の李鴻章の助言と仲介もあり、朝鮮は、アメリカ・イギリス・ドイツとの修好通商条約締結に踏み切る。清は、日本や欧米諸国を互いに牽制させることで、朝鮮における自国の優越的地位を確保しようとしていた。朝米条約は1882年5月に天津で調印され、イギリスとドイツもそれに続いて漢城ハンソンで条約に調印した。

 ところが、同年7月、興宣大院君が扇動した「壬午イモ軍乱」が起き、日本や欧米との関係構築は暗礁に乗り上げた。しかし、清が介入して興宣大院君を清の保定府に軟禁すると、再び欧米との関係構築が再開される。朝鮮政府は、それまでの華夷的な対外関係を司った礼部とは別に、国際法に則った外交を扱う外衙門ウェアムン(のちの統理交渉通商事務衙門)を設置し、同年12月にはドイツ出身の外交官メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff)を顧問に招聘した。

 メレンドルフは、「壬午軍乱」の時に殺害された閔謙鎬ミンギョンホの邸宅を下賜されて住居とした。現在の曹溪寺チョゲサ寿松スソン公園一帯を占める大邸宅だった。

1883年12月末から1884年3月中旬まで朝鮮に滞在したパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が撮影したメレンドルフの住居

◆アメリカ

 1883年5月、初代アメリカ公使のフートが漢城に着任し、メレンドルフの邸宅を臨時のアメリカ公使館とした。尹致昊ユンチホが英語通訳を務めた。尹致昊は、1881年に紳士遊覧団の魚允中オユンジュンに随行して日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人として英語と日本語を習得した人物である。

 フートは、尹致昊の仲介で朝鮮宮廷と交渉し、閔啓鎬ミンゲホ閔泳敎ミンヨンギョの邸宅を購入してアメリカ公使館とした。現在の徳寿宮トクスグン西側、アメリカ大使公邸の場所にあたる。

 これが、欧米の人々が貞洞に集まるようになる始まりであった。

最新京城全図 1907
この地図では、1905年に大韓帝国が日本の「保護国」とされたため、主権を代表する「公使館」ではなく、自国民の保護業務などの領事業務を行なう「領事館」表記になっている。位置は変わっていない。

◆イギリス

 続いて、イギリスが貞洞に公使館を設置した。1884年4月に朝英修好通商条約の批准書を交換し、貞洞内で公館の敷地を探し、翌5月に申櫶シンホンの邸宅を購入した。現在のイギリス大使館(徳寿宮の北側に隣接)にあたる。

 1890年には韓屋を撤去し、洋式建物に建て替えた。この建物は現在もイギリス大使館敷地内に残されている。

◆ロシア

 ロシアは1884年に朝鮮と外交関係を樹立し、イギリスへの対抗意識から大急ぎで公使館の建設を計画した。貞洞の高台にあった徳寿宮の庭園を購入して建設に着手したが、資金難などで中断。1888年にウクライナ人建築士サバチン(Афанасій Іванович Середін Сабатін)を雇用し、新たに設計・施工を進め、1890年に竣工した。

 サバチンは、1895年の日本人による閔妃ミンビ(のちに明成ミョンソン皇后を追贈)殺害を景福宮で目撃し、本国ロシアにも報告している。また、1896年に朝鮮国王が日本の圧力を避けてロシア公使館に移御した「俄館播遷アグァンパチョン」も、この公使館が舞台だった。日露戦争中は一時閉鎖されたが、ポーツマス条約締結後に領事館として再開された。

◆フランス

 フランスは、1886年6月に朝仏修好通商条約に調印し、1888月に観水洞クァンスドンに公使館を置いたが、翌1889年10月には貞洞に移転した。現在、昌徳チャンドク女子中学校になっている場所である。1896年にはここに西洋式建物を建てた。


 その後、1910年にフランス領事館は蛤洞ハドン中林洞チュンニムドン薬峴ヤッキョン聖堂近く)へ移転した。これはもともと閔泳煥ミニョンファンの邸宅であり、現在もそこにフランス大使館がある。旧フランス公使館だった貞洞の建物は1914年に西大門小学校となり、1930年代まで残っていたが、その後取り壊された。

◆ソンタク・ホテル

 このフランス公使館の南側には、1897年8月までアメリカ人宣教師ダニエル・ギフォード(Daniel Lyman Gifford)が居住していた。その住居を、ロシア公使夫人と共に大韓帝国に滞在していたドイツ人女性、マリー・アントワネット・ソンタク(Marie Antoinette Sontag)が買い取った。ソンタク邸は、ソウル在住の欧米人の社交場となり、1902年10月に洋館へと建て替えられてプライベート・ホテルとして開業した。これが「ソンタク・ホテル」である。

 マリー・アントワネット・ソンタクは1909年にホテルを売却し、9月に韓国を離れた。ソンタク・ホテルは1917年に営業を終了し、隣接する梨花学堂イファハッタンに売却された。1922年までは女子寮として使われたが、その後取り壊された。現在は、梨花女子高校構内の百周年記念館前にプレートが置かれている。

◆1924年の貞洞

 1924年7月に『東亜日報』の「洞・町内の名物」が貞洞を取り上げた時には、ソンタク・ホテルの建物はすでに存在しておらず、フランス領事館も竹添町(現・忠正路チュンジョンノ)方面に移転していた。ロシア領事館は、1917年のロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、1920年頃までに領事館としての役割を果たせなくなっていた。1922年にソビエト連邦が建国されたが、すぐには日本との間に外交関係が樹立されなかったため、1924年には在外公館として機能していなかった。

 とはいえ、アメリカとイギリスの領事館が存在し、その館員や欧米宣教師、ヘンリー・モリス(James Henry Morris)のモリス商会などがこの地に集まっていた。1920年代半ばでも、貞洞はソウルの「西洋人村」であった。

  『京城彙報』1926年2月号によれば、1925年10月現在、京城府貞洞の日本人・朝鮮人・中国人を除く外国人人口は、以下の通りである。

 世帯数 51

 男性 42

 女性 50

 

 貞洞には、総督府の土木部、鉄道部、法務局、土地調査局、専売局のほか、高等法院や中枢院もあり、官庁街を形成していた。ところが、『東亜日報』の「洞・町内の名物」連載が始まる6月の直前、4月28日午後10時半に、貞洞官庁街に隣接する朝鮮印刷工場から出火し、高等法院と中枢院を除く各官庁が焼失した。

 この記事が書かれた当時、貞洞の一角は焼け野原となっていたが、そのことには本文では触れられていない。ただし、読者は「このあいだは火事で大変だったな」と思いながらこの記事を読んだに違いない。

 


 大韓民国建国後、アメリカ・イギリス・ソ連、そして蛤洞のフランス公館がそれぞれ大使館・大使公邸として使用された。アメリカは、貞洞の旧領事館を大使公邸とし、大使館は旧三井物産ビルに置いた。その後、駐韓アメリカ経済協助処(USOM)だった現在の世宗路のビルに移転した。

 ソ連大使館は朝鮮戦争勃発により閉鎖され、戦中の爆撃で塔部分を除いて建物が焼失した。

 1990年、盧泰愚ノテウ・ゴルバチョフ会談で国交樹立に合意し、ソウルに再びロシア大使館が設置された。ただし、旧ロシア公使館の敷地は一部が売却され、塔のみが残された状態であった。ロシア大使館は当初、漢南洞ハンナムドンのビルに入居し、その後、韓国政府の仲介により、倍材ベジェ中学・高校の移転跡地を購入して現在の大使館が建てられた。

 現在の貞洞は、外国機関こそ点在しているものの、もはや「西洋人村」ではない。しかし、その全域が韓国の西欧化の足跡を今に伝える歴史遺産となっている。