洞・町内の名物(23) 西大門町 興化門 | 一松書院のブログ

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 1924年7月18日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事で、西大門町の名物として取り上げられたのは興化門。

 

 この興化門が、西大門町の名物になるとは、思いもよりませんでした。子どもたちは、総督府中学校のことしか知らないでしょうが、二十歳以上であれば、誰もが新門路の宮殿を知っているでしょう。興化門は、この宮殿の正門だったのです。
 かつて掛かっていた扁額の文字が、どれほど見事に書かれていたかというと、夜になると光を放ったといいます。「夜照街」という名が、どうして生まれたのかご存知ですか?「夜(밤)」、「照(비칠)」、つまり「夜に照らす」から「夜照街」と呼ばれたのです。壬辰倭乱の際にこの扁額が燃やされた後、その光を放つことはなくなってしまいました。火中に姿を消したのは、むしろよかったかもしれません。それにしても、今掛かっている扁額の文字ときたら、まったくもって残念なものです。
英祖王がこの宮殿にしばしば滞在されていたある日、夜明けにあられが降り、通りを歩く足音がザクザクと響いてきたそうです。その者を呼び入れたところ、ある儒生が「寄別キビョル」(承政院の官報)を取りに行かせた使いの者だったそうです。儒生は、詩文を読んで勉強すべきものを何をしているのかと(王が)問いただしたところ、その使用人は、「王様がよくお休みになったかどうか気になって、それを確かめようと(私に)「寄別」を取りに行かせたのです」と、しれっと答えたそうです。

 興化門フンファムンは、17世紀前半、光海君クァンヘグンの時代に造営された慶徳宮キョンドックンの正門だった。慶徳宮は、粛宗スクジョン(在位:1674〜1720)や英祖ヨンジョ(在位:1724〜1776)の時代には王宮として使われ、英祖36年(1760年)には「慶煕宮キョンヒグン」と改称された。

 

 1863年に高宗コジョンが即位すると、その父・興宣フンソン大院君テウォングン李昰応イハウンは、壬辰イムジンの乱で焼失した景福宮キョンボックンの再建に着手する。これは、先代王の周囲で権勢をふるっていた有力両班ヤンバンの力をそぐことも目的の一つだった。この再建工事には、慶煕宮の建物が取り壊され、その資材が転用された。

 

 日本の朝鮮侵略が本格化すると、朝鮮に移住した日本人のための中等教育機関が求められ、1909年、京城の日本人居留民団が「京城中学校」を開校した。翌1910年には官立の「京城中学」となり、当初は独立門トンニンムン横の独立館トンニップグァンを仮校舎として使用していたが、11月には慶煕宮跡に新校舎が完成し、移転した。当時、興化門は校地の南東隅、現在の救世軍会館クセグンフェグァンビルの位置にあった。こうした変遷があったため、1924年の記事には「今の子どもたちは総督府中学校しか知らないでしょう」と記されているわけだ。

 

 

 柳本芸ユボンイェが1830年頃に完成させた『漢京識略ハンギョンシンニャック』によれば、興化門の扁額の文字は李紳イシンによるものだとされる。この達筆の扁額の文字は、夜には光を放って街を明るく照らしたという伝説が残されていた。この記事では「夜(bam)」「照(비칠bichil)」にちなみ「夜照街ヤジョガ」と呼ばれたと解説されている。現在のシンムンアン路周辺は小高い地形で、「夜照峴ヤジョヒョン」あるいは「夜珠峴ヤスヒョン」とも呼ばれていたという。

 

 現在、唐珠洞タンスドン新門路シンムンノの合流点には、「夜珠峴」の歴史案内碑石が設置されている。

 

 

 ただし、記事中に「壬辰倭乱の際に扁額が焼失した」とある点については疑問が残る。というのも、慶徳宮の造営は光海君の時代、つまり17世紀に入ってからであり、壬辰の乱の時点では興化門そのものがまだ存在していなかった。『漢京識略』には、1829年に慶煕宮で火災があったと記されているため、その際に扁額が失われた可能性が高い。もちろん、秀吉によって多くの建物が焼かれたのは事実ではあるのだが…。

 

 英祖がこの慶煕宮を王宮として使用していたことから、ある逸話が記事中で紹介されている。しかし正直なところ、解釈が難しい。王と臣下や庶民などとのやり取りで、当時の身分制を皮肉ったりユーモアを強調する小話は、18〜19世紀の筆記文学や逸話集に多く見られる。1924年当時の『東亜日報』の読者は、これを興味深く読めたのだろうか…。

 

 ところで、この『東亜日報』の記事が書かれた8年後、1932年になって、興化門は奨忠壇チャンチュンダンに移されてしまった。伊藤博文を祀るために新たに建てられた博文寺の正門として移築されたのである。

 

 日本の植民地支配が終わると、博文寺の本堂は火災で焼失した。その跡地には、一時期、安重根アンジュングンの銅像を建てようとする動きもあったが実現には至らなかった。李承晩イスンマン政権末期には迎賓館の建設計画が浮上したものの、1960年の4・19革命により中断。最終的に1967年、朴正煕パクチョンヒ政権下で迎賓館が完成し、興化門はその正門として再利用された。

 

 1970年代に入ると、朴正煕はロッテやサムスンに特級ホテルの建設を指示し、1979年には迎賓館を取り込む形で「ホテル新羅シルラ」が開業。興化門は再びその正門として使われることになった。

 

 慶煕宮跡にあった京城中学は、1946年に新たにソウル高等学校として開校し、1980年には漢江の南にある瑞草洞ソチョドンへ移転。学校の跡地にはソウル歴史博物館が建てられ、裏手には慶煕宮の復元事業が計画された。これに伴い、興化門も再び元の慶煕宮の位置へ移築されることになり、1988年に除幕式が行われた。

 

 

 現在、ホテル新羅の正門には興化門のレプリカが設置されている。

 

 

 メインパレスとされる景福宮キョンボックンの正門の光化門クァンファムンは、撤去・移築・焼失・復元といった波乱の歴史を経て、現在に至っている。この興化門もまた、数々の歴史のうねりに翻弄されながら、ようやく元の場所に戻ってきた門なのである。