◆初代大統領選挙
1945年、日本の敗戦に伴い、朝鮮半島の北緯38度以南を占領したアメリカ軍の下で、1948年に国会議員選挙が行われた。一方、北緯38度以北を占領していたソ連軍の統治下にあった北側は、この選挙には一切関与しなかった。南側の中にも、南北を通じた統一選挙を求める声も根強くあったが、そうした状況の中、南側のみで選挙が実施された。その結果成立した国会において、同年7月20日、大韓民国初の大統領選挙が行われ、李承晩が初代大統領に選出された。
KBS映像実録(1995)より 議場は旧朝鮮総督府庁舎のエントランスホール
◆第2代大統領選挙
李承晩の大統領任期は4年で、1952年8月に満了を迎える予定だった。当時、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の影響で、韓国は釜山を臨時首都としていた。国会では野党が多数を占めており、間接選挙による大統領選出では、李承晩の再選は困難と見られていた。そこで李承晩は、釜山一帯に戒厳令を布告し、野党議員の逮捕など強硬な措置をとった上で、憲法を改正し、大統領選出方式を国民による直接投票に変更した。こうして、8月5日に実施された投票で、自由党の李承晩が再選され、副大統領にも同じく自由党の咸台永が当選した。
◆第3代大統領選挙
1956年の大統領選挙には、野党・民主党から申翼熙が有力候補として出馬する予定だった。ところが、選挙直前に申翼熙は急逝し、李承晩の勝利は確実視されることとなった。その一方で、別途行われる副大統領選挙の行方に注目が集まった。副大統領選挙では、与党・自由党の李起鵬が、野党・民主党の張勉に敗北してしまった。この結果、3期目を迎えた李承晩は、副大統領に野党の張勉を迎えるという体制で政局を運営することになった。
◆第4代大統領選挙
1960年3月15日、大統領および副大統領の選挙が実施された。李承晩は、野党の有力候補と目されていた趙炳玉が病気治療のために渡米した隙を突き、3月に選挙日程を設定した。しかし、2月に趙炳玉が心臓発作で急逝したため、李承晩の当選はほぼ確実視されていた。
一方、副大統領選挙は不透明な情勢で、前回落選した李起鵬の当選は危ぶまれていた。このため、李承晩と自由党は、なりふり構わぬ露骨な不正選挙工作を展開した。その結果、李承晩と李起鵬の両名が当選を果たすこととなった。
しかし、大統領・副大統領選挙における露骨な不正工作と選挙干渉は民衆の強い反発を招き、「4・19学生革命」へとつながった。これにより李承晩政権は崩壊し、李承晩夫妻はハワイへ亡命した。一方、李起鵬一家は、李承晩の養子となっていた長男・李康石を含め、全員が死亡した。李康石が家族を射殺し、その後自殺したとされている。
◆第4代大統領選挙(再)
李承晩は第4代大統領に就任することなく国外へ去ったため、あらためて第4代大統領を選出する必要が生じた。李承晩政権の崩壊後、憲法が改正され、行政権は国会多数派の首相に属する議院内閣制が導入された。これにより、大統領は国会による間接選挙で選出される象徴的な国家元首と位置づけられた。
1960年8月12日、国会で大統領選挙が行われ、尹潽善が大統領に選出された。
行政の長となる首相には張勉が就任し、この時期は「張勉政権」と呼ばれる。
翌1961年5月16日、朴正煕少将が「5・16軍事クーデター」を起こし、張勉政権は崩壊した。尹潽善は、クーデター勢力からの要請を受けて大統領職にとどまったが、翌1962年3月、国家再建最高会議が制定した「政治活動浄化法」に抗議して辞任した。
◆第5代大統領選挙
民政移管を宣言した国家再建最高会議議長・朴正煕は、軍を退役したうえで自ら民主共和党の大統領候補として立候補した。これに対抗する有力候補は、民政党から出馬した尹潽善だった。
この選挙から議院内閣制は廃止され、大統領は国民による直接投票で選出される方式に改められた。1963年10月15日に行われた投票では、朴正煕が約15万6千票の僅差で当選した。得票率は、朴正煕が46.6%、尹潽善が45.1%という接戦であった。
◆第6代大統領選挙
再選を目指した朴正煕は、1967年5月3日の大統領選挙で無難に当選した。
日韓国交正常化やベトナム戦争への派兵といった外交政策、また経済開発5カ年計画などの経済政策によって支持を固め、前回選挙で接戦となった対立候補・尹潽善に対して票差を広げて勝利した。得票率は、朴正煕が約51.4%、尹潽善が約40%であった。
1969年9月14日午前2時、国会第3別館で与党・共和党の議員が集まり、改憲発議案を強行採決した。
変則的な国会運営に対し、野党や市民・学生らの激しい抗議があったものの、10月17日に行われた国民投票では65.1%の賛成で改憲案が承認された。これにより、朴正煕の3選が可能となった。
◆第7代大統領選挙
1971年4月27日の大統領選挙に向け、野党・新民党の候補の金大中は、1970年10月から地方遊説を始めるなど、早くから選挙戦を展開した。
金大中の公約には、時代を先取りする革新的な内容が多く含まれていた。政権側の露骨な官権介入やさまざまな不正行為が指摘されたが、それでも選挙は接戦となり、得票率は朴正煕が約53%、金大中が約45%であった。
また、この選挙では地域ごとの得票差が際立ち、「地域的な感情」が顕在化するきっかけともなった。
3期目の朴正煕政権は、1972年10月に国会を解散し、「十月維新」を宣言した。
12月の国民投票を経て「維新憲法」が制定され、大統領選出は国民の直接選挙から、「統一主体国民会議」による間接選出に変更された。大統領の任期は6年となり、再選制限も撤廃された。「統一主体国民会議」の構成は政府が全面的に掌握しており、朴正煕の独裁体制が確立された。
◆第8代大統領選挙
1972年12月23日、奨忠壇体育館で「統一主体国民会議」が開かれ、大統領選出が行われた。無効票2票を除く2,357票すべての賛成で、朴正煕が選出された。

◆第9代大統領選挙
1978年7月6日に開催された「統一主体国民会議」で、唯一の候補者・朴正煕が再び選出された。

1979年10月26日、朴正煕大統領は中央情報部部長・金載圭によって射殺された。
国務総理だった崔圭夏が大統領権限代行を務めた。
◆第10代大統領選挙
維新憲法の規定により、60日以内に後任の大統領を選出する必要があった。1979年12月6日、「統一主体国民会議」が開催され、唯一の候補者・崔圭夏が大統領に選出された。2,549人が投票に参加したが、無効票が84票にのぼるなど、これまでにない異例の結果となった。任期は、朴正煕の任期の残りである1984年12月26日までとされた。
しかし、同年12月12日、保安司令官の全斗煥が鄭昇和参謀総長を逮捕してクーデターを起こした。
形式的には崔圭夏が国家元首の座にあったが、実際には全斗煥が戒厳令下で軍を掌握し、実権を握ることとなった。全斗煥は、1980年5月の光州民衆抗争を武力で鎮圧したのち、「国家保衛非常対策委員会」を設置した。崔圭夏は、1980年8月16日に大統領を辞任した。
◆第11代大統領選挙
1980年8月27日、「統一主体国民会議」による大統領選挙が行われた。立候補したのは国家保衛非常対策委員会委員長・全斗煥のみで、朴正煕の残り任期を引き継ぐ形で大統領に就任した。全斗煥は選出前の8月22日に大将で軍を退役し、民間人となっていた。

全斗煥は憲法を改定し、大統領の再選を禁止する代わりに任期を7年と定めた。
また、「統一主体国民会議」は廃止され、新たに大統領選挙人団制度が導入された。これはアメリカの制度を模倣したとされたが、実際には政府が選挙人の選出を掌握しており、国民の意思が反映される選挙とは言いがたかった。
◆第12代大統領選挙
新憲法に基づき、大統領選挙人団による選挙が実施された。1981年2月11日、全国1,905の選挙区で選ばれた5,278人の大統領選挙人が、2月25日に集まって投票を行い、全斗煥が5,277人中4,755票を得て当選。得票率は90%に達した。
1987年、大統領の改選時期が迫ると、国民の間で直接選挙による大統領選出を求める声が高まった。ソウルをはじめ全国各地で「護憲撤廃、独裁打倒」のシュプレヒコールが響き、連日街頭デモが行われた。
そして1987年6月29日、与党・民正党の代表委員であった盧泰愚が発表した、いわゆる「民主化宣言」によって、大統領を国民の直接選挙で選出することが正式に表明された。
KBS映像実録(1995)より
直接選挙になって以降の大統領選挙の当選者は以下のとおり。
◆第13代大統領選挙
投票日 1987年12月16日 盧泰愚 民主正義党 36.6%
◆第14代大統領選挙
投票日 1992年12月18日 金泳三 民主自由党 41.96%
◆第15代大統領選挙
投票日 1997年12月18日 金大中 新政治国民会議 40.27%
◆第16代大統領選挙
投票日 2002年12月19日 盧武鉉 新千年民主党 48.91%
◆第17代大統領選挙
投票日 2007年12月19日 李明博 ハンナラ党 48.67%
◆第18代大統領選挙
投票日 2012年12月19日 朴槿恵 セヌリ党 51.55%
◆第19代大統領選挙
投票日 2017年5月9日 文在寅 共に民主党 41.08%
◆第20代大統領選挙
投票日 2022年3月9日 尹錫悦 国民の力 48.56%
◆第21代大統領選挙
投票日 2025年6月3日(予定)








