洞・町内の名物(22) 社稷洞 社稷壇 | 一松書院のブログ

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 1924年7月28日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」で取り上げられたのは、社稷洞サジクドン社稷壇サジクダン

 

朝鮮の太祖が即位した翌年、都を漢陽に定め、さらにその翌年には社稷を建て、春秋の年二回、祭祀を行わせたそうです。この社稷があったことから、その周辺の地域は今日まで社稷ゴルと呼ばれています。

社稷壇には二つの祭壇があり、それぞれ石柱が立てられています。東側にあるのが「社」の祭壇で、后土氏を祀り、西側の「稷」の祭壇では后稷氏を祀っていました。地方の社稷壇にはこうした石柱や神を表す位牌はありません。

社稷に関する歴史には面白い話があまりありませんが、ひとつだけ紹介します。宣祖の時代、秋の祭祀を行おうとしたところ、后稷氏の位牌がなくなっていたのです。急なことで間に合わず、やむなく空の祭壇で祭祀を行いました。終わってから手を尽くして探したところ、近くの木の根元から見つかりました。調べてみたら、管理人の「守僕」が、役人を陥れるために位牌を盗んで隠していたと判明し、その守僕は大逆罪で処刑されました。長い話でしたが、これで終わりです。

 14世紀後半、中国大陸では元から明への移行期にあった。朝鮮半島では高麗の支配層の間で「親元派」と「親明派」とが対立していた。1388年、「親元派」に属する高麗王・王禑ワンウは、李成桂に対し、明が支配する遼東の攻略を命じた。李成桂は兵を率いて鴨緑江まで進軍したものの、明を攻めるべきではないと判断し、威化島ウィファドで兵を反転させ、王都・開城ケソンに引き返した。これを「威化島の回軍」という。

 

5万分の1地図「新義州及安東」(1918)

 李成桂は高麗王朝を倒し、自ら新たな王朝を打ち立てた。まさに「易姓革命えきせいかくめい」である。支配者の「姓」が高麗の「ワン氏」から「氏」にわり、「天命」があらたまったとされた。その「革命」に「国際的な正統性」を与えるため、王朝名として「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を明に提示し、そのうち「朝鮮」が選ばれた。こうして李成桂は、明によって朝鮮王に封ぜられるというかたちをとった。李成桂には、その死後「太祖テジョ」という廟号が与えられた。

 

 「威化島の回軍」をきっかけに、朝鮮半島でも王朝交代によって「天命が革まった」とされた。しかし、華夷的論理に基づけば、朝鮮の王には本来的に「天命」は下らない。天と直接つながっているのは「中華」の支配者である「天子」、すなわち「皇帝」のみとされていた。そのため、中国大陸の中心に開かれた王朝の都に、天を祀る施設が設けられた。現在の北京・天安門広場の南にある「天壇公園」は、清朝時代の天を祀るための施設であった。

 

 「中華システム」あるいは「華夷システム」とは、「華」だけでは成り立たない秩序維持の枠組みである。「華」を持ち上げてくれる周辺の「夷」の存在があってこそ、初めて地域的な秩序維持システムとして機能する。そのような周辺の支えが存在しないにもかかわらず、自らを「華」であると言い張るのが、いわゆる「小中華」である。近代日本の「大東亜共栄圏」は、まさにその典型例であった。武力によって、無理やり自分を持ち上げてくれる「周辺」を作ろうとしたが、結局その体制は破綻に至った。

 

 したがって、中華世界において、「中華」が主で、周辺が一方的に「従属していた」あるいは「従属させられていた」とする理解は、必ずしも正確ではない。「華夷システム」とも呼ばれることが示すように、「華」だけでなく「夷」もまた、このシステムの重要な構成要素であった。安定していた時期には、「華」と「夷」がそれぞれに誇りを持ち、相互のリスペクトが機能していた。日本は、この枠組みの埒外に置かれていた。

 

 というわけで、李成桂は、新しい王朝を開いた時、都を開城ケソンから漢陽ハニャンに移し、そこに天を祀る施設ではなく、土地の神(社)と五穀の神(稷)を祀る施設である「社稷壇」を作った。

 

鄭敾チョンソン(18世紀初)作


1万分の1地図「京城」(1921)

 

 王として封ぜられた支配者にとって、領内の安寧と豊穣を祈願して土地神・穀物神を祀ることは、重要な責務であると同時に、自らの支配の正統性を内外に示す儀礼でもあった。「社稷」は、国家そのものを象徴する用語としても用いられていた。

 

 17世紀初頭、明が滅亡して満洲族の清が勃興すると、朝鮮は清の支配者を「天を祀るにふさわしい天子」とみなすか否かという選択を迫られた。清の支配層は、朝鮮が「女真ヨジン」「オランケ」と呼んで自分たちの下位に位置付けていた北方の民族集団だったからである。1627年の「丁卯胡乱チョンミョホラン」と1636年の「丙子胡乱ピョンジャホラン」という満洲族側からの力の行使があったが、結局、朝鮮王朝は明代と同じように社稷を祀るかたちで華夷システムを維持することを選択した。

 

 そのような朝鮮王朝にとって、社稷壇は極めて重要な施設であった。しかし、1924年の『東亜日報』における記述は、意外なほどそっけない。これは、19世紀末に朝鮮が天を祀る新たな施設として「圜丘壇ファングダン」を建立したことにより、「社稷壇」の地位が相対的に低下したことと関係しているのかもしれない。

 

 1895年10月8日、日本の公権力が関与して朝鮮王妃が殺害されるという事件が発生すると、翌年、朝鮮国王はロシア公使館へと避難した(俄館播遷アグァンパチョン)。いわば「国内亡命」である。その1年後、公使館から王宮へ戻った高宗は、南別宮ナムビョルグンの敷地に、天を祀る施設「圜丘壇」を建設し、同年10月12日に「皇帝」として即位する式典を挙行。国号を「大韓帝国」と改めた。このとき、かつて日本によって殺害された王妃「閔妃ミンビ」には「明成皇后ミョンソンファンフ」という諡号が追贈された。

 

 

 この時代は、東アジア世界も万国公法(国際法)による秩序を徐々に受容しつつあったものの、日本を含む地域では、依然として華夷秩序的な感覚や発想が色濃く残っていた。こうした意識は、21世紀の今日においても完全には払拭されていない。天を祀るか否か、「皇帝」が支配するか「王」が支配するかによって、主権国家としての「格」に差があるわけではない──とは当時、なかなか考えられなかったのであり、21世紀になった今日にあっても払拭できていないのである。

 

 江戸時代までは、自国内においてのみ「天皇」と称していた日本が、明治維新以降、対外的にも華夷的な「優位性」を押しつけ始めていたという点も、当時の人々の意識にあっただろう。日本にとっては、「わが国が清の頸木(くびき)から朝鮮を解き放った」と、それらしく喧伝することが可能だったため、朝鮮が「大韓帝国」となることは、むしろ都合がよかったのである。


 日本が大韓帝国を「併合」し、自国の周辺部に組み込むと、直ちに大韓帝国の「皇帝」は「王」へと格下げされ、高宗皇帝は「李太王」、純宗皇帝は「李王」とされた。「圜丘壇」は、その付属施設の皇穹宇ファングンウ石鼓壇ソッコダン石造三門ソクチョサンムンを残して、ほぼすべてが撤去され、その跡地には朝鮮総督府鉄道局によって「朝鮮ホテル」が建設された。現在では建て替えられ、「ウェスティン朝鮮ホテル」となっている。

 

 中華世界の時代における中国・朝鮮・日本の相互関係や自国認識については、現代の国際法的な秩序の規範をそのまま当てはめて理解することはできない。しかし、近代以降の日本はもちろんのこと、植民地支配下にあった朝鮮、さらには今日の韓国社会においても、こうした歴史的背景への理解不足はしばしば見受けられる。

 

 1924年の『東亜日報』の記事を執筆した記者も、何をどう書くべきか、相当に困惑したに違いない。社稷壇は、前近代から近代にかけて歴史的に重要な施設であったのみならず、その意味づけ自体が時代の変化とともに揺れ動く、極めて扱いの難しい存在でもある。ここまでお読みいただいた方には、華夷システムをめぐる説明がいかに複雑か、ご理解いただけたのではないだろうか。