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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年7月18日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事で、西大門町の名物として取り上げられたのは興化門。

 

 この興化門が、西大門町の名物になるとは、思いもよりませんでした。子どもたちは、総督府中学校のことしか知らないでしょうが、二十歳以上であれば、誰もが新門路の宮殿を知っているでしょう。興化門は、この宮殿の正門だったのです。
 かつて掛かっていた扁額の文字が、どれほど見事に書かれていたかというと、夜になると光を放ったといいます。「夜照街」という名が、どうして生まれたのかご存知ですか?「夜(밤)」、「照(비칠)」、つまり「夜に照らす」から「夜照街」と呼ばれたのです。壬辰倭乱の際にこの扁額が燃やされた後、その光を放つことはなくなってしまいました。火中に姿を消したのは、むしろよかったかもしれません。それにしても、今掛かっている扁額の文字ときたら、まったくもって残念なものです。
英祖王がこの宮殿にしばしば滞在されていたある日、夜明けにあられが降り、通りを歩く足音がザクザクと響いてきたそうです。その者を呼び入れたところ、ある儒生が「寄別キビョル」(承政院の官報)を取りに行かせた使いの者だったそうです。儒生は、詩文を読んで勉強すべきものを何をしているのかと(王が)問いただしたところ、その使用人は、「王様がよくお休みになったかどうか気になって、それを確かめようと(私に)「寄別」を取りに行かせたのです」と、しれっと答えたそうです。

 興化門フンファムンは、17世紀前半、光海君クァンヘグンの時代に造営された慶徳宮キョンドックンの正門だった。慶徳宮は、粛宗スクジョン(在位:1674〜1720)や英祖ヨンジョ(在位:1724〜1776)の時代には王宮として使われ、英祖36年(1760年)には「慶煕宮キョンヒグン」と改称された。

 

 1863年に高宗コジョンが即位すると、その父・興宣フンソン大院君テウォングン李昰応イハウンは、壬辰イムジンの乱で焼失した景福宮キョンボックンの再建に着手する。これは、先代王の周囲で権勢をふるっていた有力両班ヤンバンの力をそぐことも目的の一つだった。この再建工事には、慶煕宮の建物が取り壊され、その資材が転用された。

 

 日本の朝鮮侵略が本格化すると、朝鮮に移住した日本人のための中等教育機関が求められ、1909年、京城の日本人居留民団が「京城中学校」を開校した。翌1910年には官立の「京城中学」となり、当初は独立門トンニンムン横の独立館トンニップグァンを仮校舎として使用していたが、11月には慶煕宮跡に新校舎が完成し、移転した。当時、興化門は校地の南東隅、現在の救世軍会館クセグンフェグァンビルの位置にあった。こうした変遷があったため、1924年の記事には「今の子どもたちは総督府中学校しか知らないでしょう」と記されているわけだ。

 

 

 柳本芸ユボンイェが1830年頃に完成させた『漢京識略ハンギョンシンニャック』によれば、興化門の扁額の文字は李紳イシンによるものだとされる。この達筆の扁額の文字は、夜には光を放って街を明るく照らしたという伝説が残されていた。この記事では「夜(bam)」「照(비칠bichil)」にちなみ「夜照街ヤジョガ」と呼ばれたと解説されている。現在のシンムンアン路周辺は小高い地形で、「夜照峴ヤジョヒョン」あるいは「夜珠峴ヤスヒョン」とも呼ばれていたという。

 

 現在、唐珠洞タンスドン新門路シンムンノの合流点には、「夜珠峴」の歴史案内碑石が設置されている。

 

 

 ただし、記事中に「壬辰倭乱の際に扁額が焼失した」とある点については疑問が残る。というのも、慶徳宮の造営は光海君の時代、つまり17世紀に入ってからであり、壬辰の乱の時点では興化門そのものがまだ存在していなかった。『漢京識略』には、1829年に慶煕宮で火災があったと記されているため、その際に扁額が失われた可能性が高い。もちろん、秀吉によって多くの建物が焼かれたのは事実ではあるのだが…。

 

 英祖がこの慶煕宮を王宮として使用していたことから、ある逸話が記事中で紹介されている。しかし正直なところ、解釈が難しい。王と臣下や庶民などとのやり取りで、当時の身分制を皮肉ったりユーモアを強調する小話は、18〜19世紀の筆記文学や逸話集に多く見られる。1924年当時の『東亜日報』の読者は、これを興味深く読めたのだろうか…。

 

 ところで、この『東亜日報』の記事が書かれた8年後、1932年になって、興化門は奨忠壇チャンチュンダンに移されてしまった。伊藤博文を祀るために新たに建てられた博文寺の正門として移築されたのである。

 

 日本の植民地支配が終わると、博文寺の本堂は火災で焼失した。その跡地には、一時期、安重根アンジュングンの銅像を建てようとする動きもあったが実現には至らなかった。李承晩イスンマン政権末期には迎賓館の建設計画が浮上したものの、1960年の4・19革命により中断。最終的に1967年、朴正煕パクチョンヒ政権下で迎賓館が完成し、興化門はその正門として再利用された。

 

 1970年代に入ると、朴正煕はロッテやサムスンに特級ホテルの建設を指示し、1979年には迎賓館を取り込む形で「ホテル新羅シルラ」が開業。興化門は再びその正門として使われることになった。

 

 慶煕宮跡にあった京城中学は、1946年に新たにソウル高等学校として開校し、1980年には漢江の南にある瑞草洞ソチョドンへ移転。学校の跡地にはソウル歴史博物館が建てられ、裏手には慶煕宮の復元事業が計画された。これに伴い、興化門も再び元の慶煕宮の位置へ移築されることになり、1988年に除幕式が行われた。

 

 

 現在、ホテル新羅の正門には興化門のレプリカが設置されている。

 

 

 メインパレスとされる景福宮キョンボックンの正門の光化門クァンファムンは、撤去・移築・焼失・復元といった波乱の歴史を経て、現在に至っている。この興化門もまた、数々の歴史のうねりに翻弄されながら、ようやく元の場所に戻ってきた門なのである。

◆初代大統領選挙

 1945年、日本の敗戦に伴い、朝鮮半島の北緯38度以南を占領したアメリカ軍の下で、1948年に国会議員選挙が行われた。一方、北緯38度以北を占領していたソ連軍の統治下にあった北側は、この選挙には一切関与しなかった。南側の中にも、南北を通じた統一選挙を求める声も根強くあったが、そうした状況の中、南側のみで選挙が実施された。その結果成立した国会において、同年7月20日、大韓民国初の大統領選挙が行われ、李承晩イスンマンが初代大統領に選出された。

KBS映像実録(1995)より 議場は旧朝鮮総督府庁舎のエントランスホール

◆第2代大統領選挙

 李承晩の大統領任期は4年で、1952年8月に満了を迎える予定だった。当時、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の影響で、韓国は釜山プサンを臨時首都としていた。国会では野党が多数を占めており、間接選挙による大統領選出では、李承晩の再選は困難と見られていた。そこで李承晩は、釜山一帯に戒厳令を布告し、野党議員の逮捕など強硬な措置をとった上で、憲法を改正し、大統領選出方式を国民による直接投票に変更した。こうして、8月5日に実施された投票で、自由党の李承晩が再選され、副大統領にも同じく自由党の咸台永ハムデヨンが当選した。

◆第3代大統領選挙

 1956年の大統領選挙には、野党・民主党から申翼熙シンイクヒが有力候補として出馬する予定だった。ところが、選挙直前に申翼熙は急逝し、李承晩の勝利は確実視されることとなった。その一方で、別途行われる副大統領選挙の行方に注目が集まった。副大統領選挙では、与党・自由党の李起鵬イギブンが、野党・民主党の張勉チャンミョンに敗北してしまった。この結果、3期目を迎えた李承晩は、副大統領に野党の張勉を迎えるという体制で政局を運営することになった。

◆第4代大統領選挙

 1960年3月15日、大統領および副大統領の選挙が実施された。李承晩は、野党の有力候補と目されていた趙炳玉チョビョンオクが病気治療のために渡米した隙を突き、3月に選挙日程を設定した。しかし、2月に趙炳玉が心臓発作で急逝したため、李承晩の当選はほぼ確実視されていた。
 一方、副大統領選挙は不透明な情勢で、前回落選した李起鵬の当選は危ぶまれていた。このため、李承晩と自由党は、なりふり構わぬ露骨な不正選挙工作を展開した。その結果、李承晩と李起鵬の両名が当選を果たすこととなった。

 しかし、大統領・副大統領選挙における露骨な不正工作と選挙干渉は民衆の強い反発を招き、「4・19学生革命」へとつながった。これにより李承晩政権は崩壊し、李承晩夫妻はハワイへ亡命した。一方、李起鵬一家は、李承晩の養子となっていた長男・李康石イガンソクを含め、全員が死亡した。李康石が家族を射殺し、その後自殺したとされている。

◆第4代大統領選挙(再)

 李承晩は第4代大統領に就任することなく国外へ去ったため、あらためて第4代大統領を選出する必要が生じた。李承晩政権の崩壊後、憲法が改正され、行政権は国会多数派の首相に属する議院内閣制が導入された。これにより、大統領は国会による間接選挙で選出される象徴的な国家元首と位置づけられた。
1960年8月12日、国会で大統領選挙が行われ、尹潽善ユンボソンが大統領に選出された。

 行政の長となる首相には張勉チャンミョンが就任し、この時期は「張勉政権」と呼ばれる。

 翌1961年5月16日、朴正煕パクチョンヒ少将が「5・16軍事クーデター」を起こし、張勉政権は崩壊した。尹潽善は、クーデター勢力からの要請を受けて大統領職にとどまったが、翌1962年3月、国家再建最高会議が制定した「政治活動浄化法」に抗議して辞任した。

 再選を目指した朴正煕は、1967年5月3日の大統領選挙で無難に当選した。
 日韓国交正常化やベトナム戦争への派兵といった外交政策、また経済開発5カ年計画などの経済政策によって支持を固め、前回選挙で接戦となった対立候補・尹潽善に対して票差を広げて勝利した。得票率は、朴正煕が約51.4%、尹潽善が約40%であった。

 1969年9月14日午前2時、国会第3別館で与党・共和党の議員が集まり、改憲発議案を強行採決した。
 変則的な国会運営に対し、野党や市民・学生らの激しい抗議があったものの、10月17日に行われた国民投票では65.1%の賛成で改憲案が承認された。これにより、朴正煕の3選が可能となった。

◆第7代大統領選挙

 1971年4月27日の大統領選挙に向け、野党・新民党の候補の金大中キムデジュンは、1970年10月から地方遊説を始めるなど、早くから選挙戦を展開した。
 金大中の公約には、時代を先取りする革新的な内容が多く含まれていた。政権側の露骨な官権介入やさまざまな不正行為が指摘されたが、それでも選挙は接戦となり、得票率は朴正煕が約53%、金大中が約45%であった。

 また、この選挙では地域ごとの得票差が際立ち、「地域的な感情」が顕在化するきっかけともなった。


 

 3期目の朴正煕政権は、1972年10月に国会を解散し、「十月維新」を宣言した。
 12月の国民投票を経て「維新憲法」が制定され、大統領選出は国民の直接選挙から、「統一主体国民会議」による間接選出に変更された。大統領の任期は6年となり、再選制限も撤廃された。「統一主体国民会議」の構成は政府が全面的に掌握しており、朴正煕の独裁体制が確立された。

◆第8代大統領選挙

 1972年12月23日、奨忠壇体育館で「統一主体国民会議」が開かれ、大統領選出が行われた。無効票2票を除く2,357票すべての賛成で、朴正煕が選出された。

◆第9代大統領選挙

 1978年7月6日に開催された「統一主体国民会議」で、唯一の候補者・朴正煕が再び選出された。 

 

 1979年10月26日、朴正煕大統領は中央情報部部長・金載圭キムジェギュによって射殺された。
国務総理だった崔圭夏チェギュハが大統領権限代行を務めた。

◆第10代大統領選挙

 維新憲法の規定により、60日以内に後任の大統領を選出する必要があった。1979年12月6日、「統一主体国民会議」が開催され、唯一の候補者・崔圭夏が大統領に選出された。2,549人が投票に参加したが、無効票が84票にのぼるなど、これまでにない異例の結果となった。任期は、朴正煕の任期の残りである1984年12月26日までとされた。

 

 しかし、同年12月12日、保安司令官の全斗煥チョンドゥファン鄭昇和チョンスンファ参謀総長を逮捕してクーデターを起こした。
 形式的には崔圭夏が国家元首の座にあったが、実際には全斗煥が戒厳令下で軍を掌握し、実権を握ることとなった。全斗煥は、1980年5月の光州クァンジュ民衆抗争を武力で鎮圧したのち、「国家保衛非常対策委員会」を設置した。崔圭夏は、1980年8月16日に大統領を辞任した。

◆第11代大統領選挙

 1980年8月27日、「統一主体国民会議」による大統領選挙が行われた。立候補したのは国家保衛非常対策委員会委員長・全斗煥のみで、朴正煕の残り任期を引き継ぐ形で大統領に就任した。全斗煥は選出前の8月22日に大将で軍を退役し、民間人となっていた。

 

 全斗煥は憲法を改定し、大統領の再選を禁止する代わりに任期を7年と定めた。
 また、「統一主体国民会議」は廃止され、新たに大統領選挙人団制度が導入された。これはアメリカの制度を模倣したとされたが、実際には政府が選挙人の選出を掌握しており、国民の意思が反映される選挙とは言いがたかった。

◆第12代大統領選挙

 新憲法に基づき、大統領選挙人団による選挙が実施された。1981年2月11日、全国1,905の選挙区で選ばれた5,278人の大統領選挙人が、2月25日に集まって投票を行い、全斗煥が5,277人中4,755票を得て当選。得票率は90%に達した。

 

 1987年、大統領の改選時期が迫ると、国民の間で直接選挙による大統領選出を求める声が高まった。ソウルをはじめ全国各地で「護憲撤廃、独裁打倒」のシュプレヒコールが響き、連日街頭デモが行われた。

そして1987年6月29日、与党・民正党の代表委員であった盧泰愚ノテウが発表した、いわゆる「民主化宣言」によって、大統領を国民の直接選挙で選出することが正式に表明された。

KBS映像実録(1995)より

 


 直接選挙になって以降の大統領選挙の当選者は以下のとおり。

◆第13代大統領選挙

 投票日 1987年12月16日 盧泰愚 民主正義党 36.6%

◆第14代大統領選挙

 投票日 1992年12月18日 金泳三キムヨンサム 民主自由党 41.96%

◆第15代大統領選挙

 投票日 1997年12月18日 金大中キムデジュン 新政治国民会議 40.27%

◆第16代大統領選挙

 投票日 2002年12月19日 盧武鉉ノムヒョン 新千年民主党 48.91%

◆第17代大統領選挙

 投票日 2007年12月19日 李明博イミョンバク ハンナラ党 48.67%

◆第18代大統領選挙

 投票日 2012年12月19日 朴槿恵パククネ セヌリ党 51.55%

◆第19代大統領選挙

 投票日 2017年5月9日 文在寅ムンジェイン 共に民主党 41.08%

◆第20代大統領選挙

 投票日 2022年3月9日 尹錫悦ユンソギョル 国民の力  48.56%

◆第21代大統領選挙

 投票日 2025年6月3日(予定) 

 1924年7月28日付の『東亜日報』の「洞・町内の名物」で取り上げられたのは、社稷洞サジクドン社稷壇サジクダン

 

朝鮮の太祖が即位した翌年、都を漢陽に定め、さらにその翌年には社稷を建て、春秋の年二回、祭祀を行わせたそうです。この社稷があったことから、その周辺の地域は今日まで社稷ゴルと呼ばれています。

社稷壇には二つの祭壇があり、それぞれ石柱が立てられています。東側にあるのが「社」の祭壇で、后土氏を祀り、西側の「稷」の祭壇では后稷氏を祀っていました。地方の社稷壇にはこうした石柱や神を表す位牌はありません。

社稷に関する歴史には面白い話があまりありませんが、ひとつだけ紹介します。宣祖の時代、秋の祭祀を行おうとしたところ、后稷氏の位牌がなくなっていたのです。急なことで間に合わず、やむなく空の祭壇で祭祀を行いました。終わってから手を尽くして探したところ、近くの木の根元から見つかりました。調べてみたら、管理人の「守僕」が、役人を陥れるために位牌を盗んで隠していたと判明し、その守僕は大逆罪で処刑されました。長い話でしたが、これで終わりです。

 14世紀後半、中国大陸では元から明への移行期にあった。朝鮮半島では高麗の支配層の間で「親元派」と「親明派」とが対立していた。1388年、「親元派」に属する高麗王・王禑ワンウは、李成桂に対し、明が支配する遼東の攻略を命じた。李成桂は兵を率いて鴨緑江まで進軍したものの、明を攻めるべきではないと判断し、威化島ウィファドで兵を反転させ、王都・開城ケソンに引き返した。これを「威化島の回軍」という。

 

5万分の1地図「新義州及安東」(1918)

 李成桂は高麗王朝を倒し、自ら新たな王朝を打ち立てた。まさに「易姓革命えきせいかくめい」である。支配者の「姓」が高麗の「ワン氏」から「氏」にわり、「天命」があらたまったとされた。その「革命」に「国際的な正統性」を与えるため、王朝名として「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を明に提示し、そのうち「朝鮮」が選ばれた。こうして李成桂は、明によって朝鮮王に封ぜられるというかたちをとった。李成桂には、その死後「太祖テジョ」という廟号が与えられた。

 

 「威化島の回軍」をきっかけに、朝鮮半島でも王朝交代によって「天命が革まった」とされた。しかし、華夷的論理に基づけば、朝鮮の王には本来的に「天命」は下らない。天と直接つながっているのは「中華」の支配者である「天子」、すなわち「皇帝」のみとされていた。そのため、中国大陸の中心に開かれた王朝の都に、天を祀る施設が設けられた。現在の北京・天安門広場の南にある「天壇公園」は、清朝時代の天を祀るための施設であった。

 

 「中華システム」あるいは「華夷システム」とは、「華」だけでは成り立たない秩序維持の枠組みである。「華」を持ち上げてくれる周辺の「夷」の存在があってこそ、初めて地域的な秩序維持システムとして機能する。そのような周辺の支えが存在しないにもかかわらず、自らを「華」であると言い張るのが、いわゆる「小中華」である。近代日本の「大東亜共栄圏」は、まさにその典型例であった。武力によって、無理やり自分を持ち上げてくれる「周辺」を作ろうとしたが、結局その体制は破綻に至った。

 

 したがって、中華世界において、「中華」が主で、周辺が一方的に「従属していた」あるいは「従属させられていた」とする理解は、必ずしも正確ではない。「華夷システム」とも呼ばれることが示すように、「華」だけでなく「夷」もまた、このシステムの重要な構成要素であった。安定していた時期には、「華」と「夷」がそれぞれに誇りを持ち、相互のリスペクトが機能していた。日本は、この枠組みの埒外に置かれていた。

 

 というわけで、李成桂は、新しい王朝を開いた時、都を開城ケソンから漢陽ハニャンに移し、そこに天を祀る施設ではなく、土地の神(社)と五穀の神(稷)を祀る施設である「社稷壇」を作った。

 

鄭敾チョンソン(18世紀初)作


1万分の1地図「京城」(1921)

 

 王として封ぜられた支配者にとって、領内の安寧と豊穣を祈願して土地神・穀物神を祀ることは、重要な責務であると同時に、自らの支配の正統性を内外に示す儀礼でもあった。「社稷」は、国家そのものを象徴する用語としても用いられていた。

 

 17世紀初頭、明が滅亡して満洲族の清が勃興すると、朝鮮は清の支配者を「天を祀るにふさわしい天子」とみなすか否かという選択を迫られた。清の支配層は、朝鮮が「女真ヨジン」「オランケ」と呼んで自分たちの下位に位置付けていた北方の民族集団だったからである。1627年の「丁卯胡乱チョンミョホラン」と1636年の「丙子胡乱ピョンジャホラン」という満洲族側からの力の行使があったが、結局、朝鮮王朝は明代と同じように社稷を祀るかたちで華夷システムを維持することを選択した。

 

 そのような朝鮮王朝にとって、社稷壇は極めて重要な施設であった。しかし、1924年の『東亜日報』における記述は、意外なほどそっけない。これは、19世紀末に朝鮮が天を祀る新たな施設として「圜丘壇ファングダン」を建立したことにより、「社稷壇」の地位が相対的に低下したことと関係しているのかもしれない。

 

 1895年10月8日、日本の公権力が関与して朝鮮王妃が殺害されるという事件が発生すると、翌年、朝鮮国王はロシア公使館へと避難した(俄館播遷アグァンパチョン)。いわば「国内亡命」である。その1年後、公使館から王宮へ戻った高宗は、南別宮ナムビョルグンの敷地に、天を祀る施設「圜丘壇」を建設し、同年10月12日に「皇帝」として即位する式典を挙行。国号を「大韓帝国」と改めた。このとき、かつて日本によって殺害された王妃「閔妃ミンビ」には「明成皇后ミョンソンファンフ」という諡号が追贈された。

 

 

 この時代は、東アジア世界も万国公法(国際法)による秩序を徐々に受容しつつあったものの、日本を含む地域では、依然として華夷秩序的な感覚や発想が色濃く残っていた。こうした意識は、21世紀の今日においても完全には払拭されていない。天を祀るか否か、「皇帝」が支配するか「王」が支配するかによって、主権国家としての「格」に差があるわけではない──とは当時、なかなか考えられなかったのであり、21世紀になった今日にあっても払拭できていないのである。

 

 江戸時代までは、自国内においてのみ「天皇」と称していた日本が、明治維新以降、対外的にも華夷的な「優位性」を押しつけ始めていたという点も、当時の人々の意識にあっただろう。日本にとっては、「わが国が清の頸木(くびき)から朝鮮を解き放った」と、それらしく喧伝することが可能だったため、朝鮮が「大韓帝国」となることは、むしろ都合がよかったのである。


 日本が大韓帝国を「併合」し、自国の周辺部に組み込むと、直ちに大韓帝国の「皇帝」は「王」へと格下げされ、高宗皇帝は「李太王」、純宗皇帝は「李王」とされた。「圜丘壇」は、その付属施設の皇穹宇ファングンウ石鼓壇ソッコダン石造三門ソクチョサンムンを残して、ほぼすべてが撤去され、その跡地には朝鮮総督府鉄道局によって「朝鮮ホテル」が建設された。現在では建て替えられ、「ウェスティン朝鮮ホテル」となっている。

 

 中華世界の時代における中国・朝鮮・日本の相互関係や自国認識については、現代の国際法的な秩序の規範をそのまま当てはめて理解することはできない。しかし、近代以降の日本はもちろんのこと、植民地支配下にあった朝鮮、さらには今日の韓国社会においても、こうした歴史的背景への理解不足はしばしば見受けられる。

 

 1924年の『東亜日報』の記事を執筆した記者も、何をどう書くべきか、相当に困惑したに違いない。社稷壇は、前近代から近代にかけて歴史的に重要な施設であったのみならず、その意味づけ自体が時代の変化とともに揺れ動く、極めて扱いの難しい存在でもある。ここまでお読みいただいた方には、華夷システムをめぐる説明がいかに複雑か、ご理解いただけたのではないだろうか。