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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 日本では、1872年に新橋・横浜間の鉄道が開業し、その後、国内の鉄道網は急速に拡大した。長距離移動が可能になると、駅や車内で食事をする必要性が生じた。そこで生まれたのが「駅弁」である。


 日本の駅弁は、1880〜1890年代に販売が始まったとされる。1885年頃に宇都宮駅でおにぎりとたくあんを竹の皮で包んだものが販売され、1890年頃には姫路駅で幕の内スタイルの弁当が販売されたといわれている。

 

 朝鮮では、1899年に京城(現ソウル)・仁川間に京仁線が敷設され、1905年に京釜線(京城〜釜山)、1906年に京義線(京城〜新義州)が開通した。

 京釜線は、開業当初は釜山・京城間が十数時間かかっており、飲まず食わずというわけにはいかなかった。

 

 1915年刊行の朝鮮総督府鉄道局編『朝鮮鉄道史』には、このような記述がある。

急行列車ニ食堂車ヲ連結シタルハ、明治41年4月1日、京釜線第一・第二列車ヲ以テ嚆矢トス。食堂營業ハ初メ営業者ヲ指定シテ之ヲ經營セシメシガ、動モスレバ旅客ノ苦情・非難ヲ免レザリシヲ以テ、大正2年4月1日之ヲ鐵道ノ直營ニ移シ、又同月15日ヨリ営業者ニ於テ經營セル南大門停車場喫茶店ヲ局管ニ改メ、設備・材料ニ意ヲ用ヒ、旅客ノ便宜ト慰安トヲ圖ルニ努メタリ。
而シテ現在ニ於テ食堂車ヲ連結スル區間ハ、京釜・京義線急行列車ノ區間部分ニ限ラル。鮮滿急行列車車輛所屬ノ關係ヨリ南滿洲鐵道會社ノ經營トシ、該列車運轉區間ニ之ヲ連結ス。

 1908年から、釜山・京城間の急行列車には食堂車が連結されていた。だが、この資料では駅弁については全く言及されていない。駅構内や列車内で販売する場合は、当然、鉄道局の認可が必要だったであろうから、いわゆる「駅弁」はこの時期まではなかったのかもしれない。

 

 駅弁のことが「벤또ベント」という朝鮮語表記で資料に現れるのは、『毎日申報』の1919年6月14日の記事が最初のようだ。

各駅箪食検査
停車場の弁当ご飯 良い駅と悪い駅

最近は夏の暑さで衛生に注意しければならないが、痛みやすい材料をおかずにして売っている各停車場の弁当があり、京城管理局では鉄道全線で売っているものを集めて、衛生状態はもちろん、材料が弁当に適切か、ご飯の量や品質に至るまで厳重に検査した。昨年実施した時よりも良くなったというが未だ改良すべき点も多く、今後注意してあらためさせるという。
検査の成績は、上弁当では、南大門、福溪、釜山桟橋、大邱、釜山駅、鉄原、裡里、永登浦が優等として合格し、水原、新幕、新安州、成歡、金泉、松汀里、定州、固山、開城、平壌は優等の次、宣川、井邑は不良ということで落第。並弁当は、釜山桟橋、釜山駅、南大門、福溪、大邱が優等、三浪津、永登浦、元山、龍山、水原、新幕、裡里、成歡、鉄原、大田、平壌、片山、新安州、松汀里、定州、金泉などは普通。開城、宣川、井邑は非常に悪く、並弁当の成績が悪く改善すべきだとのこと。

※箪食[たんし]竹の器に入れた食事

 この年11月には上弁当が50銭、並が25銭、お茶7銭、お湯の追加2銭に値上がりしている。1930年代にソルロンタンが15〜20銭だったことを考えると、かなり高価な食べものだった。

 


 それだけに、鉄道局でもかなり神経を使っていたようで、毎年、駅弁の検査を行っていた。

 

 

 『毎日申報』に「昨年実施した時よりも良くなった」とあるので、1918年あたりから鉄道局がこの手の駅弁調査を実施していたと思われる。そこから逆算すると、駅弁が朝鮮で本格的に販売されるようになるのは、1917年前後からといえそうだ。

 

 ただ、駅弁の評判はあまり良くなかったようだ。味の問題以前に、きちんと食べられるかどうかという点から問題となるものもあった。

 

 

 

 1930年には、駅弁の審査会が京城で開かれたことも新聞に報じられた。永登浦の駅弁が一番、京城・平壌・大邱は「比較的粗悪」といわれている。

 

  

 

 1939年には、駅弁の値下げという記事もある。その一方で40銭の弁当を出すという。最初の頃にあった50銭の上弁当を10銭下げて復活させたものかもしれない。

 

40銭の駅弁

25日から発売

 旅行者の楽しみである駅弁は、昨年11月に10銭値下げして25銭へ改定されたが、その後の情勢を見るに、釜山鉄道管内では、食堂車の利用率が旅客増加率に比べてはるかに高いばかりでなく、「鮨丼」のような特別な弁当が、25銭の並弁当に比べて加速度的に増加している。
 この現象は、要するに弁当の内容が貧弱であることに原因があるが、昨今の物価高ではこれ以上の値下げは難しく、無理やり内容を充実させれば営業者の利益を無視することになる。そこで鉄道局では種々研究の末、現行の25銭弁当はそのままにして、別に40銭の弁当を新設して、今月25日から 釜山・大邱・大田・裡里・京城・新幕・平壌・定州・元山・福溪・城津・新北靑の12駅で並行して販売することとした。
 ただしこれは試行販売であり、1〜2か月の成績を見たのちに、継続するかどうかを決定する予定だという。

 ここまで挙がった駅弁販売の駅名の大体の場所をプロットすると、駅弁を販売していたことが確認できる地点はこのようになる。やはり、京城・釜山の京釜線が充実していて、京義線、京元線、湖南線でも販売されていた。

 

 

 当時の京城駅での駅弁売りの様子が映像として残っている。

 1940年に清水宏が朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した短編広報映画『京城』の京城駅の場面に、駅そば(うどん?)を売る場面の後、ホームで立売する駅弁売りの姿が出てくる。

 

 

 もう一つは、1941年公開の劇映画『반도의 봄バンドエ ポム(半島の春)』で、李英一イヨンイル金昌秀キムチャンスとその妹・貞喜チョンヒを京城駅に出迎える場面の裏音声に「お茶、弁当」という声が入っている。

 

 



 1980年代〜1990年代の韓国では、特急セマウル号に食堂車があり、車内販売も行われていた。ムグンファ号でも車内販売があった。

 

 

 KTXは、2004年の営業運転開始から移動販売を行っていたが、食堂車はなかった。弁当の移動販売は2010年代初頭に電話予約で十数個買ったことがあったが、それも2017年頃にはなくなった。

 

 韓国のサイトで「駅弁」を検索しても、日本の駅弁に関する書き込みばかりが出てくる。韓国には「駅弁」という文化はないといわれるが、やはりそうなのだろう。
 


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『続 韓国社会を掘る』(Kindle版)
『続 韓国社会を掘る』(ペーパーバック版)

 

iMac の Pages で原稿を作成する

Word を使用しなかったのは――
Word のライセンス形態(永続版・企業配布版など)によっては、EPUB 出力ができない場合がある。私の Word では EPUB 出力ができなかった。
そのため、iMac の Pages で作業を行うことにし、その手順をご紹介する。
また、Word ではルビを使用すると行間が乱れる。韓国・朝鮮関係の原稿ではルビが多くなるため、これは大きな問題である。Pages ではこの点に問題がない。

参考:Windowsで作業を行うには――
iPadやiPhoneではPagesを使用できる。WindowsのWordで作成したDOCXファイルをiPadまたはiPhoneに転送し、Pagesで開いてEPUBファイルとして書き出す(Pages 13以降であれば縦書きにも対応)。生成したEPUBファイルを、Windows版Sigilで以下の要領に従って編集する。

Ⅰ.基本設定

■ 想定仕様
仕上がり:ペーパーバック(128 × 182.1 mm)
    :Kindle電子ブック
作成環境:Mac「Pages」 EPUBエディター「Sigil」



新発売 『続 韓国社会を掘る』
Kindle 本      ペーパーバック    

 

■ Pages書式設定
用紙サイズ:A5
余白:上 30 mm/下 35 mm/左右 各 25 mm
文字方向:縦書き
フォント:游教科書体 横用(10〜11 pt)
行間:固定 18 pt

本文に文章を入力または貼り付け、必要に応じて画像を挿入・配置する。
画像は 300 dpi/1280 pixel 以上を推奨。
ルビを付ける箇所には「ルビ」機能を使用する。

Ⅱ.原稿構成とスタイル設定

■ セクション区切りの挿入
 中表紙、目次、はじめに、奥付の各ページには、必ず「セクション区切り」を挿入する。
■ スタイルの指定
 本文中の見出し・段落には「Heading1」「Heading2」「Heading3」「本文」などのスタイルを適切に設定する。これは 目次生成および EPUB 出力時の構造反映に必須。
■ 引用部分
 前後に空行を入れ、三文字程度インデントを下げる。
■ ページ番号(ノンブル)の設定
 - 「書類」タブ → 「書類」項目で 「見開きページ」 にチェック
 - 「セクション」タブで 「左右のページで異なるヘッダとフッタ」 にチェック
 - 本文セクションのみページ番号を挿入し、1 から開始する。
 - 奇数ページは左寄せ、偶数ページは右寄せに配置。
■ 目次の作成(縦書き時)
 「挿入」→「目次」→「書類」から自動目次を作成する。
 ただし、縦書きでは整形が崩れるため、自動生成後に目次項目をコピーして、別ページに貼り付け、手動で目次ページを作成する。

ペーパーバック用 PDF の書き出し

「ファイル」>「書き出す」>「PDF…」を選択。
「PDF の品質」を 「最高品質(Best)」 に設定。
游明朝体・游教科書体横用などのフォントは自動的に PDF 内へ埋め込まれる(フォント埋め込みは必須)。
書き出した PDF を確認し、不要な白ページを削除または白ページを挿入して、本文の冒頭ページと奥付ページが、PDFの奇数枚数目(例:5枚目とか7枚目)になるように整える。

 

ペーパーバック表紙の作成

Kindle Direct Publishing(KDP)の「本棚」>「ペーパーバックのコンテンツ」で原稿 PDF をアップロードし、続いて表紙をアップロードする。
書籍の版型とページ数を入力すると、表紙用の KDP テンプレートが生成されるので、それをダウンロードし、これに合わせて「表表紙」「背表紙」「裏表紙」を画像として作成する。




 

完成した画像を印刷プレビューで確認し、用紙サイズを「カスタムサイズ」に設定して、「全体の寸法」(例:273.85 × 188.35 mm)に合わせ、PDF として書き出す。

この PDF を「表紙」として KDP にアップロードする。
※ ページ数が少ない場合、背表紙に文字を入れられないことがあるので注意。

 

EPUB ファイルの作成と編集

■ EPUB の書き出し
 Pages から「ファイル」>「書き出す」>「EPUB…」を選択。

■ 編集ツール
 EPUB ファイルは無料ソフト Sigil で編集するのが便利。

(1)段落間の余白を削除

 


 

各 xhtml ファイル内の以下の箇所:

<body dir="ltr" onload="Body_onLoad()">
<div class="body" style="
white-space:pre-wrap; line-break:strict;">

上記の white-space:pre-wrap; を削除する。
全てのxhtml ファイルで設定されているので、全てを削除。

 

(2)縦書き時に横書き目次が出ないようにする

 

epb.opf ファイルの <spine> および <guide> の記述部分から、以下の2行を削除する:

 


<itemref idref="toc"/>
<reference type="toc" title="目次" href="toc.xhtml"/>

(3)画像の処理

 

デフォルトでは以下のように記述されている:

<p class="p3"><span style="float:left;display:inline-block;vertical-align:baseline;height:9.372em;margin-top:9.204%;margin-bottom:2.922%;text-indent:0;"><img src="images/abcdef.jpg" alt="abcdef.jpg" style="height:100%;"/></span></p>

ページ全体に画像を独立表示したい場合は、以下のように書き換える。

<div class="image-wrapper">
  <img src="images/abcdef.jpg" alt="" class="center-image"/>
</div>

さらに、Sigil のStylesにある book.cssファイルに次のスタイル項目を追記する。

.image-wrapper {
  display: block;
  clear: both;
  margin-block-start: 1em;
  margin-block-end: 1em;
  text-align: center;
}

.center-image {
  max-width: 100%;
  max-height: 100%;
  display: inline-block;
}

アップロード

以上の修正を行った EPUB ファイルを Kindle 本としてアップロードすれば、電子書籍として登録できる。

以上



Kindleで買える一松書院の本

続 韓国社会を掘る 著: 秋月望
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韓国社会を掘る 著: 秋月望
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原四郎と朝鮮 著: 秋月望
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三代の追想: 学而と致と徹 著: 秋月徹
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我、汝の名を呼べり: 秋月致随筆集 著: 秋月致
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 こんな話をX(Twitter)に書いたら、「いいね」が1,100個以上ついた。

1980年代の韓国旅行記でよく見かけた話だ。

食堂に入ると、壁に書かれたハングルがどうやらメニューらしい。

とりあえず一番大きく赤い字で書かれているものを指差すと、「ダメダメ」と手を振って断られた。

あとで、韓国語がわかる人と一緒に行ってみると、「ああ、あれは불조심ですね。火の用心のことですよ」と言われたという。

 

 この系統の話は、関川夏央の『ソウルの練習問題』(1983年1月)や、森枝卓士と朝倉敏夫の『食は韓国にあり』(1986年4月)にも出てくる。

 韓国ではありとあらゆるドアは開けてみるしかない。そうすれば必ず食堂にあたる。またそうしなければ食えない。
…中略…
 食堂を発見したら、席につき、壁に貼り出してある品書きのなかのひとつを選べばいい。よくわからなければ右側からひとつずつトライするのも悪くはない。もっとも、いちばん右側の札を指して、「あれをひとつ」と注文したら、店員が奥に駆け込み、やがて主人を伴って現われ、その主人が日本語で「お客さん、冗談おっしゃっちゃ困ります。あれは“火の用心”でして」といったという話もある。

関川夏央『ソウルの練習問題』

 

 このハングル、食べものがからむと余計、大きな悲劇が待ちかまえている。誰か通訳してくれる人間が一緒だといい。しかし、一人で食べに行くと先ず何があるのか分からない。それどころか、高級店はそれらしくて食べもの屋だと分かるが、庶民的な店だと本当にそんな店なのかさえも分からない。ハングルで何か書いてはあるが、店の作り自体、ガラス戸を閉めてあると代書屋かなんかの事務所みたいなのだ。
 とまれ、匂いとか人の出入りでそれと分かったとして、中に入る。次の問題はどう注文するかだ。壁にメニューは貼ってあるが、もちろんハングル。適当に「これっ」とやったら、『火の用心』か『スパイを見つけたら早く申告しましょう』という文句だったという小話は有名になったようだが、実のところ標語の方には値段が書いてないからすぐ分かる。スパイ申告の件なら賞金額が書いてあるが、何千万という桁だからこれもすぐメニューではないと分かるか、注文する気力がなくなる。

森枝卓士・朝倉敏夫『食は韓国にあり』

 

 関川は1981年に韓国を旅してこの本を書き、斬新な韓国へのアプローチとして注目された。森枝はICU在学中に、当時明大の院生で後に全南大学に留学する朝倉と出会った。1980年代前半に韓国滞在中の朝倉と一緒に韓国で取材・調査をして本を書いた。

 

 1970〜80年代、ソウル中心部からちょっと外れたところや地方都市では、商店や食堂、事務所のガラス戸に青いフィルムが貼られていて、中が見えないのが当たり前だった。メニューの看板も食品サンプルもなし。表のガラス戸を開けてみないと食堂なのか事務所なのか分からない。

 食堂の場合、小さな店ならコムタン専門とか、キムチチゲ・テンジャンチゲとか、冷麺の店とか、出せるものはだいたい決まっていた。大きめの食堂になると、メニューも多くなり、壁に値段と一緒に貼られていた。

 


 

 1968年には北の武装工作員がソウルの大統領官邸裏の山まで侵入する事件があった。1972年には朝鮮戦争後初の南北接触があり「南北共同声明」が出たが、その一方で政権に異論を許さないとして、「維新憲法」で民主化勢力を徹底的に抑え込んだ。

 

 朴正煕体制を安定させるキャンペーンの一環として、街にはさまざまな標語が貼られた。“火の用心(불조심)”もあちこちに。“スパイ通報は113・112(간첩신고는 113・112)”なんてのも至るところで目に入った。

 

 

 「火の用心」を注文してしまう話は、実は関川や森枝の本の10年ほど前、1971年5月号の『婦人公論』に出てくる。写真家・李剛が「漢字全廃」というエッセイの中で、プルチョシムを注文した観光客の話として書いている。

 ソウル市内の商店街を歩いても、漢字で書かれた看板は皆無といってよいほどみあたらない。昨年から今年にかけてほとんどがハングルに塗り変えられてしまった。漢字で書かれた看板が目につけばそれは〇〇飯店等漢字の国の店である。ハングルを読めない外国人には看板だけでは何を商う店なのか判らない。食堂のメニューも仮名ばかり、壁にプルチョシム(火の用心)と書いてあったのを食物の名と思って注文して笑われたという観光客の笑えない話を聞いた。

 

 どうやら、これが活字になった最初の例らしい。李剛は1971年3月刊『世界の旅:目で見る6(香港 マカオ 台湾 韓国)』で韓国部分を担当しており、この取材・撮影時に仕入れた話なのかもしれない。

 

 1970年前後、日本人の韓国旅行は団体ツアーが主流で、ハングルが読めないまま個人で旅行する観光客は珍しかった。他方で、日本人の駐在員や記者、大使館員は増えていた。ソウル日本人学校の前身の補習校ができたのが1970年。1972年5月には漢南洞で日本人学校が開校している。ちょうどその時期だ。

 

 食堂で「火の用心」を注文した観光客が何人もいたとは考えにくい。むしろ、韓国語ができない駐在員がハングルのメニューに苦労するなかで出回った“自嘲的小話”が元ネタ、という方が自然かもしれない。

 

 今では「プルチョシム」や「カンチョプシンゴ」の貼り紙を見ることもなくなった。食堂の窓はやたら大きくなり、中で何を食べているかまで丸見えの店が多い。おまけに今は写真を見ながらキオスクで注文するのが当たり前だ。

 

 「火の用心」を注文した笑い話でウケてもらうには、こうした時代背景の説明が必要かなと思って、長々と書い、失礼しました。