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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年8月11日に『東亜日報』が光煕町の名物としてとして取り上げたのは「ハエ」。

 

◇光熙町の住民の話によると、「この町の名物はハエだ」とのことです。どの家に入っても、人の家というよりハエの家とでも言いたくなるほど、ハエがうじゃうじゃいます。ハエは汚れた場所に集まるものですから、それを名物とするのは、町が不潔だと自ら認めているようなものです。悪風が吹く場所に、どうしてまともな灯りがともるでしょうか。
◇ハエは秋の終わりに卵を産み、そのまま越冬します。春になって暖かくなると、150匹ほどの子バエが孵化し、その子もすぐにまた卵を産みます。こうして、春に生まれた1匹の雌のハエは、秋までに約79億4,127万匹の「祖母」になるそうです。もしこのハエたちが捕まることも死ぬこともなく年を越したら、この世はハエに支配されることでしょう。
◇世界でハエが最も多い場所は、おそらく鴨緑江を越えた安東県(現在の中国・丹東市)でしょう。安東の街を通ると、地面が黒いのは土ではなく、ハエの群れなのです。光熙町のハエごときでは到底太刀打ちできないでしょう。

(写真:ハエを捕まえる日 毎月1日・15日)

 光煕町は、光煕門の西側で黄金町通り(現在の乙支路ウルチロ)の南側一帯。現在の住居表示でいうと中区チュング光煕洞クァンヒドンだが、ハエが多かったのは光煕門寄りの光煕洞2街あたりだったのだろう。「東横イン東大門第二の向かい側」あたりというと、分かる人が多いかもしれない。光煕門は、日本統治時代に上部の木造の門楼部分が崩落し、解放後もそのまま放置されていたが、1975年に石積み部分を南に15m移動させて上部の門楼を復元した。

 

 光煕門は、別名を「水口門スグムン」と言ったが、「屍口門シグムン」とも呼ばれた。漢陽ハニャンの城内で死者が出ると、この門から遺体を城外に運び出して埋葬したからだ。1920年代の半ばまで、光煕門の外には広大な墓地が広がり、見渡す限り土饅頭が並んでいた。

 

 

 地図上の「Tを逆さまにした記号」が墓地記号で、光煕門外一帯が墓地になっていたことがわかる。「火葬場」とあるのは、京城の日本人居留民会が設置したもので、遺体を火葬していた日本人用の施設もここに作っていた。

 

 しかし、墓地だからといってハエが多くなるわけはない。この墓地のそばに作られた汚物の集積場がその発生源だった。

 

 植民地化の過程で行われた土地調査事業で、この一帯の共同墓地区域は京城府の公有地に組み込まれた。その外側の土地は、所有者が特定できないとして東洋拓殖会社の所有になった。1922年、その東洋拓殖が所有していた土地の一部を京城府が買い上げて汚物堆積場としたのである。上掲の地図の(大峴里)という書き込みのある左側の平坦な部分がその場所になる。京城で出る糞尿を汲み取ったものを、この場所に集め、一部は堆肥として清渓川チョンゲチョン漢江ハンガン経由で農村部に送り出そうという計画であった。とは言っても、なかなかそううまくはいかなかったのだが…

 

 つまり、この時に光煕門は京城の住民の糞尿を運び出す門となり、運び出された大量の糞尿はその外に設けられた堆積場に集められたのである。その結果、光煕町は、ハエが名物というありがたく無い「汚名」を冠せられることになったわけだ。

 

 その後、1928年に、清渓川対岸の龍頭里ヨンドゥリに糞尿処分場が新たに作られ、東大門トンデムンから纛島トゥクソムまで糞尿を列車で運ぶ軌道が作られた。これが郊外線の「京城軌道」となる。1928年8月14日付の『京城日報』に、龍頭里の糞尿処分場と、馬車から糞尿を重機を使って貨車に積み換える東大門の駅の写真が出ている。

 

 

 この東大門駅と纛島を結ぶ軌道車も、やっぱりハエが大量発生して「파리차パリチャ(ハエ車)」と呼ばれていたという。

 

東大門の外に新名物
通称「ハエ車駅」
汽車か?といえばそうでなく、自動車でもありません。電車というより「トロリー」だが、架線がありません。馬が引いていた貨車のようなもので、数年前まで大量のゴミを積んで走っていた軌道車というものです。
四十万の市民が食べ残したクズや食べカスをひたすら片づけるために敷設されたこの車両が、今ではソウルと纛島を結ぶ、なくてはならない交通機関となり、毎日絶え間なくゴミの発生源──つまり人間──を運んでいます。
レールの敷かれた路盤が腐敗したゴミなので、少しでも暑くなるとハエが大量に発生し、近くに住む人々はこの車を「ハエ車(パリチャ)」と呼んでいます。
しかし皆さん、ご覧なさい。最近できたばかりのこの「ハエ車の駅」が昔のソウルの玄関口だった東大門を押しのけて、自分が東のソウルの玄関口だ…と言わんばかりではありませんか。

 ところで、光煕門の外側、新堂町の墓地と汚物堆積場の府有地15万坪は、1928年に京城府尹ふいん(府長)馬野精一が大阪の証券業者の島徳蔵に格安で払い下げた。1929年以降、墓地や火葬場、汚物堆積場は整地され、舞鶴住宅地などとして売り出され、その後周辺は宅地として造成されていった。この頃には、光煕町のハエも、もはや名物ではなくなっていたであろう。

 

 1924年8月3日の『東亜日報』に掲載された名物は、崇二洞スンイドンの自動車修理工場。

 

◇ブッブーと音を立てながら、白く濛々とほこりをまき散らして走る自動車、本当に勢いがあり威風があります。しかし、病には勝てないようです。崇ニ洞に「自動車修繕工場」という自動車の病院があるではないですか。これを見ても病には勝てるわけはないということです。
◇この工場は西洋人が経営しているそうですが、日本人の使い走りもいるとのこと。無敵な力、鉄のような体であっても、病をなくす修理をするものです。この町はもともと静かで清潔な町で、自動車のほこりのごときものは目にすることもなかったのですが、いつの間にか自動車修理工場なのか病院なのか、よく分からないものがやってきました。同じ自動車のほこりでも、ここに来る自動車のほこりは、自らの威厳を保つものではありません。
◇昼も夜もタカタカ音を立てながら走り回るのを見ると、自動車がただの浮浪者ではないことがわかります。浮浪者は他人を騙そうとする時には甘い言葉を並べ立てるものですが、この浮浪者はただブッブーというだけです。しかし、一度一緒に動いてみると昼夜を問わず心を奪われてしまうのですから不思議なものです。自動車の病気はここで治せますが、浮浪者の家が滅び、体がむしばまれるという大きな病気は、どこで治せというのでしょうか。

 この記事では、自動車修理の工場自体についてはほとんど触れられていない。自動車修理にかこつけて、日本に乗っ取られた朝鮮を「修理」できないと嘆いている。暗に日本の侵略を揶揄している、あるいは非難していると読むべきだろう。

 

 崇二洞は、秘苑ピウォン(今は昌徳宮チャンドックン後苑フウォン)の東側、現在の明倫洞ミョンニュンドン二街である。この記事が出た1924年当時には、南側に京城医学専門学校はあったが、まだ京城帝国大学の医学部と法文学部はできていなかった。清涼里チョンニャンニの予科は開校していたが、東崇洞トンスンドンの学部は1926年の開学である。

 

 

 1933年発行の『京城精密地図』でみると、この崇二洞41番地に「京城工業社」の表示がある。

 

 

 この「京城工業社」はジェームス・ヘンリー・モリス(James Henry Morris)がオーナーで、1925年に、合名会社を株式会社化している。上の『東亜日報』の記事に「工場は西洋人が経営している」とあるのと合致する。この会社には、自動車関係のビジネスを黄金町で展開していた日本人の金谷輔三も関係していた。

 

 

 J. H. モリスは1898年に大韓帝国にやってきた。当時、ジェームズ・モース(James R. Morse)が漢城ハンソン(ソウル)での電気事業と路面電車敷設の独占契約を結び、「漢城電気会社(Hansung Electric Company)」が設立された。J. H. モリスは、この時に路面電車工事のための技術者として招聘された。モリスは、路面電車の開通後も帰国せずにそのまま朝鮮に残留し、貞洞チョンドン21番地(現在の京郷新聞別館の場所)にモリス商会を開いて、水道施設や暖房施設、水力発電などの技術提供や自動車販売などを行なった。同時に、プロテスタントの宣教師による宣教活動にも間接的な支援などで関与していた。

 

貞洞21番地 モリス商会

 

 「The Korea Mission Field」の1917年8月号にはタイヤやランプの広告を出しており、1924年2月号には、自動車やモーターバイクの宣伝も出している。

* The Korea Mission Fieldは、朝鮮で活動していた宣教師が教派を超えて情報交換するために英文で発行されていた月刊雑誌

 

 

 自動車が大韓帝国に最初に持ち込まれたのは1903年、高宗コジョン皇帝の即位40周年記念として搬入されたものとされるが、道路などの走行環境が整っていなかったため、実用にはならないまま廃車になったようだ。だが、1910年代になると、自動車は急速に普及し始め、京城などの都市部ではかなりの台数の自動車が走るようになっていた。

 

 日本人の所有や利用が多かったこともあり、自動車の販売代理店は京城の中心部から南側に多く、自動車関係の工場は、京町(現在の三角地サムガクチから龍山ヨンサン)や元町(現在の元曉路ウォニョロ)に多かった。1934年の京城で、北部に立地していたのはこの崇二洞の「京城工業社」だけである。

 

京城府元町1丁日 石井自動車工場
京城府太平通2-60 堀電業所
京城府黃金町1-206 城東電池商會
京城府黃金町5-19 川崎自動車工場
京城府元町1-90 吉川鐵工所
京城府櫻井町1-102 楠本商店自動車部
京城府京町40 京城モータース株式會社ボデー工場
京城府崇二洞41 京城工業社
京城府古市町43 京城自動車サービス部
京城府寛勲洞196 帝國馬車自動車商會
京城府元町1丁目 昭和自勤車工作所

福島鉚太郎編『自動車関係者大鑑』自動車日日新聞社 1934

 

 上掲の地図にもあるように、崇二洞は、昌徳宮チャンドックン昌慶苑チャンギョンウォンに隣接していた。昌徳宮は、大韓帝国の最後の皇帝純宗スンジョンの居所だったし、熙政堂ヒジョンダンには電気の照明が設備され、正面玄関には車寄せがある。純宗が生前に昌徳宮で使用していたアメリカGMの1918年製キャディラック、それに皇后が使っていたイギリスの1914年式ダイムラーリムジンの実物は復元修理されて、現在は景福宮の古宮博物館で展示されている。

 

 

 ひょっとすると、「京城工業社」は李王職(旧大韓帝国皇室)の御用達で、それでわざわざ崇二洞に修理工場を置いていたのかも知れない。1926年に純宗が逝去すると、その翌年1月に、「京城工業社」の職工3人が辞めさせられて、ちょっとした騒ぎになった(『毎日申報』1927年1月7日)。純宗逝去によって業務内容に変化があったとも考えられるのだが…。

 

 ちなみに、J. H. モリスは、16mmフィルムで多くの映像を残したことでも有名である。

 

 J. H. モリスが66歳になった1939年、日中戦争以降の戦時体制下で日常生活にまで様々な制約がかけられるようになったため,モリスの一家は朝鮮を離れることになった。朝鮮で撮影したフィルムもこの時に搬出されたが、解放後、それらのフィルムはモリスの娘によって韓国に寄贈され、現在は上岩洞の韓国映像資料院に「Archives-Korea 1930-1940」として保存されている。1929年から1942年にかけて撮影した映像記録集で、1929年の朝鮮博覧会の晩餐会、1930年代初頭の金剛山クムガンサン旅行、平壌ピョンヤン元山ウォンサンのキリスト教病院や学校の様子、1936年の梨花学堂イファハクタン創立50周年記念式典や舞踊劇公演、文廟ムンミョ釈奠と京城神社祭典、1938年の徳寿宮トクスグンの芍薬花壇など多岐にわたる。5時間15分弱の映像は、韓国映像資料院のサイトのVODで観ることができる。

 

 

 『東亜日報』の1924年7月5日付に掲載された「洞・町内の名物」は、「茶屋町 妓生」。

 

茶坊コル(茶屋町)は、もともと裕福な人が多いことで都でも有名でした。しかし、それも昔のことで、今ではお金持ちの代わりに妓生が多いことで都中の評判です。妓生は朝鮮の名物です。国の名物が一つの町内に集まっているのですから、茶屋町だけの名物ではないのです。いずれにしても、一国の名物が茶屋町に集まっているのですから、名物の中でも格別で、値打ちのある名物です。
 京城全体で妓生が三百人ほどいるのですが、そのうち六十人が茶屋町にいるそうです。すごいと思いませんか? この名物を訪ねて、月の明るい夜ごとに、開け放たれた窓から漏れてくる銀の鈴のような歌声を聴こうと門の前に立つのも、花を愛で、柳を折るような風流な人であれば、一度はやってみる価値のある遊びでしょう。
 妓生もまた朝鮮の名物であるだけに、その歴史も由緒あるものです。かつては宰相や大臣も彼女たちに夢中だったのです。しかし、それもまた昔の話。今では一時間いくらで売られる安い身の上となり、心も通わぬ客の前で笑顔を売るようになってしまいました。笑顔を売り、ため息を買う哀れな彼女たちの境遇——そんな中でも、ここには、香るような色気で知られる平壌の妓生が特に多いそうです。

 文中では「茶坊コル」と書かれている茶屋町は、現在の茶洞タドン。ロッテホテルの向かい側、清渓川までのブロックで、今もまだ再開発に手がつけられてない裏路地に飲食店が残る一角。1924年には、この場所は妓生で有名だったというのだ。

 

 朝鮮王朝時代には、妓生キーセンは中央や地方の官庁に属する「官妓」だった。

 

 「キーセン」といえば、今だと「キーセン観光」とか「風俗系」を思い浮かべがちだが、妓生といえば「春香伝チュニャンジョン」。最近ではやや下降気味の感があるが、大衆的な知名度で日本の「忠臣蔵」になぞらえられることが多かった。全羅道チョルラド南原ナモンの官妓だった春香チュニャンが主人公の物語。岩波文庫『春香伝』のカバーには、

悪代官の意に従わない妓生の春香と両班の息子李夢龍イモンニョンとの熱烈な恋物語.18世紀初めにパンソリ演唱者により唱物語として創作されて以来,今日でも小説,映画・演劇等をつうじて広く愛好されている朝鮮を代表する文学作品.巧みなプロットに加えて,庶民の反抗精神やエロチシズムが見事に描かれた朝鮮古典文学の最高傑作といえよう

とある。

 

 解放後の韓国では「春香伝」は繰り返し映画化され、北朝鮮でも2回映画化されている。朝鮮での最初の映画化は、日本の植民地統治下の1923年。日本人の早川孤舟が脚色と監督、韓明玉ハンミョンオク金肇聲キムジョソンが春香と李夢龍とを演じた。朝鮮各地で上映され大人気を博したという。この『東亜日報』の名物の記事が出る前年のことだった。

 

 

 ところで、この「官妓」の制度は、日本が高宗コジョンを退位させて純宗スンジョンを即位させた1907年のハーグ密使事件の時期に廃止された。「官妓」ではなくなった妓生を管理するためとして、統監府は妓生組合を組織させた。「併合」前の1908年に、京城の妓生を中心に「広橋クァンギョ妓生組合」が設立された。さらに1913年には平壌ピョンヤン出身の妓生を中心とする「茶洞妓生組合」がつくられた。

 

 1914年、妓生組合は日本式の「検番」に変更されたが、朝鮮では「券番クォンボン」と呼称された。「広橋妓生組合」は「漢城ハンソン券番」に、「茶洞妓生組合」は「大正ハンソン券番」、のちに「朝鮮チョソン券番」に改称された。朝鮮の「組合」や「券番」は、料亭への派遣や料金の徴収・分配だけでなく、歌・舞・詩文などの訓練や教育、それに生活指導などまで行っていた。

 

 この「茶洞妓生組合」「朝鮮券番」が、『東亜日報』で茶屋町の名物としてこの記事に取り上げられたのである。1926年1月6日付の『東亜日報』には、「朝鮮劵番」の探訪記事が載っており、1915年の「茶洞妓生組合」の写真が掲載されている。

 

 

 

 『京城精密地図』(三重出版社京城支店 1933)で見ると、京城日報社・毎日新報社(現在のプレスセンター)の東側、茶屋町173〜175番地あたりに「朝鮮劵番」の書き込みがある。

 

 今、そのあたりは、まだ狭い路地が残っている。行列のできる有名店「武橋洞ムギョドン 북어국집プゴックッチップ」(干し鱈スープ専門店)のあるあたりがその場所になるようだ。

 

 

参考になる文献

藤永壯「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」(2002)
許娟姫「韓国券番成立過程の導入期に関する研究一日本の公娼制度との関係を中心に一」『人間文化論叢』第8巻 2005年