1924年8月3日の『東亜日報』に掲載された名物は、崇二洞の自動車修理工場。
◇ブッブーと音を立てながら、白く濛々とほこりをまき散らして走る自動車、本当に勢いがあり威風があります。しかし、病には勝てないようです。崇ニ洞に「自動車修繕工場」という自動車の病院があるではないですか。これを見ても病には勝てるわけはないということです。
◇この工場は西洋人が経営しているそうですが、日本人の使い走りもいるとのこと。無敵な力、鉄のような体であっても、病をなくす修理をするものです。この町はもともと静かで清潔な町で、自動車のほこりのごときものは目にすることもなかったのですが、いつの間にか自動車修理工場なのか病院なのか、よく分からないものがやってきました。同じ自動車のほこりでも、ここに来る自動車のほこりは、自らの威厳を保つものではありません。
◇昼も夜もタカタカ音を立てながら走り回るのを見ると、自動車がただの浮浪者ではないことがわかります。浮浪者は他人を騙そうとする時には甘い言葉を並べ立てるものですが、この浮浪者はただブッブーというだけです。しかし、一度一緒に動いてみると昼夜を問わず心を奪われてしまうのですから不思議なものです。自動車の病気はここで治せますが、浮浪者の家が滅び、体がむしばまれるという大きな病気は、どこで治せというのでしょうか。
この記事では、自動車修理の工場自体についてはほとんど触れられていない。自動車修理にかこつけて、日本に乗っ取られた朝鮮を「修理」できないと嘆いている。暗に日本の侵略を揶揄している、あるいは非難していると読むべきだろう。
崇二洞は、秘苑(今は昌徳宮後苑)の東側、現在の明倫洞二街である。この記事が出た1924年当時には、南側に京城医学専門学校はあったが、まだ京城帝国大学の医学部と法文学部はできていなかった。清涼里の予科は開校していたが、東崇洞の学部は1926年の開学である。
1933年発行の『京城精密地図』でみると、この崇二洞41番地に「京城工業社」の表示がある。
この「京城工業社」はジェームス・ヘンリー・モリス(James Henry Morris)がオーナーで、1925年に、合名会社を株式会社化している。上の『東亜日報』の記事に「工場は西洋人が経営している」とあるのと合致する。この会社には、自動車関係のビジネスを黄金町で展開していた日本人の金谷輔三も関係していた。
J. H. モリスは1898年に大韓帝国にやってきた。当時、ジェームズ・モース(James R. Morse)が漢城(ソウル)での電気事業と路面電車敷設の独占契約を結び、「漢城電気会社(Hansung Electric Company)」が設立された。J. H. モリスは、この時に路面電車工事のための技術者として招聘された。モリスは、路面電車の開通後も帰国せずにそのまま朝鮮に残留し、貞洞21番地(現在の京郷新聞別館の場所)にモリス商会を開いて、水道施設や暖房施設、水力発電などの技術提供や自動車販売などを行なった。同時に、プロテスタントの宣教師による宣教活動にも間接的な支援などで関与していた。
貞洞21番地 モリス商会
「The Korea Mission Field」の1917年8月号にはタイヤやランプの広告を出しており、1924年2月号には、自動車やモーターバイクの宣伝も出している。
* The Korea Mission Fieldは、朝鮮で活動していた宣教師が教派を超えて情報交換するために英文で発行されていた月刊雑誌
自動車が大韓帝国に最初に持ち込まれたのは1903年、高宗皇帝の即位40周年記念として搬入されたものとされるが、道路などの走行環境が整っていなかったため、実用にはならないまま廃車になったようだ。だが、1910年代になると、自動車は急速に普及し始め、京城などの都市部ではかなりの台数の自動車が走るようになっていた。
日本人の所有や利用が多かったこともあり、自動車の販売代理店は京城の中心部から南側に多く、自動車関係の工場は、京町(現在の三角地から龍山)や元町(現在の元曉路)に多かった。1934年の京城で、北部に立地していたのはこの崇二洞の「京城工業社」だけである。
| 京城府元町1丁日 | 石井自動車工場 |
| 京城府太平通2-60 | 堀電業所 |
| 京城府黃金町1-206 | 城東電池商會 |
| 京城府黃金町5-19 | 川崎自動車工場 |
| 京城府元町1-90 | 吉川鐵工所 |
| 京城府櫻井町1-102 | 楠本商店自動車部 |
| 京城府京町40 | 京城モータース株式會社ボデー工場 |
| 京城府崇二洞41 | 京城工業社 |
| 京城府古市町43 | 京城自動車サービス部 |
| 京城府寛勲洞196 | 帝國馬車自動車商會 |
| 京城府元町1丁目 | 昭和自勤車工作所 |
福島鉚太郎編『自動車関係者大鑑』自動車日日新聞社 1934
上掲の地図にもあるように、崇二洞は、昌徳宮・昌慶苑に隣接していた。昌徳宮は、大韓帝国の最後の皇帝純宗の居所だったし、熙政堂には電気の照明が設備され、正面玄関には車寄せがある。純宗が生前に昌徳宮で使用していたアメリカGMの1918年製キャディラック、それに皇后が使っていたイギリスの1914年式ダイムラーリムジンの実物は復元修理されて、現在は景福宮の古宮博物館で展示されている。
ひょっとすると、「京城工業社」は李王職(旧大韓帝国皇室)の御用達で、それでわざわざ崇二洞に修理工場を置いていたのかも知れない。1926年に純宗が逝去すると、その翌年1月に、「京城工業社」の職工3人が辞めさせられて、ちょっとした騒ぎになった(『毎日申報』1927年1月7日)。純宗逝去によって業務内容に変化があったとも考えられるのだが…。
ちなみに、J. H. モリスは、16mmフィルムで多くの映像を残したことでも有名である。
J. H. モリスが66歳になった1939年、日中戦争以降の戦時体制下で日常生活にまで様々な制約がかけられるようになったため,モリスの一家は朝鮮を離れることになった。朝鮮で撮影したフィルムもこの時に搬出されたが、解放後、それらのフィルムはモリスの娘によって韓国に寄贈され、現在は上岩洞の韓国映像資料院に「Archives-Korea 1930-1940」として保存されている。1929年から1942年にかけて撮影した映像記録集で、1929年の朝鮮博覧会の晩餐会、1930年代初頭の金剛山旅行、平壌・元山のキリスト教病院や学校の様子、1936年の梨花学堂創立50周年記念式典や舞踊劇公演、文廟釈奠と京城神社祭典、1938年の徳寿宮の芍薬花壇など多岐にわたる。5時間15分弱の映像は、韓国映像資料院のサイトのVODで観ることができる。






