『東亜日報』の1924年7月5日付に掲載された「洞・町内の名物」は、「茶屋町 妓生」。
茶坊コル(茶屋町)は、もともと裕福な人が多いことで都でも有名でした。しかし、それも昔のことで、今ではお金持ちの代わりに妓生が多いことで都中の評判です。妓生は朝鮮の名物です。国の名物が一つの町内に集まっているのですから、茶屋町だけの名物ではないのです。いずれにしても、一国の名物が茶屋町に集まっているのですから、名物の中でも格別で、値打ちのある名物です。
京城全体で妓生が三百人ほどいるのですが、そのうち六十人が茶屋町にいるそうです。すごいと思いませんか? この名物を訪ねて、月の明るい夜ごとに、開け放たれた窓から漏れてくる銀の鈴のような歌声を聴こうと門の前に立つのも、花を愛で、柳を折るような風流な人であれば、一度はやってみる価値のある遊びでしょう。
妓生もまた朝鮮の名物であるだけに、その歴史も由緒あるものです。かつては宰相や大臣も彼女たちに夢中だったのです。しかし、それもまた昔の話。今では一時間いくらで売られる安い身の上となり、心も通わぬ客の前で笑顔を売るようになってしまいました。笑顔を売り、ため息を買う哀れな彼女たちの境遇——そんな中でも、ここには、香るような色気で知られる平壌の妓生が特に多いそうです。
文中では「茶坊コル」と書かれている茶屋町は、現在の茶洞。ロッテホテルの向かい側、清渓川までのブロックで、今もまだ再開発に手がつけられてない裏路地に飲食店が残る一角。1924年には、この場所は妓生で有名だったというのだ。
朝鮮王朝時代には、妓生は中央や地方の官庁に属する「官妓」だった。
「キーセン」といえば、今だと「キーセン観光」とか「風俗系」を思い浮かべがちだが、妓生といえば「春香伝」。最近ではやや下降気味の感があるが、大衆的な知名度で日本の「忠臣蔵」になぞらえられることが多かった。全羅道南原の官妓だった春香が主人公の物語。岩波文庫『春香伝』のカバーには、
悪代官の意に従わない妓生の春香と両班の息子李夢龍との熱烈な恋物語.18世紀初めにパンソリ演唱者により唱物語として創作されて以来,今日でも小説,映画・演劇等をつうじて広く愛好されている朝鮮を代表する文学作品.巧みなプロットに加えて,庶民の反抗精神やエロチシズムが見事に描かれた朝鮮古典文学の最高傑作といえよう
とある。
解放後の韓国では「春香伝」は繰り返し映画化され、北朝鮮でも2回映画化されている。朝鮮での最初の映画化は、日本の植民地統治下の1923年。日本人の早川孤舟が脚色と監督、韓明玉と金肇聲が春香と李夢龍とを演じた。朝鮮各地で上映され大人気を博したという。この『東亜日報』の名物の記事が出る前年のことだった。
ところで、この「官妓」の制度は、日本が高宗を退位させて純宗を即位させた1907年のハーグ密使事件の時期に廃止された。「官妓」ではなくなった妓生を管理するためとして、統監府は妓生組合を組織させた。「併合」前の1908年に、京城の妓生を中心に「広橋妓生組合」が設立された。さらに1913年には平壌出身の妓生を中心とする「茶洞妓生組合」がつくられた。
1914年、妓生組合は日本式の「検番」に変更されたが、朝鮮では「券番」と呼称された。「広橋妓生組合」は「漢城券番」に、「茶洞妓生組合」は「大正券番」、のちに「朝鮮券番」に改称された。朝鮮の「組合」や「券番」は、料亭への派遣や料金の徴収・分配だけでなく、歌・舞・詩文などの訓練や教育、それに生活指導などまで行っていた。
この「茶洞妓生組合」「朝鮮券番」が、『東亜日報』で茶屋町の名物としてこの記事に取り上げられたのである。1926年1月6日付の『東亜日報』には、「朝鮮劵番」の探訪記事が載っており、1915年の「茶洞妓生組合」の写真が掲載されている。
『京城精密地図』(三重出版社京城支店 1933)で見ると、京城日報社・毎日新報社(現在のプレスセンター)の東側、茶屋町173〜175番地あたりに「朝鮮劵番」の書き込みがある。
今、そのあたりは、まだ狭い路地が残っている。行列のできる有名店「武橋洞 북어국집」(干し鱈スープ専門店)のあるあたりがその場所になるようだ。
参考になる文献
*藤永壯「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」(2002)
*許娟姫「韓国券番成立過程の導入期に関する研究一日本の公娼制度との関係を中心に一」『人間文化論叢』第8巻 2005年




