裁判と弁護団
朴正煕大統領暗殺事件の二日後、1979年10月28日、陸軍参謀総長・鄭昇和によって合同捜査本部長に任命された陸軍保安司令部司令官・全斗煥が、事件の捜査結果について記者発表を行った。
KBS映像実録(日本語版)より
事件から40日後の同年12月4日午前10時、三角地にあった陸軍本部内の陸軍戒厳普通軍法会議の法廷で、8人の被告に対する裁判が始まった。
被告8人のうち、金載圭の随行秘書官・朴興柱だけが現役の軍人(大佐)であった。しかし、非常戒厳令下にあることを理由に、全員が軍法会議で裁かれることとなった。
この裁判では、主犯の金載圭の弁護人が21名、被告全体では31名の弁護士が弁護にあたった。その中心となったのが太倫基弁護士である。1918年生まれの太倫基は、1942年に明治大学法科を卒業し、満州国高等文官資格考試に合格して満州に渡った。だが、翌年、西安で韓国光復軍に入隊した。1945年の解放後に朝鮮に戻り、米軍政下で警備士官学校に入り、陸軍の法務官となった。1955年に大佐で現役を退いた後は弁護士を開業。1970〜80年代には、でっち上げられた在日韓国人スパイ事件の弁護などを積極的に引き受け、反独裁の弁護士として活躍した。この大統領暗殺事件の裁判の時は、すでに還暦を過ぎていたが、金載圭だけでなく、朴興柱の弁護を担当した。
映画「大統領暗殺裁判」でチョ・ジョンソクが演じたチョン・インフ弁護士のモデルがこの太倫基だとされる。ただ、ウ・ヒョンが演じた弁護団団長イ・マンシクの方がむしろ年齢的には近い。俳優のウ・ヒョンは、映画「1987、ある闘いの真実」では、ソウル大生朴鍾哲を殺した治安本部の本部長役を演じた。だが、実際のウ・ヒョンは1987年当時、延世大学の学生運動のリーダーの一人で、李韓烈君追悼集会の際には太極旗を片手に黙祷していた。映画「1987」が封切られると、この写真がネット上でも話題になった。そのウ・ヒョンが、この「大統領暗殺裁判」では、弁護団団長のイ・マンシクを演じている。
弁護団は第一回公判で、「10・26事件は非常戒厳令の宣布以前に発生した事件であり、戒厳普通軍法会議ではなく、通常の裁判所で審理されるべきである」とする裁定申請を提出した。しかし、大法院(最高裁判所)はこれを認めず、審理は軍法会議で続行された。民間人の被告には控訴・上告が可能な三審制が適用されたが、現役軍人であった朴興柱には控訴ができない一審制が適用された。
朴興柱の弁護では、彼の誠実で家庭的な人柄、権力中枢に近い地位にいながらも質素な生活を送っていたことに焦点を当て、死刑を回避しようとした。彼は毎朝出勤前に子どもたちに一人ずつキスをし、事件前日には学芸会で王様の役を演じる娘のために自ら王冠を作ってやったという。暮らしていたのは、貧民街の一角にある11坪の小さな借家だった。
しかし、弁護士による情状酌量を求める弁護方針に対して、朴自身は「答えたくない」と反発し、軍人としての矜持を示した。
太倫基弁護士とのやり取り
再開発前の杏堂洞
Songhak Maeulより転載(임충의撮影)
こうした法廷内でのやり取りを受けて、韓国日報の記者・権周勳が杏堂洞の朴興柱の自宅を突き止め、家族の写真を撮影した。このとき、長女の惠英は、父が作ってくれた王冠を片手に、妹の次女・惠恩とともに「朴興柱、うちのお父さんを助けてください」と書かれた幕を掲げ、カメラの前に立った。惠英は当時小学5年生、惠恩は小学3年生であった。
判決と死刑執行
公判開始から14日目の1979年12月18日、軍法会議は、内乱目的殺人および内乱首謀未遂罪で金載圭に、また内乱目的殺人および内乱幇助未遂罪で金桂元、朴善浩、朴興柱、李基柱、柳成玉、金泰元に対し、いずれも死刑を求刑した。
12月20日、被告7人に対し、求刑通りの死刑判決が言い渡された。
この判決により、現役軍人であった朴興柱の死刑が確定した。朴以外の6人は直ちに控訴し、1980年1月の控訴審でも6人全員に死刑が宣告されたが、秘書室長の金桂元については、内乱に加担していなかったとして、戒厳司令部が無期懲役に減刑した。被告全員は大法院に上告した。
朴興柱は、城南市の南漢山城近くにある陸軍刑務所に死刑囚として収監された。妻の金妙春は、収監中に3回の面会を許された。2回目の面会には娘の惠英と惠恩を、3回目には生後10ヵ月の息子を連れて行った。
朴興柱は、結婚10年目に授かったその息子を抱き、別れ際に妻の手にそっと何かを握らせた。金妙春は、それを差し入れの弁当箱の空き容器の中に隠し、刑務所を出てから開けてみると、そこには家族に宛てた手紙が入っていた。キムチの汁で滲んでいたが、なんとか読み取ることができた。
その手紙には、こう綴られていた。
この世の如何なる言葉が、あなたの慰めになり得ましょうか。ただ、あなたがこの悲しみを強く乗り越え、愛する我が子のために毅然として耐えてくれることを願うばかりです。
親になるのはたやすいことでも、親としての務めを果たすのは本当に難しいものですね。私がその務めを全うできなくなってしまうとは…。
けれども、賢母のもとで立派な人が育ったことを思い起こせば、すべての重荷をあなたに託すことになってしまうとしても、一方で、子どもたちにとって幸いなことではないかとも思います。
子どもたちには、お父さんが当然なすべきことをしたのだということ、そして当時の状況もそのようなものだったということを、よく理解させ、劣等感に陥らぬよう誇りを持たせてあげてください。
これから生きていく家族のために、言いたいことをすべて伝えられなかったけれど、世の中は知るべきことを必ず知るようになるでしょう。
そして、この社会が死んでいないならば、私たち家族をそのままにはしておかないでしょう。精神的にも経済的にも支えてくれると信じています。
たとえそうでなかったとしても、毅然として堂々と生きていけばよいではありませんか…
そして、娘たちに宛てて、こう記していた。
ヘヨン、ヘウンへ、
最後に大事なことを一つだけ言っておく。
選択をちゃんとするように。
私たちが生きていくうえで最も重要なのは、どう選択するかということではないだろうか。
自分の判断で選択したなら、その責任は選んだ人が否応なく負うことになる。後悔しないよう、計画性があり合理的な判断のもとに、着実で賢明な選択をするようにしなさい…
1980年3月6日、京畿道始興郡蘇莱面の第33師団遊撃訓練場において、銃殺刑が執行された。一審判決からわずか75日後であり、内乱首謀の金載圭の上告審が進行中であるにもかかわらず、幇助にとどまる朴興柱の死刑が先行して執行された。
遺体は遺族に引き取られ、家族・親族、ソウル高校の同窓生らによって、京畿道抱川市蘇屹邑二東橋里の東信教会墓地に埋葬された。
5月20日、大法院全員合議体は、金載圭らの上告を棄却し、金桂元を除く5人の死刑が確定した。金載圭、朴善浩、李基柱、柳成玉、金泰元の5人は、5月24日、西大門刑務所で絞首刑に処された。
このとき、全羅南道の光州では、戒厳軍が民主化を求める学生や市民に発砲するという、流血の惨事が起きていた。報道規制が敷かれるなか、新聞各紙は23日、光州での事態を大きく伝えたものの、軍による市民への発砲や虐殺については報じることができなかった。そして翌24日、金載圭ら5人の死刑執行は、新聞の一面トップで大きく取り上げられた。

再審請求
1987年に「民主化宣言」がなされ、2000年1月には「民主化補償法」が制定された。この法律は、軍事独裁政権時代に緊急措置や戒厳令などによって不当に逮捕・拘束された被害者を救済する道を開くものであった。金載圭やその部下たちの遺族も、そうした時代の流れのなかで名誉回復を模索したことがあった。
現役軍人以外の死刑囚については、死刑執行から3年が経過した時点で、通常の半額程度ではあるが、公務員年金法に従って遺族に年金が支給された。しかし、現役軍人であった朴興柱の遺族には、年金の支給は一切なされなかった。現行法では、現役軍人が禁錮以上の刑を受けた場合、年金の支給資格を失うためである。そのため、2000年には、陸士18期の同期生たちを中心に、朴興柱大佐の名誉回復と、年金支給・国立墓地への改葬を求める会が結成された。妻の金妙春も、国防部長官宛に国立墓地への埋葬を求める嘆願書を提出したことがある。しかし現在に至るまで、朴興柱は「内乱幇助者」という烙印を背負ったままである。
2020年、中央日報系列のテレビ局JTBCは、10・26事件の一審・二審裁判において法廷で録音されたカセットテープ53本(総計128時間分)をはじめ、裁判記録や捜査記録を入手した。これらは、本来裁判終了後に廃棄されるはずだったが、陸軍本部の関係者が密かに保管していたものである。その中には、これまで未公開だった現場検証の写真や映像、およそ200枚も含まれていた。
JTBCは、これらの資料を精密にデジタル復元・整理した上で、2020年5月21日放送の報道番組「イ・ギュヨンのスポットライト」で音声の一部を初公開した。番組では、法廷での金載圭や関係者の肉声が40年ぶりに明らかにされ、その証言内容や法廷の雰囲気が生々しく伝えられた。放送後、韓国社会では再び10・26事件と金載圭の動機・責任に対する関心が高まり、専門家や市民の間で事件の再評価を求める声も広がった。
そして、2020年5月26日、金載圭の遺族と再審弁護団は、保安司令部がメモを使って裁判に介入した事実などが録音テープにより明らかになったとして、ソウル高等裁判所に再審を請求した。
2024年4月から7月にかけて、3回の審問が行われた後、2025年2月、ソウル高等裁判所は金載圭に対する再審開始を決定した。戒厳司令部の捜査において、殴打や電気拷問などの暴行・過酷な行為が存在したと認定され、「内乱」に関する自白の任意性に疑義があると判断されたのである。
奇しくも、2024年12月3日に尹錫悦大統領が発した非常戒厳令が「内乱」に該当するとして弾劾され、大統領罷免の審判が進行するなかで、もう一つの「内乱」に関する司法判断が下されたことになる。検察は大法院に即時抗告したが、大法院は2025年5月13日にこれを棄却し、再審開始が確定した。
7月16日、金載圭に対する再審初公判がソウル高等裁判所で開かれた。この日の法廷には、金載圭の妹・金貞淑が出廷し、意見陳述を行った。金載圭側の弁護団は、朴正煕大統領の死を受けて発令された非常戒厳令は違憲・違法であり、当時の保安司令部には金載圭を逮捕・捜査する権限がなかったと主張した。
次回の再審公判は、9月5日に予定されている。
再審請求は被告個人に対してなされるものであり、金載圭の再審の結果がそのまま他の被告の裁判結果に影響を及ぼすわけではない。しかし、金載圭に適用された内乱目的殺人および内乱首謀未遂に関する「内乱」の法的判断は、内乱目的殺人および内乱幇助未遂で死刑となった5人の法的評価だけでなく、歴史的な再検証にも直結する。
朴興柱の妻・金妙春が長年望んできた名誉回復や年金支給、そして朴興柱自身が生前から願っていた国立墓地への改葬も、ようやく現実の可能性として見えてきたのである。





