京城の捕虜収容所 その2 | 一松書院のブログ

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※これは「その2」です。

京城の捕虜収容所 その1からお読みください。

 

 京城の青葉町3丁目100に置かれていた捕虜収容所については、そこに収容されていたオーストラリア軍兵士John D. Wilkinsonが、「Sketches of a P.O.W. in Korea」という書物を、帰国後の1945年にメルボルンで刊行している。その本は、現在NATIONAL LIBRARY OF AUSTRALIAのサイトでPDFファイルが公開されている。

 

 その中に、旧岩村製絲を改修した収容所の配置図、外観と内部のスケッチが残されている。

また、イギリス軍の北ランカシャー連隊のAlfred Kirk伍長も京城の捕虜収容所のスケッチを残している。Alf Kirk's Wartime Story

 

 これらを『大京城府大観』の地図と比較するとレンガ建ての4階建ての建物をそのまま使っていたようである。

この岩村製絲の写真は、1937年に京城の中央情報鮮満支社が刊行した『大京城寫眞帖』(韓国中央図書館所蔵)75ページに「岩村組京城出張所」として掲載されている。

これには高い煙突が写っており、『大京城府大観』のイラストと一致する。製糸工場では、繭から糸を繰り出す工程で使う大量の湯をボイラーで沸かすが、その排煙で生糸が汚れないように非常に高い煙突が設置されていた。収容所に改修する際に、その煙突と周辺の繰糸場や乾燥場を撤去してグラウンドにしたものと考えられる。

 「京城日報」掲載の収容所到着時の写真

 

また、Center for Research Allied POWS Under the Japaneseのサイトには、京城の捕虜収容所に関する使用が掲載されている。

 

 

 ところで、1942年9月26日付の連合軍捕虜の龍山到着と収容所までの移動を伝える「京城日報」の記事の中に「半島出身俘虜監視員」というのが出てくる。

 

 1942年2月28日に朝鮮軍参謀長が「半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃シテ必勝ノ信念ヲ確立セシムル為」として陸軍省に朝鮮に連合軍捕虜の収容所を置こうとしたのと同時期に、朝鮮人を捕虜監視員とすることが画策され始めた。当時、朝鮮人、すなわち「旧大韓帝国内に本籍がある日本人」は徴兵の対象とはなっていなかった。しかし、戦局の悪化とともに、労働力・兵力の補充が間に合わなくなりつつあった。その結果、植民地支配機構を最大限利用した「募集」「官斡旋」「徴用」というかたちで朝鮮人労働力を動員した。

 「俘虜監視員」というのは、軍属として日本軍の末端で使役される人員で、朝鮮内の収容所だけでなく、東南アジア方面に広く展開する日本軍の捕虜収容所の監視業務に当たらせることが目的であった。

 1942年5月24日付の「毎日新報」に募集要件などが掲載された。また、日本語の「京城日報」にも同内容の記事が掲載された。

 

 「俘虜監視員」の採用対象としては、20歳から35歳までの小学校(国民学校)卒業者とし、2ヶ月程度の訓練ののち軍属の身分で現地に派遣する方針が示された。朝鮮軍倉茂報道部長は、「特に折角特別志願兵を志望しながら採用されなかった者や将来の飛躍を期して欧米人を研究しようとの熱意を持つ青年はこの絶好の機を逃さぬよう希望する」と書いている。さらに、6月2日付の「朝日新聞(中鮮版)」にはより詳細な募集要件がある。

  1. 年齢20歳以上35歳までの半島青年
  2. 身体強健、とっくに伝染病疾患なく勤務に耐えうるもの
  3. 国語常用者(国民学校4年修了以上のものを主とする)
  4. 在郷軍人(昭和13年度徴集の現役兵で本年の除隊のものを除く)、本年度志願兵第1次検査の合格者でないもの

    採用は総督府の指令で各府郡庁が行う

 この6月2日付の「京城日報」の記事では、「定員の10倍の応募者」とあり、京城では非常に多くの応募者があったと報じられている。

 実は、この同じ時期に、朝鮮人にも徴兵令が適用されるという閣議決定がなされ、それが「毎日新報」や「京城日報」で報じられていた。閣議決定は5月8日、各紙は5月10日付の社説でこれに言及している。

 

 実際に、朝鮮人の最初の徴兵検査が行われるのは、1944年4月1日なのだが、軍属で2年間勤務していれば徴兵を免れることができるという目算が作用したという可能性は高い。また、積極的に応募したもの以外に、地方では応募を面長に強制されたり、仕方なく応じたりしたものなど、その動機や応募形態は様々だったことが明らかになっている。自発的な応募もあったが、この時期からすでに強要や強制で動員されることになったケースもあったのである(内海愛子『キムはなぜ裁かれたか』朝日選書 2008)。

 

 このようにして集められた3016人の俘虜監視員は、6月16日から8月17日までの2ヶ月間、「釜山西面臨時教育隊」で教育されることになった。教育隊の隊長は野口譲大佐。のちの朝鮮俘虜収容所長である。

 ここでは、俘虜監視員はひたすら日本軍の初年兵教育と同じような訓練を受けた。無条件の服従と繰り返される体罰。捕虜に関する国際条約などには触れられることもなく、ひたすら鉄拳とビンタ。上官も「捕虜の処遇」というものについて全く無知であったであろう。

 そして彼らは軍属として朝鮮内の捕虜収容所に配置され、東南アジア一帯の捕虜収容所に送られていった。彼らの中には、日本の敗北後、捕虜虐待などを理由にBC級戦犯として死刑に処せられたり、懲役刑で服役することになったものも少なくない。しかし、その時点で、「日本人ではなくなった」という理由で、「家の方のことは心配ないよう充分考慮されることはもちろんだ」という倉茂報道部長の約束は、戦後の日本政府に忘れ去られたまま、今日に至るまで捨て去られている。

 
 朝鮮俘虜収容所長野口譲は、敗戦後、巣鴨プリズンに収監され、戦争犯罪で重労働22年の判決を受けた。その後8年間拘束されたのち釈放された。