京城の捕虜収容所 その1 | 一松書院のブログ

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 京城にあった三坂小学校の同窓会で「三坂会」という組織があった。
 私の母は1935年(昭和10)三坂小学校卒業。今年で96歳になる。敗戦の年1945年の3月に卒業した人たちが最後の卒業生となるが、今は80も半ばを越えているはずだ。「三坂会」はすでに活動を停止して久しい。
 

 三坂小学校は、京城の三坂通、現在の厚岩洞フアムドン三光サムグァン初等学校の場所にあった。植民地支配下の1922年の第二次朝鮮教育令で、「国語(日本語)を常用する者」と「常用しない者」の教育が分離された。「小学校」に通うのはほぼ全てが内地人であり、朝鮮人の初等教育は「普通学校」で行われた。三坂小学校も、教員は校長以下全て内地人で、児童は「日本語を常用する」と認定された極めて少数の朝鮮人児童を除き、ほぼ全てが内地人であった。


 1910年の「日韓併合」で、それまでの大韓帝国国民の国籍は「日本」となった。好むと好まざるとにかかわらず。しかし、同じ「日本」という国籍を有するとはいえ、旧大韓帝国内に本籍があるものと、いわゆる「内地」に本籍があるものとが、同一に扱われたわけではない。前者は「朝鮮人」(あるいは見下して「半島人」「鮮人」)と呼ばれ、後者はそれと区別する意味で「内地人」という呼称をしばしば用いた。1895年に日本に組み込まれた台湾でも同様である。「参政権」「教育」「徴兵」など社会生活の基幹部分で、「外地人」には「内地人」とは異なる制度が適用された。すなわち戸籍に書かれた本籍によって、どの種の「日本人」として管理されるかが決まるのである。さらに戦前の戸籍法では、本籍の変更は原則として認められなかった。それゆえ、どれだけ「親日」的であろうと、日本語を常用する生活を送っていようと、「朝鮮人」「台湾人」が「内地人」になることはなかった。


 三坂小学校は、内地人の教員と内地人の児童、そしてごく少数の朝鮮人児童の学校だった。それゆえ、日本の敗戦と同時に、教員や卒業生・在校生のほぼ全員が「引揚げ」というかたちで朝鮮から退去することになった。
 敗戦で日本に引揚げたその三坂小学校の卒業生の有志が1953年に集まって「三坂会」という同窓会が日本でできた。1983年に発足30周年を記念して『鉄石と千草 京城三坂小学校記念文集』を刊行した。「鉄石」「千草」というのは、三坂小学校の運動会の歌の歌詞に由来するものである。

 この『鉄石と千草』には、植民地統治下の京城についての貴重な様々な情報があちらこちらに載せられている。

 

 ここで取り上げるのは、1945年卒の五丹智子(現姓佐藤)が書いた「軍隊とともに育った私の三坂時代」の中の一節である。

私たち一家は、私が学齢に達した春に、全羅北道の小さな邑から京城に移住してきた。(中略)梨泰院の高台の家からは歩兵第二二・二三部隊が真下に見えた。

 五丹智子は、陸軍病院の前を通り、歩兵連隊・野砲隊の兵舎や官舎の間をぬって三坂小学校に通っていた。龍山駐屯地の第20師団の麾下にあったのは、実際には、歩兵第78連隊と歩兵第79連隊、それに野砲兵第26連隊で、「歩兵第22・23部隊」とあるのは五丹智子の記憶違いであろう。
 日本軍の射撃場も五丹智子の遊び場であった。現在、南山ナムサンの3号トンネルと2号トンネルの漢江側の出口の東側に梨泰院イテウォン住公ジュゴンアパートと南山テリムアパートがある。ここが再開発される1990年代初めまでは、韓国軍初の軍人グニンアパート(1964年建設)があり、ここが植民地時代に日本陸軍の射撃場であった場所である。
 五丹智子の住まいは現在の国軍管理団クックンクァルリダン後方の高台にあったのではなかろうか。

その頃になると、厩舎の軍馬も、柵越しに幼稚な手紙を喜こんで受け取つてくれた兵隊さん達も、とうに私の周囲から消えていた。
例の大路を四列縦隊になった捕虜のー隊が進んで行くのに出遇った。アメリカ兵は背が高く、引率の下士官が子供のように見え、一瞬“叛乱の構図”に目が眩むようであったが、たった二人の日本兵の監督の下に、隊は黙々と私達の前を行進して行ったのだった。
捕虜が道路わきに防空壕掘りをさせられると、片言のアメリカ兵にも低学年の子供達は忽ちにして打ちとけた。双方の会話はコンニチワサヨウナラから始ったらしいが、「コンナアナ ホッテモ ダメデス アメリカノ バクダン ツヨイヨ」などと言われると、慌てて敵愾心を湧かせてやり返していた。さすがに私達になると“生きて虜囚の辱めを受けず”という戦陣訓を知っており、捕虜達の陽気さが腑に落ちなかった。

「その頃」というのは1943〜4年であろう。龍山の第20師団は、1943年1月に東部ニューギニア戦線に投入された。第20師団の歩兵78連隊と79連隊それに野砲兵26連隊が中部ニューギニアのウェーワクに上陸したのは1月19日から2月上旬にかけてのことであった。1943年年初から、龍山の「兵隊さん達」は姿を消していた。ちなみに、第20師団は、翌1944年1月に、食糧・装備のない中で3000メートル級のフィニステール山脈を山越えで島の反対側に退却するという無謀な逃避行軍を敢行し、3500名以上の将兵がここで命を落とした。

 野砲兵26連隊の衛生伍長だった私の伯父も、フィニステール山脈から下りてくることができなかった。1942年12月、恵化町の家で2度目の召集令状を受け取り、年明け早々龍山からニューギニアに行き、昭和19年1月20日に「戦死」したことになっている。


 まさにその頃、京城の街中にアメリカ軍の捕虜がいて、その捕虜と日本語で会話したと五丹智子が書きのこしているわけである。
 

 手近な新聞データベースを調べてみると、1942年8月23日付の「毎日新報」に次のような記事が出てきた。確かに、京城に連合軍の捕虜収容所があったのだ。「京城日報」にも同じ記事が出ている。

 

 また、1943年2月15日の「毎日新報」にイギリス軍捕虜の記事が出ていて、「京城日報」に「在鮮英俘虜にきく」という座談会記事が掲載されている。

 

 さらに、こんな映画も上映されていたらしいこともわかった。この宣伝の右部分、3月8日封切りの大本営検閲済・安夕影編「朝鮮に来た俘虜」という映画がそれである。安夕影は「沈清伝」の脚本・監督などで朝鮮映画界でも著名な映画人だったが、この時期には日本の国策映画を制作せざるをえなくなっていた。


 

 国会図書館のデジタルデータを検索したら「GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section=連合国最高司令官総司令部国際検察局文書」の中に、朝鮮の捕虜収容所関係の資料があった。


 1942年2月28日に朝鮮軍参謀長が陸軍省次官に送った電文には次のようにある。

半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃シテ必勝ノ信念ヲ確立セシムル為頗ル有効ニシテ総督府及軍共ニ熱望シアルニ付英米俘虜各一千名ヲ朝鮮ニ収容セラレ度特ニ配慮ヲ乞フ

 これに対する陸軍省次官からの回電案(1942年3月5日)には、

俘虜収容ノ件白人約一千名ヲ釜山ニ送附セラルル筈時機其ノ他細部ニ関シテハ後報

朝鮮ニ俘虜収容ノ件
 

 この段階で、朝鮮に連合軍捕虜を移送することが決定した。「半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃」するため、すなわち白人の捕虜を朝鮮人の目にさらすことによって、朝鮮の人々に「日本民族」の優越性を印象づける宣伝に利用しようとしたのである。こうしたことは明らかに国際条約に抵触する。1929年7月27日にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」について、日本は署名はしたものの軍部の反対によって批准は見送られた。ただし、日本は俘虜待遇条約を「準用」するとは明言していた。しかし、当時の軍部だけでなく日本全体で国際法を守るという意識は希薄であった。

 この時移送されることになった捕虜は、この年2月のシンガポールをめぐる戦闘で日本軍に投降したイギリス軍とオーストラリア軍の約8万人の捕虜と、それ以前のマレー半島で捕虜になった将兵の一部であった。それゆえ、上述のシンガポール「陥落」一周年の記事に捕虜が登場させられた座談会記事などが掲載されたのである。

 五丹智子の「アメリカ兵」というのは誤解で、言葉を交わしたのはイギリス軍かオーストラリア軍の捕虜だったのであろう。

 当初の朝鮮軍からの電文では、捕虜収容施設の候補として京城の神学校と平壌の外国人学校などをあげていた。しかし、陸軍次官からの電文で「予定建物ハ俘虜ノ取扱上優遇ニ過ギザルヤ別ニ研究ノ上案ヲ具シ報告セラレ度」と難色を示されたため、京城での収容施設は「元岩村製糸倉庫ヲ増改築ス」と変更され、ここに500名、さらに仁川に第二収容所を設けてこちらに500名を収容するものとした。

 上述のように、陸軍省の捕虜収容所設置の発表は1942年8月22日で、その翌日付の新聞で報じられているが、官報で「俘虜収容所設置」が告示されたのは同年11月4日付である。ここに収容所の住所が掲載されている。



京城府青葉町三丁目百番地は、1936年の『京城精密地図』では赤マルの場所である。



 もともと、この地番の場所には、製糸業を営む可部商会が1927年に本店・工場を置いた。しかし、1932年に可部商会は倒産し、競売にかけられた工場を三井物産が落札して傘下の東洋製絲が引き継いだ。だが、生糸業界の不況もあって1932年6月以降休業状態が続き、女子労働者の争議も起こった。1934年に岩村製絲所がここでの操業を再開したが、岩村製絲所は1940年に工場施設を全面的に江原道春川に移し、そこで工場財団の登記をしている。そのため、1940年以降は、青葉町の岩村製糸場跡地は使われなくなっていた。『大京城府大観』では「岩村製絲場」となっているこの施設を改修して捕虜収容所としたのである。

 

 現在、その場所(서울시 용산구 청파동 3가100)は信光シングァン女子高校の校地になっている。


 1942年8月16日にイギリス軍とオーストラリア軍の捕虜約1000名が福海丸に乗船、9月24日朝に釜山港に到着した。そのうち500名は翌9月25日午後0時半に龍山駅に到着。龍山駅から三角地・京町を経て龍山警察署の前から元町一丁目の順路で、多くの内地人・朝鮮人が沿道に人垣を作る中を青葉町の収容所まで1時間徒歩行進をされられた。残り500名の捕虜は、永登浦駅で分離されて仁川に向かい、仁川駅前から朝鮮部収容所分所まで衆人環視の中での行進を強いられた。

 

 当時の「京城日報」は、連合軍捕虜の釜山到着と京城での収容所までの移動の模様を次のように伝えている。

 

 ここは、朝鮮人よりも内地人が居住する地域である。朝鮮人だけでなく、内地人にも、白人軍人への優越的意識を持たせたいという意図もあったのではなかろうか。

 

 イギリス軍やオーストラリア軍の将兵は、捕虜になった当初から数ヶ月間、号令その他は全て日本語でやらされており、言語の応用力の高い将兵は、朝鮮に到着した時点ですでに簡単な日常会話はできるレベルに達していたのであろう。

 

 五丹智子が白人兵士と片言の日本語で会話したというのも、これで充分納得できるのである。

 

つづく