孝昌公園 三義士墓域と金九墓所 | 一松書院のブログ

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 ソウルの地下鉄6号線に孝昌公園前ヒョチャンコンウォンアップという駅がある。この駅から徒歩で7~8分北に上がると孝昌公園が広がっている。ソウル駅の南西側でソウル駅からも歩ける距離にある。もともとは22代王正祖の長男文孝世子ムンヒョセジャの墓所だったが、1940年に墓所を移して公園とされた。当時は、公園の南側一帯には朝鮮鉄道局の官舎があって日本人が大勢住んでいた。

 

 

 1945年、日本の植民地支配が終わると、この孝昌公園には抗日運動の闘士や韓国独立に関わった人々が葬られ、追慕の場となった。
 

 この孝昌公園には「三義士墓域」があって、李奉昌イボンチャン尹奉吉ユンボンギル白貞基ペクチョンギの3人の墓がある。向かって一番左は、安重根アンジュングンの墓域。旅順で処刑された後の埋葬地がいまだ不明で遺骨を移葬できていないため、仮の墓ということになっている。

 

 

 李奉昌は、抗日組織韓人愛国党のメンバーで、金九キムグから資金援助を受けて日本に渡り、1932年1月8日、代々木練兵場での陸軍観兵式からの帰路にあった天皇の馬車の車列に手榴弾を投げた。警視庁正門前で起きたので「桜田門事件」と呼ばれる。手榴弾は天皇の馬車のはるか前方で炸裂し、所期の目的を果たすことなく終わった。

 

 

李奉昌はその場で逮捕され、大逆罪で10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。

 

 

 この年、上海でも日本の要人を狙った襲撃事件が発生した。1932年4月29日の天長節(天皇誕生日)に上海の日本人街虹口公園で行われた祝賀式典会場で、尹奉吉が貴賓席に手榴弾を投げ込み、上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将ら二人が死亡、多数が重傷を負った。尹奉吉も金九の韓人愛国党のメンバーであった。のちの1945年9月、ミズーリ艦上で降伏文書に外務大臣として署名することになる重光葵は、この事件当時上海駐在公使として現場に居合わせて負傷し、右脚を切断した。尹奉吉は、軍法会議で死刑判決を受け、金沢の練兵場に押送されて銃殺刑に処せられた。

 

 翌1933年には、上海解放連盟を結成した元心昌ウォンシムチャン、白貞基、李康勲イガンフンらが在中華民国日本公使有吉明の暗殺を企図したとして逮捕される事件が起きた。3月17日、上海の高級料亭「六三亭」で催された宴会に出席する有吉を狙い、爆弾と拳銃で武装して襲撃を企てたが、事前に察知した日本の領事警察は、襲撃グループが待機場所にした中国料理店松江春に張り込んでいて、3名が逮捕された。

『時事写真-昭和八年、上海を中心として』より

 

 彼らは長崎に押送され、11月に無期懲役の刑を宣告されていた。白貞基は熊本刑務所で服役中の1936年に獄死した。

 

 日本人アナーキスト矢田部勇司も関係していたこの事件、在上海日本総領事が本国に送った報告(駐上海日本総領事石射猪太郎「有吉公使暗殺による不逞鮮人一味検挙に関する件」)には、事前に内部からの情報があったとあり、密告者がいたことをうかがわせる記述がある。その後外務省の「在外帝國公使館及公館員被害關係雜件」が発見され、回想録などで「沖」「玉埼オッキ」と言及されていた内通者が、日本人の沖であったとの記述があるとされる(成周鉉「研究者が見た義士・元心昌」)。

 

 

 1945年、植民地支配が終焉を迎えると、日本内地に埋葬されていた「三義士」の遺骨の奉還運動が起きた。

 

李奉昌義士の遺骨は殉国志士遺骨奉還会を東京で組織して、浦和刑務所の埋葬場から東京に運び安置し、尹奉吉義士の遺骨もすぐに奉還できるように進めている

 これには、大逆罪で服役していて釈放され、居留民団の団長になっていた朴烈パクヨルや、上記の六三亭事件で服役していて釈放された李康勲が中心になって関わっていた。

 

 金沢に仮埋葬されていた尹奉吉の遺骨は、1946年3月9日にやっと所在が確認されて棺に収められた。

『京郷新聞』1987年8月10日掲載 姜徳相が発見した写真

 

 1946年6月に三人の遺体は朝鮮に戻り、7月7日に国民葬が執り行われ孝昌園に埋葬された。

 


 大韓臨時政府で要職を歴任し、解放後、李承晩と大韓民国初代大統領の座を争った金九は1949年に暗殺された。 6月26日に暗殺された金九の国民葬は、7月5日に東大門のソウル運動場で大々的に執り行われ、その後孝昌公園に埋葬された。

 

フル動画は「動く現代史」で「김구」で検索すると閲覧できる

 

 しかし、李承晩イスンマンは政敵だった金九の業績全てを否定したため、金九を評価することはタブー視された。朴正煕政権以降はそれなりに再評価は進んだが、評価は一部にとどまっていた。1998年、金大中キムデジュン政権になると白凡ペクポム(金九の号)記念館建設委員会が発足し、大統領金大中が記念館の建設支援を約束した。記念館建設の募金運動が始まり2000年6月に起工式が行われ、2002年10月に大統領金大中夫妻も出席して白凡記念館が開館式が行われた。

 

左:1975年 右:2023年