京城の百貨店と食堂 | 一松書院のブログ

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 日本の植民地統治下の京城では、日本資本の三越百貨店京城支店、三中井みなかい百貨店本店、丁子屋ちょうじや百貨店、平田百貨店、それに朝鮮資本の和信百貨店が5大百貨店とされていた。

 

 その百貨店の食堂のことを書こうと思う。

 まずは、京城の百貨店の概観と、植民地支配が終わったその後のことから。

 

◆三越百貨店

 三越は、1906年10月に本町一丁目(現在の忠武路チュンムロ1街23 サボイホテルの敷地)に木造2階建ての三越呉服店韓国京城出張員詰所を開設した。1904年に「デパートメントストア宣言」をした三越呉服店を誘致することで、朝鮮での日本イメージ向上を目論んだ伊藤博文の勧めに、専務取締役の日比翁助が応じて実現したという。1916年および25年に店舗を増築し、さらには、1929年に本町一丁目52番地の京城府庁舎跡地を購入して新店舗の建設を始めた。翌30年10月25日に三越百貨店京城店がオープンした。これが現在の新世界シンセゲ百貨店旧館である。

 1930年10月24日『京城日報』

 植民地支配が終わると、東和トンファ百貨店となり、1961年に東方生命トンバンセンミョンに経営権が移った。翌年東方生命が三星サムソングループの傘下に入ると同時に東和百貨店は新世界シシンセゲ百貨店と名前を変え、今日に至っている。

 

三中井みなかい百貨店
 三中井の創業者中江勝治郎は、1905年に韓国に渡り、大邱に三中井呉服店を開業した。その後1911年に京城に進出してこの京城店を本店とした。中江勝治郎は1924年のアメリカ視察を通して呉服店から百貨店への転換を決断し、1933年と1937年に増改築を行って6階建てのルネッサンス様式の百貨店店舗を完成させた。現在の地下鉄4号線明洞駅5・6番出口を上がったところミリオレビルの場所がその敷地の一部である。

 解放後の1946年秋、この三中井の建物に海岸警備隊本部が置かれ、その後韓国海軍本部に引き継がれて1958年まで使用された。さらに、1960年の4・19学生革命後、参議院国会議事堂として使われた。翌年5・16クーデターが起きると、ここに国家再建最高会議が置かれ、最高会議が世宗路に移ったあとは、援護庁庁舎として使用された。その後、1970年の退渓路拡幅工事に伴って旧三中井百貨店の建物は撤去され、敷地の半分は道路用地とされ、残りの部分は駐車場として利用されていた。1997年、駐車場部分に明洞ミリオレビルが建てられることになり、2000年5月に竣工した。 

 軍事援護庁時代の建物

 

『大京城寫眞帖』中央情報鮮溝支社(京城)1937年

三中井は1933年の新築部分のみが写っている。

 

◆丁子屋百貨店

 丁子屋の小林源六は、三重の津で洋装製造販売をしていたが、日露戦争開戦で軍服の製造・販売をあて込んで1904年4月に釜山に支店を出した。9月に京城に店を出して業績を伸ばした。1921年に株式会社化するとともに本店を京城に移した。1934・5年に南大門路の店舗を増築をし、1939年には12,540㎡という朝鮮最大の売り場面積の店舗ビル(現在のロッテ百貨店ヤングプラザ)を完成させた。

 

1939年9月22日『京城日報』

 解放後、丁子屋はそのままの「丁子屋チョンジャオッ」の商号が引き継がれ、朝鮮戦争以後は、米軍のPXとして使用されていたが、1955年に名称を美都波ミドパに変更、貿易協会ムヨッヒョペに経営権が移された。さらに1969年に大韓農産テハンノンサングループ(大農)が美都波百貨店として経営を引き継ぐことになった。

 2002年、ロッテが美都波の経営に参画し、2003年からはロッテ美都波と名前を変えて営業されたが、2013年にロッテショッピングに吸収されて美都波は消滅し、建物は改装されてロッテショッピングヤング館になった。

 

◆平田百貨店

 平田百貨店の創業者平田智恵人は1908年に京城に渡って、本町一丁目に和洋雑貨と家具の店を出した。1915年と1922年に店舗を拡張し、1926年には本町通りに面した木造2階建ての店舗に改装した。売り場面積は他の百貨店に比べると1/3〜1/4程度と規模は小さかったが、本町の入り口に位置して入りやすさが売り物で、日用雑貨や食料品の大量仕入れで安値を売り物にする今日のスーパーに近い商店として繁盛した。

 

『大京城寫眞帖』中央情報鮮溝支社(京城)1937年

 丁子屋は、旧店舗ビルが掲載されている

 

 解放の翌年2月、平田百貨店は萬物廛マンムルジョンという名前で営業を再開した。ところが1947年3月、火災が起きて旧平田百貨店の建物は全焼した。その後朝鮮戦争後の混乱の中で、この跡地で高美波コミパというキャバレーが営業するようになった。ところが、この建物も1959年1月に火事で消失した。1960年には舞鶴聲ムハクソンキャバレーができたが、1967年に極東建設がこの敷地を買い取って大然閣ビル建設に着手、1969年4月30日に大然閣ホテルがオープンした。

 1971年12月25日、大然閣ホテルの1階コーヒーショップから出火、22階建てのビルが炎上して犠牲者157名、そのうち39名が墜落死という大惨事となった。

 

 現在は、高麗コリョ大然閣テヨンガクタワーというオフィスビルになっている。

 

◆和信百貨店

 和信の創業者は朴興植パクフンシクである。日本資本の百貨店が日本人(内地人)の街である本町とその周辺にあったのに対し、和信は朝鮮人の街、鍾路の二丁目、現在の鍾閣の北向かいにあった。和信百貨店は1935年1月に火災で全焼したが、9月には東館での営業を再開、1937年11月に朴吉龍パクギルヨンの設計による地上6階地下1階の新館をオープンさせた。

 和信百貨店については、こちらの記事(和信百貨店と京城の街並み)を参照いただきたい。

 

 さていよいよ本題の百貨店の食堂である。

 平野隆は、「戦前期における日本百貨店の植民地進出」(『法學研究』2004)で次のように書いている。

平田以外の四店には、いずれも大食堂があった。食堂を備えることによって、百貨店は家族連れがそこで一日を過ごせる行楽の場となった。日本系の三店は、ここでも日本式の食堂メニューをそのまま導入していた。三越の大食堂(座席数300席)は東京更科本店からわざわざ呼んだ職人による「三越そば」を、三中井(同100席)は「ちゃんぽん」と「浅草來々軒式の焼売」、丁子屋(同400席)は「支邦ランチ、お寿司、洋食ランチ」をそれぞれ売り物にしていた。食堂を訪れる客数は、三越では日曜で2800人、丁子屋も2000人近くに上ったという。これに対して、和信の大食堂(同100席)では、軽洋食もあったが朝鮮食をおもに提供していた。

一方、林廣茂の「京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証(『日韓歴史共同研究報告書. 第3分科篇 上巻』2005)には次のような図が挿入されている。

林廣茂「京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証 -主として昭和初期から同15年前後まで-」(『日韓歴史共同研究報告書. 第3分科篇 上巻』2005)より

 

 ところで、雑誌『朝鮮及満洲』の1934年4月号に、「三越・丁子屋・三中井 食堂合戦記」という記事がある。

苺ミルクが茶館の飾窓に—チューリップが花売娘の籠に—春はもう温室から街頭に泳ぎ出た。御婦人の裾にも白絹の肩にも陽炎が絡んで、御覧んなさい紅色の光線が抱擁つてフォックス・トロットにパソドブレを踊つてゐます。
 (中略)
 そこでは食欲が恐ろしい勢ひで昂進する。正午のサイレンが吠へれば官庁会社のサラリーメンがダッシュ!ダッシュ!

という書き出しで始まるこの記事には、具体的な百貨店食堂の実態が記されている。

 

 それにしても、この「本誌記者」氏は、出だし部分からやたらカタカナを多用している…。

 

まず、食堂の位置と席数、客数は、

・三越

 4階東側で、テーブル28 椅子130 補助椅子20

 平日 900〜1000人 2500〜2600食
 日祭日 1700〜2000人 3500〜3600食

・三中井(新館が完成した直後)
 6階東側 3方が窓で京城の東側が展望できる
 テーブル30 椅子180 補助椅子20以上 

 平日 900〜1000人
 日祭日は 平日の倍

・丁子屋(まだ新館になる前)
 テーブル30  椅子185
 平日 800〜1300人
 日祭日 2000人


 どこもそんなに大きくは違わない。この記事の時点では三中井が新館が出来たばかりであった。平野隆の論文の記載とは座席数の数値が合わないが、時期的なズレがあるのかもしれない。

 従業員数やその待遇は、

・三越

 ホールの従業員は15歳から18歳の女性

 内地人15名 朝鮮人5名 日給60銭〜80銭
 調理場 35名

・三中井
 ホールの従業員は18歳までの女性40名 うち30名が9時から18時と18時から21時半のシフト制。
 内地人38名 朝鮮人2名 女学校卒が2人 日給80銭から1円20から30銭
 調理場 35名

・丁子屋
 ホールの従業員は18歳まで
 内地人9名 朝鮮人6名 女学校・女高普中退 日給50銭から85銭

 調理人20名

 

3店どこもがサーブする女性従業員は18歳までで、年齢を越えると別の売り場に配置転換になる。三中井の食堂では、夜9時半までのシフト勤務があったということは、8時半か9時までは食堂が営業していたということなのだろう。エレベーターで6階まで上がっていたのか。。。

 では、料理はどうだったのか。

・三越

 洋食および飲料は直営で調理
 和食・麺類 南山町の喜久屋
 中華・天ぷら・うなぎ 旭町の川長
 寿司 明治町の寿司久
 和食・麺25% 寿司10% 中華・天ぷら20% 洋食・飲料30%
 食品サンプル 40種 メニューは1ヶ月に1回入れ替え

・三中井
 和食・洋食・寿司・丼物 花月支店
 中華・麺類 旭町更科
 三越よりも中華と寿司が多く出ていた
 食品サンプル 50種 メニューは2ヶ月に1回入れ替え

・丁子屋
 料理は個人の請負で、ほぼ直営に近い形
 和食40% 中華20% 洋食20% 麺類その他20%
 果物にこだわってメニュー化していた

 

 平野隆の書いている「三越そば」、三中井の「ちゃんぽん」「浅草來々軒式の焼売」、丁子屋の「支邦ランチ、お寿司、洋食ランチ」には、この記事では触れられていないが、丁子屋を除いて京城で有名だった店の請負で料理を提供して、それぞれの店には特徴があったようである。
 と同時に気づくのは、3店とも「朝鮮料理」というジャンルがないことである。朝鮮料理は全くメニュー化されていなかったと思われる。

 思い返せば、1980年代の日本ですら、焼肉屋はあっても、韓国料理とか朝鮮料理という看板をかけている店はなかった。1930年代の京城では、朝鮮料理は「自分たちのテリトリー」で出てくるものではなく、「食道園」「東明館」「明月館」あるいは「和信百貨店の食堂」などで出されるものであったのであろうか。

 それぞれの客層はというと、

・三越
 1933年に三中井が新築されて、右肩上がりだった客足が伸びなくなったものの、一番の知名度と一定の固定客で安定した客を確保。客層は、官庁や企業の勤め人からお上りさんまで多様であり、花街に近いこともあり食通を気取った芸者・ホステスの客も多かった。

・三中井

京城市内が展望できることもあり、営業時間が長かったせいか令嬢や家族連れに加えて、芸者やカップルの利用が多かった。ボックス席があるということもあったのであろう。ただ、エレベーターでの客の輸送がスムーズにできず、地下の食堂に客が流れていたという。

・丁子屋

 官庁・企業の勤め人が客の中心であったが、この3店の中では比較的朝鮮人の利用が多く、15人のフロア従業員のうちの6名が朝鮮人であった。三越や三中井よりも、朝鮮人居住区に多少近い南大門路にあったロケーションも関係しているのかもしれない。

 

 朝鮮人の客が比較的多いという丁子屋の食堂は朝鮮人従業員比率が高い。1934年であれば、朝鮮人の大半は朝鮮語で日常生活を送っていた。食堂でも朝鮮語で注文のやりとりなどしていたのだろうか。

 和信百貨店のブログでも触れたが、1936年制作の映画「迷夢(미몽)」のデパートシーンでは洋服を買うのに朝鮮語でやりとりしている。これは、朝鮮資本の和信だけでのことなのか、あるいは内地系の百貨店でも朝鮮語での客対応をしていたのだろうか。このあたりはなかなか確認できない。

 この映画の6分25秒あたりからビールを飲む場面があって、これは和信の食堂かとも思ったのだが、蝶ネクタイの男性従業員がキリンビールを持ってきている。18歳以下の女性従業員がサーブする上述の三つの内地系の百貨店の食堂とはかなり違う感じもする。これが和信の食堂だったら貴重な映像なのだが、確定できない。

 

 そして、この「三越・丁子屋・三中井 食堂合戦記」はこう締めくくられている。

ランチタイムの描きだすデパートの食堂色模様は仲々粋なものもある。折角の食欲本能の時間を、然も尚彼女アミーをステイクしてゐる者など豪華版だ。

デパートの食堂はかくして競争時代へ、大衆は一途に利用奉仕を—その相互関係は兎角均衡を破つてともすればデパートも亦ストルーム・ウンド・ドランクの悲喜双曲線を描いていくのである。市中の食堂業者は近代高層建築の影に圧されて、しばらくは配所の月を眺める(?)であらう。

 うーん、、、、Amyなのかな? Sturm und Drangか? うーん、わからん。意味不明。百貨店の食堂のことはある程度わかったのだが、この「本誌記者」氏はどんな人だったんだろう。その点も気がかりであるのだが。