映画「ソウルの休日」(1956)の食堂 | 一松書院のブログ

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 이용민監督の1956年制作の韓国映画 「ソウルの休日(서울의 휴일)」というのが한국고전영화 Korean Classic Filmで公開されている。

https://youtu.be/s01M3YGI8MY

 映画の内容については「yohnishi's blog」がまとまっている。ご参照いただきたい。

 ストーリー展開やシチュエーションがよくわからない。街の景色や店の名前にばかり気を取られているせいかとも思ったが、どうもそればかりではないような…

 

 それはさておき。

 産婦人科医院を開業している女医のナム・ヒウォン(ヤン・ミヒ)は、朝鮮日報の記者である夫ソン・ジェグァン(ノ・ヌンゴル)との久しぶりの休日を最大限楽しもうと、一日のスケジュールをバッチリ立てていた。

 それがこれ!

10時20分 出発準備完了

10時30分 新新シンシン百貨店に向かう

 ネクタイ(夫の)とパラソル(自分の)を買う

12時 雅叙園アソウォンで昼食(高級中国料理)

13時30分 漢江ハンガン到着

 観光ボート(picket boat)と水上スキー

15時30分 徳寿宮トクスグン散策

16時30分 映画観覧

18時30分 美荘ミジャングリルで夕食

19時30分 野外コンサート

 ロサンジェルス交響楽団

 

 ヒウォンのプランでは、まず新新百貨店に買い物に行く。

 この新新百貨店は、1955年11月に、植民地時代からあった和信ファシン百貨店の西向かいにオープンした。

 私の手元にある1975年の日本交通公社発行のガイドブック『韓国』の地図には、新新と和信が向かい合って記載されている。

 和信百貨店は、他の4大百貨店(三越・三中井・丁子屋・平田)が内地人資本で日本の敗戦とともに営業を停止せざるを得なかったのに対し、朝鮮資本の百貨店として経営は継続された。とはいえ、植民地支配者側との関係が問題になり、創業者の朴興植パクフンシクが反民族行為処罰法で拘束されるなど紆余曲折もあった。

 朝鮮戦争が勃発すると、店舗は戦火で内部が全焼し、改修工事に手間取った上、会社経営陣の内部対立などもあって、営業が再開できたのは1956年10月15日になってのことであった。その間、和信が1955年11月に和信百貨店の向かいに開店させたのが2階建てのこの新新百貨店であった。

 映画「ソウルの休日」の撮影当時、東和百貨店(旧三越百貨店)や美都波百貨店(旧丁子屋百貨店)も営業していたが、この新たに登場した新新百貨店が、いわば「最新のショッピングモール」で、休日のお出かけの最初の目的地とされたのだろう。

 ちなみに、和信百貨店は1980年10月に巨額の不渡りを出し、和信と新新の土地建物はともに売却処分された。新新百貨店は第一チェイル銀行に売却され、現在は第一銀行(SC제일은행)の本店ビルが建っている。和信百貨店は1983年に韓宝ハンボグループの手に渡ったが、その後紆余曲折を経て1987年3月に取り壊され、現在は跡地に鍾路チョンノタワー(1999年竣工)が建っている。

 

雅叙園アソウォン

 昼食の中華料理の店雅叙園は、華僑の徐廣彬(号が鴻洲で、徐鴻洲と呼ぶ)が1907年に開いた食堂である。徐鴻洲は、1899年に朝鮮に渡って京城で元手を稼ぎ、知人20名の共同出資で雅叙園を開店した。共同出資だが、店の経営は最大の出資者だった徐鴻洲が取り仕切っていた。雅敍園という店名は徐鴻洲の祖父と父の名に由来するとされている(이용재「재벌과 국가권력에 의한 화교 희생의 한 사례 연구」)。

 日本にも1928年に芝浦に雅叙園が開業し、これが1931年に目黒に移って目黒雅叙園となるが、この京城の雅叙園とは全く無関係である。

 徐鴻洲が最初に店を出したのは、黄金町一丁目の通りに面したところで、建坪50坪余りの2階建ての建物であった。現在プレジデントホテルがある場所である。京城の中華料理というと、この雅叙園と、大観園、泰和館が代表格であった。大観園は観水洞144番地、泰和館は仁寺洞8番地—ちなみに、1919年3月1日の独立宣言はこの泰和館2階で読み上げられた—、この二つの店はいずれも朝鮮人街側に位置していて庶民層の客が多かった。これに対し、雅叙園には妓生キーセンもいて、高位高官や財界人の利用が多く、夕暮れになると人力車や車で乗り付ける客で黄金町の通りが渋滞するほどだったという。

 

 1934年、鴨緑江の水豊ダムや興南での朝鮮窒素経営など朝鮮で手広く事業を進めていた日本窒素の野口したがうが京城での半島ホテル建設に乗り出した。一説では、汚れた作業着で朝鮮ホテルに入ろうとして追い返された野口遵が、朝鮮ホテルを見返してやろうとホテル建設に乗り出したのが発端だともいう。半島ホテルが営業を開始するのは1938年4月で、1936年刊行の『大京城府大観』には、「朝鮮窒素用地」とだけ記されている。この朝鮮窒素による土地取得の過程で、黄金町通り沿いの雅叙園の土地が買収され、代替地として朝鮮ホテルとの間の黄金町一丁目180-4・5番地が提供された。

 雅叙園は、この新しい敷地に銀行から2万円を借り入れて400余坪の3階建レンガ造りの建物を新築し、1936年に新規開店した。これが、解放後も高級中華料理店として名を馳せた雅叙園である。1950年には4階建に増築されている。

 1944年に、創業者徐鴻洲は中国で客死した。実子は娘の徐培継だけだったが、兄の子供徐敬修を養子にしており、雅叙園の営業はそのまま引き継がれた。1945年に日本の植民地支配が終わった後も、帰国した李承晩や金九などをはじめ、のちの政財界の大物人士がこの雅叙園を利用した。

 朝鮮戦争の勃発で一時期休業をしたが、国連軍側がソウルを奪還した後に営業を再開。以前にもまして繁盛していった。

 女医ナム・ヒウォンの休日プランでは、この雅叙園で高級中華の昼食をとるはずであった。映画の中では昼食には行けなくなってしまうので、残念ながら雅叙園の場面はない。記録では、1階が10〜15人規模のオンドル部屋、2階にはオンドル部屋とホールがあった。3・4階は大ホールや宴会場にがあって結婚披露宴や親睦会などに使われたとなっている。

 

 この雅叙園は、1970年に閉店することになる。その前年、創業者の一人娘徐培継が雅叙園の土地と建物を売却したのである。不動産は徐培継名義で登記されていた。買い取ったのは辛春浩シンチュンホ。ロッテの創業者辛格浩シンキョッホ(重光武雄)の実弟で、辛ラーメンで有名な農心ノンシンの創業者である。ロッテは、半島ホテルの場所にホテル建設を計画しており、その用地確保に乗り出していた。しかし、雅叙園の経営陣(社長は養子の息子徐道敏)は、建物は共同所有であるとして、この売却を無効だとする訴訟を起こした。約5年間にわたる民事裁判の結果、最終的にロッテ側が勝訴することになる。その訴訟騒動の中で、雅叙園は幕を閉じることになったのである。

 

美荘ミジャングリル

 ナム・ヒウォンの夕食のプランは、美荘グリル。美荘グリルは、植民地支配が終わった1945年11月に、李重一イジュンイル茶洞タドンに開店した洋食レストランであった。李重一は、1928年、16歳で京城駅構内食堂の従業員となった。京城駅の2階にあった食堂は、当時は高級レストランだった。
当時の京城駅食堂

『朝鮮之風光』1927

復元されたソウル駅内部

 値段も高く内地人の客が多かったのだが、内地人に独占させてたまるかとばかりにレストランに来る朝鮮人名士もいた。尹致昊ユンチホ金奎植キムギュシク呂運亨ヨウニョンなど、それにセブランス病院の朝鮮人医師たちなどが食事にやってきた。内地人のウェイターが朝鮮人の客を嫌がるので李重一がサーブすることになり、目をかけれられるようになっていったという。

양식반세기전(2)|이중일 [중앙일보]

 その後、朝鮮鉄道の特急列車の食堂車ウェイターになり、そのチーフに昇格した。

 その間に、洋食に関する研鑽を積むと同時に、植民地から解放されたのちに各界で活躍することになる多くの有力人士との人脈を築くことになった。

 日本の植民地支配が終わった9月、李重一は、列車を降りて自分のレストランを開くことを決意した。そして11月に茶洞88番地に開いたのが「美荘グリル」である。

 現在の乙支路ウルチロを隔てたロッテホテルの向かいのブロック。地下鉄2号線乙支路入口の2番出口を出て、南大門路ナムデムンノをまっすぐ北に上って東亜トンアビルの手前の路地を左に入ったあたり。このあたりが茶洞88番地である。

 解放直後、朝鮮ホテルや半島ホテルは日本資産の「敵産」として米軍政庁に接収されていた。それもあって、ちゃんと営業できている洋食ストランは、首都スドグリル(京城時代の千代田グリル:南大門通2丁目10千代田生命ビル内)と、この新しく開店した美荘グリルくらいしかなかった。さらに、京城駅食堂や列車食堂の時の李重一の人脈もあって、美荘グリルを訪れる政財界の有名人士が増えていった。양식 반세기(8)|이중일[중앙일보] また、国連朝鮮委員会の歓迎夕食会や、李承晩イスンマン大統領就任1周年記念晩餐会、ダレス国務長官の歓迎宴なども開かれ、朝鮮戦争を挟んで、ソウル随一の洋食レストランになっていった。

 

 네이버  뉴스 라이브러리Naver ニュースライブラリで「미장그릴」を検索してみると、

1960年に突出している。美荘グリルは、李承晩時代の野党韓民党ハンミンダンの関係者が多く利用しており、1960年の419サーイルグ学生革命で李承晩が大統領の座を追われたことで、美荘グリルでの動きに注目が集まったためである。

 

 李重一は、1951年以来委託運営してきたソウル市庁食堂の契約が終了した1983年8月末に引退をすることとし、美荘グリルもここで幕を閉じることとなった。

 

◆朝鮮ホテルのカフェテラス

 映画では、女医のナム・ヒウォンは、夫ソン・ジェグァンと雅叙園で昼食を食べることもなく、美荘グリルで夕食を摂ることもないまま終わってしまう。

 ただ、夫ソン・ジェグァンの仕事仲間の新聞記者たちと一緒にビールを飲みに行く場面がある。

 右後ろの尖塔部分はソウル市庁(旧京城府庁)で、中央の建造物は、徳寿宮の北側に隣接する聖公会会堂の上部である。この角度でこの二つが見えるのは、朝鮮ホテルからである。さらに、半島ホテルや圜丘壇ファングダンの建物皇穹宇ファングンウが後ろに映っている。

 半島ホテルは、上述のように日本窒素の子会社朝鮮窒素が建てたホテルで、1938年に開業している。その手前には雅叙園があるはずなのだが、画面は映ってはいない。

 圜丘壇は、1897年に国号を大韓帝国としたときに、天を祀る施設として建造された。

 日本が大韓帝国を併合すると、1912年に上掲の写真の圜丘壇右側部分を破壊して、そこに鉄道ホテル(1914年開業:のち朝鮮ホテル)を建てた。

 

 敵産管理でアメリカ軍が所有していた朝鮮ホテルが民間に払い下げられたのは1961年になってからのことで、1956年の「ソウルの休日」撮影当時は、まだアメリカ軍がホテルを管理していた。1976年に旧朝鮮ホテルの建物は取り壊されて新しいホテルの建築が始まり、1970年に完成したのが現在のThe Westin Chosun Seoulのホテルである。

 

 映画では、圜丘壇の皇穹宇の屋根の角度から、ちょっと高い場所のようなので、下の写真(ちょうど裏側)の真ん中のテラスのところに屋外のカフェがあったのかとも思われる。