和信百貨店と京城の街並み | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。


 日本が植民地支配していた頃の京城の百貨店のことを調べていたら、偶然こんな映画に行き着いた。
 「迷夢(미몽)」という1936年に朝鮮映画株式会社京城撮影所で製作された映画である。この映画の冒頭に京城のデパートで洋服を買う場面がある。



全編は韓国映像資料院がyoutubeで公開している韓国古典映画(Korean Classic Film)で観ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=tmd_OBPFll8&vl=ko

この映画「迷夢」は全編台詞は朝鮮語で、日本語の字幕が入っている。当時書かれたものでは「百貨店」が多いのだが、台詞では「데파트」で字幕は「デパート」。会話ではデパートを使っていたのであろう。また、字幕に「妾」とあるが、これは当時の日本語の読みは「わらわ・わたし」。

 

 1936年当時、京城では日本資本の三越、三中井、丁子屋、平田と、朝鮮資本の和信が五大百貨店と言われていた。和信の創業者は朴興植パクフンシクである。日本資本の百貨店は本町とその周辺にあったのに対し、和信は鍾路二丁目、現在の鍾閣の北向かいにあった。

『大京城寫眞帖』中央情報鮮満支社 1937年5月発行
韓国中央図書館所蔵より

 

 この映画で、デパート店員と客の女性主人公エスンは朝鮮語で会話している。それに、前後関係がよくわからないのだが「鍾路警察署の裏」という台詞がこの場面に挿入されている。鍾路警察署は和信百貨店と道ひとつ隔てた西側にあった。そんなことで、このデパート場面は和信百貨店で撮影されたのではないかと思っている。
 実は、和信百貨店は1935年1月に火災で全焼している。隣接する商店の火が延焼したもので、出火が夜間で人命被害はなかったが、大火災として報じられた。

 「東亜日報」1935年1月29日

 「東亜日報」1935年1月29日

 

 和信百貨店は、この火災で急遽1929年まで鍾路警察署があった鍾路二丁目八番地の旧漢城電気のビルで臨時営業をすることにして、復旧工事を急いだ。この年の9月15日に東館だけをひとまず増築修理して営業を再開した。

 同時に、その西側に朴吉龍パクギルヨンの設計による地上6階地下1階の新館の建設に取りかかり、こちらは1937年11月にオープンすることになる。

 従って、和信百貨店でこの映画を撮影したとすると、この東館の方であったろう。東館の開店にあたっては「洋品部・文房具部・洋服部をいっそう拡張」したとあるので、映画での宣伝効果を期待し、同時に映画製作者の側からは朝鮮人側の百貨店の応援といった意味合いもあったのかもしれない。のちに、1937年の新館落成を報じる「東亜日報」の記事では、「朝鮮人側唯一の百貨店で躍進又躍進の和信は……」と書き出しており、三越や三中井に対してかなりの対抗意識があったことをうかがわせている。

 

 和信ファシン百貨店は解放後も営業を続け、1987年2月で営業を終え、建物はその年の6月に撤去された。和信前ファシンアップのバス停は、漢江ハンガンの南側から盤浦大橋バンポテギョ(下は潜水橋チャムスギョ)を渡って南山第3トンネルを通ってまっすぐ都心に至る場所に当たっていた。バスはここから光化門クァンファムンの前をぐるっと回って世宗文化会館セジョンムナフェグァンに向かい、そこからまた江南カンナム方面に向かうという路線がたくさんあった。和信で買い物をしたことはなくても、「ファシンアップ」という場所はバス停として日常会話によく出てきた。
 ちなみに、三越百貨店は解放後に東和トンファ百貨店となり、その後新世界シンセゲ百貨店となって今も健在。丁子屋は、美都波ミドパ百貨店として営業していたが、その後ロッテに買収されて現在はロッテのヤング館になっている。

 

 ところで、この「迷夢」という映画だが、当時の京城の街中の風景が結構出てくる。エスンの娘ジョンヒが街を歩いていて母親のエスンに出くわす場面。

前半の場面では、「フォード」の看板がある自動車販売店の前を歩いている。朝鮮におけるフォード社の車の販売総代理店は、1920年代からセールフレーザーという会社が独占契約をしていた。1924年7月8日の「京城日報」にこんな全面広告を出している。

しかし、1933年7月3日の「東亜日報」に次のような記事がある。

楠本商会活躍

フォードの特約を得る

フォード車はこの間セール商会が販売してきたが事情により販売権を返上することになりフォードでは後継会社を鋭意求めていたところ楠本商会を中部朝鮮六道の特約店とすることを決定し同商会は今後活躍することになるであろう

すなわち、1936年のこの映画の撮影時には楠本商会が京城総代理店で、そこが「フォード」の看板を掲げていて、その前の通りで撮影したものと推測される。楠本商会は京城府若草町二四。下図のこの辺りかと思われる。

後半の韓屋が並ぶ住宅地は、…ちょっと推測できない。

 

 さらに、この映画「迷夢」のクライマックス場面、3時5分京城駅発の釜山行き列車に乗ろうとしてハイヤーを急がせるエスン。南大門から京城駅に向かうが列車の発車時刻に間に合わない。エスンは次の停車駅龍山駅に向かうべく車の運転手を急かして漢江通を下る。そして、娘のジョンヒをはねてしまう。話の展開からはなぜそんなそんなところにいたのかはわからない。第二高等女学校(第二高女)にでも通ってたのかなぁ…などという想像は成り立つが。

 

 

この自分の娘をはねてしまう事故の場所なのだが、

第二高女から漢江通に出るあたり(現在の南営洞ナミョンドン)かと思ったが、道路との距離感とか橋桁の形状などから、もう一つ手前のここではないかと思う。

 

 こうやっていろいろたどってみる作業をしても、植民地時代に生きていた人々の思いがわかるわけではない。1936年の日本では2・26事件が起きるような世相の中で、朝鮮語だけのトーキー映画を作り、それに日本語字幕まで入れて公開しようとしていた朝鮮人映画人の胸中はどんなだったんだろうか。朝鮮語の新聞を読んでいくと、端々にその苦悩を感じさせられることが多い。