おとといから

今日にかけての午後

近所の大学図書館に通い

古い雑誌(の復刻版)の

ページを繰っておりました。

 

おとといと昨日は

あいにくの雨模様でしたが

本日は幸いにも晴れて

いつもと違うルートで

帰る気になり

そうしたら

こんな花が目にとまりました。

 

白藪華鬘

 

スマートフォンの写真検索だと

「キケマン属」と出たので

帰宅後、検索してみたら

以下の記事がヒット。

 

 

いろいろ紹介されてますが

そのうちの

唇状の花弁の先に紫を残しながら距が白いシロヤブケマン

にそっくりだったので

これだと同定した次第です。

 

手元にある

金田洋一郎の『山野草図鑑』

(朝日新聞出版、2020)で

紫華鬘を見てみると

紫華鬘の別名のひとつに

藪華鬘(ヤブケマン)と

書いてありました。

 

その白いやつということで

白藪華鬘と名付けられた

と思われます。

 

 

華鬘が

仏具の名前だということは

以前にも書きました。

 

 

その際

花の形が似てない

と書きました。

 

先に貼った

サカタのタネ 園芸通信の記事に

実の入った莢の様子が

華鬘に似ているからではないか

と書かれていますけど

蟷螂の前脚のような感じのそれも

華鬘とは似ていないような……。

 

 

英名は

紫華鬘の英名

Incised Fumewort に

White-flowered と付けたり

学名の属名に white と付けて

対応しているようです。

 

その学名が

Corydalis incisa f. pallescens

属名の Corydalis は

ギリシャ語で雲雀

(ひばり)を意味する

korydallis に由来するのだとか。

 

なぜ雲雀かというと

距[きょ]の部分を

雲雀の蹴爪になぞらえたから

と山科植物資料館の植物紹介に

書いてありました。

 

 

種小名の incisa は

ラテン語で「切れ込みのある」

という意味だそうで

葉っぱの形状に由来します。

 

f. はラテン語の forma の略称で

品種を意味し

その後に続く

pallescens(パレスケンス)は

「淡白色」という意味だとか。

 

 

ところでちなみに

上に貼った

サカタのタネ 園芸通信の記事は

延胡索[エンゴサク]

という花の記事の

後編に当たるわけですけど

前編の方を見てみると

 

 

そこで紹介されている

ジロボウエンゴサクが

白藪華鬘にそっくり(!)

 

漢字で書くと

次郎坊延胡索で

AIによる概要によれば

菫を「太郎坊」と呼ぶのに対し

延胡索の方を

「次郎坊」と呼んだ

とのことですが

まあ、菫と同様に

距がありますから

分からなくもない。

 

延胡索は

元々は玄胡索で

「玄」は根の色

「胡」は異民族の国

「索」は細い綱を意味し

黒くて細長い根を持っている

西域から伝わった植物

という意味だったのが

玄が延に転訛したのだとか。

 

 

サカタのタネ 園芸通信

延胡索[後編]では

次郎坊延胡索と紫華鬘とを

比較していて

前者が宿根性キケマン属

後者が一年性キケマン属だと

書かれています。

 

花数の多さや

草丈の大きさなども

区別のポイントのようですが

それらを踏まえるなら

白藪華鬘は紫華鬘の品種なので

一年性で花数が多く

そこそこ草丈もある

ということになりましょうか。

 

まあ、掘ってみて

塊茎があれば次郎坊延胡索

なければ白藪華鬘

ということに

なるんでしょうけど

今回のは

個人宅の庭で

見かけたものですから

掘ってみるわけにもいかず。

 

どうしても

はっきりさせたいなら

種莢ができるまで待つか

枯れるのを待つかする

というしかなさそうですね。

 

白藪華鬘(花アップ)

 

でもまあ

個人的には

紫華鬘の品種のひとつ

白藪華鬘だと思いますので

ブログのタイトルも

そちらにしたことを

お断りしておきます。

 

やれやれ。┐(´д`)┌

 

 

 

●修正(翌日23:16ごろの)

 

「通りすがりですが」さんの

コメントでのご指摘を反映して

タイトルに「?」を付けたしました。

 

大紫羅欄花

[オオアラセイトウ]の時のように

調べ直して書き起こす余地が

ないように思われたからです。

 

ご理解いただけると幸いです。m(_ _)m

 

それにしても

どうしてこう

ちょっと見には

見分け難いものばかりに

目をとめるんでしょう(しくしく)

以前の記事で

ジャズ・ピアニストの

マル・ウォルドロンが

ショパンのピアノ曲を

弾いていると知って

興味を持って調べていたら

ショパンが歌曲を

書いていることを知り

新宿のディスクユニオンに行った際

2枚見つけたと書きました。

 

 

このとき入手した2枚は

いずれも現代のピアノによる

演奏だったわけですけど

自分は古楽沼にハマっているため

フォルテピアノによる録音が

ないものかしらと思って

タワーレコード・オンラインで

探してみたところ

見つけたのが今回の盤です。

 

パシェチュニク&ゴドレフスキ《ショパン歌曲集》

(東京エムプラス NIFCCD 027、2019.9.14)

 

直輸入盤の日本流通仕様盤なので

キャップ(オビ、タスキ)が

ついてますけど

歌詞の対訳や

解説の訳は付いてません。

 

リリース年月日は

タワーレコード・オンラインに

拠りました。

 

原盤は

ポーランドの NIFC で

NIFC というのは

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina

(国立フレデリック・ショパン研究所)の

アクロニム(頭字語)です。

 

 

演奏は

オルガ・パシェチュニク(S)

ケヴィン・ケナー(fp)

および

マリウシュ・ゴドレフスキ(Br)

ラドスワフ・クレク(fp)です。

 

録音は

パシェチュニクのチームが

2009年12月15〜16日で

ゴドレフスキのチームが

2017年9月17〜21日

だと思われます。

 

ライナー冊子だと

パシェチュニクのチームは

アステリスク(*)ひとつ

ゴドレフスキのチームが

アステリスクふたつで

区別されてるんですけど

*の位置が以下のようになってて

15 i 16 grudnia 2009, [*] 17 i 21 [**] września 2017

上に書いたように

見当をつけるしか

ないのでした。

 

 

ショパンの歌曲集は

自分が入手した盤だと

基本的に女声(ソプラノ

ないしメゾソプラノ)で

歌われていることが

多いんですけど

今回の NIFC 盤の場合

歌詞の内容を踏まえ

男性視点と女性視点を区別して

演奏されています。

 

変わっているのは

Gdzie lubi(好きな場所)で

同じ歌詞を

男女で歌い分けるだけでなく

男声がトラック2

女声がトラック12

というふうに

離れて収録されています。

 

それに合わせてか

邦題も

「どこで会いましょう」

「どこかで会いましょう」

というふうに

相聞風に訳されています。

 

従来は

少女の好むものや

それを好む心情を

男性視点から歌ったもの

という内容だと

解されてきたんですけどね。

 

 

上に書いたような事情で

全19曲なのに

本盤のトラックは20あって

総録音時間は56分55秒。

 

曲順は

出版譜通りではなく

かといって

作曲順とも思われず

かなり自由に

並べられています。

 

なんらかの意図が

あるのかどうか

ライナーに

書いてあるのかも

しれませんけど

チェックしておりません。

 

また

前回の記事でご紹介の

ラケル・カマリーナ盤のように

ショパン以外の楽曲が

おまけでついてくる

ということはありません。

 

 

使用楽器は

ケヴィン・ケナーが

1848年製のプレイエル・ピアノで

ラドスワフ・クレクが

1838年製のエラール・ピアノを

弾いています。

 

現代のピアノと比べて

音が柔らかく

ソリストの声を

邪魔していません

……といいたいところですが

まあ、柔らかいのは

確かに柔らかい

という感じがしますけど

それは古楽ファンの

認知バイアスかもしれず(笑)

 

 

本盤を聴くまで

ソプラノの歌唱ばかり

聴いていたわけですが

再生機にもよるとはいえ

バリトンのゴドレフスキの声は

柔らかくて実にいい感じです。

 

ソプラノのパシェチュニクは

悪くはないんですけど

ゴドレフスキが良くて

やや損をしている感じがします。

 

本盤を買ってから

知ったことですが

パシェチュニクは本盤以外に

自分の知る限り

2枚のCDで

ショパンの歌曲を

歌っています。

 

そちらについては

また機会がありましたら

ご紹介します。

 

 

前回の記事で

ラケル・カマリーナ盤の方が

ヨアンナ・コズウィフスカ盤より

好みだと書きましたけど

本盤と比べて

どちらがいいか

といわれた場合

ちょっと迷いますね。

 

ゴドレフスキの良さを買って

わずかに今回の盤の方が

好みに合うかもしれません。

 

Wojak(つわもの)とか

Hulanka(酒場の唄)なんか

男声で歌われると

しっくりきますしね。

 

〈酒場の唄〉などは

ゴドレフスキが歌うと

男前すぎるというか

上品すぎる気も

しないではないんですけど(笑)

 

 

ちなみに

本盤のキャップ裏では

〈酒場の唄〉ではなく

〈浮かれた女〉

と訳されています。

 

歌詞の内容は

酒場で酔っ払っている女に

上着に酒をこぼされている

男性の視点からのものです。

 

国内流通盤のキャップでは

歌詞の冒頭の言葉を訳して

〈浮かれた女〉

としたんでしょうけど

ここでは内容を踏まえた邦題の

〈酒場の唄〉を

採用した次第です。

 

ショパンの歌曲の邦題は

資料によって

あるいはCDによっても

異なるものがあり

悩ましい限りなのでした。

 

 

 

●修正(2026年4月2日、14:00ごろの)

 

NIFC を

NICF と書いていたので

修正しました。

『ミュージック・ヒストリオグラフィー』

(ヤマハミュージック

 エンタテインメントホールディングス

 2023.6.10/2024.1.1. 第2刷)

 

副題「どうしてこうなった? 音楽の歴史」

 

以前、同じ著者の

『名曲のたくらみ』

ご紹介した際に

「生協のカタログで見て

 買ったまま

 放り出している」

と書いた本です。

 

放り出していたのは

生協のカタログで見て注文し

届いたのが上記の通り2刷でして

その後、塾の会議のために

秋葉原に行った際

同地の書泉ブックタワーで

初版を見つけてしまったため

読む気を阻喪したという

しょーもない理由なんですけど

それはともかく。

 

 

以前の記事で

本のタイトルを

『ミュージック・ヒストリー』と

間違えたことに

さっき当の記事を見直して

気づきました。

 

正しくは

『ミュージック・ヒストリオグラフィー』

です。

 

ヒストリオグラフィーというのは

「はじめに」によれば

元々、ヒストリー(history=歴史)とグラフィー(- graphy=書くこと)が合わさってできた言葉で、そのものずばり「歴史を書くこと」を意味しました。そして近年では「歴史がどのように語られてきたのか、これまで歴史家が過去の出来事をどのように解釈し、どのように評価してきたのか」を論じる学問を指す言葉となっています。(p.15)

とのことです。

 

そういう内容の本ですが

非常に読みやすく書かれており

「学問」臭さを感じさせず

あっという間に

読まされてしまいました。

 

 

自分はもともと

グスタフ・レオンハルトの

チェンバロ演奏をCDで聴いて

バッハをはじめとする

バロック音楽や古楽演奏に

ハマってきた人間です。

 

それもあって

古楽演奏について書かれている

240ページ以降の記述を

興味深く読みました。

 

240ページ以降では

音楽史における女性作曲家や

女性演奏家についても

言及されていて

そちらも興味深く

読ませていただきました。

 

著者が参考文献であげている

ブルース・ヘインズ『古楽の終焉』や

小林緑(編)『女性作曲家列伝』は

自分も読んでいましたので

全く知らないことばかり

書かれているわけでも

ないんですけど

改めて知識を確認できた

といったところでしょうか。

 

もちろん

知らないことも書かれていて

勉強になった部分も

たくさんあったりします。

 

 

ちょっと例をあげれば

ウェンディ・カルロスの

『スイッチト・オン・バッハ』は

自分も聴いてますけど

「ウェンディ」なのに

演奏者が女性だと

全く意識しなかったというか

全く気づいてませんでした。

 

本書の251ページに

ウェンディ・カルロスの

伝記の表紙が載っていて

ポートレートを

見ることができますが

それを見た途端

ちょっと衝撃を受けたり。

 

なぜ女性だと思わなかったのか

ということを考えてみるのも

面白そうですけど

それはまた機会があれば

ということにして。

 

 

作者は「あとがき」で

以下のように書いています。

 昨今(略)歴史軽視が見られるように思う。その背景には物事を「役に立つか立たないか」だけで判断し、「役に立たない」と判断しようものなら速攻廃止論に向かう、大変近視眼的としか言いようのない風潮があるように感じられてならない。(略)世知辛いことにそのような「役に立つか役に立たないか」はたいがいの場合、「即お金になるかならないか」なのだ。(略)しかしながら歴史というものは、そのような即物的な尺度でもって無くすとか無くさないとかいうようなものではない。私たちはともすると歴史を「昔々の事象を扱うこと」だと勘違いしがちだが、歴史とはモノの見方の指標、視座にほかならない。(pp.296-297)

つまり本書は

なぜ「音楽」に対して特定の

「モノの見方の指標、視座」が

生まれたのかを

問い直すことを目的としている

というふうにいえましょうか。

 

ある種の楽曲が

「名曲」だといわれ

そう信じられるようになったのは

どういう背景があるのか

ということを考える本

といってもいいかと思います。

 

 

というわけで

クラシック音楽に

普通に関心のある方には

お勧めです。

 

まあ、詳しい人なら

こんなこと知ってるよ

というようなことが

多いかもしれませんけど(笑)

 

もっとも

音楽史という方法論が扱うのは何も、何百年もの前のヨーロッパのクラシック音楽だけではない。ジャズもロックも、日本の演歌もJ-POPもすべて歴史という方法論で語ることができ、語ることが必要なのである。(p.287)

という作者が

書くものですから

クラシックに詳しい人も

知らない記述だって

あるかもしれず。

 

たとえば

146ページからの

《ボギー大佐》という

曲をめぐる受容史などは

その好例かと思います。

 

いずれにせよ

クラシック音楽には価値がある

と漠然と考えている方に

(そう考えていない方であれば

 なおさら、といえるかも)

お勧めの1冊かなあ

と思った次第です。