鴎外作品(現代語訳) -2ページ目

森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 032

雨は降り続け、(かみなり)も鳴り始めた。道は林の中へと続き、夏の太陽は、まだ高い時間であったが、林の中の道は暗かった。夏の日に蒸された草木の雨に湿った香りが馬車の中に吹き入り、(のど)(かわ)いた人間が水を飲むように、二人は吸い込んだ。(かみなり)の絶え間に、臆すことなくナイチンゲールが鳴く美しい声は、寂しい道を一人行く人が、気を紛らわすために歌を歌っているようであった。

この時、マリーは両手を巨勢(こせ)の首にまわし、体ごと持たれ掛けて、木陰(こかげ)から漏れる稲妻に照らされた顔を見合わせて微笑んでいた。二人は我を忘れ、乗っている馬車を忘れ、外の世界を忘れた。






 

 

ナイチンゲール:ウグイスに似た、ひたき科の渡り鳥。和名はサヨナキドリ (小夜啼鳥)。鳴く声が美しい。


ナイチンゲール



森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 031

国王が暮らしているベルヒ城の下に着いた頃には、雨はいよいよ激しくなり、湖を見渡せば、吹き寄せる風雨で濃淡の縦縞(たてじま)を織りなしていた。濃いところは雨で白く、淡いところは風で黒く見えた。御者は馬車を停めて、

「もうしばらくかかる。あまりにびしょ濡れだと、お客さんたちも風邪を引く。それに古びた馬車だが()らしすぎると、馬車の主に怒られるからな。」

と言って、手早く(ほろ)をかけ、乗り込むと馬に(むち)をあてて急いで走り出した。


森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 030

この時、二、三粒の雨が車上の二人の衣服に落ちてきたが、(またた)く間に大降(おおぶ)りになり、湖上からは横しぶきが荒々しく打ち付けてきた。薄化粧をした少女の片頬に打ち付けるのを見ていた巨勢の心は、だんだんと空っぽになっていった。少女は伸びあがると御者(ぎょしゃ)

「一杯(おご)るからもっととばして!馬にもっと鞭を加えて!」

と叫び、右手で巨勢の(くび)を抱き寄せ(うなじ)をそらせて見つめあげた。巨勢は綿のような少女の肩に頭を軽くのせた。その彼女の姿から、またあのバヴァリア像が胸に浮かんできた。

森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 029

二人は来た馬車に乗り、停車場から東の岸辺を走っていった。この時、アルペンからの風が吹き、湖の上に霧が立ちこめ、今出てきた方を振り返ると次第にネズミ色になって、家や木立の頂だけがひときわ黒く見えた。御者が振り向いて、

「雨が降ってきましたね。(ほろ)を掛けましょうか。」

と聞いてきた。

「いいえ、結構よ。」

と答えて少女は巨勢に顔を向けた。

「気持ちいいでしょ。むかしここの湖の中で命を失いかけ、そしてここで命拾いをしたの。それだから、あなたに本当のことを打ち明けるのもここがいいと思って誘ったのよ。幼いころ『カッフェ・ロリアン』で受けた(はずかし)めから救ってくれたあなたに、必ずまた会えると信じてから、もう何年経ったのかしら。『ミネルバ』であなたの話を聞いたときの私の喜び。普段興味も持てない美術学生にあのような振る舞いを馬鹿げていると思ったでしょうね。だけど人生、長くはないのよ。うれしいと思ったその一瞬の間に、大きく口をあけて笑っておかないと後悔するもの。」

話しながら帽子を脱ぎ捨て、こちらを振り向いた少女の顔は、大理石に熱い血潮が(おど)っているようで、また風に吹かれた金色のその髪は、頭を打ち振って長く(いなな)駿(しゅん)()(たてがみ)のようであった。

「今日なの、今日なのよ。昨日ではしかたないわ。明日やあさってでは意味がないのよ」

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御者(ぎょしゃ):馬車に乗り、馬をあやつって走らせる者。

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森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 028

この辺りの道に詳しい少女に引かれて、
巨勢は右手にある石段を登った。
ここはバワリアの庭というホテルの前で、
屋根のない場所に石のテーブル、椅子
などが並んでいた。
今日は雨上がりの後のせいか、
人気もなかった。
ウェイターは黒い上着に白の前掛けを
して、何かつぶやきながら、テーブル
に倒しかけていた椅子を起こして、
それを拭った。
ふと見ると、片側の軒先に沿って
つた蔓をからませた架(たな)があり、
その下に丸テーブルを囲む一群の客
がいた。それはこのホテルに宿泊してい
る人たちであろう。男女混じりの中
には、先日の夜、ミネルバで見た者
もいたので、巨勢は挨拶をしようと
したら少女に押し留められた。
「彼らは、あなたが近づく人たちなど
ではないわ。私はあなたと二人でここに
来たけど、恥ずべきなのは、
むこうであって、私たちではないわ。
見てて、そのうちテーブルから離れて、
カップルでホテルに入って行くわ。」
しばらくすると美術学生たちは女性を
連れ添ってホテルへと入っていった。
少女は巨勢に、船は出るかしらと
聞いた。
流れの速い雲を指して、この天候の
悪さでは船は出ないだろうと答え、
車でレオニに行こうと言い添えた。


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森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 027

馬車で一時間ほど走り、スタルンベルヒに着いたのは夕方の五時になっていた。歩いていけばゆうに一日はかかる場所であるが、ただアルペンの山なみが近くなったことだけを感じ、天候も良くなかったが、胸元を開けて息をしていた。馬車から見える景色は、丘陵がたちまち開け、ひろびろとした湖水が見えてきた。停車場は湖水の西南にあり、東岸は林で、漁村は夕霧に包まれてうっすら見える程度であったが、山に近い南の方角は一望できた。

森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 026

学校の門前で馬車に捕まえて停車場にたどり着いた。今日は日曜日だが天気が悪く、近郷(きんごう)から帰る人も多いがここは静かであった。新聞の号外を売る女性がいた。買って見てみると「国王はベルヒ城に(うつ)ってからは容体(ようだい)もよくなり、侍医(じい)グッデンも護衛を(ゆる)くした」とあった。湖水の(ほとり)に避暑に来て、中心街で買い物を済ませてから帰る多くの人は、国王の噂でざわついていた。

「まだホオヘンシュワンガウ城にいた頃と違い、精神的にも静まったようです。ベルヒ城に遷る途中、ゼエスハウプトでは(のど)の渇きを(うるお)しながら休息を取り、近くの漁師たちを優しく(うなず)きながら見ていた。」と買い物(かご)を下げた老女が(なま)りの強い言葉で読み上げていた。


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森 鴎外「うたかたの記」 下 現代語意訳版 025

定まらない空模様だったが雨は止んで、学校の木立が揺らぐのだけが、曇った窓ガラスを通して見えた。少女の話を聴いているあいだ巨勢(こせ)の胸に中では、さまざまな感情が湧き上がってきた。あるときは昔別れた妹に逢った兄の心となり、また廃園に倒れ伏したヴィーナスの像にひとり悩む芸術家の心となり、またある時は、艶女に心を動かされても堕ちないように戒めている修行僧の心にもなった。聴き終わった時には、心の動揺が体にも伝わり、少女の前に(ひざまず)こうとした。少女はつと立ち上がると「この部屋は暑いわ。もう学校の門も閉まるし、雨も()み晴れてきたわ。あなたとなら怖いこともないし、一緒にスタルンベルヒに行きましょう。」そう言うとそばにあった帽子を取り(かぶ)った。その様子(ようす)は、巨勢が一緒に行くことを少しも疑ってはいないようだった。巨勢はまるで母親に引かれていく子どものように従って出かけた。

---解説-----------------------------------------



眠れるヴィーナス(1510)

ルネサンス期のイタリアの画家ジョルジオーネ作。

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森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 024

「去年、イギリス人の一家が帰国した後、どこかの貴族のもとで働こうと思ったのですが、身分不相応で雇い入れてはもらえませんでした。ふとしたことで、この美術学校の教師に見出され、モデルをするようになり、許可証も取れたけど、私をスタインバハの娘だと知る人はいません。今は芸術家たちに混じって、ただ面白くその日その日を暮らしています。グスタアフ・フライタハは、さすがに嘘はつきませんでした。芸術家ほど行儀の悪い者はいません。独り立ちして芸術家たちと仕事をするということは、一瞬の油断もできません。なるべく彼らを避けようとして、あのような不思議な振る舞いをしているのです。時には自分でも気が狂っているのではと疑うときがあります。レオニにいた時に読んだ本の影響かと思いますが、世の中で博士と呼ばれる人は、いかなる狂人なのでしょう。私を狂人と(ののし)る芸術家は、自分たちが狂人になれないことを憂うべきね。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気が必要なことは、ゼネカやシェイクスピアを持ち出す必要もないわ。博学でしょ。狂人に見て欲しい人が、狂人ではないことを見る、その悲しさ。

狂人にならなくてもよかった国王は、狂人になったと聞きます。それも悲しいことです。悲しいことのみが多ければ、昼は蝉と共に泣き、夜は蛙と共に泣き、けれど(あわ)れに思ってくれる人は、誰もいない。あなただけは、無情に嘲笑することもないと思い、素直に話しをしているのです。(とが)めるようなことは言わないで。これも狂気なのでしょうか。」

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森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 023

「このようにして漁師の娘となりました。しかし、私には舟の(かじ)を取るほどの体力はなかったので、レオニに住む裕福なイギリス人に雇われて家政婦をしていました。カトリックだった養父母は、イギリス人に使われることを嫌いましたが、私が読み書きができるようになったのは、そこにいた女性教師のお陰です。四十過ぎの未婚の女性で、高慢(こうまん)なイギリス人の娘より、私を愛してくれて、三年ほどで女性教師の書物を全て読んでしまいました。でも読み間違えも多かったと思います。また、書籍の種類もまちまちでした。クニッゲの交際法もあれば、フンボルトの長生術もありました。ゲーテやシラーの詩を唱えたり、ケーニッヒの文学史を読んだり、ルーブルやドレスデンの美術館の写真をひろげて見たり、テーヌの美術論の翻訳書をあさったりしました。」



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