森 鴎外「うたかたの記」 現代語意訳版 029
二人は来た馬車に乗り、停車場から東の岸辺を走っていった。この時、アルペンからの風が吹き、湖の上に霧が立ちこめ、今出てきた方を振り返ると次第にネズミ色になって、家や木立の頂だけがひときわ黒く見えた。御者が振り向いて、
「雨が降ってきましたね。幌を掛けましょうか。」
と聞いてきた。
「いいえ、結構よ。」
と答えて少女は巨勢に顔を向けた。
「気持ちいいでしょ。むかしここの湖の中で命を失いかけ、そしてここで命拾いをしたの。それだから、あなたに本当のことを打ち明けるのもここがいいと思って誘ったのよ。幼いころ『カッフェ・ロリアン』で受けた辱めから救ってくれたあなたに、必ずまた会えると信じてから、もう何年経ったのかしら。『ミネルバ』であなたの話を聞いたときの私の喜び。普段興味も持てない美術学生にあのような振る舞いを馬鹿げていると思ったでしょうね。だけど人生、長くはないのよ。うれしいと思ったその一瞬の間に、大きく口をあけて笑っておかないと後悔するもの。」
話しながら帽子を脱ぎ捨て、こちらを振り向いた少女の顔は、大理石に熱い血潮が跳っているようで、また風に吹かれた金色のその髪は、頭を打ち振って長く嘶く駿馬の鬣のようであった。
「今日なの、今日なのよ。昨日ではしかたないわ。明日やあさってでは意味がないのよ」
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御者(ぎょしゃ):馬車に乗り、馬をあやつって走らせる者。
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