森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 005
この男は学生たちから見ると珍しい客であった。また、少女の姿は、初めて逢う人の心を動かすに十分であった。大きめなひさしのついた、飾りの無い帽子をかぶり、十七、十八くらいに見える顔つきは、いにしえのヴィーナスの彫像のようであった。その振る舞いにも気高さが自然とあふれ、普通の庶民とは違っていた。
エキステルが隣のテーブルの客の肩をたたきながら「君らの席には、面白い話をする者がいないようだな。その様子ではカードやビリヤードで時間をつぶすだけだろう。君の友人たちもこちらのテーブルに来ないか。」と笑いながら勧めるその声に、男は耳を傾けた。
「マリー、君の隣にも座らせてくれ。みんなも聞いてくれ。今日この「ミネルバ」の仲間に入れようと連れて来たのは巨勢君といい、はるか日本から来た画家だ。」とエキステルに紹介された。近づいて会釈をし、立ったまま自己紹介をするのは外国人だけである。そうでなければ座ったまま紹介するのだが、だからと言って軽蔑することもなかった。ここの仲間の習慣なのだ。
エキステルが続ける「僕がドレスデンにいる親戚を訪ねに行ったことは、みんなも知っているとおりだ。巨勢君とは画堂で出会い、それ以来の友人だ。今度巨勢君が、ここの美術学校にくることを聞き、巨勢君が出発するおりに一緒に帰ってきたのだ。」
学生たちは、はるばるやって来た巨勢に向かい歓迎の意を述べた。「大学では君の国と人を時々見ることもあるが、美術学校に来たのは君がはじめてだ。今日着いたばかりだと「ピナコテエク」や美術会の画堂なども見てないのだろう。だけど他のところで、南ドイツの絵は見られたはずだ。今回君が来た目的はなんだろうか。」などと次々と質問をしてきた。
マリーはそれを押しとどめ「ちょっと、みんなが口を揃えて質問したら、巨勢君が迷惑だと思わないの。聞きたいなら静かにしないと。」というと「女主人は厳しいな。」とみんなは笑った。巨勢は決して流暢とはいえないが、稚拙ではないドイツ語で語り始めた。
森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 004
客は身なりも言葉もさまざまで、髪を伸ばし、服もきちんと着ていない。しかし、卑しく見えないのは、さすが芸術の世界に遊ぶものだからだろう。
中でも際立って賑やかなのは、中央の大きなテーブルにいる一群である。他のテーブルには男の客しかいないのだが、このテーブルには一人の少女がいた。エキステルに連れられてきた男は、この少女と目を合わせると、お互いに驚きの表情をあらわした。
森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 003
後から入ってきた男は、汽車でドレスデンから着いたばかりである。店内の様子がドレスデンのものとは違うことに興味を抱いた。テーブルクロスが掛かった大理石の円卓がいくつかあり、食事の片付けが済んでいなかった。クロスの掛かっていないテーブルの客の前には土焼きの盃があった。この盃は円筒形で、日本の徳利の四本分程の大きさであり、弓なりの取っ手がついていて、金属性の蓋が蝶番で取り付けてあった。
客のいないテーブルにあるコーヒーカップは、すべて逆さまに伏せてあり、その糸底の上に砂糖を盛った小皿が載せてあった。
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糸底
茶碗などの底の裏の、輪状に突き出した部分。いとじり。轆轤から切り離すのに糸を使うことから。
ドレスデン(Dresden)
チェコ(Czech)とポーランド(Poland)の国境付近 ⇒ 地図
森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 002
先に入ってきたのは褐色の髪が乱れているのもかまわず、幅の広い襟飾りを斜めに結び、誰の目にも美術学校の学生として映っていた。途中で立ち止まると、後ろから来た色黒の小さな男に向かい「この店だ」と言って戸口を開けた。
煙草の煙に遮られ、にわかに入ってきた二人には、店内の様子をすぐに見分けることはできなかった。日が暮れてはいたが、まだ暑い時期であった。窓は開け放たれてはいたが、煙草の煙の中にいることはいつものことで慣れていた。
「エキステルじゃないか。いつの間に帰ってきたんだ。」「死んだのではなかったのか。」
などと口々に呼びかけてくるのを聞けば、この学生は、彼らの顔見知りらしい。
その間、まわりの客は珍しそうに、後から入ってきた男を見ていた。この男は見つめられるのが嫌だったのか眉に皺を寄せていたが、思い返したように、微笑みながらまわりの客たちを見渡した。
森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 001
獅子が牽く車の上に勢いよく立つ女神バヴァリア像は、ルードウィヒ一世がこの凱旋門に据えさせたものだという。そこから下ってルードウィヒの町を左に折れたところにトリエント産の大理石で築かれた荘厳な建物がある。これがバイエルンの首府で名高い美術学校である。校長のピロッティの名は諸外国にも鳴り響き、ドイツだけではなく、ギリシャ、イタリア、デンマークなどからも彫刻家や画家をめざす学生が大勢集まっていた。学生たちは授業が終わると学校の向かいにある「カフェ・ミネルバ」という店に入り、コーヒーや酒を飲み交わしながらくつろいでいる。今夜もガス灯のあかりが半ば開いた窓に映り、そこから外にこぼれた笑い声が一段と大きくなったころ、店のかどまで来た二人づれがいた。
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バヴァリア女神
バヴァリア(Bavaria)は「バイエルン(Bayern)」の英語読み。
バイエルンの獅子とバヴァリア女神に青白の菱紋は、
バイエルン州(州都:ミュンヘン)のシンボルだそうです。
菓子の名称となっているバヴァロワ(bavarois)は、
「バイエルンの」という意味のフランス語の形容詞が
語源だそうです。
バイエルンはドイツの下の方 ⇒ 地図
