森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 002
先に入ってきたのは褐色の髪が乱れているのもかまわず、幅の広い襟飾りを斜めに結び、誰の目にも美術学校の学生として映っていた。途中で立ち止まると、後ろから来た色黒の小さな男に向かい「この店だ」と言って戸口を開けた。
煙草の煙に遮られ、にわかに入ってきた二人には、店内の様子をすぐに見分けることはできなかった。日が暮れてはいたが、まだ暑い時期であった。窓は開け放たれてはいたが、煙草の煙の中にいることはいつものことで慣れていた。
「エキステルじゃないか。いつの間に帰ってきたんだ。」「死んだのではなかったのか。」
などと口々に呼びかけてくるのを聞けば、この学生は、彼らの顔見知りらしい。
その間、まわりの客は珍しそうに、後から入ってきた男を見ていた。この男は見つめられるのが嫌だったのか眉に皺を寄せていたが、思い返したように、微笑みながらまわりの客たちを見渡した。