森 鴎外「うたかたの記」 下 現代語意訳版 025
下
定まらない空模様だったが雨は止んで、学校の木立が揺らぐのだけが、曇った窓ガラスを通して見えた。少女の話を聴いているあいだ巨勢の胸に中では、さまざまな感情が湧き上がってきた。あるときは昔別れた妹に逢った兄の心となり、また廃園に倒れ伏したヴィーナスの像にひとり悩む芸術家の心となり、またある時は、艶女に心を動かされても堕ちないように戒めている修行僧の心にもなった。聴き終わった時には、心の動揺が体にも伝わり、少女の前に跪こうとした。少女はつと立ち上がると「この部屋は暑いわ。もう学校の門も閉まるし、雨も止み晴れてきたわ。あなたとなら怖いこともないし、一緒にスタルンベルヒに行きましょう。」そう言うとそばにあった帽子を取り被った。その様子は、巨勢が一緒に行くことを少しも疑ってはいないようだった。巨勢はまるで母親に引かれていく子どものように従って出かけた。
---解説-----------------------------------------
眠れるヴィーナス(1510)
ルネサンス期のイタリアの画家ジョルジオーネ作。
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