Og -21ページ目

小倉商会 その5 vietnam indigo store

3月の第1週にベトナムからの荷物が届いた。ハノイでうちの生産をお願いしてるindigo storeからだ。3月の頭には世界的な新型コロナ感染拡大に伴い、日本からの入国を制限していたベトナム。ベトナム政府は対応が早く、感染の拡大をかなり防いでいる。(今の段階(5月7日)では新型コロナによる死者はまだいない。)しかしその分都市の機能は大幅に制限されていて、indigo storeの店舗や工房も閉めざるを得なかった。そんな中での出荷は際どいタイミングだった。それなのに荷物の中にはオーダーしていたもの以外に、布マスクが家族分+α入ってた。そのおかげで自分は3月から使い捨てマスクは使用せずに済んでる。新型コロナの影響で直営店を閉めざるを得ないことになったときに、すぐにマスクの生産を始め、必要な人たちに供給販売することにしたそう。その行動力と心意気には頭が下がる。

 

設立当初からうちではお世話になりっぱなしのindigo store。実は設立前から代表のご夫婦のことは知っている。夫の吉澤さんは前職の自分の同僚で、年も同じ。彼が退職したのは奥さんと結婚するためvietnamへ移住することにしたから。遠距離恋愛をしているのは知っていたが、その決断は唐突な感じに自分には映った。驚いたが、一本気な彼らしいな~と思った。奥さんのタインさんはモン族の女性で、もともとvietnam北部出身。少数民族の村へのツアーガイドとして働いていた。そのツアーで二人は出会い、付き合うことに。彼女はガイドとして付き合いのある、各村の伝統的な手仕事を残していくことを考えていた時に、日本で手仕事雑貨を販売している吉澤さんと出会うことにより、その夢が具体的に進んでいくことになる。その後結婚して二人でハノイにお店を開き、少しずつ従業員も増えお店も大きくなった。その過程を見続けながら、いつも本当に刺激を受けている。

 

vietnamとthaiはどちらも東南アジアにあるけれど、手織布の現状はちょっと違う。thaiは北部や東北部で手織の文化が広範囲に残っている。もちろん棉の栽培や手紡ぎ糸の使用などの条件を付ければ、その範囲は狭くなる。それでも郊外に行けば機織りをしている女性の姿が垣間見られる。町の開発規模から比べると、世界の中でもなかなか珍しいんじゃないかと思う。少数民族が腰機で織るところも見ることができて、機のバリエーションもあるし、好みによっていろいろと選択も出来る。

それに比べ、vietnamの手織りの現状は、自分が見たり聞いたりしている範囲では、おそらく少数民族の村だけではないだろうか。なので織のバリエーションはthaiほどない。しかしその分プリミティブな織に関して言えば、クオリティーが高いものが残っている。どういうことかと言えば今でも手紡ぎ手織でより薄手の布が織られてる。大雑把に言えば糸車で細い糸を紡ぐことができる女性が健在であるということ。藍染めの色も濃い。タインさんは自分の国の手仕事文化の品質と背景に、自信を持ってる。彼女は少数民族とのネットワークがあり、日本の大学の文化人類学系教授等のフィールドワークのサポートもしていて、学術的な意味においてもvietnamの少数民族の手織綿を含め、特異な文化のことをよく知っている。彼女は少数民族出身だけれど客観的な視点を持っていて、それらが現代においては非常に価値があることを知っている。そしてそれを伝えていきたいという熱意をもって、indigo storeを運営しているのだ。

そんな彼らと一緒に仕事でつながっていきたいと思ったのは、自分にとっては当然の流れで、販売の下地がまだまだこれから目鼻立ちを付ける状態だったけれど、まずは少量でオーダーをさせてもらった。彼らは国内各地の少数民族の村で織られた布を使ったオリジナルの商品をハノイのお店で作っている。小倉商会ではそのうちの一部の布を使わせてもらって、オリジナルデザインの衣服を生産していただいている。小倉商会の立ち上げ当初吉澤さんにコンタクトをとったところ、ご夫婦に中国との国境近くの山の中腹にある、少数民族の村に連れて行ってもらった。そこでは糸を紡ぎ、機を織り、その布を藍に染めていた。緑に囲まれた景色の中で、風に揺れる藍の手織綿は、普通の平織りの反物であったけれど、確かな存在感があった。この素材を生かしたモノづくりに、自分も参加させてもらえることの贅沢さと責任感を感じたのを覚えている。

 

あれから15年ぐらい。毎年vietnamに出向き、彼らと一緒に何日かを過ごしている。indigo storeの2人がこれからどんな仕事をしていくか、どんな暮らしをしていくのか、仕事仲間として、友人の一人として、楽しみにしている。

 

indigo store    https://www.facebook.com/IndigoStoreHanoi/

 

 

 

 

 

小倉商会 その4 スタート

とにかく思い込みで方向性を決めた小倉商会。自分自身で仕事をするにあたり、個人のフットワークの軽さがあればこそできる事を考えたいと思っていた。言い方を変えれば会社組織ではめんどくさくてやりたがらない方法である。織の現場である田舎へ行き、草木染とかもお願いして、商品開発をしたり出来たらいい。ラインナップの方向性はまだぼんやりしてるけれど、とにかく素材である。生産現場で棉の栽培や手紡ぎ手織、草木染等の現場を見たい、確認したい、そしてよければそこで染織をお願いしたい。そのための出張を組まなくては。タイのお世話になってる方に自分のやりたいことを話してあったので、その現場に見合う村を紹介してもらった。タイ北部にあるカレン族の村である。

その前に日本で織のことを少しだけでも知っていきたいと思った。恥ずかしながら今まで手織のことについて、勉強してこなかった。なのに自分で手織の布を紹介する仕事を始めようなんて無謀すぎる。千葉県内で棉の栽培や糸紡ぎをしている方のところを訪ねたり、手織の教室へ通った。ざっと見て経験しただけなので十分というには程遠かったけど、あとはスタートしながら見ていこう。

 

それからタイ、チェンマイへ。見慣れたチェンマイの町なのに、ちょっと緊張した。お世話になってる知人にあって、カレン族の村の情報を聞く。チェンマイから車で3時間ぐらい。郊外へ出ると、緑が多くなり、いつの間にか山の中へ。

初めてカレン族の村へ行った時のことは、ホームページのabout usに書いてるので、その抜粋。

 

「織をお願いしているカレン族の村へ初めて行ったとき、棉の収穫から布が出来上がるまでを教えてもらおうと、気持ちが昂っていた。到着後、すぐ畑に連れて行ってもらった.

 

畝があって整然としている畑を想像していたら、一見普通の野原だった。

だがよく見ると棉がなっていたり、陸稲の刈り取った後があったり、バナナがあったり。収穫期の最後だったので、ちらほらと残る棉を摘んで、それと一緒にバナナをもいで、何かよくわからない葉っぱもとって、それはその夜の夕食にならんだ。

 

自分がお世話になっていた家には、いろんな人が来て、よく井戸端会議をしていた。誰かが来ると糸紡ぎや機織りをしていた手を止め、話が終わるとまた手を動かす。

すごいことを教わるつもりでいたら、村ではそれが日常の風景、

当たり前の毎日。

そのギャップが、その時の自分には大きな出来事だった。」

 

これは到着した時の印象。ギャップを感じたのと同時に、肩の力が抜けた。ここでの経験が小倉商会のスタートなのだ、みたいな意気込む気持ちがあったのかも。

それから何日間かここで寝泊まりしながら糸紡ぎや腰機での織を経験させてもらった。今でもこの村ではいろいろと織ってもらったり、染めてもらったり。それが終わればご飯とお酒を頂いてまったりして。自分にとっては妙にくつろぐことのできる場所なのだ。

 

火鉢の前でぬくぬくする子猫。朝はちょっと冷える。

 

腰機

小倉商会 その3 相談

立ち上げを決めたのはいいけれど、どうしたらいいのやら。決めただけで仕事がスタートするわけでもなく、流石に悩んだ。まず自分で仕事を始めるという感覚がよくわからない。今まで雇われていただけだったのだから当たり前だけど、完全に手探り。もっとも仕事なんてず~っと手探り状態が続くもんだとわかったのが、見切り発車をしてからというのは、我ながら想像力に欠けていたと思う。

開業の申請はすませたけど、実務に関してはとにかく誰か似たような形で仕事を始めてる人に話を聞きたい、と思った。まずその筆頭に挙げたのが、自分より確か6歳年上のタカさん。タイのチェンマイの衣料品の工場のスタッフとして働いたのがタカさんで、自分は前職の仕入れ担当として初めて会った。仕事はもちろん、飲んだりしながらいろんなことをフランクに話ができる、タイにいる兄貴のような存在だった。その後日本に帰って地元の静岡で、タイで仕入れたものを販売するお店をやってた。噂で聞いたけど、自分が立ち上げるころに、タカさんはまたタイでも仕事を始めるつもりらしい。しかも草木染で服をプロデュースするとか。連絡を取ってすぐに会いに行った。

タカさんのお店は内装外装ともに土壁になっていて、雰囲気がよかった。店内にはさすがにタイが好きなんだな~と思うような品が並ぶ。スタッフの女性も何人かいて、個人でやってると聞いてたけれど、頑張ってるな~と思った。すごいですね、と言ったら、スタッフが頑張ってくれて、俺は人に恵まれてる、と言ってた。

お店を閉めてから、近くの温泉に行った。景色のいい露天風呂につかりながら、チェンマイでの草木染の服作りは進んでるんですか?と聞いたら、実は病気になっちゃって、癌なんだよ、医者からはもうあと1年だって言われちゃって。いきなりの話にびっくりして、なんて答えたらいいかわからず、気の利いた受け答えができなかった。別れ際に、世界一明るい癌患者になる、と笑いながら言っていた。

 

ちょうど医者から言われた1年ぐらいでタカさんは亡くなった。成田に着いたタイの共通の友人をピックアップしてそのまま静岡に向かった。

タカさんはぎりぎりまで静岡のお店の仕事をしていた。お店を閉めることは決めていたけれど、閉店当日まで店に立ち続けた。腹水がたまって辛くてたまらないはずだったけれど、弱音を吐くことは無かったと、タカさんのお姉さんに聞いた。

 

あれから16年ぐらい。6歳年上のタカさんの年齢をずいぶん越してしまったけど、仕事にいきずまるとタカさんの笑顔を思い出す。

 

彼はタカさんではないけど、タカさんに似てるのでタカさんと呼ばれてるタイの友人。

 

 

 

 

 

小倉商会 その2 立ち上げの前まで

もともと旅に出るのが好きで、高校のころは山に行ったり、大学時代は北海道を周遊券(その当時は国鉄だった)やヒッチハイクで回った。一番最初は2年になる前の春休み。青函連絡船にのって真っ白な函館が見えてきたとき、旅に出てるな~という実感がわいたのを覚えている。オホーツク海の流氷を観たかったのでそのまま網走へ向かいそのあたりをブラブラしたのだが、流氷は真っ白な世界が広がっていて、真っ白すぎてどうしたものかわからなかった。でも旅先で出会う人は、大学生活を普通に送っていたら出会えないタイプの奇妙な人たち。安宿も旅人が集まるだけでなく、オーナーも元旅人。知らない話がいろいろと出てきて、興味は尽きない。小樽では知人から紹介してもらった舞踏家の合宿所にも泊まらせてもらうようになって、大学がはじまっても夢うつつ、次はいつ北海道に行こうか?と考えてばかりいた。

 

大学では畜産を専攻し、4年の時卒論を書くために研究室に在籍していた。それなのに4月下旬からしばらく大学を休んで北海道に行くことに、教授へ相談もせずに自分で勝手に決めた。小樽の舞踏家の方に公演の手伝いに来ないか?と声をかけられたからで、行きます!と言ってしまってから、さてどうしたものかと悩んだ。実験をやらなきゃいけないのにどうする?今となっては正直どうしたか詳細を覚えてないけど、大学に戻ってすぐに研究室に顔を出したとき、教授が自分の顔を見て、あ~、と言って手にしていた電話の受話器を置いた。「君の姿がずっと見えないので、実家に電話をするとこだったよ。どこ行ってたんだね。」教授には迷惑をかけた。こんなでよく卒業できた、と今でも思う。

 

卒業後地元に戻り運送屋の仕事をしばらくした。合間に時々インドへ行ったり東南アジアへ行ったりしたけど、やっぱり旅の延長で仕事に就くことができないかと思って、考えた挙句アジア雑貨屋さんに再就職することに決めた。話はとんとん拍子に決まり、すぐに神奈川に引っ越して働き始めた。1年ぐらい経ったころから海外への仕入れにも行かせてもらった。インド、タイ、フィリピン、ベトナム、インドネシア、東アフリカと、かなりいろいろ行かせてもらって、結局10年以上働かせてもらった。安いお土産のようなものから、アフリカンアート、民族衣装とかいろんなものを見ることができ、それらを探したり、見つけたり交渉したりと、経験を積むこともできた。商売として成り立たせる大まかも知ることができた。今まで物販の経験がなかった自分にはものすごく勉強になった。もちろん勉強できただけでなく、アジアのいろんな国の手仕事のものを扱う中で、自分の好きなもの、いわゆる好みができた。それを個人としてよりダイレクトなポジションで紹介していく仕事ができるようになりたいと思った。

好きになったものが何かと言えば、綿や麻の手織の布。手で織られた布の素材感が好きだった。それと、手仕事の成り立ちを考えれば、素材の供給と手仕事をする技術というものは一つのサイクルのようなもののはずじゃないのか?と漠然と考えていた。そんなことを思ったのは、大学で畜産を専攻したからなんじゃないのか、なんて考えるのは無理があるか?(個人的には大学4年間の勉強が完璧な無駄ではなかったと思いたい。)できたらタイやベトナムでもワタの栽培から織までやってる、そんなところに出かけて、そこの生産品を紹介できたら理想的だと思った。

しかし組織にいたら結局自分の好みや考えは、仕事に反映できない。雇われてるんだから仕方がない。そこで自分で仕事を始めようと思った。

ただまだ自分で仕事をする具体的な計画もないし、そこまでいろんなことがそこまでたどり着いていない。

でも、自分が好きなものを紹介する、まずはそれでいいんじゃないのか?

完全な見切り発車であったが、タイミングと勢いは必要だったのかもしれない。今だったらとてもじゃないけど出来ない。

とにかく、こうしてアジア雑貨屋を退職した。

 

2006年2月タイ北部メーチェムで会ったルア族の女性たち

 

小倉商会 プロローグ

はじめに作ったホームページのトップを飾ったおばあちゃん。タイ北部チェンマイ郊外の村で、2006年に撮影した写真。糸車に手を置いて、おそらく自分で巻いた葉巻をくゆらすその存在感に、カメラを向けながらどぎまぎしたのを覚えてる。

そもそもこの村へ行ったのは、2005年に小倉商会を立ち上げて、出来れば無農薬で棉(ワタ)を栽培し、手紡ぎ手織、染色も草木でできるような村とのかかわりを増やしたいと思っていたところ、たまたまイベント会場でこの村の織手グループのコーディネーター役のマイさんと知り合い、翌年初来村。それからの付き合いで、うちの定番の手織綿のタオルシリーズやストール類など、かなりいろんなものを織ってもらっている。付き合って15年、その時間の積み重ねはある意味小倉商会そのもの。仕事だけでなく一緒にご飯食べたり、飲んだり・・・・・・・。 そのほかの村でも立ち上げ当初から本当にお世話になりっぱなし。

丸15年を過ぎ、小倉商会もこれから先のことを考えなければいけないところに来ているのは間違いない。それには今までのことを振り返ってみることも必要なんじゃないかと思って書いてみることにした。

基本自分に向けて。