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“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

月日の流れは速いもので、2024年も今日で終わります。
皆様にとって今年はどのような年だったでしょうか。

近所にヨーロッパ人のシェフが経営するレストランがあり、時々家族で訪ねていました。
とても気に入っていましたが、来年中に店を閉じて、タイに移住するとの話を伺いました。
今の店舗では生計を立てられず、タイの方が、給料や労働環境がよいそうです。
日本の凋落を身近に感じさせる出来事でした。

タイといえば、一昔前までは、日本が開発に手を貸してきた発展途上国というイメージでしたが、もはや立場を逆転されはじめているようです。
それでも昔のイメージに囚われた日本人が横暴に振る舞い、現地での日本の評判を落としているという報道を目にしたこともあります。

最近読んだ内田樹とウサビ・サコ著「君たちのための自由論」の中で内田氏は、日本の組織ではマウンティングが優先され、上が下を一方的に管理することに労力が咲かれており、このことが創造性を阻害していると指摘していました。
国内では年長者が若手を、外国では日本人が現地人をマウンティングすることに心血を注ぎ、創造性を発揮する環境を消失させた結果が今の日本の状況なのかもしれません。

しかし、マウンティングのみに自身の存在価値を見出した人は、マウンティングを廃して創造性の発現を促す動きを嫌悪し、破壊に向けて動くでしょう。
たとえ、その先に日本の破滅が待っていたとしても、です。
それほどまでに根深いしがらみで、この社会はがんじがらめになってしまったように思えてなりません。

人間として明日の社会をよりよくする、ますます難しい宿題として、来年に残っていくようです。

(追伸)
11月に家族で訪れた与野公園。
秋バラと紅葉、秋空のコントラストが見事でした。































インターネット上でメディアの報道姿勢を「偏向」と批判する様子は珍しくなくなりました。
特に、先日の兵庫県知事選挙では、それまで知事を糾弾していたメディアに対する「偏向報道」との批判が強い追い風となったように感じます。

とはいえ、人それぞれ考え方がある以上、意見が異なることをは当然です。
それならば、批判されるべき「偏向」とは一体どのようなものなのでしょうか。

特定の結論を導くために、それに反する事実を意図的に無視する、容易にできる事実確認を怠る、確かでない事柄を事実であるかのように扱う、無理筋な理屈でこじ付けるなどは、まさに偏向報道というべきであり、これまでも問題視されてきました。
これは重大な人権侵害であり、決して看過できません。

しかしながら、昨今の「偏向報道」批判をみていると、それに限らず、自分の意見と異なる論調を取っているだけで「偏向」と批判している場合もあるように感じます。
そして、意見の相違を受け入れず、対等な土俵に立たず、内容の吟味に入らないままに「偏向」の一言で相手を切り捨てようとする、まさに排除のツールとして利用されているのではないかと思います。

これに限らず、昨今、インターネットを中心に、内容のある議論や検討を避け、一方的に相手を排除するような理屈や論法ばかりが進化しているように思えてなりません。
壊すばかりで、後ろに守るものはなく、先に生み出すものもない、そのような論法が幅を利かせ続ければ、取り返しのつかないことになるのではないでしょうか。

(追伸)
以前家族で訪れた草加市に、11月に今度は仕事で訪れました。
前には車で通り過ぎただけの草加松原を、仕事の合間の僅かな時間でしたが、見て回ることができました。











人の不幸を喜ぶことは悪徳とされますが、同時に、人間の持っ逃れ難い性のようにも思います。
だからこそ、その性が暴走しないように、きちんと向き合い続けなければならないのでしょう。

しかしながら、現実にはその反対に、人の不幸を望み、それを喜ぶ大きな力が徘徊・暴走する場面が増えてきているようにも感じます。
この力の持つエネルギーは凄まじく、標的にされた人間は簡単に蹂躙され、最悪、生命の危機に陥る可能性さえあります。

また、直接他人を不幸にするだけの権力を持った時、自分と合わない人間を不幸にしたい欲望に、人は容易に溺れてしまいます。
そして、政治システムを通じて、人を不幸にすることに酔いしれる権利者と、人の不幸を喜ぶ有権者の利害が一致したとき、強固かつ醜悪な社会が生み出されるのではないでしょうか。

政治には必ず利害関係のしがらみがまとわりつき、誰かの利益が他の誰かの不利益になることもしばしばです。
しかし、少なくとも、誰かを不幸にしたいという願いを持って政治に関わってはならないと思います。

(追伸)
仕事で今年度2回目の横浜でした。

やはり、独特の雰囲気がよいですね。








11月の初め、コスモスの名所とされる川沿いに家族で行くことにしました。
コスモスの時期には遅い気もしましたが、品種にもよるのでしょうか、インターネットの情報では10月下旬から11月中旬までが見頃とのこと。

ところが、行ってみるとコスモスが少ないどころか、1輪もありません。
やはりインターネットの情報が誤りで、見頃をとっくに過ぎて、すべて枯れてしまったのでしょうか。

しばらく歩いてみると、このような掲示が目に入りました。

「埼玉県の草刈り業務において県の不手際によりコスモスを全面的に刈払ってしまい大変申し訳ありませんでした。今後このようなことのないよう改善してまいります。」

こんなことがあるのですね。
県の担当部署と受注した会社名が連記されていたので、発注の際の県からの情報提供に漏れがあったのではないでしょうか。

「体たらく」と言えばそれまでですが、頻繁に人事異動があり、異動直後は手探りで業務に当たることが多い組織では、どこでも起き得ることです。
担当者はさぞかし青ざめたことでしょう。
来年は綺麗なコスモスが咲くといいですね。

ちなみに近くの花壇には、綺麗な花が咲き乱れていました。







とある村のお話です。

この村は、特産品の農作物で生計を立てていました。
かつて高級な農作物が潤沢に収穫できていた頃は、村民皆に多額の分配を行い、豊かに生活していました。

ところが、農作物が不作となり始めた上、価格も下がったため、収入が少なくなりました。
これを等しく村民に分配すると、皆が貧しい生活しかできません。
村長は収入を増やすために努めましたが、なかなか思うようにいかず、村民は村長に不満を抱き始めました。

そこで、村長は、一部の村民の収入を取り上げ、他の村民に分配することにしました。
収入を取り上げる村民は、表向きは、十分に働いていない、周りに迷惑をかけているなどの理由のある者とされていましたが、実際は、収入を取り上げても抵抗できない弱い者、その人を擁護する人がいない孤独な者などが選ばれました。
彼らももちろん抗議の声を上げましたが、彼らの収入を分配されて生活を成り立たせている多数の人は、彼らに耳を貸さず、表向きの理由を挙げて、自業自得と突き放しました。

収入を取り上げられた村民は村から消えていき、労働力が少なくなった結果、ますます村は貧しくなりました。
このため、村長は、さらに収入を取り上げる村民を選び、前回と同じく取り上げた収入を他の村民に分配しました。
そして、また村民が消えていきました。

これに危機感を抱き、改善を訴える村民も出てきました。
しかし、村の総収入を増やす妙案はなく、その中で平等な分配をすれば今の生活水準を維持できない村民の方が多かったため、支持を得られず、「夢想」と言われて排除されていきました。

そして、さらに村の総収入は減りました。
息を潜めて多数派に潜り込み、誰かを排除して、自分の糧を確保する「現実的」な意見と、それを肯定する意味での競争が是とされ、総収入を増やすことなど誰も考えなくなりました。

いつか訪れる崩壊の時、それがいつなのか分からない以上、そのことは考えないように生きる、それが村の暗黙の掟になりました。
村民は今日も幸せに生きています。
いえ、幸せであると言い聞かせ、信じたがって生きています。

(追伸)
10月にまた訪れた実家近くの石神井公園。
まだ暑さも残りつつ、秋の始まりを感じさせる綺麗な空が印象的でした。















兵庫県知事選挙が終わり、前知事がまさかの再選を果たしました。
あのような形で職を失ったときは、再選どころか、いかなる公職等でも再起不能と思っていましたが、本当に意外な結果となりました。

しかし、何とも釈然としません。
前知事時代の混乱は一体何だったのか、憶測を含む様々な情報が乱れ飛び、何が事実なのか、それだけでなく、何をどう評価すべきなのか、混沌としたまま今日に至った印象です。

再選を勝ち取り得た理由は色々と考えられるでしょう。
既得権益と戦ってきた者というイメージを強く打ち出し、対立候補者に既得権益側の人間と印象付けたことが勝因とする声もあります。
言い方を変えれば、「身内を苦しめる危険はあるが、広く一般にはより利益をもたらす可能性が高い者」と「身内には優しいが、広く一般の利益には劣りそうな者」との戦いで、前者が後者を制したということでしょうか。

これを、広く一般県民のための知事を選ぶという趣旨から肯定するのか、普遍的な人権や人間の尊厳の観点から否定するのか、考え方はそれぞれかと思います。
しかし、前者の考え方が後者の考え方を圧倒的に凌駕するような世の中になれば、それは幸せな社会なのでしょうか。

選挙期間中のデマの拡散や誹謗中傷の横行が指摘されていることも含め、不安を感じざるを得ません。


競争は社会の発展のために必要不可欠なものといわれます。
そういった中、日本で、世界で、新自由主義による競争の激化がみられますが、果たして社会は発展しているでしょうか。

思えば、私が子供の頃から「これからは競争の激しい、厳しい世の中になる」というようなことが言われていた気がします。
しかし、そこで言われている競争は、誰かが設けた小さなスタジアムの中で、相対的な優劣を競わされるようなもので、ただただその誰かに認められるための窮屈で無味乾燥なものに感じました。
このような競争は、自ずと蹴落とし合いを招く陰湿なものとなります。

競争が人間の本能としてあるとしても、それだけが人間を形成しているわけではなく、様々な側面から成り立っています。
だとすれば、競争だけを至上視するのではなく、全体として望ましい人間社会を実現するために、一側面である競争を統制する必要があるのではないでしょうか。

しかしながら、無味乾燥な競争に慣れすぎた、あるいは、疲れすぎたのでしょうか。
競争の先にあるべきものは全く見えず、どんな残酷な不幸も対処すべきものではなく、競争の結果として、諦められ、正当化され、見捨てられています。
競争の先を描くことがもはやこの社会でできないとしたら、陰湿な競争の果ての滅亡を待つしかないのでしょうか。

(追伸)
埼玉県のミュージアムスタンプラリーで草加市を訪れました。
松尾芭蕉の奥の細道ゆかりの地、歴史の痕跡が伺える街はいいものですね。







昨今、就職氷河期世代が満足にキャリアを積めず、家庭も持てないままに中高年となり、社会基盤を揺るがしかねないと問題視されています。
私は、就職氷河期の最後の頃に就職しましたが、本当に運が良かったとしか言いようがありません。

インターネットには、主に報われないまま歳を重ねた当事者の声がまとめられたコンテンツもあり、過去と現在の苦境、恵まれた新しい世代への羨望、採用を絞った企業や見捨てた社会が人材不足で苦しんでいることについての因果応報など、様々な主張がなされています。

ただ、この中で気になったのは、ちらほらと、外国人への生活保護支給を挙げて、それよりも氷河期世代を支援すべきとの声があったことです。
外国人という理由だけで今まさに困窮している人を平然と見捨てる人が、社会が、氷河期世代に本気で手を差し伸べるとは到底思えません。
外国人の生活保護を引き合いに出して、それに賛同する人は、決して氷河期世代も助けないとすれば、非常に倒錯した主張となります。

なぜ、このような主張に至るのか、それを考えたとき、一つの推論が頭を過ぎりました。
この社会はもはや、誰かを叩くことでしか連携できないことを確信し、その確信の下で残された唯一の方法としてマイノリティの排撃を介した主張をしているのではないか、と。
私自身、氷河期世代として生きてきた中で、思いやりや正義で社会が連帯することが信じきれずにいます。
連帯のための唯一の希望が誰かを叩くことだとすれば、まさに絶望の社会と言わずにはいられません。

(追伸)
夏の飯能・秩父旅行の2日目は、ダム、蒸気機関車、まつり会館と秩父を観光しました。帰路で大雨が降り、観光中でなかったのが幸いでしたが、かなりスリルのある運転になりました。



















先日の自民党総裁選でも取り上げられた選択的夫婦別姓の是非について、特に保守派とされる方々からは強い異論が出ています。
その異論には様々な内容がありますが、中心となっているのは「家族の絆が壊れる」というものです。

「絆」を、心の結びつきや信頼関係と捉えている方々からすれば、理解の及ばない意見かと思います。
心と心の結びつきである絆が、別姓の選択で壊れるとは考え難いからです。
それでは、別姓が絆を壊すという考えを持つ人は、その背景で何を考えているのでしょうか。

もしかしたら、「絆」は、立場が上の人間が下の人間を縛り付ける権力のことだと認識しているのかもしれません。
相手の心情や意思にかかわらずに従わせ、その関係を維持する鎖を「絆」と呼ぶならば、確かに選択的夫婦別姓の導入は「絆」を破壊するものでしょう。なぜならば、選択的夫婦別姓の導入は、その制約を解き、自由な心情や意思に基づき行動するという方向性で求められているものであり、反対派からすれば、それを主張すること自体が「絆」を破壊する行為となります。

しかし、異なる他者への理解と尊重のない一方的な関係性は、一人ひとりの成長も、社会の成長も導きません。
なぜなら、他者への理解や尊重の過程で、自分になかった視点・観点を手に入れるからです。そして、自分の世界に取り入れることで、自分の世界は広がっていきます。

他者を抑えつけ、思い通りに支配し続ける限り、楽かもしれませんが、気づきも、自己の広がりも、成長もありません。
そして、それが社会の趨勢になれば、社会は硬直、停滞、衰退するだけでしょう。
これもまた、日本の失われた30年の一つの側面であるように思えるのです。

(追伸)
8月のことですが、今年の夏の家族旅行、1日目は飯能市のムーミンバレーパークに行き、その後、秩父市に移動して宿泊しました。
天気予報には直前まで雨マークが付いていましたが、幸い降られずに楽しめました。



























子供達が7歳と4歳になり、何を目指して子育てをしていくのか考えることがあります。

教育については、社会への適応を重んじるのか、個性の発揮を重んじるのかが常に議論されてきたように思います。
かつては前者に偏る傾向がありましたが、その後、それへの反省から後者を重視するようになりました。一方、その教育を受けた若い世代に、社会性の欠如や自己中心的な姿勢が目立つといった弊害も指摘されています(ただ、いつの時代も若者のあり方は批判されがちで、その真偽は定かでありません。)。

教育においては、他者や社会との協調を重んじるべきか、自己の実現・伸長を重んずるべきか。
これについて、今思うのは、双方とも目指さなければ、双方を調和させなければ、人も社会も幸福になれない、発展できないのではないかということです。

人は個性と意思を持っている以上、自由にそれを発現できなければ、生きる意義は感じられないでしょう。
しかし、人が人の中で生きる以上、皆が幸せになるためには、他者への配慮が必要になることはもちろん、個性や意思も他者から認められてこそ、より幸福を感じられるものと思います。
さらに、ある程度の規律がなければ社会は成り立ちませんが、構成員の個性が抑圧され、自由に生きられなければ、社会は決して豊かにならないのではないでしょうか。

他者や社会との協調に傾きすぎれば、管理、抑圧、支配と化していき、自己の実現・伸長に傾きすぎれば、単なる甘やかしと放置と化していく。
個人の幸福と社会の幸福は、どちらかを毀損すると、やがてもう一方も毀損していくようにも感じます。
個人の幸福と社会の幸福の両立を目指し、バランスが崩れていないか常に悩み続けることが教育の本質なのかもしれません。

(追伸)

夏に再度訪れた実家のある石神井公園。暑さの中にも涼を感じました。