誰かを叩くことが唯一の希望という絶望 | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

昨今、就職氷河期世代が満足にキャリアを積めず、家庭も持てないままに中高年となり、社会基盤を揺るがしかねないと問題視されています。
私は、就職氷河期の最後の頃に就職しましたが、本当に運が良かったとしか言いようがありません。

インターネットには、主に報われないまま歳を重ねた当事者の声がまとめられたコンテンツもあり、過去と現在の苦境、恵まれた新しい世代への羨望、採用を絞った企業や見捨てた社会が人材不足で苦しんでいることについての因果応報など、様々な主張がなされています。

ただ、この中で気になったのは、ちらほらと、外国人への生活保護支給を挙げて、それよりも氷河期世代を支援すべきとの声があったことです。
外国人という理由だけで今まさに困窮している人を平然と見捨てる人が、社会が、氷河期世代に本気で手を差し伸べるとは到底思えません。
外国人の生活保護を引き合いに出して、それに賛同する人は、決して氷河期世代も助けないとすれば、非常に倒錯した主張となります。

なぜ、このような主張に至るのか、それを考えたとき、一つの推論が頭を過ぎりました。
この社会はもはや、誰かを叩くことでしか連携できないことを確信し、その確信の下で残された唯一の方法としてマイノリティの排撃を介した主張をしているのではないか、と。
私自身、氷河期世代として生きてきた中で、思いやりや正義で社会が連帯することが信じきれずにいます。
連帯のための唯一の希望が誰かを叩くことだとすれば、まさに絶望の社会と言わずにはいられません。

(追伸)
夏の飯能・秩父旅行の2日目は、ダム、蒸気機関車、まつり会館と秩父を観光しました。帰路で大雨が降り、観光中でなかったのが幸いでしたが、かなりスリルのある運転になりました。