自民党埼玉県議団が議会に提出していた虐待禁止条例の改正案が全国的に厳しく批判されました。
小学3年生までの子供だけで留守番をさせたり、公園で遊ばせたりすることまで禁止する内容ということで、これでは子育てできないと反発されたものです。
我が家も埼玉県で子育てをする身ですが、実際のところ、これらの禁止事項をせざるを得ないこともありました。
このため、条例改正案が最終的に撤回されることとなり、とにかく安堵しています。
撤回されたものの、このような現実離れした条例案が作成され、可決寸前まで進んだことを危惧する声も聞かれます。
また、背景として、議員が実際の子育てをはじめとした一般社会の実情を知らないことや、女性が家庭で専ら子育てを担うという伝統的家族観があることも推測されています。
しかし、落ち着いたところで、現行の条例、そして改正案を実際に見てみたのですが、ここで驚くことになりました。
端的に言えば、報道されていた内容と重要な点が異なるのです。
まず、この改正案について、子どもを「放置」することを児童虐待と位置づけて禁止していると報じられ、実際に、自民党埼玉県議団長は、「子どもが放置をされている状態を我々は『虐待』と定義をし」と述べています。
しかし、これは誤りです。
確かに、最も重要な、子供の放置を禁止していることは間違いありません。
ただし、虐待の範疇に含めているわけではないのです。
現行の条例では、第2条第1号で虐待の定義を置き、身体的虐待、精神的虐待、性的虐待、ネグレクト及び経済的虐待が虐待に当たるとし、第5条第1項で虐待を禁止しています。
改正案では、この定義等に変更はなく、これとは別に第6条の2として放置の禁止等を追加しています。
つまり、放置は、虐待には当たらないけれども、禁止するというのが正確な捉え方といえるでしょう。
禁止されるなら同じではないかと思われる方もいるかもしれません。
しかし、同じ禁止でも、「虐待」と称されるかどうかは、心理的に重さが全く違うのではないでしょうか。
さらに、このことは、次の通報義務にも大きく影響します。
子どもの放置を見付けた県民に通報も義務付けるという点で、子育て家庭を監視する社会を生むものとして批判されました。
問題の規定は、条例の第8条第2項として追加されるものでしたが、内容は、県民に、虐待を受けた児童等児童、高齢者及び障害者を発見した場合の通報を義務付けるものです。
ここでは、「虐待を受けた」とされていることが注目されます。
前述のとおり、放置は禁止されるものの、「虐待」には含まれていません。
虐待でない以上、放置について県民に通報する義務は課されません。
この通報義務は、あくまで本来の虐待についてのみ課すこととされていたのです。
いかがでしょうか。
「放置」の概念が幅広く、日常で普通に行われている行為まで禁止されるという問題は残るものの、実際の改正案は、報道から伺われるほどには非常識とはいえなかったように思います。
そして、不可解なのは、外部の報道機関や部外者が誤解して批判したわけではなく、改正案を提出した当の自民党埼玉県議団の説明内容が誤っていたという点です。
なぜこのようなことが起きてしまったのか。
一つの推測ですが、この改正案には、様々な関係者のそれぞれ異なる思惑が交錯していたのではないでしょうか。
一つは、純粋に、危険な放置を禁止して子どもを守ろうとするもの。実際の改正案をみると、これ自体は、主にその意図で作成されたものと感じます。
もう一つですが、仮に自民党埼玉県議団が言うような(実際とは異なる不正確な)内容で規制がなされたとき、それを喜ぶのは、どんな人でしょうか。
子どもの声がうるさいという苦情が出るようになって久しくなりますが、自民党埼玉県議団の説明では、公園で子どもだけで遊ばせることはできなくなっていました。
もし遊んでいたら、それを煩わしく思う人は、条例に従って通報し、虐待行為として親を責めることができます。
親には子を常に管理し続けさせ、管理が滞ったら虐待として通報・糾弾する。それによって、子どもが好きでない、煩わされたくない大人は、自分にとってのみ心地よい環境を保てるでしょう。
それが、この改正案にまとわりついたもう一つの思惑と推測するのは極端過ぎるでしょうか。
子どもに煩わされたくない大人が、子育て家庭を「親が責任を持て」と責め、萎縮させる。
これは、一昔前の、子育てに無関心な父親が、子どもの問題について、「お前の責任だ」と母親を責める姿に重なります。
そのような意味でも、改正条例で萎縮させられ、口を塞がれる前に、多数の声が上がって改正が見送られたことは、とても重要なことであったと思います。
(追伸)
随分と時間が経ってしまいましたが、夏の思い出、妻の実家近くの権現堂、このときは小さな向日葵とキバナコスモスが綺麗でした。
