“迷い”と“願い”の街角で -6ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

2024年が始まりましたが、今年はどのような年になるでしょうか。

2023年も様々なことがありましたが、社会を揺るがしたことのひとつとして、故ジャニー喜多川氏による極めて性加害の問題がありました。
これにより、ジャニーズ事務所を巡る環境は一変、輝かしい帝国は瓦解し、ジャニーズという名も消え去りました。

この問題が深刻に捉えられ、対処されるようになったけとは間違いなく前進です。
しかし、この問題の経緯をみると、日本という社会への失望・絶望をなおも感じざるを得ないのです。

①ジャニー喜多川氏の悪行を知る人は少なくなく、また、裁判でも露見していたにもかかわらず、氏の死後まで厳正に対処されることはありませんでした。
死後、その名を落とすことにはなりましたが、どれだけ人を傷つけ、苦しめ、罪を犯しても、権力さえあれば、順風満帆に長い生涯を終えられることを証明する結果にもなりました。

②この問題が大きく取り上げられるようになったきっかけは、イギリスの公共放送BBCの番組でした。
すなわち、日本社会は自身の手で、日本の子供たちを性被害から守ることも、救うこともできず、外圧でようやく動き出したことになります。

③この問題の難しいところは、旧ジャニーズ事務所所属のタレントにどのように向き合うかでしょう。
ジャニー喜多川氏の罪について、彼らに連帯責任を負わせることは妥当でない一方、タレント活動を全てそのままとすれば、氏の行為を是認することにもなりかねません。
何を一番大切にすべきか、それを考えながら、悩みながら、被害者にも、タレントにも社会は誠実に向き合うべきでした。
しかし、行われたのは勢いに任せたようなタレントへの誹謗中傷、そして、反動のような被害者への誹謗中傷で、その中で被害者が自ら命を絶つ悲劇をさらに引き起こしました。

乱暴な言い方かもしれませんが、今まで特に問題にしていなかったものの、海外メディアが取り上げて、皆が声を上げ始めたので、とりあえず皆で一緒に悪そうな人を叩いてみた、というのが日本社会のこの問題への向き合い方だったのではないでしょうか。
社会を構成する一人一人の人権を守る重要性に無頓着な日本の社会は、ジャニー喜多川氏の行為がなぜ許されないのか、その理由さえ深くは理解できていないのではないかとも思えます。

一人一人の幸せに価値を置かない社会の限界というべきでしょうか。この状況が一朝一夕に変わることはないでしょう。
それでも、自分なりに幸せを追い求め、それに誇りを持って生きることが、社会を変えるためにできることだと思います。
本当の幸せはつながっていく、一人一人の幸せがつながっていく社会であるように。

(追伸)
昨年細々と撮った写真がたまっていました。










昨年のクリスマス、12月25日の朝のこと。
2人の子供たちが、起こされずに起きる、言われる前に着替える、これをクリスマスの奇跡と言わずして何と言うのでしょう。
そして、プレゼントを探す子供たち。

今年も再びの奇跡を見られるかと思いきや、サンタクロース宛にプレゼントの置き場所を指定する手紙を書いて安心したのか、熟睡していました。
ただ、1年でそのような手紙を書けるようになった成長もまた、奇跡かもしれません。

(追伸)
11月の思い出その2、家族で見たイルミネーション。
クリスマスに向けた準備が始まったかと思ったら、あっという間に過ぎ去ってしまいました。





選択的夫婦別姓制度には賛否両論あります。
とはいえ、世論調査では賛成派が多数となるほどに社会が変わる中、政府自民党の一部が強硬に反対し、実現を半ば力ずくで阻んでいるような歪な状況でもあります。

「夫婦別姓を認めると、家族の絆が壊れる」という意見があります。
家族の絆とは、そんなにも脆いものなのかと思いますが、もしかしたら、この意見を持つ方々にとっては、本当に脆いものなのかもしれません。
すなわち、男尊女卑という権力関係でしか、結びつきを作れないのではないか、と感じるのです。

本来の絆は、信頼や愛情などで育まれるものですが、それを紡げない人は、権力関係や上下関係で人を押さえつけることで、偽物の絆を生み出すしかありません。
当然ながら、権力関係や上下関係が瓦解すれば、偽物の絆は消え去りますので、そういった関係しか築けない人には、まさに絆を壊すことにほかなりません。
しかし、所詮は「偽物の絆」であり、本来の絆がもたらすような幸福はもたらしません。

それが全てではないでしょうが、選択的夫婦別姓を巡る動きは、本当の絆、幸せをもたらす絆に目を向ける人が増える一方で、力任せに偽物の絆を押し付ける人が力の限りの抵抗をしている側面があるのではないかと思えるのです。

(追伸)
11月の思い出その1。家族で秋薔薇を見た与野公園です。春よりは控えめな印象ですが、色とりどりの薔薇は本当に楽しい気分にさせてくれます。












就職する前に、ある方から仕事を進めるに当たって大切なことを教えられました。

ある時点までは、様々な意見をよく聞くこと、そして、ある時点で決断し、あとは迷わず進めること、というものです。

これが20年近く経った今でも記憶に残っており、むしろ、これまでの社会人生活で、その通りだったと感じさせることが多々ありました。
意見を聞くことと、決断し進めること、どちらかを欠くことで失敗する例が多いように思います。

意見を聞き続けて決断を常に先送りすることは妥当ではありませんが、意見を聞き続けては埒が明かないと言い訳して、最初から意見を聞かないことも失当でしょう。
これからも、この言葉を頭に置いて働いていきたいと思っています。

(追伸)
10月の思い出その2、仕事で訪れた軽井沢です。首都圏より早い紅葉の時期でした。








子供たちが生まれてから、子供向けのものを除き、あまりテレビを見なくなりました。
その中で、今だに見続けている数少ないテレビ番組の一つが「孤独のグルメ」です。
今年は通常のシリーズは放送されませんでしたが、大晦日スペシャルは放送されるようで、楽しみにしています。

ところで、この「孤独のグルメ」のオープニングナレーション。
「時間や社会にとらわれず、幸福に空腹を満たすとき、束の間、彼は自分勝手になり、自由になる。誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒しといえるのである。」
数年前まで、何の違和感もありませんでした。

しかし、コロナ禍を経ての物価高、相対的貧困率の上昇の中、外食が手の届かない贅沢となった世帯も増え、廃業する飲食店も目立ってきました。
もはや、「現代人に平等に与えられた最高の癒し」ではなくなりつつあるのではないか、そのように思うこともあります。

地域に根ざした個性ある食事は立派な日本の文化だと思います。
貧困や廃業を自己責任と切って捨てる向きもありますが、その先に何が残るでしょうか。
その最高の癒しを平等に享受できる世の中であり続けられるようにしたいものです。

(追伸)
10月に訪れた実家のある石神井公園。この地域でも、ここ数年、廃業する飲食店が増えました。











人は矛盾に満ちた存在といわれることがあります。

しかし、大切にすべき様々な価値があり、それらが衝突する場面も珍しくない以上、それは当たり前なのかもしれません。
むしろ、矛盾に向き合い続けることが、生きることそのもののようにも思えます。

逆に、何かしらの価値を最上位に据えて、それに相容れない他の価値を悉く切り捨てる、そのようなことが賛美され、熱狂されるようになると、極めて危険と感じます。

(追伸)
今年も残りわずかですね。9月頃の思い出、仕事で山梨県富士河口湖町や長野県塩尻市を訪問。塩尻市からの帰りの車窓には富士山がありました。










「生産性」という言葉が広まって久しいように思います。
しかし、少ない資源で効率的に物やサービスを生み出すという前向きな言葉のはずですが、「日本は生産性が低い」というような否定的な使われ方が目立ちます。
さらには、国会議員が性的少数者を「生産性がない」と称するような醜悪な使われ方さえも見られました。

上記の国会議員のような例は論外として、人間を評価するような文脈で「生産性」という言葉を使うことは妥当なのでしょうか。
労働者の労働時間や給与に対して成果が乏しいことを生産性が低いというならば、短い時間で少ない給与で馬車馬のように働くのが生産性の向上となってしまいかねません。

本来、生産性は、少ない資源で成果を生み出すことですから、生産性が向上すれば、労働者は少ない労力で同じ成果を出す、あるいは、同じ労力のまま大きな成果を出せるはずです。
その意味で、生産性の向上は、労働者が楽になることを目指すものではないでしょうか。

それには、初期投資も必要となる場合も多々ありますが、人間の幸福と効率化を図るための一時的な負担といえるでしょう。
しかし、いわゆる「経営者目線」、それも経営者としての望ましい考え方ではなく、経営者自身の短期的な利益の確保という観点では、その実現が難しくなります。
労働者の生産性を向上させる環境整備への負担を嫌い、労働者を徹底的に酷使した方が、少ない投資で利益が上がる分、経営者目線での生産性は向上します。
ただし、そこには幸福も、発展も、持続性もなく、結果的に本当の生産性は低いまま、あるいは、より低くなるのではないでしょうか。

日本では、苦労が美徳、楽は怠惰とされる風潮がありました。
勤勉は是としても、楽や幸福を追求することを否定すれば、果たしてそれは生きるに値する社会なのでしょうか。
楽や幸福のために勤勉になる、それが生産性向上の第一歩であるように思います。

(追伸)
9月に仕事のついでに訪れた皇居周辺と日比谷公園。以前はこの付近で働いていましたが、かなり久しぶりの訪問でした。







不登校対策を巡る滋賀県の首長会議での同県東近江市長の発言が批判を浴びました。
発言の内容は、「大半の善良な市民は、嫌がる子どもを無理して学校に押し込んででも義務教育を受けさせようとしている」「フリースクール、フリースクールと、良かれと思ってやることが国家の根幹を崩しかねない」「不登校になるのは親の責任が大半だ」というものです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/286744

正直、この手の無理解な発言は枚挙にいとまがなく、またかという印象ではありますが、それでも子育て中の親として気分のいいものではありません。
我が家の2人の子供たちは、幸い不登校や不登園にはなっていませんが、行き渋った時期はありました。
渋る様子があまりに激しいとき、強く励まして行かせるべきか、いや、その苦しみがかえって悪く影響するのではないか、では、休ませるべきか、いや、甘えを助長し、成長を阻害するのではないか、と迷いながら、行かせたり、休ませたりと、その都度判断していました。

多くの親は、子供を学校に行かせる重要性を理解しているでしょうし、難なく行ってくれれば、親としても助かるのは間違いありません。
しかし、様々な事情の中、不登校を受け入れざるを得ないこともあるでしょう。
それは親にも子にも苦しい決断のはずですが、今回の発言には、それらに対する軽視・蔑視を感じざるを得ません。

批判された後、東近江市長は、不登校の原因を親の責任にするなんてことは全く思っておらず、舌足らずの発言で当事者を傷つけたと謝罪する一方、国の制度設計の問題を信念を持って批判したもので、撤回はしないと説明しました。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/801654

大半の善良な市民は無理にでも子供を学校に行かせると、不登校の親をあたかも「一部の善良でない人間」とするような発言をした上で、「不登校になるのは親の責任が大半だ」と言っておきながら、「舌足らず」というのはあまりにも無理があります。
「信念」といいますが、思い込みによる偏見に固執することを信念というべきでしょうか。意固地、頑固、偏屈といった表現の方がしっくりきます。

それにしても、少子化が進む一方で、2022年度の小中学校における不登校者数、小中高校などで認知したいじめ件数とも過去最多、2022年に自殺した小中高生も過去最多です。
この背景の一つに、東近江市長の発言に表れているような「大人の姿勢」があるように思えてなりません。
すなわち、子どもを意思や感情を持った人間として向き合わず、単なる労働力の原材料、そして、親を原材料の提供者としてしかみない、そのような姿勢を感じるのです。
そのように捉えたとき、不登校の子どもは不良品・欠陥品であり、親は不良品・欠陥品の提供者です。このため、親は「正常な品物」を供給する責任を果たせ、と。

人間として真摯に向き合われない子どもの絶望は、自分へに刃を向けての自殺、他人に刃を向けてのいじめにつながっていく。
そのような中、不登校には、他人に刃を向けず、それでも生きようとするという意味での前向きさがあるのかもしれません。

社会について考えるとき、そこに「人間」をみることが、どうしてここまで蔑ろにされるのでしょう。
それがもどかしく感じます。

(追伸)
夏に訪れた石神井公園。とにかく暑い夏だからこそか、水辺は特に涼を感じさせました。












自民党埼玉県議団が議会に提出していた虐待禁止条例の改正案が全国的に厳しく批判されました。
小学3年生までの子供だけで留守番をさせたり、公園で遊ばせたりすることまで禁止する内容ということで、これでは子育てできないと反発されたものです。
我が家も埼玉県で子育てをする身ですが、実際のところ、これらの禁止事項をせざるを得ないこともありました。
このため、条例改正案が最終的に撤回されることとなり、とにかく安堵しています。

撤回されたものの、このような現実離れした条例案が作成され、可決寸前まで進んだことを危惧する声も聞かれます。
また、背景として、議員が実際の子育てをはじめとした一般社会の実情を知らないことや、女性が家庭で専ら子育てを担うという伝統的家族観があることも推測されています。

しかし、落ち着いたところで、現行の条例、そして改正案を実際に見てみたのですが、ここで驚くことになりました。
端的に言えば、報道されていた内容と重要な点が異なるのです。

まず、この改正案について、子どもを「放置」することを児童虐待と位置づけて禁止していると報じられ、実際に、自民党埼玉県議団長は、「子どもが放置をされている状態を我々は『虐待』と定義をし」と述べています。
しかし、これは誤りです。
確かに、最も重要な、子供の放置を禁止していることは間違いありません。
ただし、虐待の範疇に含めているわけではないのです。

現行の条例では、第2条第1号で虐待の定義を置き、身体的虐待、精神的虐待、性的虐待、ネグレクト及び経済的虐待が虐待に当たるとし、第5条第1項で虐待を禁止しています。
改正案では、この定義等に変更はなく、これとは別に第6条の2として放置の禁止等を追加しています。
つまり、放置は、虐待には当たらないけれども、禁止するというのが正確な捉え方といえるでしょう。

禁止されるなら同じではないかと思われる方もいるかもしれません。
しかし、同じ禁止でも、「虐待」と称されるかどうかは、心理的に重さが全く違うのではないでしょうか。
さらに、このことは、次の通報義務にも大きく影響します。

子どもの放置を見付けた県民に通報も義務付けるという点で、子育て家庭を監視する社会を生むものとして批判されました。
問題の規定は、条例の第8条第2項として追加されるものでしたが、内容は、県民に、虐待を受けた児童等児童、高齢者及び障害者を発見した場合の通報を義務付けるものです。

ここでは、「虐待を受けた」とされていることが注目されます。
前述のとおり、放置は禁止されるものの、「虐待」には含まれていません。
虐待でない以上、放置について県民に通報する義務は課されません。
この通報義務は、あくまで本来の虐待についてのみ課すこととされていたのです。

いかがでしょうか。
「放置」の概念が幅広く、日常で普通に行われている行為まで禁止されるという問題は残るものの、実際の改正案は、報道から伺われるほどには非常識とはいえなかったように思います。
そして、不可解なのは、外部の報道機関や部外者が誤解して批判したわけではなく、改正案を提出した当の自民党埼玉県議団の説明内容が誤っていたという点です。

なぜこのようなことが起きてしまったのか。
一つの推測ですが、この改正案には、様々な関係者のそれぞれ異なる思惑が交錯していたのではないでしょうか。
一つは、純粋に、危険な放置を禁止して子どもを守ろうとするもの。実際の改正案をみると、これ自体は、主にその意図で作成されたものと感じます。

もう一つですが、仮に自民党埼玉県議団が言うような(実際とは異なる不正確な)内容で規制がなされたとき、それを喜ぶのは、どんな人でしょうか。

子どもの声がうるさいという苦情が出るようになって久しくなりますが、自民党埼玉県議団の説明では、公園で子どもだけで遊ばせることはできなくなっていました。
もし遊んでいたら、それを煩わしく思う人は、条例に従って通報し、虐待行為として親を責めることができます。
親には子を常に管理し続けさせ、管理が滞ったら虐待として通報・糾弾する。それによって、子どもが好きでない、煩わされたくない大人は、自分にとってのみ心地よい環境を保てるでしょう。
それが、この改正案にまとわりついたもう一つの思惑と推測するのは極端過ぎるでしょうか。

子どもに煩わされたくない大人が、子育て家庭を「親が責任を持て」と責め、萎縮させる。
これは、一昔前の、子育てに無関心な父親が、子どもの問題について、「お前の責任だ」と母親を責める姿に重なります。

そのような意味でも、改正条例で萎縮させられ、口を塞がれる前に、多数の声が上がって改正が見送られたことは、とても重要なことであったと思います。

(追伸)
随分と時間が経ってしまいましたが、夏の思い出、妻の実家近くの権現堂、このときは小さな向日葵とキバナコスモスが綺麗でした。








日本には人権の観念が根付いていない、あるいは、人権は日本の風土に馴染まないなどと言われることがあります。
前者は人権を重んじる立場からそれが浸透しないことを憂い、後者は人権保障を疎む立場からそれを軽視していますが、人権が日本に定着していないという認識では一致しています。

考えてみれば、「偉い人」が人権を嫌うのは当然のことではあります。
憲法で保障された人権は、権力者によっては奪えないものとして規定されており、権力者にとっては自由に権力を行使できない足かせとなります。
しかし、このような法的性質以前に、より根源的な心理も働いているように思います。

いわゆる「偉い人」は、その地位や権力ゆえに、厚遇され、尊敬されます。
そこで感じる満足は、まさに「普通の人間とは違う特別な存在」という優越感でしょう。
その優越感に自分の価値や存在意義を見出しても何の不思議もありません。

対して、人権は人であるがゆえに誰しもが保障される権力であり、その根底には人は皆、人として同等の価値があるとの考えがあります。
これは、「偉い人」が抱きがちな他者より特別なゆえに価値があるという自負と抵触します。
その自負を護るためには、人によって価値に差があるという考えを強調する必要があり、それは属性によって人権を制約したり、剥奪したりすることにつながっていきます。

しかし、日本では、「偉い人」ばかりでなく、市井の人でも人権に否定的な意見を持ちがちに感じます。
これは一体なぜなのでしょうか。

「偉い人」に自由や尊厳を制約された人は、そのままでは精神のバランスを保てません。
その場合、より弱い立場の人の自由や尊厳を制約することが精神のバランスを保つ一つの方法となります。
一面では苦痛をもたらすシステムが、同時に他面で快楽をもたらすことになります。
その快楽を得るためには、人権は邪魔な存在ですので、一番偉い人ではなくても、人権を否定するメリットがあることとなります。ただし、最も弱い立場の人達を除いては。

最も弱い立場の人達は、自らが抑ええつけられた代償として、誰かを抑えつけることはできず、そこには絶望しか残されません。
そして、最も弱い立場の人達を抑圧する「プチ偉い人」は、その人達の人権を絶対に認められません。
最も弱い立場の人達の権利が拡張・向上し、抑圧できなくなると、今度は自分たちが抑圧されるだけの最も弱い立場に転落するからです。

しかし、より偉い人からの抑圧に耐え、より弱い立場の人を抑圧することにばかり莫大なエネルギーを費やす社会が、果たして発展していけるのでしょうか。
社会全体にとっても、個々の人間にとっても、それは不幸でしかないはずですが、そのしがらみから逃れようとすれば、しがらみの最下層で地獄を味わうリスクも負う、そこに今の社会の絶望の一つがあるように思えてなりません。

(追伸)
今年は特に長かった夏ももう終わりそうですね。
折に触れて撮っていた写真が溜まっていました。