人に抑えつけられ、人を抑えつける社会の行く末 | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

日本には人権の観念が根付いていない、あるいは、人権は日本の風土に馴染まないなどと言われることがあります。
前者は人権を重んじる立場からそれが浸透しないことを憂い、後者は人権保障を疎む立場からそれを軽視していますが、人権が日本に定着していないという認識では一致しています。

考えてみれば、「偉い人」が人権を嫌うのは当然のことではあります。
憲法で保障された人権は、権力者によっては奪えないものとして規定されており、権力者にとっては自由に権力を行使できない足かせとなります。
しかし、このような法的性質以前に、より根源的な心理も働いているように思います。

いわゆる「偉い人」は、その地位や権力ゆえに、厚遇され、尊敬されます。
そこで感じる満足は、まさに「普通の人間とは違う特別な存在」という優越感でしょう。
その優越感に自分の価値や存在意義を見出しても何の不思議もありません。

対して、人権は人であるがゆえに誰しもが保障される権力であり、その根底には人は皆、人として同等の価値があるとの考えがあります。
これは、「偉い人」が抱きがちな他者より特別なゆえに価値があるという自負と抵触します。
その自負を護るためには、人によって価値に差があるという考えを強調する必要があり、それは属性によって人権を制約したり、剥奪したりすることにつながっていきます。

しかし、日本では、「偉い人」ばかりでなく、市井の人でも人権に否定的な意見を持ちがちに感じます。
これは一体なぜなのでしょうか。

「偉い人」に自由や尊厳を制約された人は、そのままでは精神のバランスを保てません。
その場合、より弱い立場の人の自由や尊厳を制約することが精神のバランスを保つ一つの方法となります。
一面では苦痛をもたらすシステムが、同時に他面で快楽をもたらすことになります。
その快楽を得るためには、人権は邪魔な存在ですので、一番偉い人ではなくても、人権を否定するメリットがあることとなります。ただし、最も弱い立場の人達を除いては。

最も弱い立場の人達は、自らが抑ええつけられた代償として、誰かを抑えつけることはできず、そこには絶望しか残されません。
そして、最も弱い立場の人達を抑圧する「プチ偉い人」は、その人達の人権を絶対に認められません。
最も弱い立場の人達の権利が拡張・向上し、抑圧できなくなると、今度は自分たちが抑圧されるだけの最も弱い立場に転落するからです。

しかし、より偉い人からの抑圧に耐え、より弱い立場の人を抑圧することにばかり莫大なエネルギーを費やす社会が、果たして発展していけるのでしょうか。
社会全体にとっても、個々の人間にとっても、それは不幸でしかないはずですが、そのしがらみから逃れようとすれば、しがらみの最下層で地獄を味わうリスクも負う、そこに今の社会の絶望の一つがあるように思えてなりません。

(追伸)
今年は特に長かった夏ももう終わりそうですね。
折に触れて撮っていた写真が溜まっていました。