大人が子どもに贈る「絶望」 | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

不登校対策を巡る滋賀県の首長会議での同県東近江市長の発言が批判を浴びました。
発言の内容は、「大半の善良な市民は、嫌がる子どもを無理して学校に押し込んででも義務教育を受けさせようとしている」「フリースクール、フリースクールと、良かれと思ってやることが国家の根幹を崩しかねない」「不登校になるのは親の責任が大半だ」というものです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/286744

正直、この手の無理解な発言は枚挙にいとまがなく、またかという印象ではありますが、それでも子育て中の親として気分のいいものではありません。
我が家の2人の子供たちは、幸い不登校や不登園にはなっていませんが、行き渋った時期はありました。
渋る様子があまりに激しいとき、強く励まして行かせるべきか、いや、その苦しみがかえって悪く影響するのではないか、では、休ませるべきか、いや、甘えを助長し、成長を阻害するのではないか、と迷いながら、行かせたり、休ませたりと、その都度判断していました。

多くの親は、子供を学校に行かせる重要性を理解しているでしょうし、難なく行ってくれれば、親としても助かるのは間違いありません。
しかし、様々な事情の中、不登校を受け入れざるを得ないこともあるでしょう。
それは親にも子にも苦しい決断のはずですが、今回の発言には、それらに対する軽視・蔑視を感じざるを得ません。

批判された後、東近江市長は、不登校の原因を親の責任にするなんてことは全く思っておらず、舌足らずの発言で当事者を傷つけたと謝罪する一方、国の制度設計の問題を信念を持って批判したもので、撤回はしないと説明しました。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/801654

大半の善良な市民は無理にでも子供を学校に行かせると、不登校の親をあたかも「一部の善良でない人間」とするような発言をした上で、「不登校になるのは親の責任が大半だ」と言っておきながら、「舌足らず」というのはあまりにも無理があります。
「信念」といいますが、思い込みによる偏見に固執することを信念というべきでしょうか。意固地、頑固、偏屈といった表現の方がしっくりきます。

それにしても、少子化が進む一方で、2022年度の小中学校における不登校者数、小中高校などで認知したいじめ件数とも過去最多、2022年に自殺した小中高生も過去最多です。
この背景の一つに、東近江市長の発言に表れているような「大人の姿勢」があるように思えてなりません。
すなわち、子どもを意思や感情を持った人間として向き合わず、単なる労働力の原材料、そして、親を原材料の提供者としてしかみない、そのような姿勢を感じるのです。
そのように捉えたとき、不登校の子どもは不良品・欠陥品であり、親は不良品・欠陥品の提供者です。このため、親は「正常な品物」を供給する責任を果たせ、と。

人間として真摯に向き合われない子どもの絶望は、自分へに刃を向けての自殺、他人に刃を向けてのいじめにつながっていく。
そのような中、不登校には、他人に刃を向けず、それでも生きようとするという意味での前向きさがあるのかもしれません。

社会について考えるとき、そこに「人間」をみることが、どうしてここまで蔑ろにされるのでしょう。
それがもどかしく感じます。

(追伸)
夏に訪れた石神井公園。とにかく暑い夏だからこそか、水辺は特に涼を感じさせました。