「生産性」は人の価値ではなく人のための価値 | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「生産性」という言葉が広まって久しいように思います。
しかし、少ない資源で効率的に物やサービスを生み出すという前向きな言葉のはずですが、「日本は生産性が低い」というような否定的な使われ方が目立ちます。
さらには、国会議員が性的少数者を「生産性がない」と称するような醜悪な使われ方さえも見られました。

上記の国会議員のような例は論外として、人間を評価するような文脈で「生産性」という言葉を使うことは妥当なのでしょうか。
労働者の労働時間や給与に対して成果が乏しいことを生産性が低いというならば、短い時間で少ない給与で馬車馬のように働くのが生産性の向上となってしまいかねません。

本来、生産性は、少ない資源で成果を生み出すことですから、生産性が向上すれば、労働者は少ない労力で同じ成果を出す、あるいは、同じ労力のまま大きな成果を出せるはずです。
その意味で、生産性の向上は、労働者が楽になることを目指すものではないでしょうか。

それには、初期投資も必要となる場合も多々ありますが、人間の幸福と効率化を図るための一時的な負担といえるでしょう。
しかし、いわゆる「経営者目線」、それも経営者としての望ましい考え方ではなく、経営者自身の短期的な利益の確保という観点では、その実現が難しくなります。
労働者の生産性を向上させる環境整備への負担を嫌い、労働者を徹底的に酷使した方が、少ない投資で利益が上がる分、経営者目線での生産性は向上します。
ただし、そこには幸福も、発展も、持続性もなく、結果的に本当の生産性は低いまま、あるいは、より低くなるのではないでしょうか。

日本では、苦労が美徳、楽は怠惰とされる風潮がありました。
勤勉は是としても、楽や幸福を追求することを否定すれば、果たしてそれは生きるに値する社会なのでしょうか。
楽や幸福のために勤勉になる、それが生産性向上の第一歩であるように思います。

(追伸)
9月に仕事のついでに訪れた皇居周辺と日比谷公園。以前はこの付近で働いていましたが、かなり久しぶりの訪問でした。