“迷い”と“願い”の街角で -7ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「職業に貴賤なし」という言葉があります。
あらゆる経済的、社会的活動で世の中が成り立ち、個々人が、直接また間接的にそれらに支えられ、生きているとするならば、上記の言葉には頷けるものがあります。

一方、「あらゆる職業は貴い」という考え方として捉えた場合、一面では理想的な真理ですが、捉え方次第では本質の見誤りにつながるようにも感じます。
というのも、「職業に貴賤なし」とすれば、「賤」もなければ、「貴」もないということになるように思うからです。

「職業に貴賤なし」という言葉に対しては、人を騙したり、傷つけたりするような仕事も貴いのか、それらは賤というべきではないかという反論もあるでしょう。
しかし、それは職業としての「賤」ではなく、携わる人間の心と行為の悪性として捉えるべきではないでしょうか。
そして、人間誰しも、善悪双方の性質を併せ持ち、善を為す可能性と悪に堕す危険性を有しているように思うのです。

光当たる場所や闇の深い場所、様々なところに人生の営みとしての職業があります。
それを貴賤で判断し、傲ったり蔑んだりすることが果たして正しいといえるでしょうか。
むしろ、それこそ賤と呼ぶべき行為にも思えます。

(追伸)
夏休みに家族で千葉旅行へ。
ひまわりの綺麗な東京ドイツ村や千葉ポートタワー等を回りました。










タレントのryuchellさんが自ら命を絶ちました。
pecoさんとの離婚後に主にインターネット上で受けていた誹謗中傷がその原因の一つではないかとの声も聞かれます。
遺書はなく、真偽は不明ですが、少なくともRyuchellさんを深く傷つけるような誹謗中傷が行われていたことは事実です。

かつて、プロレスラーの木村花さんが、誹謗中傷を苦にして自死し、社会問題となりました。
それにもかかわらず、繰り返される誹謗中傷。この社会は何も学ばなかったのでしょうか。

さらに、インターネット上で、誹謗中傷に関する暗澹たる気分になる記事を2つ目にしました。

一つ目は、3歳だった長女を殺害された両親について、「幼い子どもから目を離した最低の親」「責任を取って死ね」とSNSには、非難のコメントが書き込まれたものです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/61c964a8d0b78978a103a500872f35eaaf28442f

もう一つは、暴力団員に子ども2人を殺害された両親に対して、「暴力団員に恨まれるようなことをしたのでは」「長男も暴力団関係者ではないか」との臆測やデマがインターネット上に広がり、自宅には、一方的な非難の言葉に「猛省を促す」と締めくくられた手紙が届いたというものです。https://www3.nhk.or.jp/news/special/jiken_kisha/shougen/shougen12/

苦しみ、悲しんでいる最中の被害者遺族をデマや憶測で非難・中傷する、信じ難い行為です。
そのような行為に及ぶのはごく一部の人間かもしれません。そして、そのような人達には、何を言っても響かないのかもしれません。
しかし、社会がそれを止めることができず、繰り返されるのを傍観するしかない現実に、絶望感や無力感も覚えます。

雨宮処凛氏は、「指先ひとつで誰かの命を奪うかもしれないSNSはなんの資格もなく誰だって始められてしまう。というか、いったいいつまでシステムの欠陥の代償を誰かが命で支払うなんて極悪非道なことが続くのか。誹謗中傷も攻撃もなくならないという前提、一部の人に「思いやりを持て」と言っても無理という前提から始めないと、命を守ることなんて決してできないのだ。」とします。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_64c0d75ce4b053a70093567a

大切なものを守るために、性善説を捨てなければならないことも、鬼にならなければならないときもあるのでしょう。
一方、その「大切なもの」を履き違えれば、さらなる悲劇を招きます。共感さえ捨てれば、些細なものも含めて、自分のあらゆる利益を他人の生命や人生よりも「大切なもの」となり、簡単に醜悪な鬼となります。
社会が、醜悪な鬼から命を守る鬼となれるのか、それとも、もはや、この社会は、人の命を、その「大切なもの」として捉えることすらできない世の中に至っているのでしょうか。

(追伸)
以前、家族で見に行った紫陽花園です。
あれから1か月以上、季節が変わりゆくのが本当に早いですね。









名古屋城復元に際してのバリアフリー化に関する討論会で障害者に対する差別的発言が行われた際、発言者が、「障害者で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれん。それは平等なんですよ」と述べていました(実際には「障害者」ではなく差別用語を使用)。
つまり、障害者で生まれる可能性、健常者で生まれる可能性は誰にでもあるのだから、それによって生じる格差は是正する必要はなく、不利益を受ける者はそれを甘受しろということのようです。

障害者で生まれる可能性、健常者で生まれる可能性が誰にでもあるのであれば、それによって不利益がないように社会として配慮するという結論に至るのが普通かと思いましたので、非常に驚きました。
しかし、今の日本では、同じような発想をされる場面が珍しくはないのかもしれません。

よく見かけるのは、困窮者家庭の子供への支援に対する異論です。
生まれた家庭環境によって不利益を被っている子どもについて、気の毒としつつ、支援することに対しては、親の責任なのだから国がやるべきではないと反対するものです。

これらを見て、ふと頭に浮かんだのは、イギリスのサッチャー元首相の言葉「社会といったものは存在しない」です。
健康社会学者の河合薫氏は、イギリスのシンクタンク、レガタム研究所が毎年発表している 「レガタム繁栄指数」の指標のうち、「社交ネットワークやコミュニティを結びつけ、協働行動を可能にする信頼、相互理解、共通の価値観、規範など」を表す、ソーシャルキャピタル(社会資本)のみ、日本において際立って低いことを指摘しています。
https://www.mag2.com/p/news/546045

実際には、皆、社会の中で影響し合い、支えられて生きているはずですが、その認識を欠いたとき、社会は機能不全を起こすのではないでしょうか。
社会が機能せず、個々人や家族が国家すなわち権力組織と結びつくだけならば、国家への貢献を主張して自分への配分を増すことが各人の主な関心事となり、助け合いによる共存だけでなく、互いの幸せを希求する共栄への意志も薄らいでいきます。
共存・共栄がなければ、結果的に全体としては豊かにならず、限られた富を取り合うことになりますので、不利な者は不利なまま、不幸な者は不幸なままでいる方が他の者には都合がよくなります。
たとえその先に続くのが全体の衰退だとしても、短期的には、自分の利益を確保できます。

権力組織としての国家の機能は、飽くまで機械的、無機質なものです。無から有を生み出すことはできません。
それができるのは、人間であり、人間同士が信頼で結び付き合い、影響し合う社会でしょう。
そうであれば、同じ社会の一員に手を差し伸べないこと、助けを求める他者の手を払い除けることは、社会全体の瓦解、未来の消失へとつながるように思えてなりません。

(追伸)
先日、仕事で訪問した茨城県常陸太田市。訪問先の近くに、水戸黄門でお馴染みの徳川光圀公が隠居した西山荘がありました。
時間の関係で本体は見られませんでしたが、庭園として整備された周辺も綺麗でした。









名古屋城復元に際してのバリアフリー化に関する討論会で障害者に対する差別的発言が行われ、それを市側が制止しなかったことが問題視されています。
どのような差別的発言があったのかについて、報道では、具体的に触れていないもの、「ずうずうしい」という発言の後に蔑称が使われたとする程度のものが多かったですが、東海テレビが具体的に紹介していました。
https://www.fnn.jp/articles/-/542218?display=full

参加者の一人の発言「河村市長が作りたいと言っているのは、エレベーターも電気もない時代に作られたものを再構築するという話なんです。その時になんでバリアフリーの話が出るのかなっていうのが荒唐無稽で。どこまで図々しいのって話で、我慢せえよって話なんですよ。おまえが我慢せえよ」
別の参加者の発言「【差別用語】で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれん。それは平等なんですよ。どの税金でメンテナンス毎月するの?そうでしょ!そんなお金はもったいないと思うけどね。だからエレベーターは必要ない」

正直なところ、思っていたよりも、はるかに酷い内容でした。

当時の構造を可能な限り忠実に再現することには確かに価値があると思います。そして、それが故にバリアフリー化を制約することが必ずしも間違っているとは言い切れません。

一方で、現代において、完全な復元は難しいほか、いずれにしても遺構ではなく復元に過ぎないのであれば、バリアフリー化により1人でも多くの方に触れてもらうということも価値あることでしょう。
なお、この点については、「昔のままの名古屋城復元は「夢物語」 差別発言を擁護する人たちが理解していないこと」という記事が大変参考になりました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c6f508bd9a8aa2197c29927069f9f283138a6140

どちらにも価値があり、そして完全には両立し得ないとき、可能な限りの両立を図るとともに、どうしても両立できないところへの理解や納得を目指し、知恵を出して調整する、それが人が共に生きる共同体である社会としてなすべきことだと思うのです。
そのためには、意見には賛成できなくても尊重はする、反対する人の事情、心情、人格に配慮する必要があります。そうでなければ、異なる意見を両立させ、また、理解や納得を広げる知恵など出るはずもありません。

今回問題となった発言、一人目の発言については、前半は飽くまで一つの意見として分からなくはないですが、特に後半、「荒唐無稽」「どこまで図々しいの」「我慢せえよ」「おまえが我慢せえよ」と侮辱的、攻撃的な言葉を連ねていきます。
さらに、二人目の発言に至っては、障害者への蔑称を口にした挙げ句、障害者のためにかけるお金がもったいないと、今回の議題を超えて、障害者福祉を全否定するような趣旨の内容になっています。
これでは、名古屋城復元に際してのバリアフリー化の議論を口実にして、単に障害者を差別、侮辱、攻撃したかっただけと捉えられても仕方ないでしょう。

また、バリアフリー化を「わがまま」と言い放ちますが、その意見も、裏を返せば「自分達は健常者でバリアフリー化は不要なのだから、その分、別なところにお金をかけろ。障害者のことなど知らない。」という趣旨にもなるわけであり、それは「わがまま」ではないのでしょうか。
お互いが自分の事情を持っている中、相手の事情は「わがまま」、自分の事情は「正論」と一方的に決めつけているだけではないのでしょうか。

また一つ、日本社会の歪みによる悲しい出来事が増えました。





インターネット上の様々な記事を折に触れて見ていますが、1〜2年に1回くらいでしょうか、記事自体に悪意がまとわりついたようなものを目にすることがあります。
差別意識や偏見、無理解を基に書かれた記事は時々見受けられますが、それを超えて、誰かを貶め、傷つけようという意図が込められているとしか思えないものも少数ながら存在します。

今回、そのような悪意を感じた記事がこれでした。
「北公次は性被害とアイドルからの凋落で壊れていった…ジャニー喜多川氏からは花輪も届かず」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a630a54e1a6d5d3b821313a64035c37cd973600e

日刊ゲンダイのジャニー喜多川氏による性加害に関する内容で、被害にあった元アイドルの悲劇が書かれています。
記事の主要な内容に問題は感じられないのですが、終盤で、「話は飛躍するが」として、本当に飛躍した話が始まります。
「性加害には向き合わず、LGBTQ+に必死になっているメディアを見ていると、泥棒はダメとわかっていて、泥棒にも人権があるみたいな話をしている人たちとしか思えない」 と締めくくります。

最初は何を言いたいのか分かりませんでしたが、おそらくは、少年を性愛の対象として性加害を行ったジャニー喜多川氏をLGBTと捉え、LGBTの人権擁護は泥棒=犯罪者の人権擁護と同義だと言いたかったのでしょう。
いくらでも反論は可能なほど、歪んだ主張です。

まずは、LGBTを性加害と結びつける点です。
当然ながら、性加害者になり得るのは、LGBTに当たる者も当たらない者も同様で、性加害が許されないことにもLGBTであるか否かは関係ありません。
むしろ、LGBTであるがゆえに性被害を受けるケースもあり、これがLGBT法を必要とする事情ともなっています。

そして、LGBTの性加害者がいるという論から、一気にLGBTが皆加害者であるかのような論へとさらに飛躍させています。
これは、かつて猛威をふるい、今も行われている生活保護受給者バッシングでよく使われた構図です。生活保護受給者の中には本当は必要のない不正受給があるという話を、生活保護受給者は皆悪者という論にさりげなく飛躍させる方法です。
なお、LGBT法案に対して、LGBTと称して女湯や女子トイレ、女子更衣室に入り性犯罪を行う者が出る可能性を挙げて反対する意見もありましたが、LGBTと偽って悪事を働く者を理由に、LGBTへの差別禁止に反対するというのは全く筋が通りません。これではもはや、自己責任どころか他者責任を押し付けるようなものです。

文章全体の本筋から外れたところに、さりげなく置かれた言葉の刃。本筋ではないからこそ、この内容を入れたことに、誰かを傷つける意図以外の目的が見出し難いのです。

本当に悲しい言葉の使い方です。

(追伸)
ゴールデンウィークのバラ巡りの最後は、与野本町駅前広場。ちょっとしたバラ園のようでした。








LGBT法案が衆院本会議で賛成多数で可決されました。
この法案に関連して、あまりニュースにはなっていないようですが、先日、エマニュエル駐日大使が、他の14カ国の大使とともに、「私たちはすべての人の普遍的な人権を支持し、LGBTQI+コミュニティを支援し、差別に反対する」とツイートしたところ、直後に、自民党所属の国会議員が、「エマヌエル大使が駐日大使としての立場を何らかの形で利用して日本に影響を与えようとするのであれば、我々は彼を帰国させるために直ちに行動を起こす」と書き込み、これに2万7000件以上の「いいね! 」がついたそうです。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2023/0529.html

他国からLGBTの人権保障を求められることを内政干渉と批判する声もあるようです。
しかし、LGBT法案や同性婚について、各種世論調査では賛成が多数派となっている中、エマヌエル大使の主張はむしろ日本国民の意向に合致しており、反対に、その実現の阻止に躍起になる一部政治家の動きこそ、それに逆行するともいえます。

それにしても、この国会議員の発言に重なってみえたのが、警察や児童相談所の介入に対して「人の家のことに口を出すな!」と凄むDV夫や虐待親の姿です。
「家」を重んじるような言い方をしていますが、ここで守ろうとしている「家」とは、構成員皆の幸せを目指す和やかな共同体ではなく、家族の幸せなど関係なく自身が長として我が物顔で振る舞える空間、家族を犠牲に自分だけが居心地の良い安全地帯です。
前述の国会議員が言う「国」も、国民が幸せを求め合う共同体ではなく、一部の人間が、自分だけを満足させるために、他の国民の人格や幸せを度外視して支配する空間に思えてなりません。

家や社会、国を大切にする心を養うべきという議論がありますが、それらがお互いの幸せを尊重し合うものならば、愛し、大切にするのは当然ですし、むしろ、必然的にそうなるでしょう。
しかし、一部の誰かの都合で作られ、そして、共に生きているはずの人々を軽んじ、不幸にするものならば、愛せるわけはないでしょうし、そもそも家や社会、国のあるべき姿とさえいえないと思います。

諸外国の要人が、普遍的な人権を大切にし、差別に反対するという当然かつ重い主張に、日本から出ていけといった子供じみた反論をする我が国の国会議員。
この国で生きる人々の命が、人生が、幸せが大切だと、もはや胸を張って言うことさえできない時代になってしまったのでしょうか。

(追伸)
ゴールデンウィークに訪れたバラの名所2箇所目の与野公園です。
この頃、ちょうど見頃でした。















自民、公明両党により、性的少数者への理解増進を目的とする議員立法「LGBT理解増進法案」の修正案が衆院に提出されました。

この修正案については、様々な批判がなされていますが、その一つが、「差別は許されない」との文言が「不当な差別はあってはならない」に変更されていることについて、差別は全て不当であり、不当でない差別はないとするものです。
確かに、日本国憲法第14条第1項では「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、差別全てが不当として禁じられているように読めます。

いずれにしても、「差別には正当なものもある」というメッセージや誤解が広がることには懸念を感じます。
なぜならば、差別する側やいじめる側は、いつでも、躍起になって差別やいじめを正当化する理由を探し回るからです。
自分が傷つけられたり、何かを奪われたりしているわけではないのに、理解を超えた執念を持って、屁理屈、揚げ足取り、こじつけ等を繰り出して、差別やいじめを肯定しようとします。
差別する側やいじめる側に対抗する最善の策は、差別やいじめを絶対にしてはならないという姿勢を示すことですが、ここに風穴が開くことが何よりも恐ろしいことです。

「LGBT理解増進法案」の「差別は許されない」との文言に対して、保守派からは「訴訟が増える」との批判があったそうですが、訴訟は権利の侵害に対する正当な対抗手段です。
的外れな訴訟が紛れ込むという意味合いかもしれませんが、それが正当な権利行使を阻む理由にはなりません(ごく一部の不正受給を理由に生活保護受給者全体を攻撃する構図にも似ています。)。
ここに「黙って差別されておれ!」という前述のような執念を感じてしまうのは、思い過ごしでしょうか。

(追伸)
今年のゴールデンウィークは、バラを見る機会が多かったです。
最初に行ったのは伊奈のバラ園でした。
















愛は金で買えるのかという問があります。
文字通り解釈するならば、不可能でしょう、というよりも、最初から矛盾しています。

愛は人に対して向けられる感情ですが、それを買う時点で、その感情は金銭に向けられています。
金銭で買えるとしたら、愛しているように振る舞うという「労働」です。

一方で、愛があればお金などいらないというのも極論でしょう。
困窮する中で愛を保つ難しさはしばしば語られるところです。

しかし、これを俗っぽいと卑下することは違うと思います。
愛のために金銭を使うことは、愛を買うことではなく、愛のために金銭を生かすことといえるでしょう。同時に、金銭の使い方もそれに相応しいものである必要があるのでしょうが。

さらに、人が愛を無理なく育める程度の生活を支えるのが社会の、国の役割ともいえます。
愛で窮乏を乗り越えろとすることも、窮乏ゆえに愛を諦め、愛を壊したことを非難することも、その役割とは真逆の姿勢です。
これが少子化が止まらない要因の一つのように感じます。

(追伸)
家族で訪れた花に溢れた公園。この時はネモフィラが綺麗でした。












長く生きられない人を助けるのは無駄だという意見を耳にすることがあります。
しかし、それならば、あと何年生きる人であれば、助けることが無駄でなくなるのでしょうか。
人は皆、いずれ死にます。極端にいえば、永遠には生きられない人間という存在自体が無駄ということになってしまいます。

もちろん、様々な制約の中で何もかもできるわけではありません。
しかし、人間である限り誰でも、命ある限りいつでも、あるいは、命尽きた後であっても、人間として尊重されるべきであり、手を差し伸べること、助けることに意味があると思うのです。

理由はありません。
むしろ、人間や命の価値に理由を求めることは危険なことだと思います。
なぜならば、価値に理由を求める場合、必然的に、それ以上に価値があるものとの関係性で理由が付けられるからです。
人間や命の価値に理由を求めている時点で、人間や命より大切なものがあることが想定されていることになります。

特定の属性を持つ人間について、あれこれと理由を付けて、その存在や命の価値を否定する人も見られます。
これに対して、価値を肯定するため、あれこれと理由をつけて議論するのは危険かもしれません。
それは、「人間や命よりも価値があるものがある」という議論の前提を受け入れてしまうことになるからです。

大学時代に受講した刑法の講義で、担当の教授が、人を殺してはいけない理由は理屈で説明するようなものではなく、人の心の深いところにあると述べていました。
なぜか、そのことが印象に残りましたが、確かに、今の世に必要なのは、人間や命の価値を理屈で考え、議論するよりも、心の深いところにある思いに従って人や社会に向き合うことなのかもしれません。
それだけが、人間や命を軽んじる理屈に対抗できる武器になるように思えます。

(追伸)
あっという間にツツジの季節も過ぎ去りそうですね。
心なしかハナミズキがあまり見られないまま終わってしまったような気がします。






先日、久しぶりに実家のある石神井町に帰省しました。
近所の石神井公園を散策すると、石神井池を中心にツツジが華やかでしたが、三宝寺池ではカキツバタが綺麗でした。

しかし、最も目を奪われたのは藤の花です。
藤棚にではなく、自然に咲き誇った滝のような藤の花。

就職まで石神井町に住み、就職後は関東近辺を転勤しつつも月に2回は帰省していました(結婚し、さらに子どもたちが生まれて以降、帰省は年数回になってしましたが。)。
ですが、タイミングが合わなかったのか、ここで、これほどの藤の花を目にしたのは初めてです。

場所は、かつてこの地を治めた豊島氏の石神井城があった場所。太田道灌に攻め滅ぼされたその城の跡地です。
ふと「豊島氏の祝福」という言葉が脳裏をよぎりました。
かつて命の奪い合いが行われていた時代があり、その中で散った者の魂が眠る場所。
平和になったこの地に、ますます幸多からんことを。