“迷い”と“願い”の街角で -8ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

最近触れることが多い内田樹氏が、早稲田大学大学院での指導教授によるハラスメント事件について書いています。
http://blog.tatsuru.com/2023/04/11_0901.html

内田氏は、師弟関係について、弟子となろうとする者が、自分がそれまで身につけ、自分を護ってきた価値観や倫理規範を脱ぎ捨て、無防備な状態となるからこそ、今はまだ理解を絶する学びを師から得ることができるとします。
その上で、今回の問題は、弟子が無防備になったことを利用して、人格的な支配-被支配の関係に巻き込もうとする人間が「教える側」に存在することにあるとします。
この記事からは、本件に対する内田氏の強い問題意識と憤りが感じられます。

これを見たとき、思い出したことがありました。
かなり前でしたが、テレビ番組で、芸人が某外食チェーンに体験入店し、料理を作って出せるよう修業するという企画が行われました。
芸人は、店長のほか、直接の教育係の指導を受けて修業していきます。この中で印象的だったのは、指導担当者は芸人よりかなり若い女性でしたが、日々罵声に近い強い口調で指導し、芸人がそれに慌てふためきながら対応している様子でした。
これを見て漠然と思ったのが、あえて指導担当者を若い女性に任せ、しかも、高圧的な指導をさせたのは、意図的に芸人に屈辱感を与え、自尊心を破壊することで、操りやすくしたのではないかということでした。

上記のとおり、内田氏は、早稲田大学大学院での事件について、弟子入りに際して自分を守るものを脱ぎ捨てて無防備になったことを利用して支配しようとしたと指摘します。
一方、芸人の体験入店では、激しい指導で、相手が自らを守っているものを破壊し、強制的に無防備な状態に追い込んだ上で効率的に支配しようとしたものといえるのではないでしょうか。

また、そのような強制的な無防備化と支配は、旧来の日本企業で幅広く行われていたように思います。
その時に、効率的な支配に邪魔な価値観等が破壊されますが、そこには人権、遵法意識、良識等、本来は社会で尊ばれるべきものが多くあったのではないでしょうか。
それらを破壊されることを「社会の厳しさ」や「現実を知ること」と正当化され、自分と他人の人権、法律、正義、倫理等を自らを尊ぶことのない支配・被支配の道具となった者が跳梁跋扈し、その結果として、今の日本社会の現状があるように思えてなりません。

(追伸)
あっという間に散ってしまいましたが、今年も桜が綺麗でしたね。






放送法の解釈変更を巡る総務省の行政文書の問題について、背景に政治家や官僚の権力闘争があると指摘する記事がありました。
https://gendai.media/articles/-/107352

この記事の内容が正確かどうか断言することはできませんが、さもありなんと感じさせるところがあります。

先般も触れましたが、内田樹氏が、日本社会について、権力について特に正当性を求めず、これまで、そして今権力を持つ者が正しいとされ、それにただ従うパワークラシーの社会と指摘しています。
http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html

そのような社会では、力を得ることが全て、得た力を維持することが全てとなり、自分に批判的な人間は、内も外も潰していくという考えに至るのは当たり前です。
そして、そのような権利者に対しては、もはや一切の人間的対話は通じず、その力が失われるか、誰かがより強い力で潰す以外には何も変わらなくなります。
これでは、もはや共同体ではなく、矛盾していますが合法的無法地帯とでもいうべき状態です。

これに関して、よく「正しい者が勝つのではなく、勝った者が正しい」「勝者こそ正義」等と言われることがあります。
しかし、正しさは、究極的には個々人の心の中にあり、極論として人の数だけ正しさがあり、また、それぞれ正義を持つ人同士が影響し合って、社会的な正義を織り成していくものではないでしょうか。

歴史的に伝えられたり、世に流布したりする「正義」が強者や勝者の都合で歪められている可能性があります。
「勝者こそ正義」等の言説が、このことに注意しなければならないという趣旨で捉えるのであれば意義深いですが、この社会においては、まさに文字通り、勝者が正義を決めるもの、強者でなければ正義を主張する権利はないと捉えられているように感じられてなりません。

しかし、正義が究極的には個々の人間の価値観、心情に根ざすとするならば、それは人間であることを捨てる、そして、捨てさせるものでしかありません。
その先にあるのは、勝者の際限のない増長・暴走と人間の尊厳の否定であり、そこからは希望も未来も描けないように思うのです。

(追伸)
年明けからまだ間もないと思っていましたが、もう4月。冬からすっかり春へと移り変わりました。










速いもので、上の娘が幼稚園を卒園、4月から小学生になり、下の息子が4月から幼稚園に通います。
子育てをしていて初めて分かったことは沢山ありますが、その一つが、「子供が何かをできるかどうかは、親がそれを教え、やらせたかどうか」という考えが、一面で正しく、一面で間違っているということです。

大抵のことは、親がきちんと教え、繰り返しやらせれば、子供はそれができるようになる。
それ自体は正しいように思います。

しかし、小さな子供であればあるほど、生来的な得手不得手が大きく、得意であれば親が教えるのも、子供が教わり、できるようになるのも円滑で、楽しいものとなります。
一方、苦手であれば、親が教えるのも、子供が教わり、練習するのも、ストレスのかかる苦しいものとなります。
前者であれば問題ありませんが、後者であれば過度な負担が親子双方に悪影響を及ぼすおそれさえあります。
「親が十分に教えなかった、やらせなかった」ということが、それ自体事実であり、実際に子供がそれをできない直接の原因であるとしても、その背景まで見れば、「親の責任」と切って捨てられない事情が出てくることもあります。

これに限らず、誰かと意見が対立し、「当たり前のことを、なぜ理解してくれないのか」と苛立った時、もしかしたら、議論の俎上に言葉として乗っていない背景が大きく影響しているのかもしれません。
その場合、影響する背景を手繰り寄せることが建設的な結果につながるのでしょうが、同時にそれは非常に困難な作業です。
さらに、言葉等の視覚情報を中心に成り立つインターネットでは、背景まで斟酌することは不可能に近く、また、叩くことが目的となった場合には、そもそも斟酌しようとする姿勢すら欠如します。

様々な問題について社会的に議論することは大切です。
しかし、議論の俎上に乗らない背景があることを踏まえると、第三者が一概に結論を出すことは難しく、究極的には当事者ごとに、問題の内容も改善策も異なり、ここに、当事者を最も尊重すべき理由があるといえるのではないでしょうか。
一方で、だからこそ、知らない人ほど何でも言える、そして、その言葉がインターネットを介して刃となり、最も尊重すべき当事者に突き刺さるという悲劇が起きます。

当事者を人間として尊重する、問題解決に当たって声を尊重する、その当たり前ができない限り、社会を良い方向に前進することはないように思います。

(追伸)
先日、仕事で伺った大学のキャンパスです。
大学には独特の空気があって、良いですね。




前回に引き続き、ヤニス・バルファキス著「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」について、特に印象に残った箇所の2つ目です。
https://www.diamond.co.jp/book/9784478105511.html

それは、市場社会においては、金銭に換算可能なものだけに価値が置かれ、それ以外の価値が否定されていくというものです。
具体的には、自然の中で美しいと感じたり、他者とのつながりに喜びを感じたりといった経験に価値が置かれなくなる、さらには、金銭的利益を増大させるために、資源の枯渇や自然の破壊など、長期的には破滅へとつながる道を進まざるを得なくなります。

このことは、政治家によるLGBTは生産性がないという発言や、困窮者バッシング、著名人等によるホームレスへの侮辱的な言動、物理的な攻撃、そして、その背景になる金を稼がない者には価値がないという思想をみるにつけ、実感できるところです。
そして、解剖学者の養老孟司氏は、子供自体はお金にならないとして価値を置かないことが少子化を進行させていると指摘します。
https://president.jp/articles/-/66648?page=1
また、健康社会学者の河合薫氏は、人より金を稼ぐ人だけに幸せとの価値観を作り上げてしまったことが生きづらさを生んでいるとします。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00237/

感覚的なものではありますが、この金銭に換算可能なものにしか価値を置かないという風潮は、日本において特に顕著なようにも思えます。
少子化対策や教育への投資を渋る姿勢は、上記の養老氏の意見に通じるようにも思えますし、人権保護や環境対策に対しても、意識が希薄どころか、揶揄や嘲笑といった逆風が吹くのも、この一側面ではないでしょうか。

日本では、自由や人権を獲得するために立ち上がり、実現したことがなく、戦前皆で信じ込まされたことが、敗戦によって簡単に覆される経験もしています。
そのような中で金銭という分かりやすい価値に身を委ねてしまうのも無理はないのかもしれません。
また、前回触れた封建社会との関係では、内田樹氏が、力があるというただそれだけの理由で従うパワークラシーの社会と指摘していますが、これも確固たる価値が社会に根付いていないがゆえに感じます。
http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html

命、健康、幸福、自由、尊厳、伝統、自然、友情、愛……人が人として生きていくために必要な様々なことがありますが、金銭に換算できないものは無価値とされ、より力のある者にただ迎合し、より力のない者を迎合させることが全てとなる、あまりにも悲しい社会です。

人が人として大切にしたいこと、すべきこと、それらを自らの心の中に見出し、そのためにこそ、社会を、経済を造って、動かしていく。
それができなければ、究極的には、あらゆるものが無価値となってしまうのではないでしょうか。

(追伸)
先日、家族で訪れた浦和の公園です。
自然に囲まれた池が何とも落ち着きます。




ヤニス・バルファキス著「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」を読みました。 


経済学はあまり勉強したことがありませんでしたが、経済学の理論を解説するというのではなく、人の営みにおいて、経済がどのように生まれ、どのような意味を持つのかを語っています。
分かりやすく、また、面白く、様々なことが腑に落ちて、高評価を受けているのも頷けました。

一部の人間への莫大な富の集中と反面での貧困について、経済の結果と肯定せず、人の幸福のために制御する必要があるということ。
机上の経済学に経済を委ねても、人の幸福には資せず、かえって富める一部の人間に利用されかねないため、一人ひとりの人間が、経済に自分ごととして向き合う必要があること。
自分なりの理解ですが、本書からは、これらの主張が特に強く訴えられていたように思います。

また、本書で特に印象に残った箇所が2つありました。

1つ目は、市場社会と封建社会の違いに関する箇所です。
封建社会は、封建領主が生産手段と民を支配し、その利益を搾取するため、生産性を向上させる必要はないが、市場社会では、利益を出し続けるために常に生産性を上げることを求められているというものです。

本書では、過去の封建領主と、それ以降に現在に至る市場社会との違いを述べただけで、重要な箇所という位置づけはされていないようでしたが、どうしてもこの点が心に引っかかりました。
日本が低成長、貧困化していると指摘される今日この頃ですが、もしかしたら、日本は今だに封建社会であるが故に生産性を上げられずにいるのではないか、そう感じたのです。

日本の不況が深刻化した頃から、盛んに競争力の強化が主張されました。
日本の経済を強くするのであれば、多種多様な生産物の内容や価値を上げる努力と工夫をすべきでしたが、結局主に行われたのは、人件費を中心としたコストカットでした。
また、会社などの組織のメンバーが結束して強くなることが社会的な競争への勝利につながるはずですが、むしろメンバー間の蹴落としが煽られ、それが競争社会と呼ばれました。
まさに、領土内での凶作に怯えた封建領主が年貢を増やし、さらには自分に歯向かわないよう潰し合わせて、さらに生産性を下げるようなものです。

競争による生産性の向上は、長期的には社会全体の利益になりますが、短期的には封建領主にとっての不利益になりますから、封建領主の立場からは、ある意味当然の判断でしょう。
しかし、封建領主が競争から逃れるための取組が、競争力の強化や競争社会への対応の名の下に行われてきたのは、皮肉というべきか、あるいは、本音とは正反対の建前を掲げて本音を通そうとする醜い合理化というべきでしょうか。

一方で、恵まれた立場を得れば、何としても守りたくなる、それは人間の性であり、その立場になれば誰しもがそこに流れがちになるでしょう。
その性を受け入れつつ、さりとて、現状を変えていくにはどうしたらいいのか、答えはなかなか見えません。

特に印象に残った箇所が2つ目ですが、長くなりましたので、次の機会にしたいと思います。

(追伸)
年始に家族で訪れた埼玉県久喜市の公園です(速いもので、それから2か月以上が経ちました。)。
青空、広い池、噴水の組み合わせが綺麗でした。



少し前の話になりますが、当時、プロeスポーツチームと契約していた女性ゲーマーが、男性の身長について「170ないと、正直、人権ないんで。170センチない方は『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていって下さい」などと発言して、批判されたことがありました。
あまりにも軽薄かつ侮辱的、挑発的で、反感を買い、批判されるのも当然かと思います。
真面目に取り上げるものでさえないものかもしれませんが、ただ、突き詰めると、程度の差こそあれ、今の日本社会に広く存在する病みがその背後にちらついているようにも感じます。

この言葉に対して何か言えるとしたら、スター・ウォーズ・エピソードⅧのルーク・スカイウォーカーのこの台詞が最適でしょう。
「素晴らしい。全て間違っている。」

元ゲーマーの女性の発言が、単に「背の低い男性は好みではない」というだけのものであれば、反感こそ買うかもしれませんが、ここまで嫌悪感を抱かせるものにはならなかっただろうと思います。
しかしながら、彼女は、「人権はない」という言葉を用いて、背が低い身体的特徴を持った男性全般を揶揄し、存在そのものを貶める方向に話を進めました。
さらには、「『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていって下さい」として、他者の人生に踏み込み、自分の侮辱を受け入れて生きるよう求める発言にまで至ります。

確かに、彼女の異性に関する好みは彼女が自由にすべき領域です。
しかし、他者の価値、他者の人生は彼女が決めることではありません。
これらの境界線を踏み越えることは傲慢以外の何物でもありませんが、彼女に限らず、この境界線を越えるか越えないかの重要性は果たして十分に認識されているのでしょうか。

他者と共に生きる社会の中の一人に過ぎないにもかかわらず、他者の評価を決め、支配できるかのように錯覚する、このような姿勢は、今の社会に溢れる差別や排除の言動の根底に幅広く存在しているように感じられます。
そして、それを極端な形で発現させたのは、重度の障害者を生きる価値がない、いない方がよいと勝手に評価し、その人生を断絶させた相模原障害者施設殺傷事件の犯人ではないでしょうか。

人は自分中心、自分の視点のみで生きる状態から、成長し、社会で生きる過程で、社会の中の、他者との関係での自分という視点を得て、自分を相対化することを学んでいくのでしょう。
そして、他者を尊重しながらも、その中で自分を実現するあり方を見つけ、そして社会を創っていく、それが端的に言えば「大人になる」ということなのかもしれません。
先に触れた2名は、いずれも何かを大上段に振りかざしている印象ですが、突き詰めれば単に大人になり損ねただけともいえます。
しかしながら、それによって傷つけられ、命まで奪われるのであれば、たまったものではありません。

一方、大人になりきれない不心得な人間が全くいなくなることはないでしょう。
その時、多数の「大人」が社会において、それを封じ込められるかが鍵になるように思います。
インターネットを介して醜悪な声が飛び交い、相模原障害者施設殺傷事件の犯人にさえ共感の声が一定数寄せられる状況を見ると、不心得な人間の存在以上に、そのことに不安を覚えざるを得ません。

(追伸)
正月に訪れた光が丘公園です。練馬の実家で暮らしていた時はよく訪問しましたが、気がつけば数年ぶりでした。




「寛容のパラドックス」というものをご存知でしょうか。
カール・ポパーが1945年に発表したもので、社会において寛容であることを重視し、不寛容な人々にも寛容になると、その不寛容な人々に寛容性が奪われたり、破壊されたりするという逆説的な考えです。

最近、この「寛容のパラドックス」を、知ってか知らずか、逆手に取るような、そして、「寛容のパラドックス」が危惧することを体現するような言説を目にするようになりました。
すなわち、差別したり、排除したり、侮辱したりといった不寛容な言説がなされ、それに対して抗議が行われたとき、「寛容を主張するなら、不寛容の立場にも寛容であるべき」、「差別や排除を求める意見も受け入れるのが多様性」といったものです。

これが詭弁、屁理屈の類ということは、すぐに分かると思います。
重んじるべき寛容や多様性とは、様々な人達が、その属性ゆえに傷付けられたり、排除されたりせず、受け入れられ、尊重されることのはずです。
そこに傷付けたり、排除したりする自由を認める余地はありません。
寛容や多様性は、何でも受け入れる、何でも許すことではない、まさに「寛容のパラドックス」が鳴らした警鐘といえるでしょう。

そして、この詭弁、屁理屈の下品なところは、
①寛容や多様性を重んじれば、差別や排除にも寛容であり、多様性の一つとして認めるべきなので、差別や排除は許される。
②寛容や多様性を重んじなければ、そもそも差別や排除は許される。
というように、いずれにしても、差別や排除は正しいという結論に至るところです。

また、「寛容のパラドックス」のような社会への知見は、人のため、世の中のため、先人達が考え抜き、積み重ねてきたものです。
そういったものをつまみ食いして、詭弁や屁理屈に変えてしまう、そして、差別や排除といった人間の尊厳にかかわる問題、それを抱えた当事者に投げつける、そこに度を越した軽さと不誠実さを感じてしまいます。
このような行為が知と情の双方を腐食させていけば、社会の沈滞が進むことになるでしょう。
知と情への双方への誠実さの重要性を今一度問い直す必要があるように思います。

(追伸)
年末に所要で訪れたさいたま市見沼地区と高田馬場の戸山公園です。
もう2月、速いですね。









令和5年が始まりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
昨年の社会は、明るい話題がないわけではありませんでしたが、どちらかというと暗い話題の方が目立ち、全体として陰鬱とした雰囲気が漂っていたように感じます。
これまでも平成不況の中、停滞感が漂っていたことはありましたが、今の雰囲気はそれとは少し違うようにも思えます。

たとえ状況が厳しくても、よりよい明日に希望が持て、それに向けて皆で力を尽くしている時は、絶望には至らないのではないでしょうか。
一方で、今の社会には、人の不幸を招き、希望を潰すような悪意が広範囲に徘徊しているように思えるときがあります。
昨年露見した反社会的とされる宗教法人と多数の政治家との結びつきは、まさにそれを象徴しているかのようでした。

この結びつきが明らかになったとき、ずっと釈然としなかったあることについて、一面腑に落ちるところがありました。

そこから少し遡った時期のこと。選択的夫婦別姓を実現しようとする機運が高まり、世論調査でも賛成が反対を上回るようになっていました。
氏名は、自分自身を示すもの、まさに「自分事」です。
さらに、国際的には強制的な夫婦同姓を維持する国は少数であること、夫婦同姓が古来からの伝統とはいえないこと、選択的であれば同姓も選べることなど、選択的夫婦別姓の論拠は次第に積み重なっていきました。
一方で、反対の論拠は、家族の一体感を損なう、両親の姓が違うと子が可哀想といった、あまり説得性のないもののように感じます。

それに対して政治はどう反応したか。それを踏まえて検討を進めるわけではなく、論拠を掘り下げるべく対話をするわけでもなく、一部の議員が中心となって、国民の機運とは真逆に、無理にでも実現を阻むべく動きました。
上記のような状況の中で、誰のため、何のために行動しているのか、強い違和感を覚えました。

そして時は流れ、政治と某宗教法人の結びつきが明るみとなり、その宗教法人が選択的夫婦別姓に反対していることも分かったとき、そのことが腑に落ちたのです。

ところで、その宗教法人は「カルト」と呼ばれていますが、カルトが何を意味するのかは明確ではないようです。
私なりにカルトを考えるならば、個々人の自然な感情や意思、価値観を無視し、教義への盲目的な服従を求めることが一つの大きな指標になると思います。
目の前にいる人をありのままに尊重できるかどうか、それを促す宗教であれば健全ですが、それを否定し、操ろうとするならば、カルトといえるのではないでしょうか。

かの宗教法人が、政治的な動きにどこまで影響を与えていたのかは分かりません。
しかし、少なくとも、教義(夫婦同姓)に反する国民の機運にむしろ危機感を持ち、教義を断固守ろうとする政治の姿勢はカルト的といえるように思えます。

ただ、本当にそうだったとして、どのような改善策があるでしょう。
人の意思や感情、事情に向き合わず、尊重せず、自分達の教義を押し付ける姿勢を政治が貫いたとき、国民からのいかなる声ももはや届きません。
貧困問題に取り組む雨宮処凛氏も、いつかは政治が理解してくれると信じて活動してきたが、なんの意味もなかったと諦めてしまいそうになるとしています。

雨宮処凛「安倍元首相銃撃事件から4カ月 〜じわじわと心を蝕むカルト汚染」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63745b3ce4b0184e84dc5866

さりとて、一人の人間として、他者と共に、社会の中で生きている以上、より良い明日を諦めるわけにはいきません。
カルトが人の意思を、心情を、幸せを蔑ろにすれば、その人は自分を信じられなくなります。自分を信じない人は、他人を信じられず、他人を蔑ろにします。不幸がカルトを呼び、カルトがさらなる不幸を呼びます。
自分の心を信じて、幸せを求め、他者を尊ぶこと、カルトが軽視・蔑視・敵視するあまりに単純なこのことを、まずは自分なりにやっていくしかないのだろうと思います。

(追伸)
正月は実家のある石神井に行きました。
浦和の公園、石神井川、石神井公園の様子です。













先日、40歳の誕生日を迎えました。
本当に速いものですが、これからはもっと速いのでしょうね。
気付いてみれば、人生の折返しに近い場所まで来ていたことになります。

若い頃は、いつ死んでも悔いはないなどと考えていました。
しかし、年齢を重ねて人生の残りを考えるようになり、また、2人の子どもが生まれ、子どもたちとの時間を重ねていくうち、死によってその時間が断たれることに怖さを感じるようになりました。

成長する子どもたちと一緒に過ごす日々が突然終わり、もう共に生きられなくなったら、その時、何を思うでしょうか。
そして、実際に、そのような状況に置かれた方は、何を思ったでしょうか。

死は誰にも必ず訪れる避けられないもの、だからこそ、今の時間を精一杯生きる。
確かに正しいでしょう、そのとおりでしょう。
しかし、この一節では、腑に落ちないままの自分がいます。

ただ、最近もう一つ思うことが、他人の心だけでなく、自分の心も、思うままにはならないということ。
それでも、自分の心と向き合い、付き合っていかなければならないということ。

今日の自分には思いもよらないことを、明日、自分の心が感じるかもしれません。
だからこそ、とにかく今は様々な気持ちを抱きつつも、頑張って楽しく生きていきたいと思います。

最後になりましたが、今年はお世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

(追伸)
先日、子どもたちと行った川沿いの広い公園。
こういった時間が宝物です。




社会の中で、悩み、苦しみ、その声を上げることが、いつからここまで危険なことになったのでしょうか。
つらさを表明しただけで、見えないところから多数の石を投げられる、社会を毀損するだけの醜悪な暴走が止まりません。

https://bunshun.jp/articles/-/58604
虐待された子供が実家から逃げ、大学に進学しながら生活保護の受給をしたくても難しいという記事に対して、「自己責任」「努力が足りない」というような批判が多数寄せられたというもの
 
https://maga9.jp/221109-2/
れいわ新選組の水道橋博士参議院議員が、うつ病のため休職することになったことに対して、「職務が担えないなら辞職すべき」「休むなら給料を返上しろ」などという声が上げられているもの
 
https://toyokeizai.net/articles/-/631217
会社側に労働基準法の規定に基づき、労働時間を1分単位で計算することや手洗いなどの準備作業を労働時間とみなすことを求めた男性に、「5分単位で付けてくれるなら十分良心的」「権利を主張するのはいいが、この学生はバイト中、無駄話もいっさいしないのかな?」「権利ばかり主張する人は、義務を果たすことを要求されると反発する人が多いよね」などの批判が寄せられ、何万件もの「同意」が投じられたもの
 
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00224/
「シングルマザーサポート団体全国協議会」が、ひとり親約2800人を対象に、生活必需品の物価高の影響に関するインターネット調査を実施したところ、お米などの主食を買えない経験があった人が半分以上いたことが分かったことに対して、「インターネット調査って。ネット使えるヤツが米買えないのか? 家計簿チェックしろ」「嘘つくな!」「米買わないで、他の高い物買ってんじゃね?」「米も買えない親に子育てする権利与えるなよ」「ひとり親世帯だけ給付金とか散々もらってるくせに、何言ってんだよ」「生活保護でも米くらい買える」「シングルマザー保護し過ぎ。米は嫌いだからパン買ってるってことだろう」との異論・反論・疑義が相次いだもの
 
https://withnews.jp/article/f0221123001qq000000000000000W0e010801qq000025273A
髪や肌の色が薄く生まれる、遺伝子疾患アルビノの当事者が、その実体験を発信したことに対して、「アルビノなのにブス」「デブ」「性格が悪そう」との声が寄せられたもの

どうして、このようなことになってしまったのでしょうか。
様々な原因が考えられるでしょうが、人がその個性と尊厳をもって自由に幸せを求めることに価値が認められてこなかったことが一員になっているように感じられます。

社会という共同体において、人がそれぞれに違った幸せを求め、それを応援するということが、人と社会の発展には重要です。
しかし、この社会では、長らく個性に基づく多様な幸せは認められず、誰かの都合で設定された枠組みに収まることが奨励されてきました。
これでは、心からの幸せは実現しようもありません。

誰でもない自分だけの幸せを実現できない場合、それを求めることさえ忘れた場合、人は何を求めるでしょう。
一時的な享楽に耽ることかもしれませんし、絶望し心を閉ざすことかもしれませんが、もう一つ、他人より不幸でないことに微かな心の安定を保つこともあるように思います。
幸せを忘れた社会では、「不幸でいろ!」との他者に対する醜悪な願いが幅を利かせるのは当然ともいえます。

様々な問題提起にかかわらず、不幸が不幸を呼ぶ蟻地獄は、次第に大きくなっているように感じます。
果たして打開策は、希望はあるのか、答えを出せないままの今があります。

(追伸)
先日また訪れた実家のある石神井公園。前に訪れた際の成熟の深緑から、優美な紅葉へと姿を変えていました。