当事者を尊重できない社会の行方 | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

速いもので、上の娘が幼稚園を卒園、4月から小学生になり、下の息子が4月から幼稚園に通います。
子育てをしていて初めて分かったことは沢山ありますが、その一つが、「子供が何かをできるかどうかは、親がそれを教え、やらせたかどうか」という考えが、一面で正しく、一面で間違っているということです。

大抵のことは、親がきちんと教え、繰り返しやらせれば、子供はそれができるようになる。
それ自体は正しいように思います。

しかし、小さな子供であればあるほど、生来的な得手不得手が大きく、得意であれば親が教えるのも、子供が教わり、できるようになるのも円滑で、楽しいものとなります。
一方、苦手であれば、親が教えるのも、子供が教わり、練習するのも、ストレスのかかる苦しいものとなります。
前者であれば問題ありませんが、後者であれば過度な負担が親子双方に悪影響を及ぼすおそれさえあります。
「親が十分に教えなかった、やらせなかった」ということが、それ自体事実であり、実際に子供がそれをできない直接の原因であるとしても、その背景まで見れば、「親の責任」と切って捨てられない事情が出てくることもあります。

これに限らず、誰かと意見が対立し、「当たり前のことを、なぜ理解してくれないのか」と苛立った時、もしかしたら、議論の俎上に言葉として乗っていない背景が大きく影響しているのかもしれません。
その場合、影響する背景を手繰り寄せることが建設的な結果につながるのでしょうが、同時にそれは非常に困難な作業です。
さらに、言葉等の視覚情報を中心に成り立つインターネットでは、背景まで斟酌することは不可能に近く、また、叩くことが目的となった場合には、そもそも斟酌しようとする姿勢すら欠如します。

様々な問題について社会的に議論することは大切です。
しかし、議論の俎上に乗らない背景があることを踏まえると、第三者が一概に結論を出すことは難しく、究極的には当事者ごとに、問題の内容も改善策も異なり、ここに、当事者を最も尊重すべき理由があるといえるのではないでしょうか。
一方で、だからこそ、知らない人ほど何でも言える、そして、その言葉がインターネットを介して刃となり、最も尊重すべき当事者に突き刺さるという悲劇が起きます。

当事者を人間として尊重する、問題解決に当たって声を尊重する、その当たり前ができない限り、社会を良い方向に前進することはないように思います。

(追伸)
先日、仕事で伺った大学のキャンパスです。
大学には独特の空気があって、良いですね。