金と力に我を忘れた悲しき社会:バルファキス著「父が娘に語る〜経済の話」後編 | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

前回に引き続き、ヤニス・バルファキス著「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」について、特に印象に残った箇所の2つ目です。
https://www.diamond.co.jp/book/9784478105511.html

それは、市場社会においては、金銭に換算可能なものだけに価値が置かれ、それ以外の価値が否定されていくというものです。
具体的には、自然の中で美しいと感じたり、他者とのつながりに喜びを感じたりといった経験に価値が置かれなくなる、さらには、金銭的利益を増大させるために、資源の枯渇や自然の破壊など、長期的には破滅へとつながる道を進まざるを得なくなります。

このことは、政治家によるLGBTは生産性がないという発言や、困窮者バッシング、著名人等によるホームレスへの侮辱的な言動、物理的な攻撃、そして、その背景になる金を稼がない者には価値がないという思想をみるにつけ、実感できるところです。
そして、解剖学者の養老孟司氏は、子供自体はお金にならないとして価値を置かないことが少子化を進行させていると指摘します。
https://president.jp/articles/-/66648?page=1
また、健康社会学者の河合薫氏は、人より金を稼ぐ人だけに幸せとの価値観を作り上げてしまったことが生きづらさを生んでいるとします。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00237/

感覚的なものではありますが、この金銭に換算可能なものにしか価値を置かないという風潮は、日本において特に顕著なようにも思えます。
少子化対策や教育への投資を渋る姿勢は、上記の養老氏の意見に通じるようにも思えますし、人権保護や環境対策に対しても、意識が希薄どころか、揶揄や嘲笑といった逆風が吹くのも、この一側面ではないでしょうか。

日本では、自由や人権を獲得するために立ち上がり、実現したことがなく、戦前皆で信じ込まされたことが、敗戦によって簡単に覆される経験もしています。
そのような中で金銭という分かりやすい価値に身を委ねてしまうのも無理はないのかもしれません。
また、前回触れた封建社会との関係では、内田樹氏が、力があるというただそれだけの理由で従うパワークラシーの社会と指摘していますが、これも確固たる価値が社会に根付いていないがゆえに感じます。
http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html

命、健康、幸福、自由、尊厳、伝統、自然、友情、愛……人が人として生きていくために必要な様々なことがありますが、金銭に換算できないものは無価値とされ、より力のある者にただ迎合し、より力のない者を迎合させることが全てとなる、あまりにも悲しい社会です。

人が人として大切にしたいこと、すべきこと、それらを自らの心の中に見出し、そのためにこそ、社会を、経済を造って、動かしていく。
それができなければ、究極的には、あらゆるものが無価値となってしまうのではないでしょうか。

(追伸)
先日、家族で訪れた浦和の公園です。
自然に囲まれた池が何とも落ち着きます。