不幸がカルトを呼び、カルトが不幸を呼ぶ | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

令和5年が始まりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
昨年の社会は、明るい話題がないわけではありませんでしたが、どちらかというと暗い話題の方が目立ち、全体として陰鬱とした雰囲気が漂っていたように感じます。
これまでも平成不況の中、停滞感が漂っていたことはありましたが、今の雰囲気はそれとは少し違うようにも思えます。

たとえ状況が厳しくても、よりよい明日に希望が持て、それに向けて皆で力を尽くしている時は、絶望には至らないのではないでしょうか。
一方で、今の社会には、人の不幸を招き、希望を潰すような悪意が広範囲に徘徊しているように思えるときがあります。
昨年露見した反社会的とされる宗教法人と多数の政治家との結びつきは、まさにそれを象徴しているかのようでした。

この結びつきが明らかになったとき、ずっと釈然としなかったあることについて、一面腑に落ちるところがありました。

そこから少し遡った時期のこと。選択的夫婦別姓を実現しようとする機運が高まり、世論調査でも賛成が反対を上回るようになっていました。
氏名は、自分自身を示すもの、まさに「自分事」です。
さらに、国際的には強制的な夫婦同姓を維持する国は少数であること、夫婦同姓が古来からの伝統とはいえないこと、選択的であれば同姓も選べることなど、選択的夫婦別姓の論拠は次第に積み重なっていきました。
一方で、反対の論拠は、家族の一体感を損なう、両親の姓が違うと子が可哀想といった、あまり説得性のないもののように感じます。

それに対して政治はどう反応したか。それを踏まえて検討を進めるわけではなく、論拠を掘り下げるべく対話をするわけでもなく、一部の議員が中心となって、国民の機運とは真逆に、無理にでも実現を阻むべく動きました。
上記のような状況の中で、誰のため、何のために行動しているのか、強い違和感を覚えました。

そして時は流れ、政治と某宗教法人の結びつきが明るみとなり、その宗教法人が選択的夫婦別姓に反対していることも分かったとき、そのことが腑に落ちたのです。

ところで、その宗教法人は「カルト」と呼ばれていますが、カルトが何を意味するのかは明確ではないようです。
私なりにカルトを考えるならば、個々人の自然な感情や意思、価値観を無視し、教義への盲目的な服従を求めることが一つの大きな指標になると思います。
目の前にいる人をありのままに尊重できるかどうか、それを促す宗教であれば健全ですが、それを否定し、操ろうとするならば、カルトといえるのではないでしょうか。

かの宗教法人が、政治的な動きにどこまで影響を与えていたのかは分かりません。
しかし、少なくとも、教義(夫婦同姓)に反する国民の機運にむしろ危機感を持ち、教義を断固守ろうとする政治の姿勢はカルト的といえるように思えます。

ただ、本当にそうだったとして、どのような改善策があるでしょう。
人の意思や感情、事情に向き合わず、尊重せず、自分達の教義を押し付ける姿勢を政治が貫いたとき、国民からのいかなる声ももはや届きません。
貧困問題に取り組む雨宮処凛氏も、いつかは政治が理解してくれると信じて活動してきたが、なんの意味もなかったと諦めてしまいそうになるとしています。

雨宮処凛「安倍元首相銃撃事件から4カ月 〜じわじわと心を蝕むカルト汚染」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63745b3ce4b0184e84dc5866

さりとて、一人の人間として、他者と共に、社会の中で生きている以上、より良い明日を諦めるわけにはいきません。
カルトが人の意思を、心情を、幸せを蔑ろにすれば、その人は自分を信じられなくなります。自分を信じない人は、他人を信じられず、他人を蔑ろにします。不幸がカルトを呼び、カルトがさらなる不幸を呼びます。
自分の心を信じて、幸せを求め、他者を尊ぶこと、カルトが軽視・蔑視・敵視するあまりに単純なこのことを、まずは自分なりにやっていくしかないのだろうと思います。

(追伸)
正月は実家のある石神井に行きました。
浦和の公園、石神井川、石神井公園の様子です。