“迷い”と“願い”の街角で -9ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

自己責任という言葉、本当に嫌な言葉、というより、嫌な使い方をされる言葉です。

この言葉が最初に大々的に言われたのは、今から20年程前、イラクで武装集団の人質となった3人の日本人に対してでしょう。
政府が渡航禁止を求めている中で渡航した結果起きたことなのだから、自分で責任を負うべきというものでした。
そして、その内容は、救出費用を負担させるべきというものもあれば、見殺しにしろというものもありました。

その後、様々な場面で、この自己責任という言葉が使われるようになりました。
苦しんでいる人、困っている人に対して、本人の落ち度をあげつらい、助ける必要はないと突き放すだけではなく、さらに蹴落とす言葉として。
さらに、指摘される落ち度も、些細なものであることが少なくありません。また、小さいだけでなく、筋違いであることさえ、珍しくありません。

そして、そもそも、仮に、本人の落ち度が原因で苦しんでいる人がいるとして、落ち度がある以上助けるべきではないというのは正しいのでしょうか。

確かに、努力や成果にかかわらず報酬が一定であれば、働く意欲の低下と甘えの助長、つまりは人間の積極性を損ない、消極性を増大し、ひいては社会を衰退させていくでしょう。このことは、共産主義の崩壊を見ても明らかだと思います。
しかし、苦境にある人達を見捨てることが、逆に、人間の積極性を促すと、社会の活力を増すとは到底思えません。

一定の事柄を本人の自由と責任に委ねる自己責任は、活力ある社会を生み出す手段にすぎないのではないでしょうか。
目的を忘れた手段は、暴走し、時として、本来とは異なる邪な目的に利用されます。
本人の落ち度ともいえないような原因をひねり出して、攻撃手段として闇雲に振り回し、社会を瓦解させるのであれば、本末転倒、有害無益です。
また、本当に本人の自助が必要な場合でも、為すべきは自立を促すことであり、蔑んだり、蹴落としたりすることではありません。

今大きく広がった自己責任論は、人間らしいあり方を見失った社会で、短絡的な悪意に乗っかって暴走するだけのただの凶器に思えてなりません。








戦時中、国民は「欲しがりません、勝つまでは」と強いられました。
戦後の経済成長の中、若い人達は「欲しがりません、出世するまでは」と強いられました。
そして現在、非正規雇用の拡大等に伴う実質賃金の低下の中、「欲しがりません、いつまでも」を強いられかねない状況になっているようにも思えます。

さらに、これを、公徳心や愛国心と捉えて奨励するかのような雰囲気も一部に感じます。
以前、ある大物政治家が、今晩炊く米がない家はないのだから、日本ほど幸せで素晴らしい国はないと言っていました。
年配の方なので、日本の極貧の時代を踏まえてのことかもしれませんが、米さえあれば幸せだろう、文句はないだろうというのは、果たして適当なのでしょうか。
ちなみに、この方は、コロナ禍で、緊急事態宣言は出されていなかったものの、生活困窮者が増え、会食も自粛される中、芸能人達と一食数万円のステーキディナーを召し上がられた上、それを指摘されて憤慨されていましたね。

米さえあれば幸せで、それ以外に要らないなら、飲食業は発達しません。
身にまとうのがボロ布で構わないなら、繊維産業は発達しません。
住むのが洞穴で十分なら、建築業は発達しません。
人は幸せを求め、幸せに対価を払うからこそ、経済や社会は発展していきます。

そして、この幸せと発展の好循環を回すには、人の幸せとは何か、そもそも人間とはどういった存在かに向き合い、それを大切にしなければなりません。
幸せが何か分からないのに幸せを提供することはできませんし、人間の本性が分からないのに幸せが何かを見極めることもできません。
これを怠ってきたことが、今大きくこの社会の豊かさを損なっているように思えてなりません。

(追伸)
先日、家族で町田市のダリア園に行ってきました。
色とりどり、形も大きさも様々なダリアが綺麗でした。








著名人の事実婚の解消を報じたネットニュースのコメント欄を見て釈然としない気持ちになりました。
それは、結婚した3組に1組が離婚する現状を指摘し、離婚や事実婚解消に理解を示した主のコメントに対して、多くの反論が寄せられたものです。

その内容は、総合すると、①3組に1組が離婚するという説は、その年の婚姻数と離婚数を比較したもので、正確ではない、②正式な統計では離婚率は1.6〜1.7%で、離婚に至る夫婦は圧倒的に少数であり、実感としても、その程度といったものでした。

これについて、どのように感じられるでしょうか。
このうち、①についての指摘は、必ずしも的外れではないでしょう。
しかし、同じ年に、婚姻数の3分の1に上る離婚数がある中で、離婚率が2%にも満たないということがあり得るでしょうか。

この離婚率は、厚生労働省の統計が出どころのようですが、人口1000人当りの離婚数なのだそうです。
※ただし、婚姻可能年齢(男性18歳、女性16歳)から80歳まで

これも実態を表す指標なのは間違いないのですが、分子が離婚数で分母が人口であること、また、分母の人口には未婚者等も含まれていることから、この数字を夫婦のうちどの程度の割合が離婚するかという意味合いで用いることはできません。

釈然としなかったのは、このような統計情報について、安易に誤った取り上げ方をして、それを、「離婚者は2%にも満たない異端者なんだぞ」というような批判につなげるやり方です。
「知」は現実の課題に向き合い、それを解決しようとする真摯な姿勢から生まれ、世の中を前進させます。
それを他者批判のために都合よく使うことは、「知」への冒涜に感じてしまいます。
また、本人の事情を汲むことなく、同調圧力を利用して、「異端者だ」と追い詰めようとする方法も納得できるものではありません。

他者や知など、様々な意味での世界に対する誠実さが必要になっているように思えてなりません。

(追伸)
先日、家族で訪れた秋晴れの公園。陽の光と若干黄色がかった緑の葉が綺麗でした。
また、今はもう散ってしまいましたが、満開の金木犀。この時期の風物詩ですね。





私がよく閲覧するブログの一つに、保育師等の経験のある男性が子育て相談に応じるというものがあります。
軽妙なイラストに乗せて、核心を突く回答をされており、大変面白くも分かりやすく、参考になります。

その中で、心に引っかかった相談がありました。

地域の少年サッカーチームに入った小学1年生の母親からの相談。
小学1年生だけの中、チーム分けの方法が、2人の主要メンバーが欲しい子を指名していくというもので、一番下手な相談者の子はいつも最後まで残り、さらに、人数が奇数のときは、1人残ったこの子を、2人の主要メンバーがどちらも「要らない」と言う。
相談者は、子を可哀想に感じ、また、その方法に問題があると考え、監督やメンバーの子に口を出すべきか悩んでいました。

これに対するブログ主さんの回答は、概ね、体罰や暴力は別として、指導者の考えがあるので、親は口出ししないことが基本であり、嫌であれば抜けるのがよいというものでした。

どう感じられますでしょうか。
私としては、相談者が実際に取るべき対応という観点からは、何らかの口出しによって事態を好転させるのは難しいように思いますので、抜けるのが現実的と感じるところであり、その点で、ブログ主さんの回答の通りかと思います。
しかし、相談者の取るべき対応という観点を脇において、この習い事の状況を見たとき、どうしても釈然としない思いが込み上げてきます。
それは、私の幼少期の経験も関係しています。

私も相談者の子と同じように、運動が苦手でした。
時折、大人数で遊ぶ機会にサッカーをやろうとなると、この習い事のように、上手なメンバー二人がじゃんけんをして、勝った方から欲しいメンバーを順に指名していきましたが、私はいつも残って、さらには、双方とも「要らない」と言い、最後は、私だけ、じゃんけんで負けた方が嫌々引き取るという状況でした。
これを思い出すと、この子が抱く屈辱感、無力感、疎外感が想像できてしまいます。
重要なのは選ばれる順番ではありません。最後に双方から「要らない」と言われ、嫌々引き取られることが、最も辛いことなのです。

もしこれが大人の世界で行われたら、どうでしょうか。
2つのプロジェクトに職員を割り当てる際、プロジェクトリーダーたちが、本人や他の職員の眼前で、この職員は要らないと押し付けあったら、パワハラとして訴えられてもおかしくないのではないでしょうか。
大人では許されないことが、子どもでは許されるといえるでしょうか。

また、ブログのコメントの中には、この子が奮起して、見返すよう努力することを勧めるものもありました。
前向きともいえる内容ですが、非常に危うい側面もあります。
逆境において、見返すよう努力するには、確固たる自己や自尊心が根底になければ難しいでしょうが、小学1年生の子にそれを求めるのは酷に思えます。
むしろ、その未熟な自己肯定感や自尊心を砕かれてしまうのではないでしょうか。
そして、「奮起してほしい」、「努力して見返してほしい」、「成長してほしい」は、それ自体悪い言葉ではないですが、パワハラ上司の釈明としてもよく聞かれるように思います。

さらに、このようなチーム決めから、参加する子どもたち皆が学ぶことは何でしょうか。
極端かもしれませんが、頂点に立つ子には優越感や全能感、劣る子を差別する特権意識を、最下層の子には無力感、劣等感、疎外感を、そして、それ以外の子には上位者への従順と下位者への侮蔑という権威主義を与えるもののように感じます。
さらに、頂点の子も安泰ではありません。誰かの台頭でその地位を追われたとき、権力を行使する側から行使される側に変わります。これは相当の恐怖ではないでしょうか。

未来に社会へと出て、その一員となる子どもたちに身につけてほしいことは、こういったことなのでしょうか。
こういったことを身につけた人々が織りなす社会は、豊かで幸せなものでしょうか。

そうは言っても、繰り返しになりますが、今回の件で相談者が、これを変えさせるのは難しいでしょうし、無用の軋轢も生むでしょう。
しかし、子どもと未来を考えたとき、相談にあったような運営が姿を消していくことを願わずにはいられないのです。

(追伸)
この間、4か月ぶりに実家のある石神井公園を訪問しました。
前回の5月はフレッシュな新緑のパワーを感じましたが、今回はいわば成熟した深緑。
向日葵の終わりと同時に、彼岸花が妖しい美しさを魅せていました。











「国のために戦いますか?」という質問に対して「はい」と回答した日本人の割合が13%と世界最低との記事を目にしました。
https://president.jp/articles/-/58391?page=1

これについての評価や、原因や背景についての考えは様々だと思います。

国を守る意識が低いとの嘆きと共に、先の大戦での日本の行為を殊更に貶める偏った教育の結果だと思われる方もいるかもしれません。

一方で、先の大戦における内外での多大な被害を踏まえれば、どのような理由であっても戦争は避けるべきであり、それを体現した平和主義の下では、当然のあるべき結果と思われる方もいるかもしれません。

突き詰めれば、回答理由は回答者によっても様々でしょうし、その総体である結果の原因や背景を一概に論じることはできないのでしょう。

私自身の思いを言えば、やはり、「はい」とは答え難いと感じてしまいます。

勿論、自分の生まれ育った故郷、そこに生きる方々を大事にしたいですし、それを守る重要性は否定しようがありません。
しかし、先の大戦の悲劇を見たとき、安易に戦うとも言えません。

先の大戦で開戦に至った経緯には、やむを得ない事情もあったかもしれません。
しかし、インパール作戦等の無謀な作戦に大勢の兵士を従事させ、軍隊内では陰湿ないじめが横行し、国民には竹槍訓練や空襲時の消化等の非現実的な行いをさせ、さらには、勝ち目のない戦争を継続し、結果として、大勢の自国民が無駄に傷つき、死んでいきました。
そう、私達は、この国の偉い人達が安易に有事に突入・継続し、その中で、自国民をどれだけ粗末に扱うのかを知っているのです。

国の偉い人達の指示ならば、インパール作戦に黙って賛成し、従事するのが愛国心なのでしょうか。
一人一人の国民は、人としての価値を持つと同時に、国を形作り支える国の大切な一部です。国を愛していれば、その国民を粗末にすることなどできないはずです。

国が国民を愛し、誇ることと、国民が国を愛し、誇ることは表裏一体ではないでしょうか。
一方的な自己犠牲を愛国心という名で求めるのは、国の、いえ、「国のため」という隠れ蓑の中の一部の人間の傲慢に思えます。


基礎となる大きな歯車が狂っていて、それを自分の手では、どうすることもできず、それでも歯車全体を回し続けなければならないとき、加えるべき小さな歯車を敢えて狂ったものにしなければならないことがあります。
これを受け入れることは、清濁併せ呑むということの一つのあり方かもしれません。

確かに、「狂っている」ことは本来是正すべきことなのでしょうが、その是正に拘泥して歯車全体を止めてしまうおそれがあります。
それによって大きな害悪が生じるならば、何のための是正なのか、本末転倒な事態も生じ得ます。

一方、歯車全体を回すためとはいえ、「狂っている」ことが正しくなるわけではありません。
これを忘れ、狂っている状況に安住すれば、これにより生じる弊害に対処できず、さらには、何らかの契機で基礎となる大きな歯車が正常化しようとしたとき、それに応じられず、むしろ、正常化を阻もうとする動きに繋がりかねません。

中途半端かもしれませんが、歯車全体を回すために必要なことを行いつつ、同時に、狂っていることを意識し続け、その正常化のためにできることをやっていく必要があるのでしょう。
社会のことでも、身の周りのことでも、そのようなことを感じる今日この頃です。

(追伸)
まだ暑さが残り、朝顔や百日紅は元気でしたが、少しずつ季節は移ろい、イルミネーションの準備も見受けられました。
これから年末にかけて、時の流れが速く感じそうです。




安倍晋三元総理の国葬について、自民党所属の北海道議会議員がツイートした内容が批判を集めています。
国葬に反対する意見に対して、「賛成して欲しいとか、野暮なことは言わないから…。だからもう黙ってろ」としたものです。

現在、国葬については、国民の間でも賛否両論、どちらかといえば否定的な意見が強くなっている中、このような内容を、このように乱暴に表現すれば、不快感を与えて当然でしょう。

ただ、この「賛成しろとは言わないから、黙れ」という表現は、乱暴なようで、使われる場面によっては、そのとおりと感じることもあります。
それは、食事、容姿、生活習慣、交友関係等、個人の私的領域において、本人自身に委ねられている事柄に対して、関係のない他人が執拗に批判するようなときです。
SNS全盛の現在、そのような状況は枚挙に暇がありません。

一方、それを踏まえて今回のツイートを見ると、ひょっとしたら、背景には、国葬の是非は「自分たちの私的領域」、そして、使われる税金は「自分たちのお金」という意識があるのではないか、という気もしました。
故安倍氏も、かつて、税金は国民から吸い上げたものとの発言を批判されましたが、「税金の使い道を決めるのは俺達だ、口を出すな」というのでは、もはや国民主権、民主主義の否定とさえいえます。

一方、社会が、このような勘違い、思い上がりを許してしまっていた側面もあるように思います。
社会の構成員である一人一人が、自ら社会を創る意識を持ち、その中で特別な立場を与えられた議員と、適度な信頼と緊張でかかわる必要があるのでしょうが、そのような状態を生み出すにはどうしたらよいのか、答えを見つけられずにいます。



最近、勤務先の行き帰りの電車内の僅かな時間で、池上彰著「そうだったのか!現代史」を読んでいます。
娯楽を内容とするものではなく、硬いテーマを扱っているにもかかわらず、すんなりと読めて、また、続きが読みたくなる、やはり、池上氏の分かりやすく、面白く伝える力は流石だと思います。

まだ序盤ですが、ソ連の崩壊と冷戦の終結の経緯を改めて知り、現在のウクライナを巡る問題の背景についても理解が深まりました。
スターリンによる恐怖政治、不自由で閉塞感と停滞感に覆われた経済と社会、確かに共産主義は滅ぶべくして滅んだように感じます。

中間層は排除され、没落し、経済成長はせず、国民は総じて貧困化、働いても豊かになれない上に、不満や苦しみの声は封殺され、萎縮し、活力を失っていく。
そこで、ふと思ったのですが、共産主義とは真逆のはずの新自由主義に近づいた日本や世界で、これと同じような兆候が見られないでしょうか。

国家による富と労働の管理・独占か、経済的強者による富と労働の搾取・独占かの違い、また、国家権力で急速に進められるか、経済活動で徐々に進行するかの違いで、広く国民が置かれる状況の末路は変わらないのかもしれません。

その意味では、もはや、「資本主義的にはこれが正しい」というような、資本主義と共産主義の二項対立的な議論は無意味であり、人権や弱者保護について、必要性や内容を検討しないまま、「左翼」「共産主義的」と批判する意見を見ると、有害とさえ感じます。
「共産主義は誤っていた、だから滅んだ」とするだけでは思考停止というべきであり、その原因は共産主義特有のものではなく、資本主義社会でも同じような問題を内包しているかもしれない。そうであれば、それを分析し、対処していく必要があります。共産主義の逆さえやっていればよいというのでは、あまりに短絡的です。

社会はどうあるべきか、社会の中で人間が人間としてあるために何が必要なのか、それを突き詰めて考えていかなければならないのでしょう。
それが社会の発展には必要であり、逆に言えば、それの欠如が、現在の停滞を招いているようにも思えます。

(追伸)
写真は川沿いの公園、空が綺麗でした。









今年も終戦記念日を迎えました。
僅か77年前に、あのような惨禍があったなど、改めて考えると、本当に信じられません。

長らく、軍備の拡張と平和主義の徹底の間で議論が交わされてきましたが、昨今は、異なる意見を持つ人への攻撃、侮辱、デマを含めた中傷が目立つようになってきました。

このテーマは、過熱することの弊害が大きい一方で過熱しやすいというジレンマを抱えているように思います。

戦争には、祖国愛や大義が確かにあっても、同時に利害や欲望が絡みつき、一度始まれば、憎悪と恐怖に囚われ、大きな惨劇、大量の死を招き、一方で社会の発展を結果的に促す場合もあります。

緊急の事態に自衛のための力を行使できないのが弱さならば、自衛のための力を制御できず、無駄な破壊と死をもたらすのも弱さでしょう。
必要な力を持ちつつ、その力を制御し、真に迫られた場合にのみ最小限度用いる強さと覚悟、それが求められるのかもしれませんが、果たして人間はそこまで強くなれる存在なのでしょうか。

何が最も大切なのか、何を一番守らなければならないのか、それを忘れないことが唯一の命綱にも思えますが、人の命や尊厳も簡単に愚弄する世の中で、それも険しい道に感じてしまいます。




インターネットでの誹謗中傷が問題視されて久しく、また、事実に反するデマに基づくものも少なくありません。
デマを安易に信じることを戒める意見もありますが、デマを広げる人が、必ずしもデマの内容を信じた人だけではないように思います。
そう思うのは、私自身の過去の経験によるものです。

私が高校生だった頃、ある同級生から執拗に“同性愛者”だと言い立てられたことがあります。
最初は無視していましたが、あまりにも続くため、抗議しました。
それに対して、彼はヘラヘラと笑いながら、「だって、○○君から聞いた話なんだから、しょうがないじゃん」と言ったのです。
要するに、他人から聞いた話をそのまましてるのだから、自分には非はないということです。
正直、呆れ果てました。
なお、彼とはその後一度だけ成人式で再開しましたが、私を“同性愛者”と言い立てるのは相変わらずでした。

このような経験があるので、全員とは言いませんが、デマ情報に乗って他人への誹謗中傷を行う人には、“彼”と同じような考えの人間がある程度いるように思えるのです。
つまり、デマを信じ切っているのではなく、実際は嘘と分かりつつ、あるいは、真偽など最初からどうでもよく、責任なく使える便利な攻撃材料として飛びついて、振り回している人がそれなりにいるのではないでしょうか。
それゆえに、上記の“彼”と同様、真実と異なるとの反論は無意味でしょう。最初から真偽になど関心がないのですから。

インターネットという少数の人間でも大規模炎上を引き起こせる環境が整っている中、このような攻撃だけに執着し、それを最上の目的にして行動する人間に、社会全体が振り回され、崩壊し始めているようにも思えます。
そして、それに抗い、社会を維持する糸口が、どんどん見えなくなっていく、そんな気持ちに苛まれています。

今はただ、せめて、自分の身の周りの希望を大切にしたいと思うばかりです。

(追伸)
先日、久しぶりに実家の石神井公園を訪れた際の写真です。
最近、昔から馴染みのあった店が次々に閉店しました。
昔のままがいいわけではないのでしょうが、やはり寂しいものです。