“迷い”と“願い”の街角で -10ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

希望と絶望を同時に感じる、そのようなニュースを見ました。

小学生のランドセルが重すぎるという問題は、前々からよく聞かれていましたが、小学生自身がアイデアを出して、ランドセルに取り付けてキャリー化できる2本のスティック「さんぽセル」という商品が考案・発売されました。
https://withnews.jp/article/f0220617000qq000000000000000W02q10101qq000024822A

発売したのは「株式会社悟空のきもち THE LABO」で、12歳?21歳の子ども・若者が主体となって、ビジネスを進める事業を展開しているそうです。

「さんぽセル」は、発売前から話題となって、約3000個の予約が入り、発送まで4カ月待ちの状態とのことです。

子供や若者が、直面する課題への解決策を主体的に考え、形にしていく、そして、そこから社会貢献との両輪としてのビジネスが生まれていく。そのような姿勢こそ、これからの日本にとって必要な希望のように思えます。暗い話題の多い昨今、嬉しい気持ちになりました。

しかし、それだけではありませんでした。

インターネットで「さんぽセル」が紹介されると、「大人」から約1000件もの批判が寄せられたというのです。

上記の記事では、次のような批判が例示されていました。
「これを開発した人、子供の事をよくわかってないですね」
「道はずっと平らではないし、階段もあるし上り坂も下り坂もある。どう考えても背負っている方が楽だと思います」

しかし、下記の記事を見ると、「重たいだろうけど、楽したら筋力低下していかん!体も心も鍛えないと!」という根性論的な意見のほか、「考えた子たち馬鹿そう」という論外な侮辱までが届いたようです。
https://dot.asahi.com/dot/2022061800003.html?page=1

プロジェクトに参加した大学生たちは、小学生に配慮して批判を伝えなかったそうですが、隠しきれるわけもなく、携わった小学生の一人は、こう言ったそうです。
「大人に、批判がたくさん来ていることを教えてもらった。自分たちで一生懸命、いい商品を作ったのに‥‥悔しかった」

したり顔の「大人」が、小学生にこのようなことを言わせてしまう・・・いつから、ここまで情けない、恥ずかしい社会になったのでしょう。

しかし、ここで終わらなかったのが、さらに驚嘆すべきところです。「これからの時代を担う小学生が、いいように叩かれて終わってはいけない」と考えた大学生は、小学生自身が「さんぽセル」の必要性を説明する反論の機会をサポートし、さらには、クラウドファンディングで捻出した費用で、小学生メンバーの友だちのほか、「えらい人」へのプレゼントを行うことで理解を広げています。6月14日には、末松文科大臣が会見で、子どもらへの応援メッセージを発信したことは、一つの大きな成果と言えるでしょう。

それにしても、上記の「反論」では、このような内容がありました。
”大人「これを開発した人、子供の事をよくわかってないですね。」”
”小学生「いま小学5年生です。作ったときは4年生です。子どものことよくわかってなかったら、ごめんなさい。」”

笑うに笑えない、ブラック過ぎるブラックジョークでしょう。
繰り返しになりますが、小学生がこのようなことまで言わざるを得ない世の中とは、何なのでしょう。大人社会の一員として、本当に申し訳なく思います。

社会には、様々な考え方があります。この取組に共感できない人もいるのでしょう。共感できる人が支え、応援すれば十分なので、共感できないのであればそれでいいと思います。せめて、遠くから邪魔をして、傷つけて、希望を潰すようなことはやめていただきたいと、切に願います。

(追伸)
写真は1月に久しぶりに仕事で訪れた前任地の群馬と、5月に訪れた埼玉県内の牧場です。
群馬では、赴任当時よく行っていたお店2軒に顔を出したところ、どちらでも覚えていただいていて、本当に嬉しかったです。
また、牧場の方では、牛や鶏、ミニブタといった動物、ジェラートも魅力でしたが、花盛りで綺麗でした。









SMAPの「世界に一つだけの花」が人気を博して、どのくらい経つでしょうか。
♪ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン♪
ここまでシンプルで印象に残る歌詞はなかなかないと思います。
これについては、多くの共感が寄せられる一方、オンリーワンであることを殊更に主張して他者や社会に合わせようとしない、努力や我慢をしない若者をオンリーワン症候群と批判するような声もあったように思います。

その後、映画「アナと雪の女王」が大ヒット、その中で歌われた「レット・イット・ゴー~ありのままで~」が話題になりました。
(うちの子供たちは、映画も歌も大好きです。)
これについても、「世界に一つだけの花」と同じような共感と批判が見られたように思います。

果たして、「オンリーワン」や「ありのまま」は、社会としての観点からは否定されるべきものなのでしょうか。社会とは相反する利己的な心情なのでしょうか。
私には、そうは思えません。

では、「オンリーワン」や「ありのまま」を主張して、社会のための努力、他者との協調を放棄することは許されるのでしょうか。その免罪符たり得るのでしょうか。
それも違うと思います。

人間が人間である限り、個性・特性を持ち合わせており、それに適したあり方が、最も活力を発揮させることはいうまでもないでしょう。
しかし、それだけでは社会は立ち行きません。
一人一人の個性・特性を調整して、活力ある社会としていく必要があり、これには個人が個人を重んじつつ社会のための努力を、社会が社会を重んじつつ個人のための努力を尽くさなければなりません。

思えば、「世界に一つだけの花」でも、一人一人違う自分本来のあり方で人を幸せにできることを前提にして、「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌います。
また、「アナと雪の女王」でも、エルサは、抑え込んでいた魔法の力を抑え込めなくなり、一度は自由という名の孤独に逃れますが、他者への愛を悟ることで、自分の魔法の力を抑え込むことなく制御できるようになりました。

このように、「ありのまま」の「オンリーワン」として持つ特性は、決して否定してはならないものですが、同時に他者や社会に役立つよう磨く必要もあるのではないかと思います。

簡単ではないと言われるかもしれません。そのとおり、簡単ではないでしょう。
絶えざる試行錯誤が必要なある意味苦難の道です。しかし、希望と幸せにつながる道だと思います。
ただ個性や特性を押し殺して決まりに従うだけなら、従わせるだけなら、決まりの中で権力を得た者が野放図になるだけなら、それに服従するだけなら、試行錯誤からは開放されます。
しかし、この試行錯誤が結果的に社会を発展させるのではないでしょうか。
個々の幸せに価値を置かずに試行錯誤を放棄したことが、日本の失われた20年、30年をもたらしたようにも感じるのです。

(追伸)
梅が、桜が咲き、散り、ハナミズキが咲いて散ったかと思えば、ツツジが咲き誇っています。
季節のめぐりが速く感じる今日此頃です。











最近、娘も息子も「きかんしゃトーマス」を気に入っています。
自分が子供の頃はあまり見ていなかったので、大人になって初めて、子どもたちと一緒にしっかり見たのですが、仕事や他者への向き合い方についてメッセージに富んだ内容が多く、驚きました。
内容は様々ですが、根本には、皆自分なりの方法で他者の役に立つことができ、それを行うこと、それを行う他者を尊重することが大切という価値観があるように感じます。

一方、「役に立つことが大切」という価値観には、危うさもつきまといます。
LGBTには生産性がないとした国会議員、同様に国会議員が加担した生活困窮者へのバッシング、そして、重度の知的障害者を対象にした大量殺人、これらにの背景には、役に立たない者は無価値との考えがあると指摘されます。

ただ、改めて考えると、「役に立つことが大切」と「役に立たない者は無価値」とは、必ずしも一致しない、むしろ、逆に、決して両立しえないものにも思えてきます。

例えば、もし重度の知的障害者に価値がないというのならば、それを支援する専門職や家族には価値があるのでしょうか。
もし生活保護受給者に価値がないというのならば、それを支援する行政職員やボランティアには価値があるのでしょうか。
そして、価値がない者の役に立つ者にも価値がないならば、さらに、その役に立つ者には価値があるのでしょうか。
そのような矛盾が延々と続いていきます。

「役に立つこと」が大切だと、素晴らしいことだとすることは、前提として、誰もが無条件に価値があるとしなければ無理が生じるように思います。
誰しもに価値がある、それを踏まえた上で、自分なりの多様なあり方で、他者に、世の中に役立とうとする、そして、そのあり方を尊重する、それが人の幸せと社会の幸せを創り出していくのではないでしょうか。
役立たずと他者に刃を向けることは、それとは真逆に人と社会を不幸にしかしない、役に立たないどころか有害な行為です。

人や社会の持つ価値や大切にすべきことさえ歪みがちな今、子ども向けの作品には学ぶべきことが多いように感じました。

(追伸)
昨年末に久しぶりに実家のある石神井公園を訪れました。
今の時期は桜が綺麗なことでしょう。











早いもので、2021年も終わろうとしています。
新型コロナウイルスの感染状況は落ち着いてきましたが、経済への爪痕は大きく、それ以前からの日本の格差拡大、貧困化も問題視されています。

格差の是正や弱者の救済について語るとき、優勝劣敗・弱肉強食が自然の理としつつ、再分配に関する政策を自然に逆らう恩恵や施しと捉えるような反論を見受けます。
しかし、格差の進展による貧困化、生活困窮者の増加、社会の衰退を目の当たりにしたとき、それを自然の理、あるべき姿だなどと言えるのでしょうか。

思えば、20年ほど前、私が高校生や大学生だった頃、規制緩和による競争社会化が進められ始めたように記憶しています。
その頃、よく耳にしたのは、今の日本は悪平等であり、頑張った人が報われないので、頑張った人により報いる一方、そうでない人は厳しく処遇する必要があるということでした。
今振り返ると、競争社会について、そのような認識を持った上で推進したことが、大きな誤りだったのではないかと感じます。

頑張った人に報いるとは、個々人レベルの話です。では、社会全体をどうしたかったのでしょうか。
社会での競争は、切磋琢磨し合うことで、生産性の向上を加速し、社会の富を増大させていくことに、そして、その結果として、皆が幸せになることを目指すことを目的としたのではないでしょうか。

競争の過程で、脱落者が出てしまうことは、避けられないことかもしれません。
しかし、それは、富の増大の過程で生じる副作用であり、個別に救済することで、その副作用に対処すべきことなのでしょう。
つまり、競争社会と脱落者の救済は、社会の発展を目指す以上、切り離せない関係にあります。

脱落者の救済を主張する意見に対して、共産主義的という批判をする意見も聞かれますが、違うと思います。
共産主義では、そもそも脱落者は生じず、救済する必要がないのですから、競争社会にこそ、救済が必要になるはずです。

競争を自然の理、あるべき姿、頑張った人が報われる当然のあり方としてしまえば、そこから生じる問題は、最悪、全て「仕方ないこと」で済まされてしまいます。
ですが、競争社会というあり方も、人間が構築したシステムに過ぎません。そうであれば、システムが所期の目的を達するため、工夫を重ねる必要があります。
競争社会が、社会の富を増大し、人々の幸福を増大するという目的を達するよう、格差や貧困、不公正といった問題を手当していかなければなりません。

人が皆社会の中で生きているにもかかわらず、社会の中で報われない人、そして社会の発展を蔑ろにすることが、自然な、当然な、あるべき考えとは思えません。
人の集合体としての社会、そして人そのものについて、考えを深めなければ、今の苦境を打開することはできないのではないでしょうか。








何とかと煙は高いところが好きといいますが、それは、おだてに乗りやすいことの例えだそうで、高いところから景色を見るのは、純粋に気持ちのいいことだと思います。

高いところの醍醐味は、広く遠くまで見渡せることだと思います。足元を見下ろしても、大した楽しみはありません。
そう感じたとき、ふと、地位や立場も同じかなと思いました。
高い地位や立場は、幅広く見渡し、多くの人に心を配るためにあるのでしょう。決して、地面の人々を見下すためではないはずです。
しかし、それを勘違いしているのではないかと感じてしまう場面も多くあります。

また、高い場所から、広く遠く見渡せても、詳細は近くでしか見ることができません。
だから、地面に立つ人々を尊重し、その声をよく聞き、事情や考え、思いを大切にする必要があるのでしょう。

そんなことを思った今日此頃です。

(追伸)
歩道橋から見る線路の写真です。
そこまで高い場所ではないですが、ずっと続いていく線路の先に思いを馳せるのも楽しいものです。





メンタリストDaiGo氏の生活保護受給者、ホームレスに関する差別発言が大きな批判を招いています。

彼の一連の発言は、あまりにも醜悪なものですが、一方で、目新しいものとは感じませんでした。
彼が口にした言葉の数々は、これまでインターネットを中心に行われてきた様々な生活困窮者バッシングで言われてきたような内容で、まるでそのダイジェストを見ているような気分でした。

今回の発言について、大きな批判を招いていることに、ひとまず安堵しています。
数年前であれば、どうだったでしょうか。様々な弱者バッシングが大手を振って行われ、その極めつけとして、生活困窮を訴えた一人の女子高校生が執拗に攻撃され、それに国会議員までが加担していたことを、私は今でも忘れることができません。
幸か不幸か、コロナ禍で誰もが弱者となりかねない状況の中であることが、DaiGo氏の発言への強い逆風を作り出したように思えます。

生活困窮者バッシングは、公共や国家を建前に行われることが多いです。
しかし、DaiGo氏の発言を見れば、生活困窮者バッシングが、公共や国家を重んじることとは対極の利己的、自己中心的な発想に基づいていることがよく分かります。

自分が払った税金を生活保護に使うな、困窮者を支援したいなら支援したい人だけが金を出せ、繰り返しになりますが、何とも陳腐に使い古された言説です。
人は社会の中で生きますが、社会にはどうしても問題や歪が生まれます。そして、それを放置すれば、社会が壊れます。
税金は、それを防ぐために広く徴収します。社会の中で生きながら、その社会の問題に対して、自分が気に入らないという理由だけで税金を投入することを拒否する。それこそ勝手というものでしょう。

さらに印象に残ったのは、DaiGo氏が、自分は感想を述べただけと開き直ったことです。
これも、正直に思ったことを言って何が悪い、差別発言をすることも表現の自由、といったインターネット上でよく見る類の醜悪な発想です。
自己の内面を表現することが重要なのは、まさに、それを自由にできることが人間を尊厳ある存在たらしめるからです。だからこそ、人権という形で保障されています。
それを他者の尊厳を傷つけるために使うなど自己矛盾というべきです。

DaiGo氏は、自身の尺度で、他者の存在、生命の価値を否定しました。
しかし、人間の価値を、存在の適否を、同じ人間が評価するなど、傲慢でしかありません。
一方で、人間そのものを大切にするのは、簡単なことではありません。深い人間理解が必要で、倫理、道徳、哲学、宗教とも関係してくるでしょう。
ですが、DaiGo氏の今回の発言ような発想を乗り越えて、これからの社会をあるべき姿に向けて築いていくためには、人間を問い直すことが不可欠ではないかと思うのです。

(追伸)
前回の投稿は昨年末でした。
冬春夏と、あっという間に季節がめぐります。
二人の子供との慌ただしい日々に疲れつつ、積み重ねるその日々が宝なのだろうと、ふと思いました。
















皆様、ご無沙汰しております。
早いもので、令和2年ももうすぐ終わりですが、皆様にとって、どのような年だったでしょうか。

今や、新型コロナウイルス感染症が常に社会に影響を及ぼし続けており、ある意味で当たり前の状況にもなってしまいました。
昨年の今頃は、想像もしていませんでしたが、今では、以前の状況が想像しにくくさえあります。

私は4月に群馬から埼玉に転勤しましたが、新型コロナウイルスの影響もあり、埼玉に引っ越せたのは8月になってからでした。さらに4月以降、妻と二人の子は妻の実家に一時避難し、9月にようやく埼玉の新居に合流しました。
4年以上家族で過ごした群馬との別れは、思ってもみない形となった次第です。

その後、4歳の娘は幼稚園に通い始め、息子も1歳のいたずら盛りとなり、慌ただしい日々が続いています。

しかし、日本の将来については、経済、社会、教育など様々な分野で、不安を感じる要素が多いですね。
それらは、新型コロナウイルス感染症の拡大以前から存在したものも多いですが、拡大により、さらに顕在化してきた印象です。

総理が交代していることも、昨年の今頃は、全く予想していませんでした。
それまで、安倍前総理は、様々な問題を指摘されながらも、安定した支持を受け、政権を運営していました。
ところが、新型コロナウイルス感染症への対応をめぐり、支持率は急落。直接の理由は体調不良とのことですが、退陣に至りました。
退陣後、支持率は急上昇、その後を継いだ菅総理も、一時は極めて高い支持率を維持しましたが、それもここにきて急落しています。

政権の新型コロナウイルス感染症対策への不信感と支持率の乱高下、その原因・理由は一つではないのでしょうが、政治や社会が、目指すべき目的、大切にすべき価値を見失った結果、迷走と噛み合わない検討・議論を繰り返すようになったことも大きいように感じます。

それでは、政治や社会は、何を大切にして、何を目指すべきなのか。単純ですが、この国に生きる皆とその幸せを大切にして、一人でも多くの人が、少しでも幸せになることを目指す、それ以外にはないと思うのです。

しかし、社会の分断という言葉が使われて久しくなり、気に入らない他人を貶め、傷つけ、不幸を願う、そのような言動が、インターネット上の一般的の書込みだけでなく、責任ある立場の方々からも多く聞かれます。

他人の不幸を望むような声が大きくなった社会では、対処しなければならない問題が山積であっても、言葉遊びのような非難合戦が生まれるだけで、解決を企図するような深い議論には至りません。
さらに、政治が、それを修正せず、むしろ便乗するように動いた時、幸せなど生まれようもなく、幸せを諦め、放棄した国へと導かれざるを得ないと思います。

様々な事情や困難があっても、より多くの人がより幸せにという羅針盤だけは、手放してはなりません。

来年は、よりよい年になることを願います。
皆様、よいお年をお迎えください。
















「子どもが生まれて、初めて本当の幸せを感じた。子どものいない人がかわいそう。」
このような言葉を発する人がいたら、どう感じるでしょうか。

「子どものいない、できない人に配慮すべき。」と憤るでしょうか。
あるいは、「どう感じるかは人それぞれ。」と気にならないでしょうか。

ところで、人間が健全に生きるには、精神の境界線を保つ必要があると言われます。
その境界線は、他者から干渉されず、自分の自由な意思で決める権利と責任がある範囲を規定します。
自分が何に幸せを感じるのかは、まさにその典型例でしょう。

そう考えた時、冒頭の発言の前半「子どもが生まれて、初めて本当の幸せを感じた。」は、発言者の純粋な感情として、境界線内のものといえると思います。
一方で、後半「子どものいない人がかわいそう。」は、勝手に他者の境界線内に入り込む、出過ぎたものといえるでしょう。

日本の社会では、個々の人間の境界線が曖昧とも指摘されます。
このため、冒頭の前半のような発言だけで配慮がないと叩かれたり、安易に後半のような発言をしたりということが生じるのではないでしょうか。

このような境界線を確立し、自身と他者の境界線を尊重することが自立ではないかと感じます。
また、ある意味では、境界線を健全に保つ権利が人権であり、皆がこれを保ちながら生きる社会が民主社会ではないでしょうか。

(追伸)
4年余過ごした群馬を離れ、埼玉に転居しました。
群馬暮らしは2度目でしたが、今回は、その間に2人の子を授かったこともあり、本当に思い出深く、愛着のある場所となりました。










中学校や高校の中には、時代に合わない理不尽な内容の校則を残しているところがあり、ブラック校則として昨今問題視されています。

最近も、ツーブロックの髪型を校則で禁止している都立高校があることについて、都議会で取り上げられました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1b2032faeadf2d32bbcfc50d59ad1f0bbe43b669

これについて、元衆院議員でタレントの杉村太蔵さんは、「社会に出たときのルールを守る練習」として、上記の校則に理解を示したとのことです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd17153b98738cddbb2cf47ebd56c73018fa4fd8

ブラック校則の問題が取り上げられる度、杉村太蔵さんのような、ルールは守るべきとの反論が寄せられることがあります。

確かに、悪法もまた法であり、市民それぞれが勝手に法の合理不合理を判断し、守らなくてよいとするならば、法秩序は保たれません。
この点では、上記の反論にも一理あります。

しかし、ブラック校則の問題に対する意見としては、すれ違っていると言わざるを得ず、また、そのすれ違いには、日本の民主社会の未成熟を感じてしまいます。

ブラック校則が問題視されるとき、その先に何が目指されているのでしょうか。
明らかに、理不尽な内容の校則を改め、合理的な内容とすることでしょう。
理不尽だから、守らなくていいと言っているわけではないはずです。

皆でルールを作り、皆がそのルールを守る、それが両輪となって民主社会は成り立っています。
ルールを守ることと、ルールを変えることは矛盾するものではありません。「ルールを守る」の反対は、「ルールを破る」であり、「ルールを変える」ではないのです。

今回は都議会で問題視されたものですが、以前、生徒がブラック校則を変えようと取り組んだというインターネットの記事に対して、ルールは守るべきとの批判的なコメントが寄せられているのを見て悲しくなりました。

自分たちのルールを合理的なものに変えようと主体的に動くのは、まさに民主社会のあるべき姿だと思います。
ルールを守ることにも、ルールを変えることにも前向きな市民こそ必要とされているのではないでしょうか。

(追伸)
最近、諸事情でよく埼玉県に行きますが、北部は田んぼも多くあります。
青々とした田んぼが広がっているのは綺麗ですね。









「差別」に関して強く印象に残る漫画が、インターネットに掲載されていました。
【漫画】「アジアの女は…」海外で受けた人種差別 叔母の毅然とした対応で気付くこと
https://magmix.jp/photo/31124

この叔母様の格好良さ、人間や社会への洞察に感服しました。
短い内面の中に示唆に富む事柄が沢山表現されていますが、個人的に一番心に残ったのは、「人種や性に関する差別は特に許しちゃいけない、個性を否定することだから」という箇所です。

日本では、「個性」というものが浅く、軽く捉えられがちな気がします。

「個性」は、まさに一人一人異なる個人のあるがままの性質、個性の尊重とは人間としての存在自体の尊重なのではないでしょうか。
個々人が持って生まれ、発現していくものを否定することは、その人を人間として認めないこととさえいえるように思います。

他者を人間として認めること、当たり前のようであって、実は難しいのかもしれません。
どうしても、立場や所属、属性で人を、自分を判断してしまい、その結果、自分よりそれらが劣る者を同じ人間とは認められなくなってしまいます。そして、それらが優る者の前では、自ら人間性を捨ててしまいます。

「差別を許さない」とは、自分も他者も人間であることを確認することなのかもしれません。

(追伸)
紫陽花の季節が過ぎ去り、本当に雨が続く梅雨の中、僅かな晴れ間でも心が落ち着きます。