“迷い”と“願い”の街角で -11ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

カウンセリングを職業にしているわけではないのですが、産業カウンセラーの資格は持っています。
資格を持っているだけで十分なカウンセリングができることはなく、実践と研鑽による経験の蓄積や技能の向上を図っていない現状で、自分をカウンセラーと称することはできません。
そのような意味で資格を十分には活かせていませんが、資格を取るために得た知識や行った訓練は、色々な場面で役立っています。

カウンセリングの勉強で、最も印象に残った気付きの一つが、人の心は容易には分からない、安易に分かったつもりになってはいけない、ということです。
専門のカウンセラーなら、人の心が分かって当然、救えて当然と思う方もいるかもしれません。
一方、他人に人の心など分かるはずがない、カウンセリングなどまやかしだと思う方もいるかもしれません。
いずれも、一理あると同時に、正確ではないと思います。

カウンセリングには様々な流派がありますが、総じて、その役割は、心に苦しみを抱えた人にカウンセラーが寄り添い、そのやり取りの中で原因を見付け出して、解消に取り組んでいくものといえます。
苦しみの原因も、その解消のための方法も、本人の中にありますが、本人は気付きません。だからこそ、苦しみます。
カウンセラーは、本人から話を聴き、一緒に問題を整理し、原因や解消の糸口を探ります。
ただ、話を聞くだけでなく、様々な技法を用いて、本人が心の内に向き合い、表現できるよう促しながら傾聴します。
カウンセリングは、あくまで、本人の中にある答えを本人と共に引き出すもので、人の心を直ちに読んで救うような魔法ではなく、一方で、そうでないことをもって価値が否定されるものではないといえるでしょう。

本人と共に問題と向き合うには、決して上から目線にならず、誠実に向き合う必要があります。
簡単に分かったつもりになって本人の心の内を決めつけてしまえば、その心は閉ざされてしまいます。

思えば、私はあまり親に心を開けませんでした。それは、親が自分のことを分かってくれないということもありましたが、むしろそれ以上に、聴こう、分かろうという姿勢がなく、分かったつもりになって勝手に内面を決めつけられたことが大きいように思います。

カウンセリングに限らず、分からないから始めて分かろうとする姿勢が、他者を尊重する上で重要なのかもしれません。

(追伸)
先日、久しぶりに実家に戻りました。
近所の石神井公園では、紫陽花や蓮の花が綺麗でした。
















プロレスラーの木村花さんが、リアリティ番組内の言動を契機としたSNSでの誹謗中傷を苦にして自ら命を絶ちました。
インターネット上の誹謗中傷による悲劇は、これまでも何度も生じており、また繰り返されてしまいました。
今回の事件を受けて、国においても、インターネット上の誹謗中傷に対する法規制を検討していく模様です。

口頭でも文字でも、言葉を発することを規制する場合、必ず憲法上保障された表現の自由との兼ね合いが問題となります。
今回の問題をめぐって、表現の自由を尊重する必要性を主張する意見に対して、「人を死に至らしめるような誹謗中傷に表現の自由はない」との批判を寄せる方もいます。

しかし、それは議論が少しすれ違っているような気がします。
今回のような誹謗中傷を規制することに反対する方は多くはないと思います。
ただし、いざ規制しようとすれば、どの範囲の行為を規制すべきか、その対象の設定が課題となります。
今回のような誹謗中傷は規制対象に含めるとしても、正当な表現の自由の行使が規制対象内に入ってしまわないよう、適切かつ明確な線引きをする必要があるのです。
今後、この線引きについて検討が進められていくことでしょう。

議論は、大別すれば、①表現の自由を重視して、規制に慎重な意見、②誹謗中傷による被害の防止を重視して、規制に積極的な意見を2つの軸に行われるものと思います。
両軸の意見がぶつかり合い、また、歩み寄れば、少しでも望ましい結論が導かれるとも思います。
ただし、これは、表現の自由を尊重しつつ誹謗中傷による重大な被害を防ぐという目的を共有して議論を行うことが前提です。

①の意見を主張する人の中には、純粋に①を望ましいと思う人(①A)のほか、①を強く主張し誹謗中傷対策自体を潰したい人(①B)がいたり、②の意見を主張する人の中にも、純粋に②を望ましいと思う人(②A)のほか、②を強く主張し、表現の自由自体を制圧したい人(②B)がいることが考えられます。
それぞれのBは、①Aと②Aによる建設的な議論と意見の集約など望んでいませんから、①Bは、②Aも②Bもまとめて辛辣に攻撃し、②Bも同様です。
このため、それぞれのBの暗躍が、議論を難しく、また、醜く不快なものにしてしまう可能性があり、それがもっとも危惧される事態です。
もちろん、Bの数は比較的少数かと思いますが、その過激さや陰湿さが、むしろ存在感を強めているようにも感じます。

実際の例として、木村花さんの死去を受けて、きゃりーぱみゅぱみゅさんが誹謗中傷を批判しましたが、これに対して、以前彼女が検察庁法改正に抗議したことを「誹謗中傷」と称して、「自分だって誹謗中傷しただろう」というような声が寄せられました。
また、名誉を傷付ける風刺画を掲載したとして伊藤詩織さんから訴えられた漫画家のはすみとしこさんは、この訴えを「表現の自由の侵害」と批判しました。
前者は②B、後者は①Bの例であるように感じます。
いずれも、満ち溢れる悪意を感じざるを得ない、醜悪なものです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/643687a664e54d6d48fc577a64eb0efc168d3be3
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f6c7fd16be173feb41210962326fdc93e667cfb

テレビ番組では、はすみとしこさんの発言について、同氏が右派の立場であることと関連付けて語られていました。
しかし、これは、そのような政治的な立場や信条以前の問題であるように感じます。
表面的な主義・主張の下の人間としての姿勢や行いについて、しっかりと思いを馳せる必要があるように思います。

(追伸)
日が長くなりましたね。在宅勤務が終わってからでも、散歩ができるようになりました。




コロナウィルスの問題は、収束とはいかないまでも、一応の落ち着きが出てきた感じですね。

それにつれて、コロナウィルス自体の問題以外に生じてきた社会の問題、感染者や医療従事者、その家族、営業している店舗などへの誹謗中傷や差別といった度を超した行為も大きく注目され、そのような行為をする人を差す「自粛警察」といった言葉も広がってきました。
このような現象について、コロナウィルスの問題による不安、自粛のストレスなどを原因とする見方もあり、一面的には当たっているようにも感じつつ、それだけではないとも思っています。

なぜなら、このような陰湿な行為は、ずっと前から見られてきたものだからです。
災害時に明るい話題をツイートした人などを非難する不謹慎狩りは幾度となく行われたほか、東日本大震災に際しては、原発事故の発生地から避難した方への差別やいじめも発生、生活保護受給者や生活困窮者へのバッシング、性的マイノリティへの差別には国会議員までが加担しました。
行為の酷さも、今回特に際立ったわけではなく、同じくらい酷い行為がいくらでもなされてきたように思うのです。

しかし、今回は、特に酷さが注目されているようです。
それは、今回、行為をする人、行為を受ける人が、これまでと比べものにならないほど、広く多様だからではないでしょうか。
これまで多数行われてきた嫌がらせや誹謗中傷、差別は、程度の差こそあれ、ある程度限定された範囲の方々が標的となっていました。
だからこそ、行為者も安心して標的にしていたのでしょう。そして、今回も、行為者は、そういう方々を標的にしたつもりだったのかもしれません。

しかし、コロナウィルスの影響は、濃淡こそあれ、全国的に広がり、また抱えている問題も、感染の不安、育児の負担、経済的な苦境と様々です。
感染を抑えるには活動を控えなければ、しかし、活動しなければ生きる糧が得られない、と、様々な要請を踏まえた調整と難しい判断が迫られました。
生きるために何とか営業していた店舗への嫌がらせは、同じ苦境に立たされた多くの方への脅威になるように、行われた誹謗中傷は、多くの人にとって自分事になります。
さらに、様々な要請を背景に嫌がらせが行われれば、行為者も標的も広範囲、多種多様になります。
だからこそ、一気に問題が顕在化したように思うのです。
学校の教室に例えるならば、一部の生徒を標的にしたいじめが行われている陰湿ではあるものの表面的には安定していたクラスが、学級崩壊の状態へと進みつつあるような印象も感じます。
表面的には様相が変わりましたが、根底にある信頼関係が崩壊した状態は、従来どおりなのではないでしょうか。

さらに、残念かつ心配に感じたのは、検察庁法改正の問題をめぐった動きです。
芸能人からも抗議の意見表明が数多く行われるなど、異例の事態となりましたが、これを批判するような声も寄せられました。
しかし、その批判の声は、意見表明の内容に反対、反論するというより、表明自体を批判し、表明者を嘲笑、罵倒、侮辱するような醜悪なものが多いように感じました。

共同体としての社会は、意見が異なっても、存在を肯定し合い、信頼し合ってこそ成り立ちます。
そうであって初めて、意見の対立や利害の相反を乗り越え、発展していけるのだろうと思います。
意見が異なるからといって、相手の人格や存在そのものに攻撃を行えば、信頼関係の、ひいては日本という共同体の破壊につながります。
この意味で、コロナウィルスをめぐる嫌がらせも検察庁法改正案をめぐる騒動も、同じような土壌に起因しているのではないでしょうか。

様々な側面を持つコロナウィルスの問題に、日本という共同体は試されているのかもしれません。
共同体を維持・発展させられるか、それとも破壊・破滅に向かうのか、その分かれ道にいるようにも感じます。

(追伸)
散歩も主に自宅近辺です。早く気ままに遠出ができるようになるといいですね。












皆様、御無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
数か月前には想像もしていなかった状況ですが、それぞれに異なる形で、大きな影響を受けていると思います。

コロナウィルスの問題への対応について、これまで盤石だった現政権への逆風が強まっています。
経験のない問題への対応が困難なのは当然で、比較される海外の国々でも、何の問題もなく対処できているわけではなさそうですが、今回、日本の現政権への風当たりが、ここまで強くなったのはなぜなのでしょうか。

少し話は変わりますが、以前、ある方が話していたことで、ずっと印象に残っている内容があります。
それは、公的な立場にいる者は、何らかの対応を行うに当たって、まず様々な人の話をよく聞く必要がある、そして、聞いた話を踏まえて決断したら、迷わずにそれを実行する必要があるというものです。
人の話を聞く必要があることは大前提ですが、全員が同じ意見になるはずもなく、ある段階で決断し、今度は、反対する者がいても、迷わずに実行しなければならないということであり、私の頭にも強くこびりついています。

コロナウィルスの問題への現政権の対応は、これとは正反対に、人の話をよく聞かずに決めてしまい、あとから覆し、その結果として実行が遅くなったように感じます。
このことが、現政権への不信感が強まった理由の一つではないかと感じるのです。 

また、現政権の対応が迷走気味になった原因の一つとして、現政権、いえ、日本社会において、①個々の人と、その置かれた状況の多様性への理解が不足していたこと、②何を大事にすべきか、その価値観が曖昧だったことがあるようにも感じます。

①についてですが、今回のコロナウィルスの問題が厄介なのは、個々の国民の置かれた状況によって、影響の大きさも内容も大きく異なることです。
健康面の問題に主に悩む人もいれば、経済面の問題が喫緊である人もいます。
これを、命と金を天秤にかけるものと考えるべきではありません。なぜなら、コロナウィルスで命の危険に直面する人がいる一方、経済活動の停滞で命の危機に直面する人もいるからです。

このような複雑に影響する問題に対処する場合、大事なことから優先順位を付けて対応し、順次、その他の事項を手当てしていくことが有効かと思います。
そのためには、②のとおり、何を大事にすべきかという価値観がはっきりしていなくては、優先順位もつけられません。

情報番組で、「人命が一番大事なのだから」と言うコメンテーターがおり、その通りだと思うのですが、このことは、日本の社会で政治で、当然のこととして受け入れられていたでしょうか。
思い返せば、生産性で人の価値を否定するような意見が一定程度幅をきかせ、それに賛同する国会議員までがいました。

人間の価値を生産性で測るというのは、経済を最重要視し、個々の人間をその歯車として見ることです。
そう見た場合、コロナウィルスは、歯車を腐食させるようなものですが、この観点からは、なるべく低コストで、経済全体に有用な歯車を守るという発想になるのではないでしょうか。
この場合、大胆な対応はなかなかできません。歯車に投資した分が全て経済に還元されるとは限らないからです。

平時であれば、経済優先の価値観が蔓延しても、潜在的な問題は多くても、多くの人は普通に暮らせます。
しかし、今回のように多くの人が様々な問題に直面した場合、経済優先の価値観では、多くの人が見捨てられかねないことが露見します。

今一度、社会に生きる人々と、その多様性、そして、何を大事にするかという価値観を再認識する必要があるのではないでしょうか。
これは、コロナウィルスの問題への対応においても、その後の社会にとっても必要なことだと思うのです。

(追伸)
3月末に撮影した前橋公園の桜です。 本当に、この時は、ここまでになるとは思っていませんでした。








令和2年が始まりましたね。
年末年始は、いかが過ごされましたか。

今年の抱負を立てた方もいれば、そうでない方もいらっしゃることでしょう。
自分の抱負というわけではありませんが、最近、「人に迷惑をかけない」という言葉が、否定し難いと同時に、使い方に注意を要するものと感じています。

「人に迷惑をかけない」という姿勢、心構えは確かに立派なことでしょう。
一方、あまりに強く持てば自分を追い詰め、壊れてしまい、一方、「迷惑をかけるな」と他者に向ければ、言葉の凶器となり、社会を殺伐としたものにしてしまいます。

そもそも、迷惑とは何なのでしょうか。
人と人とが支え合って生きるのが社会ならば、他者のためにある程度の負担を背負うのは当然のことといえるでしょう。
過度に他者に依存し、自立することを放棄するのは問題ですが、自分の力で人生を歩もうとするならば、そのために他者の力を借りても何の問題もないはずです。

むしろ、社会で他者と共に生きているにもかかわらず、「自分に迷惑をかけるな」と他者を切り捨てるのは、社会の一員としての負担を放棄する身勝手というべきであり、それこそが迷惑というものでしょう。

「人に迷惑をかけてはならない」という正論を振りかざして、自分の都合のみを優先し、人を傷付け、迷惑をかける自己中心的な人。
「人に迷惑をかけてはならない」と過度に自戒して、自分で自分を押さえ込み、傷付け、人生を放棄してしまう自己を失った人。
両者は、悪い意味で相性がよいのですが、感覚的に、その両者ともに増えているような気がします。
そして、自分のことしか考えない前者と、他者に振り回されるだけの後者が共に増えていくことは、責任をもって考えることができる人間が減るということにほかならず、いずれは社会が成り立たなくなります。

自分も他者も同様に大切にするという姿勢がなければ、自分と他者に共通する「人間」という要素を重んじなければ、よい社会は築けないように思います。

(追伸)
寒くなって空気が澄むと、景色や夜景が綺麗に見えますね。
住んでいる前橋から見える赤城山が、先日は雪化粧をしていました。













子供たちの学力低下が問題視されて久しくなりました。
また、学力向上のための取組も、この間の英語民間試験の件が象徴するように、迷走するものが多いように感じます。

そもそも、学びとは、何のために行うのでしょうか。

ところで、ユダヤ人の心理学者で、第2次世界大戦中に強制収容所に送られたヴィクトール・E・フランクルは、生きることについて、その人にだけ、その時にだけ課された問いに答えることであり、そこに価値があるとしました。
つまるところ、今まさに人生から突きつけられている問いには、今の自分にしか答えられず、過去の自分の経験、他人の経験をそのまま答えにすることはできないのでしょう。

ふと考えると、その「過去の自分の経験、他人の経験」こそ、「学び」なのではないでしょうか。
「学び」を「答え」にできないのであれば、「学び」は無駄なのでしょうか。

そんなことはないでしょう。
様々な「学び」を積み重ねなければ、次々に突きつけられる人生からの問いに自分なりに答えていくことはできないと思います。
一方で、「学び」はヒントであって、「答え」そのものではないということは、踏まえなければならないのかもしれません。

日本人は自分で考えるのが苦手というのも久しく言われていることですが、「学び」自体を「答え」と思い違っていることが、一つの要因であるようにも感じます。
さらに、その根底には、一人一人の人間が、自分だけの人生からの問いに、その時その時に答えている、その重要性をあまり認識していないことがあるようにも思えます。
だからこそ、他人の人生の問題について、断片的な情報だけで、安易な批判、見下した評価、ひいては、苛烈なバッシングができてしまうのではないでしょうか。

自分に突きつけられた自分の問題に向き合う責任と重要性を認識し、さらに他者も同様の責任と重要性を持っていることを尊重する。
そのことを踏まえて、初めて「学び」が「答え」を出すためのヒントとなって輝き出すように思うのです。

(追伸)
久しぶりに実家の石神井に戻りました。
あいにくの天気でしたが、石神井公園の紅葉は綺麗でした。
さらに、雨上がりには虹も見られました。雨と晴れの狭間で、ほんの短い間の輝き。大げさですが、世界の神秘に感じました。











歴史を学ぶ意味は何なのでしょうか。
「温故知新」は広く好まれる言葉ですが、昔の事象から新しい知見を得るとは、どういうことなのでしょうか。

ところで、過去にハンセン病療養施設において行われた強制断種に関する記事が目にとまりました。

「断種「おまえの番だ」 愛楽園強制不妊 もがく男性 羽交い締め 屈辱の手術」
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-720180.html

特に、断種の手術が行われる直前の様子を描写した箇所は衝撃的です。
「出来上がった畝を見下ろし、くわに手を置いて一息入れていた時だった。突然、背後から男性職員2人に羽交い締めにされ引きずり出された。必死にもがく男性を押さえ、職員は耳元で言い放った。「おまえの番だ」。連れて行かれた場所は手術室だった。手術台に寝かされた男性はふんどしを看護婦にはぎ取られた。指で性器をぱちぱちとはじく看護婦の顔には薄笑いが浮かんでいた。」

手術された当事者は言います。
「人間のやることじゃない」
「国にとってね、私らは人じゃなかった。恥よ。恥の子供を残させんと考えていたんだろう」

このような出来事を、もう起きることのない過去の話として忘れ去ってもよいのでしょうか。

確かに、今の日本社会で、同じことが起きるとは考えにくいと思います。
しかし、現在の日本で溢れかえる差別的な言動、嫌がらせ、それらをむしろ助長するかのような要人の発言、ひいては、障害者をターゲットにした大量殺傷事件を目にしたとき、昔と変わらない何かが根底にあって、それにより苦しむ人、傷付く人を多く生み出しているのではないかと感じてしまいます。

人間の存在自体に価値を置かず、人間以外の何かに価値を委ねたとき、それを不当に利用し、暴走する者が現れます。
そして、その暴走した自分よりも力のある誰かや何かに迎合し、自分なりに考えず、流されるように生きるとき、人間としての良心は封印されます。
その結果、人間以外の価値により、勝手に下位に分類された人間に対して、およそ人間のやることではないほど冷酷な行為ができてしまいます。

長い長い歴史において、人間が、そして人間が構成する社会が普遍的に内包する正負両面の本質というものがあるのではないでしょうか。
人間や社会が普遍的に持つ美しい面を信じ、発現させる一方、醜い面にも向き合い、対処すること、これが歴史を学ぶ意義ではないかと思うのです。
歴史を自己陶酔や差別に利用しても、何も得るものはありません。
歴史から得られる誇りは、そのような軽々しいものではないはずです。





先日実家に帰省して、久しぶりに大学時代の友人達と会ってきました。
4年ぶりくらいの再会、生活状況はそれぞれ変わっても、基本は昔のまま、楽しい時間が過ごせました。

他の用事もあったのですが、流れてしまい、その空いた時間で、前から観たかった是枝裕和監督の「万引き家族」をDVDで観ました。
https://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/

この作品は、高い評価を受ける一方、是枝監督が政権に批判的で、文部科学大臣との面談を断ったことも相まって、一部からは批判も受けました。

私は、非常に素晴らしく、また、重い作品だと感じました。
相矛盾する様々な人間の側面全てを否応なく受け止めさせられるような作品だったと思います。
そして、受け止めた後の判断も、観客に委ねられているのでしょう。

中心的に描かれている大人達は、決して善人ではなく、悪人と言ってもいいのかもしれません。弱く、醜い人間達かもしれません。
しかし、そこにある愛は、確かな真実でもありました。
それによって子供たちに与えられた笑顔は、建前としての善では、なし得ないことだったかもしれません。

劇中の登場人物に賛同するかどうか、共感するかどうか、そこは人によって異なるでしょう、いえ、異なるのが当然だと思います。
突きつけられたものを受け止めて、その結果として自分の中から出てきた答えは、どのような内容でも、正解といえるのでしょう。

しかし、一部には、この映画が貧困による犯罪を描くことで日本を貶めたとの空疎な批判がなされました。
人として、心で向き合ったときに、このような意見が出るものか疑問です。

人として心で向き合う、それができない人が多数を占めれば、それこそ緩やかな地獄というべきです。
そうでないことを祈るばかりです。










相模原の障害者施設での殺傷事件から速いもので3年が経過しました。
重度の障害者の生きる価値を否定し、殺害していった犯人の行為、また、それを正義と確信するような犯人の言動、一部の人間による犯人の思想への共感は、いずれも社会に衝撃を与えました。
さらに、国会議員が生活保護受給者や困窮者へのバッシングに加担したこと、LGBTを「生産性がない」と否定したことは、経済的な尺度で社会に貢献しない人間について、その存在価値を否定する考えが社会に巣くっていることをうかがわせる出来事でした。

さて、ヴィクトール・エミール・フランクル「それでも人生にイエスと言う」には、これに関しても、興味深い内容が記載されています。

フランクル博士は、共同体に貢献するところに人間の価値があるとしています。
なるほど、高名なフランクル博士も、社会に貢献しない生産性のない者に価値はないとしているのか・・・とするのは早合点です。

フランクル博士は、生産的であることだけが共同体に貢献することではなく、非生産的な者を排除することを明確に否定しています。
人間は、生産的な活動だけでなく、非生産的であっても、愛されることにより、苦悩に向き合うことにより、共同体にとって、かけがえのない唯一の価値ある存在であるとするのです。

確かに、重度の障害者で、意思表示もできないとしても、家族や友人から愛されていた、日々を懸命に生きていた、それだけで、彼らを殺害することが許されない理由は十分でなないでしょうか。

そもそも、「生産性がある」「役に立つ」という尺度で人間の存在価値を測ることには無理があります。
非生産的な人がいるとして、その人に価値がなければ、その人の世話をする人に価値はあるのでしょうか。
貢献する対象に価値がなければ、その貢献も無意味になるはずです。
では、非生産的な人に貢献する人がいて、さらに、その人に貢献する人がいたら、その人には・・・

共同体を形成し、そこで存在している全ての人に価値がある、生きる意味があるということを大前提にして初めて、生産することも、貢献することも、役に立つことも意味を持つのではないでしょうか。

フランクル博士は、人間として、生きる意味を問題にすることは間違いであり、自分だけが直面する人生という具体的な問いに全存在で答えるところに生きる意味があるとします。
ただ、さらに続けて、世界全体に意味があるのかについては、判断する根拠がなく、全てが無意味か、全てが有意味かは、根拠なく決断するしかないとします。
そして、意味があると決断することは、真実だと信じることではなく、真実にするということであり、それにより創造的な結果が現れてくるとします。

相模原の事件のような悲劇に対して、私達ができることは、すべての生命に意味と価値があると信じる決断をして、それを真実にすることなのかもしれません。

(追伸)
出張で長野県上田市に行ってきました。
歴史ある街並みをうまく生かしつつ、利便性を高める開発を行い、綺麗で活気のある街づくりがなされているように感じられました。










太平洋戦争における日本の戦争責任は、常に政治の論点として激しく議論されてきました。
主に中国や韓国といった他国との関係も含めて、感情的になりやすく、繊細な問題でもあります。

戦争責任を重視し、現在の政策に反映すべし、自国民や他国への責任を未だに果たせていないという意見がある一方、戦争責任には不当に評価されている面がある、過去に囚われすぎて当然の政策も行えないことは妥当でないという意見もあります。

ところで、ヴィクトール・エミール・フランクル「それでも人生にイエスと言う」を妻の父親に貸していただいたのですが、この中に、上記の問題を考えるに当たって、興味深い内容がありました。

ちなみに、ヴィクトール・エミール・フランクルは、ユダヤ人の精神科医で、第二次世界大戦中、ナチスにより収容所に囚われるも生還、その体験を綴った「夜と霧」が有名ですが、ロゴセラピーという心理療法の創始者としても知られています。

「それでも人生にイエスと言う」の話に戻ると、フランクル博士は、国の過ちに対する国民の向き合い方として、個人として直接関与していない国の過ちについて、国の一員であるからといって「同罪」とされるべきではないが、国の一員として「共同責務」を負うべきとしています。

自分なりに噛み砕けば、自国が過去に過ちを犯したとしても、今の国民がその過去を自分の罪として恥じ、囚われる必要はないが、過去を踏まえて果たすべき責任はあるといったところでしょうか。

このため、国にどのような過去があろうとも、他者が、いたずらにその過去を持ち出して「同罪」と主張し、罪悪感を押し付けようとする姿勢を取った場合、それを拒否するのは正当なことでしょう。
一方で、過去から目を背け、過ちなどなかったように振る舞うことは、「共同責務」の放棄といえるでしょう。

気を付けるべきは、「罪悪感」を持つ必要はないということを盾に「共同責務」を放棄しようとすることや、「共同責務」を主張して「罪悪感」を持たせようとすることが、往々にして見受けられることです。
いずれも、邪な意図によるものと言わざるを得ません。

どんな人も、社会も、国も、その歴史に正負の両側面を持ち合わせているのでしょう。
その全てを受け入れてなお持つ誇りこそ、本当の自尊心や愛国心であるように思うのです。

(追伸)
先日、仕事で館林に行ってきました。
歴史ある街で、また、その郷土の歴史を愛している雰囲気が感じられ、何とも言えない心地よさがありました。