太平洋戦争における日本の戦争責任は、常に政治の論点として激しく議論されてきました。
主に中国や韓国といった他国との関係も含めて、感情的になりやすく、繊細な問題でもあります。
戦争責任を重視し、現在の政策に反映すべし、自国民や他国への責任を未だに果たせていないという意見がある一方、戦争責任には不当に評価されている面がある、過去に囚われすぎて当然の政策も行えないことは妥当でないという意見もあります。
ところで、ヴィクトール・エミール・フランクル「それでも人生にイエスと言う」を妻の父親に貸していただいたのですが、この中に、上記の問題を考えるに当たって、興味深い内容がありました。
ちなみに、ヴィクトール・エミール・フランクルは、ユダヤ人の精神科医で、第二次世界大戦中、ナチスにより収容所に囚われるも生還、その体験を綴った「夜と霧」が有名ですが、ロゴセラピーという心理療法の創始者としても知られています。
「それでも人生にイエスと言う」の話に戻ると、フランクル博士は、国の過ちに対する国民の向き合い方として、個人として直接関与していない国の過ちについて、国の一員であるからといって「同罪」とされるべきではないが、国の一員として「共同責務」を負うべきとしています。
自分なりに噛み砕けば、自国が過去に過ちを犯したとしても、今の国民がその過去を自分の罪として恥じ、囚われる必要はないが、過去を踏まえて果たすべき責任はあるといったところでしょうか。
このため、国にどのような過去があろうとも、他者が、いたずらにその過去を持ち出して「同罪」と主張し、罪悪感を押し付けようとする姿勢を取った場合、それを拒否するのは正当なことでしょう。
一方で、過去から目を背け、過ちなどなかったように振る舞うことは、「共同責務」の放棄といえるでしょう。
気を付けるべきは、「罪悪感」を持つ必要はないということを盾に「共同責務」を放棄しようとすることや、「共同責務」を主張して「罪悪感」を持たせようとすることが、往々にして見受けられることです。
いずれも、邪な意図によるものと言わざるを得ません。
どんな人も、社会も、国も、その歴史に正負の両側面を持ち合わせているのでしょう。
その全てを受け入れてなお持つ誇りこそ、本当の自尊心や愛国心であるように思うのです。
(追伸)
先日、仕事で館林に行ってきました。
歴史ある街で、また、その郷土の歴史を愛している雰囲気が感じられ、何とも言えない心地よさがありました。



























































