参議院議員選挙が終わりました。
盛り上がりに欠ける中、与党が安定した議席を確保する一方、自民党は改選前よりも議席を減らずという、評価が難しい結果であるようにも感じます。
選挙前の記事ですが、印象に残ったものがあります。
「この貧困、自己責任だもの 格差認め自民支える若者たち」(朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM713DB4M71UTIL00C.html
端的に言えば、自民党政権の格差拡大につながる政策で苦境に陥っている人達が、自分で自己責任と捉えて自民党を支持する矛盾を指摘したものといえます。
自民党政権に批判的な朝日新聞社の記事のためか、論の運びがやや乱暴にも感じます。
しかし、上記の記事で示されている状況は、むしろ、記事が主張する以上に深刻な問題ではないでしょうか。
問題は、生活に困窮した市民が、自民党に投票することというよりも、自責にとらわれ、声を上げないこと、声を政治に届けないことにあるように思います。
確かに、選挙における投票は、議員を選ぶという意味で直線的に民意を政治に反映する手段ですが、それに限らず、投票という権利を背景にして、現政権に対応を迫るという間接的な民意反映の効果もあるといえるでしょう。
自民党に投票しつつ、格差拡大への対応を自民党に求めるという手段もあるべきなのです。
誰に投票するのか以前に、窮状を訴え、対応を求める声を上げる、それがなければ、何も始まりません。
なぜ、声が上がらないのか、よく言われる「どうせ何も変わらないという諦め」でしょうか。
それもあるかもしれません。
一方、もっと絶望的な可能性もあります。
近年、自身の窮状を訴え、声を上げてきた人達は、どうなったのでしょうか。
もっとも象徴的だったのは、窮状を訴えた、たった1人の女子高校生に対して、激しいバッシングが行われ、さらに、そのバッシングに国会議員までが加担したことでしょう。
この事例について、下記の記事は、社会の底が抜けたと言い表しています。
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/29965/
苦しい立場の人が声を上げれば、よってたかって叩かれ、傷付けられる。
そうなれば、苦しい立場の人には、①声を上げて他人から傷付けられるか、②声を上げずに自分で自分を傷付けるかの二択しか残されません。
確かに、有限な社会資源の中、全ての人を完璧に守ることは夢物語なのかもしれません。
しかし、最低限、自分の窮状を訴える権利は、自分を語る権利は、守られてしかるべきです。
自分を表現することより、他人を貶めることが優先されるのは倒錯でしかありません。
安心して自分を表現することが建設的な民主主義、健全な社会を作る最低条件ではないでしょうか。
(追伸)
この間、家族で軽井沢と草津を旅行しました。
娘は、なぜか草津の湯もみショーで大興奮でした。

























































