“迷い”と“願い”の街角で -12ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

参議院議員選挙が終わりました。
盛り上がりに欠ける中、与党が安定した議席を確保する一方、自民党は改選前よりも議席を減らずという、評価が難しい結果であるようにも感じます。

選挙前の記事ですが、印象に残ったものがあります。
「この貧困、自己責任だもの 格差認め自民支える若者たち」(朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM713DB4M71UTIL00C.html

端的に言えば、自民党政権の格差拡大につながる政策で苦境に陥っている人達が、自分で自己責任と捉えて自民党を支持する矛盾を指摘したものといえます。
自民党政権に批判的な朝日新聞社の記事のためか、論の運びがやや乱暴にも感じます。

しかし、上記の記事で示されている状況は、むしろ、記事が主張する以上に深刻な問題ではないでしょうか。
問題は、生活に困窮した市民が、自民党に投票することというよりも、自責にとらわれ、声を上げないこと、声を政治に届けないことにあるように思います。

確かに、選挙における投票は、議員を選ぶという意味で直線的に民意を政治に反映する手段ですが、それに限らず、投票という権利を背景にして、現政権に対応を迫るという間接的な民意反映の効果もあるといえるでしょう。
自民党に投票しつつ、格差拡大への対応を自民党に求めるという手段もあるべきなのです。

誰に投票するのか以前に、窮状を訴え、対応を求める声を上げる、それがなければ、何も始まりません。
なぜ、声が上がらないのか、よく言われる「どうせ何も変わらないという諦め」でしょうか。
それもあるかもしれません。

一方、もっと絶望的な可能性もあります。
近年、自身の窮状を訴え、声を上げてきた人達は、どうなったのでしょうか。
もっとも象徴的だったのは、窮状を訴えた、たった1人の女子高校生に対して、激しいバッシングが行われ、さらに、そのバッシングに国会議員までが加担したことでしょう。
この事例について、下記の記事は、社会の底が抜けたと言い表しています。
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/29965/

苦しい立場の人が声を上げれば、よってたかって叩かれ、傷付けられる。
そうなれば、苦しい立場の人には、①声を上げて他人から傷付けられるか、②声を上げずに自分で自分を傷付けるかの二択しか残されません。

確かに、有限な社会資源の中、全ての人を完璧に守ることは夢物語なのかもしれません。
しかし、最低限、自分の窮状を訴える権利は、自分を語る権利は、守られてしかるべきです。
自分を表現することより、他人を貶めることが優先されるのは倒錯でしかありません。
安心して自分を表現することが建設的な民主主義、健全な社会を作る最低条件ではないでしょうか。

(追伸)
この間、家族で軽井沢と草津を旅行しました。
娘は、なぜか草津の湯もみショーで大興奮でした。



体罰等の議論に当たって、必ず出てくる、全く理解できない意見があります。
「社会は理不尽に溢れているのだから、学校で理不尽を経験させることにも意味がある」というものです。

人間は弱さや醜さから逃れられない生き物であり、社会から理不尽を根絶することなど、確かに不可能かもしれません。
しかし、理こそが「あるべき姿」であることに変わりはなく、それを前提に、理不尽に向き合っていく必要があるはずです。

少なくとも、理不尽は積極的に肯定されるものでは決してありません。
社会での理不尽への耐性を付けさせたいならば、理不尽への対処方法を教えるべきであり、理不尽な目に遭わせるのは筋違いです。
社会での理不尽に耐えられるようにという理由で、学校で理不尽を推奨するのは、犯罪に遭わないようにとの目的の下、防犯を教えるのではなく、学校内での積極的な犯罪を推奨するようなものです。

このような背景には、日本に、あるべき社会を自分達が作るという意識が乏しいことがあるように感じます。
既定の社会が下賜されると認識すると、下賜される理不尽も仕方ないもので、変えられず、耐えて慣れるしかないものとなります。

可能な限り理が通る社会を皆で作っていく、参議院議員選挙の投票日が間もなくですが、投票もそのための手段の一つでしょう。

(追伸)
過日の雨上がり、綺麗なアーチ型の虹がかかっていました。







金融庁のワーキンググループによる報告書で「平均的な高齢夫婦の場合、毎月およそ5万円の赤字が続き、退職後の30年間でおよそ2000万円の不足が生じる」とされたことが波紋を広げています。
これについて、年金のみでは安心して老後を過ごせないことを問題視し、対策を求めるデモが行われましたが、デモ参加者に対して、ホリエモンこと実業家の堀江貴文氏が放った「税金泥棒め」という言葉が別の波紋を広げました。
なぜ、議員や公務員ではないデモへの参加が「税金泥棒」なのか理解に苦しみましたが、堀江氏は、「このデモに参加している奴の大半は実質的に納税している額より給付されている額の方が多いんだよ。それを税金泥棒って言ってんだ」と説明します。

到底賛同できる内容ではありません。
堀江氏の言葉が正しければ、この国の相当多数の庶民が「税金泥棒」という恥を背負って生きていかなければならないことになります。

しかし、これは本当に堀江氏のような限られた人間のみの考え方なのでしょうか。
生活保護受給者をはじめとした困窮者、障害者等も、税金で養われていると揶揄されることがありますが、この発想は堀江氏の考えと同じ方を向いたものと思います。

これを別の側面から見れば、困窮者等を揶揄する人達も、その多くは、堀江氏のような高所得者・高額納税者の立場からすれば、盗んでいる金額が違うだけの、五十歩百歩の「税金泥棒」ということになります。

この発想にどう向き合うべきでしょうか。
まさか、「自分は小泥棒で、生活保護受給者等の大泥棒よりはマシ」などというのは品を欠きすぎています。

そもそも、堀江氏の発想は、経済活動を含めた人間の営みが、社会を土台として成り立っているという視点が抜け落ちています。
皆が支え合う安定した社会があって初めて、競争による繁栄が成り立つといえるでしょう。
このため、社会の中での競争で大きな利益をえた人は、それに応じて社会に還元する必要があるでしょうし、安定した社会を破壊するような過当競争、格差による貧困は防がなければなりません。

社会的基盤は、当然に与えられているものではなく、皆で作り、維持していかなければなりませんが、国民が生活を脅かされず、可能な限り豊かな生活が確保されなければ、それは実現しません。
競争による勝利のみを至上視することは、競争の基盤を整え、競争を可能としている多数の人間の努力を見ない狭い視野に陥っているということではないでしょうか。
また、競争も自明に存在するのではなく、社会のシステムとして、その基盤が人為的に作られているということが忘れられてはいないでしょうか。

競争による勝利は、決してその勝者だけでは成り立ちません。
また、競争の基盤として、庶民の生活を支えることは、慈悲による施しではなく、社会を守ることです。
簡単には見えなくても、確かに存在する、つながりを、社会を、忘れずにいたいものです。

(追伸)
実家の石神井も、住んでいる前橋も、紫陽花が綺麗に咲いていました。







川崎市で20人が殺傷された事件は大きな衝撃でしたが、犯行後に自殺した犯人に対する「1人で死ねばいい」という糾弾をめぐり、賛否が大きく議論されることになりました。

議論のきっかけになったのは、NPOほっとプラスの代表理事である藤田孝典氏が「死にたいなら一人で死ぬべきという非難は控えてほしい」とネットニュースに投稿したことです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/

その趣旨は、暴力的な言葉が社会への絶望感や分断を招き、次の凶行を生みかねないというものでしたが、賛同する意見もある一方、1人で死ぬべきというのは正論であり、藤田氏の意見は、犯人を擁護するもの、被害者や遺族を傷つけるものとする非難も起きました。

どうにも、これらの応報には、違和感がありました。
どこか、議論がすれ違っているように思えたのです。
藤田氏は、犯人や犯行を非難するなと言っているわけではなく、「1人で死ねばいい」という言い方が、この事件に無関係な人間にも絶望を与え、かえって凶行に走らせかねないことに警鐘を鳴らしたものといえるでしょう。

犯人が責められるべきは、人を殺したことであり、その1点を糾弾すれば足ります。
その意味で、「1人で死ねばいい」という部分は余計であり、無関係な人に害を及ぼすならば、この言い方のみを控えることは可能であり、適切かと思います。
その点で、次の記事が注目されました。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64993

一方、他人を巻き込んで死ぬくらいなら、1人で死ねばいいと、そう思うのは自然なこととも思います。
そう発信した方々は、今回の犯人以外の誰かを傷つける意図を持っていたわけではないでしょう。
藤田氏も、そうした発言をした方々を悪者のようには言っていません。
様々な立場の意見・見解を共有・理解し、さらに考えを進める、そのための一石だったはずですが、直ちに非難合戦の炎上となってしまったことは、残念に感じます。

藤田氏は、犯人と同様に社会に恨みを持つ人への影響を危惧していましたが、そうではない、死にたいくらい苦しい中で生きている人にとって、「死にたいなら、勝手に死ね」「他人に迷惑をかけずに、1人で死ね」という言葉は凄まじい破壊力を持つように思うのです。
愛の反対は憎しみではなく無関心と言われますが、お前が死んでも関係ない、構わないという言葉は、無関心を突きつけるものといえるでしょう。
その言葉が犯人だけに向けられたものだとしても、社会に放たれた言葉の刃は、それに関係なく、広範囲を飛び交います。

また、「死ね」という言葉は、誰かを殺す行為と、程度は極めて大きく異なっても、同じ方を向いているようにも感じます。
人を殺すことが許されないのは、人の生命に価値を置いているからです。
その価値に立ち戻ったとき、その価値を守る視点から、この事件を見つめたとき、何ができるのか、すべきなのか、それを考えていく必要があるように思います。

(追伸)
6月になりましたね。
本当に日が長くなり、夜もなかなか真っ暗にはなりませんね。
紫陽花も咲き始めています。





かなり前に図書館で立ち読みした少年犯罪や非行に関する本の中に、強く記憶に残った箇所がありました。
対談の箇所でしたが、1人が「現場で実際に対応している担当者は、その問題について意見を公に言いづらい」としたのに対して、もう1人が「実際に対応している者が意見を言いづらいというのはおかしい」としていました。
詳細や前後の文脈は覚えていないのですが、大体このような感じだったと思います。

当事者ほど声を上げづらいという現実と、当事者こそ声を上げるべきとの意見、どちらも納得感のあるものでしたが、それにしても、なぜ当事者ほど声を上げづらいのか、不思議に思いました。
このため、記憶に残ったのでしょう。

その疑問について、何となく思い至ったことがありました。
自分たちが直面する現実の直視と対応に重きが置かれる社会では、当事者の声こそ重要ですが、理想論や精神論が好まれ、現実を無理にでもあるべき姿に合わせようとする社会では、現実から遠い人間ほど声高に物が言え、理想どおりにできない当事者が攻撃の対象になるのではないでしょうか。
その結果、攻撃の対象とならないよう、当事者ほどに口をつぐむようになるのではないかと感じたのです。

現実に直面していない、当事者でない人間が、現実を踏まえない「べき論」で当事者を追い詰める。
これは、すっかり市民権を得てしまった「自己責任論」の一面ではないでしょうか。

しかし、当事者ではない、すなわち、責任のない人々が当事者を追い詰める理屈が「自己責任論」というのは、ある意味でブラックジョークです。
ヴィクトール・フランクルは、その人にだけ、その時にだけ問われる課題に応えることが、人生の価値としていました。
それぞれの人生を尊重する、それができない社会は、無機質化と崩壊しか招かないのではないでしょうか。






東洋経済オンラインに目を引く記事がありました。
経営者が「うちは風通しがいい」と豪語しても、いつも声なき声を聞く努力をしていなければ、実際には風通しの良さとは程遠い、自称「風通しの良い職場」になってしまうというものです。
https://toyokeizai.net/articles/-/273731

この記事を読んで、思い出したことがあります。
森友学園問題で注目された前国税庁長官が、財務省内では部下に厳しく恐れられた一方で、税理士会の会報には「風通しの良さ」の重要性を説く寄稿をしていたことです。

上記について、報じたテレビでは、前国税庁長官の二面性を強調するように紹介していましたが、寄稿の中身をみると、全く印象が違いました。
うろ覚えですが、寄稿では、風通しの良さが重要とした上で、そのために、どんな小さなことであっても部下に報告させているとしていたのです。

どう思われるでしょうか。
些細なことについてまで、度々上司が部下を呼びつけ、細かく問い詰める。「風通しの良さ」とはむしろ真逆の「息苦しさ」しか感じ取れません。
「風通しが良い」とは、気兼ねのない自由なコミュニケーションが自然に組織内で図れており、組織が活性化していることを指すのでしょう。
「小さなことでも全て報告しろ」という命令が貫徹されれば、情報だけは共有されるかもしれませんが、部下は萎縮して、組織内の雰囲気は重苦しくなり、組織は活性化しません。また、そのような上司は、部下から警戒され、実際には情報はむしろ隠されがちになります。
これでは「風通しの良さ」ではなく、凍えるような「冷たい隙間風」です。

なぜ、極めて優秀なはずの前国税庁長官は、「風通しの良さ」について、このような常識外れの解釈をしたのでしょうか。
人の内心を安易に推測してはいけないのでしょうが、このことは、悪い意味で、彼が生粋のエリートであることをうかがわせます。
エリートの立場のみを自身の拠り所にしているが故に、エリートでない者の心情が全く実感として理解できない、端的にいえば、共感できないのではないでしょうか。

相手も同じ人間との前提に立たなければ、そもそも相手の立場に自身を置き換えて考えたり、感じたりする姿勢は生まれません。
立場は違えど同じ人間という信条を持てば、エリートでも非エリートに共感することはできますが、立場が人間の価値を決めるという信条を持てば、非エリートに共感することは決してできません。

日本のエリートが、非エリートに共感できない者ばかりになれば、どうなってしまうのか。
そのような人は少数派であることを祈るとともに、立場にかかわらず「人間」を大切にする社会であってほしいと改めて感じます。

道端などで咲く花々。無駄の一言で済ます無機質な社会では、かえって未来がないように思えます。






先日、実家に帰った際、気候の良さを味方に、午前中は光が丘公園で、午後は石神井公園で、「NHK「100分de名著」ブックス サン=テグジュペリ 星の王子さま」を読了しました。
妻の母が、私が「星の王子さま」が好きだと聞いて、プレゼントしてくれたものです。

「星の王子さま」は、サン=テグジュペリが込めた様々なメッセージがあることに加えて、読者によっても、色々な解釈がなされているように思えます。

特に印象に残ったのは、王子さまが、世界に1本だけと信じて愛したバラが、実際にはありふれたものだと分かり、愕然とするものの、そのバラのために費やした時間が、王子さまにとって、そのバラをかけがえのないものにしていたと気付くところ。
私は、自分にとっての価値は心が決めるという程度に理解していました。
しかし、今回読んだ解説書では、当初の思い込みの主観のみの状態から、客観的な価値を知り、その上で主観的な価値を再確認する過程が、まさに王子さまの成長という解釈がみられ、目から鱗でした。

自分という主観だけでなく、世界という客観の中で自分を失うことなく、世界という客観の中で自分の主観を大切にする。
このような複層的で深みのある人生観を持つことが、今の社会で求められている成熟のようにも思えます。

また、表面的なものにとらわれず、目に見えない他者の心を大切にすること。
それができるようになるための王子さまの成熟が描かれているといいますが、自分自身にできていたか、できているのか、胸に刺さりました。









先週末は、前橋から実家の石神井町に戻っていました。
石神井公園や石神井川の桜は、散り始めた終盤の見頃といった感じでした。
地元の桜をゆっくり見たのは何年ぶりでしょうか。

ところで、活動を再開した「いきものがかり」の「SING!」という歌の一部が心に残りました。

♪♪♪
街角ビジョンで流れるつらいニュース 誰か責める声
でも信号待ちの親子は 笑っていたよ ちゃんと手をつないで

優しさはきれいな絵空事じゃない
そうぼくらだって ためされてる
想いあうこと 投げ出さず 笑えてるかな
♪♪♪

絶望を感じずにいられない出来事、状況、人間の醜さ、不条理、そのようなものが確かに世の中に溢れています。
しかし、それにばかり目を奪われて、今そこにある温かさ、優しさ、希望といった大切なものを見失っては何にもなりません。
一方で、度々直面する醜さにもかかわらず、優しさを見失わずにいることは、思うほど簡単ではないのでしょう。
醜さの中で、優しさをきちんと見つめ、自身が優しくあること、それはまさに試されているのかもしれません。

満開の桜の下では、皆が笑顔でした。
今この時も笑顔を失っている人もいる、苦しんでいる人もいる、問題が山積の世の中なのは否定できませんし、忘れてもいけません。
それでも、今ここにある笑顔は大切にしなければならない、優しさがあることも忘れてはいけない、そうでなければ、笑顔や優しさを維持し、増やすことはできません。












苦しい境遇に追い詰められた者が、罪のない者に矛先を向けるような事件が度々発生しています。

事実関係は必ずしも明らかではありませんが、次の記事で取り上げられている三つ子の母親が生後11カ月の次男を死亡させた事件や渋谷の児童養護施設の施設長が刺殺された事件は、それに当たるのではないかと思われます。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00015/
https://maga9.jp/190306-2/

このような事件が発生したとき、犯人が犯行に至った経緯には相応の事情かあったとの分析がなされる一方、どのような事情があっても罪のない者を害することは許されないとの反論がなされがちです。

しかし、この2つの論の戦いに、あまり意味はないと思うのです。
なぜなら、この2つの論は、完全にとはいいませんが、両立し得るし、両立させなければならないからです。

犯罪には厳正に対処することは当然ですが、そのような状況に犯人を追い込んだ土壌を適格に把握・改善し、同様の犯罪を生まないようにすることも重要なことでしょう。
風邪への対処に例えるならば、かからないように予防することも、かかった場合に治療することも、どちらも必要かつ重要であり、予防と治療のどちらを選ぶのがなどと議論する意味はありません。

犯罪には厳正に対処しつつ、人間に寄り添う。まさに、罪を憎んで人を憎まずの姿勢こそ、社会を安定させるものと思います。

しかし、一部には、このような考えに賛同せず、加害者を叩き、加害者の事情を汲もうとする者を叩き、気に入らない言動をすれば、被害者さえも叩く力が跋扈しているように思えます。

彼らにとっては、犯罪を生み出す土壌の改善、犯罪の予防などどうでもよく、むしろ、憂さ晴らしに叩く標的として、加害者や被害者が増えた方がよいのでしょうか。

犯罪への対処は、重視すべき、かつ、ある意味相矛盾する様々な要素がある難しい作業ですが、不幸を減らし、社会の安定を図るには、これらの要素に正面から向き合わなければなりません。
憂さ晴らしのために不幸を量産すれば、むしろ犯罪の温床となります。これこそ、決して許されません。

ところで、先日、仕事の関係で、下仁田町を経由して上野村に行きました。
山深い場所で、日光ジャンボ機が墜落した御巣鷹山があることで有名です。
夜に露天風呂に入っていたら、イタチのような動物が近くを走り去りました。
なかなか得がたい経験ができたと思います。






「この度は部下がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。全ては上司である私の責任です。」
このように先方に詫びる上司について行きたいと思うでしょうか。

一見、部下思いで責任感があり潔い、理想の上司にも見えます。
しかし、上記の言葉だけで判断するのは早計と言えるでしょう。

例えば、上記の謝罪に至る経緯がこんなものだったら、どうでしょうか?

【ケース①】
上司Aは、取引先から依頼された販促キャンペーンの陣頭指揮を執っていました。
Aは、人手不足を見越して数人のアルバイトを採用していましたが、事前の説明が不足しており、アルバイトが何をしたらいいのか分からずに立ち往生し、部下であるBとCも、多忙を極めて手が回らなくなってしまった。
Aは、どうしてよいのが分からずに焦ってパニック状態となり、結局、十分なPRができないまま終了してしまった。
Aは、BとC、アルバイトを叱り飛ばし、取引先の担当者を訪ねると、上記の謝罪を口にした。

【ケース②】
部下Bは取引先と販促キャンペーンの実施について、打合せを重ねていた。
内容がほぼ固まった段階になって、それまでほぼ関与してしなかった上司Aが内容に注文を付け、部下Cに対応させると言った。
Bは仕方なく取引先を説得し、内容の変更について了承を得たが、AからCへの伝達が上手く行われておらず、当日になって、変更された内容が実施できなくなった。
Bは、それ以外の内容を拡大して実施したが、それは当初Bと取引先とで打ち合わせていた内容と大差なかった。
しかし、会場の様子を見に来たAは、自分が加えた内容が入っていないことに激怒し、取引先の担当者を訪ねると、上記の謝罪を口にした。

【後日談:ケース①②共通】
Aは、部下全員を集めて言った。
「今回はBとCの失態によって取引先に多大な迷惑をかけ、信頼を損なったが、自分が詫びたことで、何とか許してもらった。これ以上BとCを責めるつもりはない。BとC以外の社員も含めて、反省して今後努めてほしい。しかし、失敗を恐れる必要はない。何かあれば、今回のように自分が全て責任を取るので、安心してほしい。」

上記の例において、上司Aは、責任を引き受けるという本当の意味合いでの謝罪を行っていません。
問題を引き起こしたのはA自身であるにもかかわらず、実際の非は部下BとCにあるとこじつけた上で、形式的に責任を肩代わりするかのようなパフォーマンスをしたのです。
Aが本当に先方に送ったメッセージは、①落ち度があったのは部下であり、自分ではないこと、②自分は、それにもかかわらず部下の落ち度の責任を被る素晴らしい上司であること、です。
自分の過ちを部下に押し付けた上で、それを守るふりをしてみせるところに巧妙さがあります。

後日談も同様です。
Aは、自分に非があるにもかかかわらず、BとCを悪者にした上で、それを許す寛大な上司を演じています。
自分が迷惑をかけておきながら、むしろ自分が迷惑を被ったと声高に主張した上で、それを許してみせ、実質的な責任逃れをするだけでなく、全員に自分の心の広さをアピールし、BとCには貸しを作ったつもりでいるのでしょう。

Aのような振る舞いをする人間は、冷酷な策士にも思えるかもしれませんが、多くの場合、その演技や策略は雑なもので、おかしさに周囲も感付いています。
というのも、冷静な計算の上で策略を練ったわけではなく、ただ単に、自分に非があるという事実、その非を他人に押し付けたという事実を受け入れられずに必死にもがいているだけだからです。
本来の自分を認めたくないという思いが強いほど、演技は必死になり、かえって粗雑になり、自分の本来の醜い姿に気付いていないのは自分だけという状況にも至りかねません。

一方、付き合いの浅い人からは、その演技がかった態度に逆に魅力を感じることがあるため、注意が必要です。
特に、このような人が公募制で要職に抜擢されたりすると、悲劇を招きます。

青空のような自然な正直さを持ち、自分と他人を見る目を養いたいと思います。