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“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

若手の女性国際政治学者として注目されている三浦瑠璃氏が、平和のために徴兵制を導入すべきと主張しています。
https://bunshun.jp/articles/-/234

ただし、徴兵制で兵士を増やして、平和を守るための正義の戦争を行うという主張ではありません。
三浦氏の主張を簡単に言えば、戦争が起きたときの人的犠牲を国民誰しも平等に負担し得る仕組みとして徴兵制を導入すれば、無駄な戦争をしなくなるというものです。
戦争に至った場合に、自分や家族が徴兵されて命懸けの戦いをしなければならないと実感すれば、それに値しない戦争は避けるはずであり、むしろ、国民の多数が戦場に行くことがなく、ゆえに人的犠牲を忘れた状態にあると好戦的になるといいます。

自分ごととして実感できないものについて、安易に極端な意見を持ち、その民意が選挙等を介して実現されてしまうおそれがある。それは確かに、現在の民主主義の一つの問題を的確に捉えている一理ある意見だと思います。

しかし、徴兵制については、どうしても違和感があります。
三浦氏が言うように、徴兵制が戦争を抑制する効果を発揮するのか、突き詰めていくと、次のような点に疑問を感じます。

①徴兵制を経験あるいは意識した国民は、本当に戦争に抑制的になるのでしょうか。
三浦氏の主張の前提には、現実に戦争と向き合う軍隊は戦争に抑制的であるが、戦争を実感できない国民は好戦的となり、選挙で選ばれた代表者を通じて戦争に進んでしまうという考えがあります。
しかし、本当に軍隊は戦争に抑制的なのでしょうか。
組織は、当然ながら、その存在目的のために活動するものであり、軍隊の活動目的は戦争です。文民統制(シビリアンコントロール)は、軍隊が軍隊の論理だけで暴走することを防ぐために、非軍人が軍隊を統制する制度であり、そのような暴走を招いた過去の反省から導入されています。
この点、三浦氏が、国民と国民に選ばれた政治家が好戦的で、軍隊が戦争に抑制的と断じる根拠が今一つ分かりません。
軍隊が好戦的な姿勢を持っていれば、徴兵された国民は、その方針に従い、駒になるだけです。そして、そのような軍隊の意識に染まった国民が、戦争に抑制的になるでしょうか。

②徴兵制を経験あるいは意識した国民が戦争に抑制的になったとしても、それが選挙で選ばれた国会議員等を通じて国政に的確に反映されるのでしょうか。
小選挙区制等の選挙制度により民意が必ずしも的確に国会に反映されないという問題が指摘されている状況において、その点に不安を感じます。
実際、政府が、世論の反対の多かった安保法制を成立させ、世論以上に憲法9条の改正に積極的な姿勢を示しているところをみると、政府の防衛関係施策は、国民の意識よりも、ある意味では好戦的なものになっているようにも思えます。

そもそも、現在の軍隊は、兵士達が自分の意思で戦うようなファンタジックなものではありません。絶対的な上官の指揮命令下で冷徹に任務を遂行していくものです。
一時的にせよ、国民が、内閣総理大臣を頂点とした軍隊組織の末端に位置づけられ、徹底的な指揮命令下に置かれるというのは、国民主権となじむのでしょうか。

三浦氏の主張は、一面において意義あるものですが、全面的に賛成するには、乱暴なものに思えます。

写真は夜の前橋市。昼と夜の景色は全く異なり、その多様な面を包含して見る姿勢を持ちたいものです。



この記事にあるように、未熟な大人が問題を引き起こす例が増えているという話をよく耳にします。
https://ameblo.jp/dekkaiossan9/entry-12442877654.html

そのような例が実際に増えているのか、それを確かめるのは難しいでしょう。
昔から問題はあったものの顕在化していなかったり、今の問題に目を取られて、過去を美化したりという可能性も否定できません。
ただし、身近な経験を踏まえても、感覚的には増えてきたような気がします。

インターネットでの炎上、バッシング、パワーハラスメント、悪質クレーム、虐待、最近問題視されるこれらの事柄に共通しているのは、匿名性や上下関係など、自分は傷付かないまま他人を攻撃できる一方通行の関係を利用していることではないでしょうか。

一方通行の関係が用意されていると、負の感情を抱いた場合に、その関係を利用して、負の感情を怒りに転化し、安易に他者にぶつけるようになるように感じます。
負の感情を抱いた際に、安易に他者に責任転嫁していると、自分に向き合うことができなくなります。

自分と対話し、掘り下げることができない、自分のことすら理解できない、理解しようとしない、そのような状態では、他人の立場を理解し、心に共感することなど、できるはずがありません。

恐ろしいのは、自分にも他人にも向き合えないことは、伝染病のように拡大していくことではないかと思うのです。
というのも、自分に向き合わずに他人を攻撃する人が一定数いる場合、それに対する他人の反応は、大きく分けて、①反抗、②同調、③沈黙といったところかと思います。

①反抗した他人には徹底的な攻撃が行われ、攻撃欲求を潜在的に持った者は、攻撃欲求を解放してもよいとお墨付きを得て、②同調して攻撃を開始します。
②同調に与しない者も、①反抗した人が受ける仕打ちを見て、自分が標的になる恐れから、③沈黙を選びます。
自分にも他人にも向き合えない浅薄な攻撃欲求が増殖する一方、抗う者は徹底的に叩き潰され、残る者は黙って自分の心を封印します。

そして、人間に真剣に向き合う人は誰もいなくなった……それは、最悪の結末というべきでしょう。
それでも、人間は、人間らしさを望み、そこに希望を見出そうとするのではないかとも思います。
人間である限り、温かさは消えないと信じたいところです。

今日は暖かかったですね。もうすぐ花が咲き誇る季節がやってきそうです。






過労死、過労自殺の問題を社会に再認識させた事件として、平成27年12月に広告代理店「電通」の新入社員が自ら命を絶ったことが思い起こされます。
ついこの間のことと思いましたが、3年以上が経過するのですね。

決して十分とはいえませんが、過労死や過労自殺を防ぐための取組が必要との意識は、広がりをみせているのではないでしょうか。

上記の社員が自殺した背景には、長時間労働に加えて、上司によるパワーハラスメントが指摘されています。
上司による発言として、当時、私が大きな衝撃を受けたのは「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」というものです。
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1715254/

捉え方にもよると思いますが、私自身は、これほど破壊的な言葉を知りません。

パワーハラスメントとしては、過重労働の無理強いや人格否定が代表的ですが、それを一面において凌駕していると思うのです。
その一面というのは、頑張りを強制する一方で、その頑張りを否定していることです。

命を削って頑張らざるを得ない状況に追い込まれているにもかかわらず、その頑張りを悪とされたら、一体、どうしたらいいのでしょうか。
気力を振り絞って耐えている状態で、その気力に対して攻撃を加えられたら、どうなるでしょうか。
何もできない、身の置き場がない、前に進めず、後に戻れず、立ち止まることも許されない、それは、存在そのものが脅かされる状態ではないでしょうか。
例えるならば、自動車のアクセスとブレーキを同時に最大限まで踏み込んだり、乗馬中に、手綱を力一杯引きながら、鞭で滅多打ちにするというあたりかもしれません。

パワーハラスメントによる「支配」や「抑圧」は多々ありますが、本件の言葉には、それを超えた「破壊」の力を感じるのです。
人間のおぞましさを改めて思い知った気がします。

写真は、石神井公園のボート池沿いの道と三宝寺池。無力ながら、青い空に願いを込めて。


東京オリンピック・パラリンピックが、まだまだ先だと思っていましたが、もう来年に迫っています。

この東京オリンピック等の運営に当たりボランティアの募集が行われましたが、その際に、負担が大きいにもかかわらず無償であることへの批判がなされる一方、本人が納得していれば差し支えなく、参加に価値があるとの反論もなされました。

私自身、昨年まで、12年間ボランティア活動を行い、うち6年間は団体を主宰していました。
その経験から、ボランティアによる行事等の運営を簡単に考えてはいけないと思っています。

東京オリンピック等のボランティア募集の内容や条件に感じたのは、ボランティアを単なる「無償の労働力」とみているのではないかという不安や危惧です。

自発的な意思に基づいて行われるのがボランティアであり、このことは、応募時だけでなく、活動全般に当てはまると思います。
その一方で、多数の人間が関係する活動においては、ボランティアといえども、他者に迷惑をかけないよう、一定の責任を負うことになります。
主宰者は、この自発性と責任のバランスを図る必要があり、これこそがボランティアの力を借りることの難しさではないでしょうか。

私も、ボランティア団体を主宰していたとき、活動先への責任と、ボランティアスタッフの自発性のバランスを図ることに悩みました。
そして、実際には、自発性を超えた負担を強いてしまったのではないかという思いを持っています。
その点、大変申し訳なく感じています。

これからの公的な取組について語られるとき、NPOとの協働、ボランティアの活用という言葉がよく聞かれるようになったのではないでしょうか。
これらは決して間違っていません。市民の自発的な熱意をコーディネートして、大きな力にできれば、本当に素晴らしいことだと思います。

しかし、自発性を損なわずにコーディネートすることは、そうそう簡単なことではありません。
バランスを失すれば、自発性が損なわれ、ボランティアが雲散霧消し、行事が崩壊するか、責任感のみに働きかけた、無償の強制労働になるかという帰結も考えられます。

また、繰り返しになりますが、自発性は、活動全般にわたって尊重されるべきです。
応募さえあれば、あとは「自発的に応募したのだから」という理由で、何があっても責任を果たせ、指示に従えという姿勢でボランティアを動かすことは誤りです。

日本の社会は、どうしても「人間の自由な意思」の価値を軽んじているように思えてしまいます。
そのような中での、東京オリンピック・パラリンピックという一大イベントへのボランティアの活用に、不安を感じます。
関わる人達の自発的な熱意が損なわれないままに、成功へとつながるよう祈るばかりです。

花がだんだんと多く見られるようになってきました。人間も、自然の開花が最も適しているのではないかと思います。



電車で前橋を出発、さいたま市で仕事を終わらせて、実家の練馬区を訪れました。

ちょうど出身高校の同窓会の理事会があり、懐かしくもあったため、参加してきました。
卒業後に中高一貫校となり、かつては私服であることが自由な校風の象徴でしたが、制服もでき、校舎も建て替えられました。
このように、何もかもが変わっても、それでも懐かしさ、感慨深さがあります。

私にとって、中学後半以降は本当に楽しい生徒・学生時代でしたが、その前は必ずしも、楽しいばかりではありませんでした。

陰湿な「いじめ」を受けていたわけではありませんでしたが、「叩き」や「いじり」の対象とされることが多く、日常に「つらさ」があるのが普通といったところでした。

次の記事で触れられている「黙っていても、声を上げてもバッシングされる」という理不尽への悔しさは、私だけでなく、少しでも似た体験をした人は痛いくらい分かるのではないでしょうか。
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/31862/

何を言っても揚げ足を取られて叩かれ、何も言わなければ好き放題に叩かれる。
叩きやすい人間を、立場や力関係を背景に、ただただ叩く。
「お前はただ叩かれてりゃいいんだよ!」という相手を人間視しない、むき出しの攻撃性を帯びたメッセージがそこにあります。

ところで、日常的に「つらさ」があったその時代、それでも、私にはその時代がいい思い出として記憶されています。
それは、先生に恵まれ、「いじり」や「叩き」を行うクラスメート以外に、仲のよい友人も多くいたためだと思います。
最近のいじめの事件で、クラスで完全に孤立し、先生までが助長したという話を聞くと、背筋が寒くなります。

人の醜さ、弱さは消せないとしても、それに向き合い、傷付く人に寄り添える社会であってほしいと、切に願います。

前橋を出発し、地元へ。


近くの公園を散歩すると、遠くに春の足音も感じるようでした。広がる青空にも、ほのかな暖かみがあるようです。凍える冬の向こう側に、うららかな春が待っていますように。







大人になった人が児童虐待を非難するのはなぜか、まだ若い人が高齢者虐待を非難するのはなぜか。
誰もがかつては子供であり、誰もがいずれは高齢者だから。
それも正しいでしょうが、ただ、それだけでしょうか。

男性が女性差別を非難し、健常者が障害者差別を非難し、性的マジョリティがLGBT差別を非難し、日本人が外国人差別を非難するのはなぜでしょうか。
一部には、上記のような非難に対して、「誰かを非難したいがための詭弁」「外野は黙れ」との反論がなされますが、そうなのでしょうか。

様々な差別は、人間が人間として持つべき尊厳を侵害されているという点で共通しています。
女性だから、障害者だから、外国人だからというのは、差別のきっかけにすぎません。
差別のきっかけが何であれ、危機に瀕しているのは誰もが有すべき人間の尊厳に変わりはないはずです。

自分が属していないマイノリティに向けられた差別だからといって黙認すれば、人権侵害のハードル自体が下がっていってしまうのではないでしょうか。

様々な属性の奥で共通する「人間」を掘り下げて、考え抜かない限り、人間の尊厳は守れず、人間の幸せも理解できなくなってしまうように思います。

写真は、前橋駅前のイルミネーション。


人はそれぞれ遺伝子という重いものを持って生まれてきて、さらにその上に人生という重いものを積み重ねていきます。

このため、人が自分と同じように考え、感じ、喜ぶとは限りません。
自分が自分の経験から形作ってきた物差しを、そのまま他者に当てはめることはできません。

他者の自分とは違う物差しに触れ、それを理解・共感すれば、自分の物差しを広げることになるでしょう。
逆に、物差しの違いに気付かずに、意図せず、傷つけたり、傷つけられたりすることもあります。
そのようなときでも、最後に理解し合えたら、物差しを互いに大きく広がったと感謝し合えたら、難しいかもしれませんが、理想的だと思います。

自分と同じと思い込むのは危ういですが、自分と違うと思い込むのは、もっと危ういことです。
自分がされて嫌なことも、相手は嫌ではないはず、自分が言われて傷付くことも、相手は傷付かないはずと勝手に断じることは絶対に避けるべきでしょう。

ところで、今日は太田市(群馬県)まで行ってきました。

出迎えてくれたのは、「おおたん」と新田義貞公。


山々に夕日が沈んでいきました。

またかという印象ですが、麻生太郎財務大臣の発言が問題視されています。
「年寄りが悪いみたいなことを言う変なのがいっぱいいるけど、それは間違いだ。子供を産まなかった方が問題なんだから」というものです。

これについて、麻生大臣は、撤回・謝罪したとのことですが、その内容は次のとおりです。
「産める産めないの話じゃなく、産まなくなっちゃったという事実があるという話をしただけ。それを一部女性の方が、私は産みたいけど産めなかったって話にとられかねない話だって言って不快に思われるんなら、おわび申し上げます」

いかがでしょう。これを謝罪というのでしょうか。
むしろ、間違ったことは言っておらず、少数の人間が騒いでるだけだが、そんなに言うなら謝ってやるよというニュアンスにしか受け取れません。

少子化こそが社会保障の脅威であり、長寿が問題ではない。そのことに疑いはありません。誰も、それが間違いなどとは言っていないのです。
間違いなのは、少子化の責任を個々人に帰しているところであり、そこに、人権の軽視と国の責任放棄という双方の問題がみられるのです。

自分で自分を助ける「自助」、社会で互いに助け合う「共助」、国などの公的機関が助ける「公助」という言葉があります。
災害に関して使われますが、災害に限らず、これらのバランスを図ることが、人々の幸せに不可欠と思います。

しかし、昨今、公助は削減される傾向があります。代表的な例は、生活保護費の引き下げでしょう。
さらに、それと絡み合うように、生活保護受給者等の弱者に対するバッシングが生じています。
バッシングによる社会の分断は、共助さえも破壊していくことになるでしょう。

権力者の意に沿わなそうな人々に対して、常軌を逸した卑劣な嫌がらせが行われる例が後を絶ちません。
権力者としては、心強い民間特高警察なのかもしれません。勝手に忖度して、公には行使できない手段で、邪魔者を徹底的に痛めつけてくれるのですから。
日頃の鬱憤を晴らしたい人々にとっても、権力者の後ろ盾、といっても、勝手な思い込みに近いですが、それがあれば安心して攻撃できます。特に、相手が弱ければ弱いほど。
現在、大臣となってある種の話題を提供している女性議員と、一部のインターネット利用者が、NHKの貧困に関する番組で紹介された女子高校生を執拗にバッシングしたのは、今考えても、あまりにも醜悪でした。

与党の総裁は、自分に反対する人々を「あんな人たち」と呼び、与党の比例代表1位で当選した議員は、特定の属性の人々を「生産性がない」と言い、前述の大臣は、女子高校生だけでなく生活保護受給者の母親を扶養しなかった芸能人も名指しで執拗につるし上げました。
彼らは、指導者になりたいのではなく、支配者になりたいのかもしれません。
指導者は他者と共にあり、共栄を目指しますが、支配者は選良を自負し、他者には利用価値が残る程度の弱体化を望みます。
「平家にあらずんば、人にあらず」
「生かさず殺さず」
そのような言葉さえ連想させます。

そして、選良を自負する人達は、パンドラの箱を開けようとしているのかもしれません。
パンドラの箱から出たものは、一面の真実を照らします。
憲法で保障された国民主権や人権、地位に伴い守るべきモラル、それらは幻想に過ぎないということ。
ただただ、強者が弱者を支配するのみということ。
それを思い知らせ、無力であることを他者に理解させれば、もはや何も面倒なことはありません。

彼らは、パンドラの箱には、何も残っていないと思うかもしれません。残っている「希望」は、彼らの目には見えません。
憲法やモラルが幻想でも、人間は本質的な真善美を有しているはずです。
幻想はそのままでは幻想ですが、人間性の裏打ちを得たときに実体化するのではないでしょうか。
そのような人間に備わる真善美を、彼らは理解できないことでしょう。理解できていたら、今の絶望はないはずです。

国家がなければ人間は生活できないのだから、国家は人に優先すると言う人もいます。
しかし、国破れて山河あり、人もあり、希望もそこにあるはずです。
ただ、多大な犠牲を払って国が破れる前に、希望を取り戻したいものです。

写真は赤城山と利根川、まさに山河ありです。

テニスの全豪オープン女子シングルスで大坂なおみ選手が優勝し、日本勢としては初の世界ランキング1位となることが決まりました。

大坂なおみ選手については、ハイチ出身の父と日本人の母を持ち、3歳で米国に渡り、日米の二重国籍保有者であることから、「日本人と言えるのか」という声と、その声に偏狭さを訴える声が上がりました。

これについて、次のような記事が産経新聞に掲載されました。
https://www.sankei.com/column/news/190131/clm1901310004-n1.html

筆者は、記事の中で「違和感」という言葉を繰り返し使いますが、むしろ、この筆者の主張にこそ、強い違和感を覚えます。

筆者は、日本在住の外国人識者が、日本社会の排外主義、「ハーフ」への差別や偏見を批判したことについて、①大坂なおみ選手は3歳で渡米したので、日本国内で差別とは無縁なので、ステレオタイプで時代遅れの日本社会批判であり、②差別や偏見はどの国でも見られ、欧米や中東の方が酷い迫害が行われており、日本だけを批判することは筋違いとします。
結論ありきだからでしょうか、全くかみ合っていません。
日本在住の外国人が、肌で感じる問題を訴えることは自然なことで、欧米や中東の方が問題が酷いのに、日本を批判することがおかしいとはいえないでしょう。
また、大坂なおみ選手自身が差別や偏見にさらされたかとは別に、彼らは、そのような社会の雰囲気に問題を感じたのではないでしょうか。日本に住む外国人等にとって、それは十分大きな問題と思います。
そもそも、日本の社会に問題があり、苦しむ人がいるにもかかわらず、他の国の方が酷いということは、何の言い訳にもならないように思います。

さらに、この記事では、大坂なおみ選手が相手選手の健闘を讃えたことを賞賛します。それはいいのですが、その謙虚さを、日本人のみが持ち得る美徳かのように断じ、渡米する3歳までに身に付けたはずという、にわかには信じがたい論を展開し、これまでの他国のチャンピオンを自己中心的、陳腐とまで貶します。そして、「両者を比べればどちらが美しいかは一目瞭然だろう」と。

筆者は、日本社会批判をステレオタイプとしますが、筆者の考えこそ、ステレオタイプに思えます。
また、筆者は、日本の美徳としての謙虚さを賞賛しますが、この記事には謙虚さを全く感じられません。

日本の一員である大坂なおみ選手が快挙を成し遂げ、さらに、その人柄が賞賛された。それだけを喜ぶので何が悪いのでしょうか、何が足りないのでしょうか。
ことさらに他国や他者と比べることが本当に必要なのでしょうか。

先日、職場近くの前橋公園で、綺麗な梅の花が開いていました。
これについて、「この花の色は赤か? ピンクか?」、「この梅と近くの桜はどちらが綺麗か?」などと議論するのは野暮なことでしょう。
その花をただ見つめることが、その花の綺麗さを最も感じる方法だと思うのです。



「お人好し」という言葉がありますが、あまりいい意味では使われません。
性格が良すぎることに加えて、少し抜けているというニュアンスが込められているのでしょうか。

特に、昨今の厳しい競争社会では、侮蔑の言葉として使われがちです。
さらに、「お人好し」ゆえに不利益を被った人に対しては、被害者にもかかわらず、自業自得、自己責任とバッシングさえも行われます。

それでは皆が疑心暗鬼になり合えばいいのでしょうか。
もちろん、そんなことでは社会は成り立たないでしょう。

人は、宿命として、善と悪、強さと弱さ、美しさと醜さを併せ持っているのでしょう。
どちらも、否定すべきでない、というよりも、否定しようがないものと思います。
そのような意味で、「渡る世間に鬼はなし」も、「人を見たら泥棒と思え」も、一面では正しく、また、一面的にしか正しくないのでしょう。

疑心暗鬼は、相手の正の部分を裏切ります。
一方で、お人好しは、相手の負の部分を無視します。
いずれにしても、相手の一部を切り捨てているといえるのかもしれません。

相手の強さを信じ、弱さを受け入れること、確固たる意志でバランスを取ることが重要なのではないでしょうか。
決して容易なことてはないでしょうが、極端という易きに流れないよう、向き合っていきたいと思うのです。



遙か昔から流れる石神井川。人の強さも弱さも、見続けてきたのでしょう。