今年も、あと少しで終わりますね。
皆様にとっては、どのような年だったでしょうか。
平成28年10月に生まれた娘も、もう2歳になり、時の流れの速さを感じます。
毎日一緒にいると、なかなか気付きませんが、いつの間にか成長しているものですね。
一転、社会に目を転じると、娘が成長して生きていく未来を心配せずにはいられない気持ちになります。
陰湿に他人を攻撃したり、いじめたり、そのようなことが、堂々と、大手を振って、開き直って行われるような1年だったという気がしてなりません。
一部の醜悪な差別や中傷は、愛国や伝統など、美辞麗句を都合よくつまみ食いして正当化されました。
郷土愛や伝統は、もはや、他人を醜く攻撃する口実として、その肝心な中身は置いてきぼりになったかのようです。
郷土愛や伝統とは何なのか、その捉え方は人によって異なるでしょう。
私は、自分の足元に積み重なった先人達の営みを大切にすることではないかと考えています。
ところで、私の実家のある石神井は、かつて、東京周辺を勢力下としていた豊島氏の本拠地として、石神井城が置かれていました。
この豊島氏の発祥は平安時代である11世紀に遡り、その発祥の地は現在の北区でしたが、14世紀末頃に石神井を本拠地としたようです。
石神井城は、現在の都立石神井公園内の三宝寺池の南側の高台にあり、北側は天然の崖、他の三方は土塁と空堀を巡らせて防御されていました。
その後、豊島氏は江戸城主であった太田道灌と対立、戦に敗れ、1477年に石神井城を攻め落とされます。
石神井城落城の際、城主であった豊島泰経は家宝の黄金の鞍を愛馬に付けて、三宝寺池に入水、娘の照姫も後を追ったという伝説がありますが、実際には、泰経は他に逃れており、照姫は実在しなかったというのが通説のようです。
身近なところにも、遠い昔から命を咲かせ散らした人の営みの痕跡があるものです。
そのような長い長い歴史の中で、多くの人が積み重ねた営みの上に、それを受け継ぐように、私達は生きています。
そのような重ねられる人の営みこそ歴史、伝統であり、今を生きる全ての人間が、歴史や伝統を体現しているのではないでしょうか。
歴史や伝統を大切にした先に見えるのは、それぞれのルーツを持って生きる全ての人間の重要性であるように思えます。
そうであるならば、歴史や伝統を他人の排除や攻撃の名目とするなど、大きな矛盾です。
遠い昔、日本人同士が殺し合っていた時代もありました。
そのような中でも、人それぞれに、懸命に生きたことでしょう。
国際情勢は不安定ではありますが、それでも、もはや日本人同士が戦争をすることなどない世の中となりました。
計り知れないほど多くの人達の喜怒哀楽に彩られた人生、それが積み重なった今という時代の重さ、そこで生きる人達の尊さを感じていたいと思います。
三宝寺池①:かつては豊富な湧水で知られていましたが、現在は枯れてしまい、地下水を組み上げ池を満たしています。
三宝寺池②
石神井城跡のモニュメント:後ろの石垣はモニュメントの一部で、石神井城に石垣はありませんでした。
石神井城跡の土塁と空堀
姫塚:照姫の供養のために造られたといわれていますが、上記のとおり照姫は実在しないとするのが通説です。三宝寺池の名の由来となった三宝寺住職の照日上人の墓という説もありますが、実際のところは判然としません。
氷川神社:子供の頃から初詣などに訪れていましたが、豊島氏が石神井城内に創建したもので、歴史があります。
石燈籠:氷川神社内にあり、江戸時代に、豊島氏の末裔とされる豊島泰盈・泰音親子が奉納したとされています。
石神井池①:レンタルボートで漕ぎ出せるため、ボート池とも呼ばれています。自然にできた池ではなく、三宝寺池から石神井川に流れ込む水をせき止めて人工的に造られたものです。
石神井池②
アドラー心理学は、岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」で一躍有名になったように思います。
そのアドラー心理学では、「課題の分離」が重要とされています。つまり、自分と他人との間に境界線を引き、自分が操作できる自分の境界線内の課題にのみ取り組む一方、他人の境界線内の課題は他人に任せるべきというものです。
これは、心理学上の概念ですが、法学でいう「人権」と、どこか相通じるところがあるように感じました。
憲法は、人が当然に有する正当な権利を「人権」として保障していますが、まさにこれは、他人の境界線内のことに不当に干渉することを禁じているという見方もできるように思うのです。自分が、自分の自由な判断と責任で取り組むべきことに取り組めること、それこそが、人が人として生きていくために必要で正当な権利といえるのではないでしょうか。
そう捉えるならば、人権を正しく認識するには、人間として取り組むべき課題や境界線について、ひいては、人間そのものへの深い理解が必要となります。そうでなければ、何が人権として守られるべきか、何をすれば人権の侵害となるのか適切に判断できず、簡単に人権を侵害してしまう一方で、人権とも呼べないようなものを「人権」と主張し傍若無人に振る舞うことを許してしまうことになります。
その極致ともいえるような主張が、いじめや差別の問題が取り上げられた際に耳にする、「いじめるのは俺の権利」「俺には差別する自由がある」というようなものだと思います。いじめや差別は、他人の境界線に土足で踏み込む行為です。だからこそ人権の侵害であり、そのような行為が人権として保障されるはずもありません。
最近では、『新潮45』10月号の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」で、文芸評論家の小川榮太郎氏が、LGBTに対する差別的な寄稿を寄せた自民党の杉田水脈議員を擁護する主張をしており、その中で、「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」との醜悪な内容を書いています。
http://news.livedoor.com/article/detail/15324006/
まさに、自分が気に入らない他人を一方的に否定し、その存在が自分の人権を侵害すると主張して、他人の人権に攻撃を仕掛ける、あまりに倒錯した行為です。
人と向き合い、尊重し、共感する。そのような意識を持てば、人権は自然な形で理解できるものだと思います。一方で、そのような人として人に相対する姿勢を忘れ、捨ててしまったのであれば、人権を語る資格などありません。









