“迷い”と“願い”の街角で -14ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「素直」であるとは、いいことなのでしょうか。
これに悪い印象を持つとすれば、「従順」に近い意味で捉えているからかもしれません。

「素直」を「純粋」や「誠実」に近い趣旨で捉えるならば、いい意味で理解できるでしょう。
「従順」が、自分に嘘をついてでも、他人に迎合することならば、ひょっとしたら、「素直」と「従順」は対極にあるとさえいえるかもしれません。

「従順であれ」と言われることはまずないですが、「素直であれ」と言われることはあります。
ただし、「素直」という皮を被せて「従順」を求められる場合があることには注意が必要でしょう。

盲目的に従順であり続けると、ものの味方は歪み、真実は見えなくなってしまうのではないでしょうか。
「ポストは青い」「カラスは白い」というような欺瞞に満ちた強者の言葉を従順に受け入れているうちに、ありのままの現実が分からなくなってしまうことあるのでしょう。

素直な人は、ありのままの現実を直視して、真実を感じ取れます。
小手先の詭弁に違和感を抱くことで、欺瞞に騙されずにいることができるでしょう。

ありのままの現実を受け入れる強さが素直であることに必要ならば、弱さゆえの従順とは、やはり対極にあるように思えます。

全てを明るく鮮明に、可能な限り美しく見せる青空のような素直さを目指したいところです。

石神井公園の石神井池(ボート池)
かつての日本は、滅私奉公すれば、生活の安泰が保証されました。
辛く、苦しい思いをしても、一面では見返りがありました。
また、そのような権力に反発しても、報われないという程度で済んだのかもしれません。

しかし、そのような時代は終わりを告げました。
滅私奉公が必ずしも生活の安泰を保証されるわけではなくなりました。
それは一面で非常に厳しいことであると同時に、これまでの「与える支配」から抜け出し、人間的な生き方を取り戻す動きにつながっているようにも思えます。
そのような意味で、いい転換点にもなり得るのだろうと感じます。

しかし、それとは別の動きもまた現れているのではないでしょうか。
滅私奉公しなければ、今の生活も奪ってやるぞというような、「奪う支配」です。
今のパワハラ、セクハラの蔓延や、やりがい搾取、名ばかり管理職などの問題は、立場の弱い労働者の尊厳、精神、生活、生命を人質に取り、奪うぞ、奪うぞと脅しながら支配している動きのように思えてなりません。

「奪う支配」は「与える支配」と違い、自分の懐を痛めません。
さらに、「与える支配」よりも、さらに優越感や全能感を刺激されるのではないでしょうか。

経済が縮小する中で、個々の企業だけでなく、社会や国までが、「奪う支配」に酔い始めているのではないかと不安になります。

「与える支配」で支配された人は、不満を感じつつも、与えられた余裕を他者と分かち合えたかもしれません。
しかし、「奪う支配」で支配された人は、誰かと分かち合うものはありません。さらに奪われまいと、疑心暗鬼になるでしょう。

支配・被支配関係によらない、新たな取組・活力が、様々な地域で生まれているのも事実だと思います。
これらの活力の広がりと、「奪う支配」による疲弊の蔓延との競争が激化していくのかもしれません。
それは、未来を賭けた競争になるのでしょう。
人間誰しも、大なり小なり嘘をつくものです。
また、嘘が上手い人もいれば、下手な人もいます。

では、嘘を上手くつくには、どうしたらいいのでしょうか。
昔、田村正和さん主演の「警部補 古畑任三郎」で、全てを嘘で塗り固めず、本当のことを織り交ぜながら嘘をつくとばれにくく、そのような意味で、正直者ほど嘘が上手いというような話があり、一理ありそうです。
また、敵を欺くにはまず味方からという言葉もあります。嘘と自覚しない嘘を他人につかせるということでしょうか。それでも、まず味方をどのように騙すかという問題があります。

個人的な経験で、容易に嘘と分からない嘘をつく人と何回か出会いました。
共通するのは、本人自身が自分の嘘を信じているような状態にあったことです。
厳密には、嘘とはいえないのかもしれません。少なくとも、意識的には、自分が嘘をついているという自覚がないのですから。
他人を欺くにはまず自分から、といったところでしょうか。
 
見たいものしか見ず、聴きたいものしか聴かず、現実をありのままに受け入れずに、曲解し、それをまず自分自身に信じ込ませます。
傷付きたくない一心で、半ば無意識でやっているのでしょう。

本人に嘘をついている自覚がないのですから、その態度に不自然さはありません。
ただ、よくよく聴くと、内容に矛盾があったりします。
しかし、本人に自覚がない以上、矛盾を指摘しても、認めようがありません。
自分でも気付かないように、本音を心の底に押し隠し、自分自身で信じ込ませた嘘を主張し続けます。

話し合おうにも、相手は本音を押し隠しているので、話し合いが成立しません。
表面の嘘を指摘しても、言い訳に言い訳を重ねるだけで核心に迫れず、不毛なやり取りが続きます。
本音を押し隠して生きる人が社会に増えたとき、建設的な議論や人間関係の構築は期待できなくなり、不毛な争いばかりが溢れることでしょう。

各人が自分に正直に、その前提として自分に優しくあることが重要ではないでしょうか。
自分にも、他人にも寛容さをなくした社会は、瓦解にしか向かわないように思います。

今年も、あと少しで終わりますね。
皆様にとっては、どのような年だったでしょうか。

平成28年10月に生まれた娘も、もう2歳になり、時の流れの速さを感じます。
毎日一緒にいると、なかなか気付きませんが、いつの間にか成長しているものですね。

一転、社会に目を転じると、娘が成長して生きていく未来を心配せずにはいられない気持ちになります。
陰湿に他人を攻撃したり、いじめたり、そのようなことが、堂々と、大手を振って、開き直って行われるような1年だったという気がしてなりません。

一部の醜悪な差別や中傷は、愛国や伝統など、美辞麗句を都合よくつまみ食いして正当化されました。
郷土愛や伝統は、もはや、他人を醜く攻撃する口実として、その肝心な中身は置いてきぼりになったかのようです。

郷土愛や伝統とは何なのか、その捉え方は人によって異なるでしょう。
私は、自分の足元に積み重なった先人達の営みを大切にすることではないかと考えています。

ところで、私の実家のある石神井は、かつて、東京周辺を勢力下としていた豊島氏の本拠地として、石神井城が置かれていました。
この豊島氏の発祥は平安時代である11世紀に遡り、その発祥の地は現在の北区でしたが、14世紀末頃に石神井を本拠地としたようです。
石神井城は、現在の都立石神井公園内の三宝寺池の南側の高台にあり、北側は天然の崖、他の三方は土塁と空堀を巡らせて防御されていました。

その後、豊島氏は江戸城主であった太田道灌と対立、戦に敗れ、1477年に石神井城を攻め落とされます。
石神井城落城の際、城主であった豊島泰経は家宝の黄金の鞍を愛馬に付けて、三宝寺池に入水、娘の照姫も後を追ったという伝説がありますが、実際には、泰経は他に逃れており、照姫は実在しなかったというのが通説のようです。

身近なところにも、遠い昔から命を咲かせ散らした人の営みの痕跡があるものです。
そのような長い長い歴史の中で、多くの人が積み重ねた営みの上に、それを受け継ぐように、私達は生きています。

そのような重ねられる人の営みこそ歴史、伝統であり、今を生きる全ての人間が、歴史や伝統を体現しているのではないでしょうか。
歴史や伝統を大切にした先に見えるのは、それぞれのルーツを持って生きる全ての人間の重要性であるように思えます。
そうであるならば、歴史や伝統を他人の排除や攻撃の名目とするなど、大きな矛盾です。

遠い昔、日本人同士が殺し合っていた時代もありました。
そのような中でも、人それぞれに、懸命に生きたことでしょう。
国際情勢は不安定ではありますが、それでも、もはや日本人同士が戦争をすることなどない世の中となりました。

計り知れないほど多くの人達の喜怒哀楽に彩られた人生、それが積み重なった今という時代の重さ、そこで生きる人達の尊さを感じていたいと思います。

 

三宝寺池①:かつては豊富な湧水で知られていましたが、現在は枯れてしまい、地下水を組み上げ池を満たしています。

 

三宝寺池②

 

石神井城跡のモニュメント:後ろの石垣はモニュメントの一部で、石神井城に石垣はありませんでした。

 

石神井城跡の土塁と空堀

 

姫塚:照姫の供養のために造られたといわれていますが、上記のとおり照姫は実在しないとするのが通説です。三宝寺池の名の由来となった三宝寺住職の照日上人の墓という説もありますが、実際のところは判然としません。

 

氷川神社:子供の頃から初詣などに訪れていましたが、豊島氏が石神井城内に創建したもので、歴史があります。

 

石燈籠:氷川神社内にあり、江戸時代に、豊島氏の末裔とされる豊島泰盈・泰音親子が奉納したとされています。

 

石神井池①:レンタルボートで漕ぎ出せるため、ボート池とも呼ばれています。自然にできた池ではなく、三宝寺池から石神井川に流れ込む水をせき止めて人工的に造られたものです。

 

石神井池②

 

国会で審議されている出入国管理法の改正が話題になっています。
これについて、次のような記事がインターネットに掲載されていました。
http://www.itmedia.co.jp/business/spv/1811/27/news046.html

記事では、普段は外国人に対して排外的な主張をするネット右翼と呼ばれるような人達が、この政策に沈黙していることへの疑問と、その理由に関する推論が述べられています。
その推論は、「人手不足で日本が滅びる」という恐怖が、イデオロギーに勝っているというものです。

一理あると思うのですが、これだけではないような気がしています。

そもそも、ネット右翼と呼ばれるような人達は、本気で、外国人を追い出し、日本人だけの日本を目指そうとしているのでしょうか。
いじめる側が、いじめられる側を欲するように、彼らも、攻撃対象としての外国人を欲し続けているようにも思えます。
在日朝鮮人に「出ていけ!」と叫ぶ人達は、実際には、出ていけない、出ていくことはないと分かりながら、叫んでいるのではないでしょうか。

彼らは、自分たちを脅かすような力を持って、あるいは、そこまでいかなくても、攻撃が困難になる程度に対等な立場で外国人が入ってくることには反対するでしょうが、差別でき、攻撃できる弱い立場で入ってくることには、抵抗はないのではないかと思うのです。
しかも、日本人が嫌がる仕事をし、社会を支えてくれるのならば、一石二鳥です。

しかし、彼らの思惑通りにいくでしょうか。

外国人労働者が増え、一定の力を持てば、対等な市民権を求める動きが出てくるでしょう。
また、現在、外国人が、そんな弱い立場でも日本に来ようとするのは、その国と日本の経済力に差があるからにほかなりませんが、衰退する日本とその国の国力の差が縮まれば、待遇を改善しない限り、来てももらえなくなるのではないでしょうか。

話を一度変えますが、先日、築地場外市場で、迷わず1本8000円の和牛の串焼きを購入する外国人観光客の姿がテレビで放映されました。そのような串焼きを迷わず購入できる日本人は、どの程度いるでしょうか。
しかし、これこそがグローバル化の一つのゴールを暗示しているように思えて、背筋が寒くなりました。
一部の富裕層の日本人と外国人観光客の贅沢を、多数の日本人と外国人労働者が命を削って支える、そんな新しい形の貴族・奴隷制度がグローバル化した経済社会の到達点なのかもしれません。

日本人奴隷は、外国人労働者を自分たちより下の下級奴隷として差別し、一時の満足を得るかもしれませんが、上級奴隷と下級奴隷の差もなくなるでしょう。
日本人と外国人の混合隊が必死に担ぐ絢爛豪華な神輿の上で、一部の人間が「Welcome Japan!」と叫ぶような社会が始まる、そんな怖さを感じます。
しかし、一部の人間にとっては、一億総中流よりも、よほど心地のよい世界かもしれません。

当然、そんな世の中がいいわけがありません。
自分が奴隷の立場に甘んじることが、下級奴隷を求める邪な考えを導くのではないでしょうか。
まずは、自分が奴隷であることを拒否し、誇りある人間であることを大切にする必要があるように思えます。
これまで生きてきた経験で、分かったことがあります。
それは、「モラル」や「道徳」、「思いやり」などを説く人自身が、それらを持ち合わせているわけではないということです。

これは、そのような人を実際に知らないと、なかなか、実感として理解できないと思います。
「モラル」を説く人は、その「モラル」を自身が守っていると考えるのが普通でしょう。

しかし、日頃、声高に「モラル」を叫び、他人を批判する人が、その他人以上に「モラル」に反することをしていることがあります。

おそらく、彼らにとって、「モラル」は、他人を攻撃するための道具に過ぎないのでしょう。
逆に、「モラル」を軽んじているからこそ、安易に「モラル」で他人を批判できるのではないでしょうか。
このため、その「モラル」による攻撃は、他人に対する理解や配慮、熟慮のない、薄っぺらく一方的なものになりがちです。

似たようなことは、大きなことを言う一方で、最後に責任逃れをする人にも当てはまるでしょう。
実際のところは、責任を取るつもりが最初からないために、大きなことを軽々しく言えるのだろうと思います。

「モラル」や「道徳」、「思いやり」などが大切なのは間違いありません。
ただ、これらを持ち出して一面的に断じられるほど、人の世の営みは単純ではありません。
これらを使うときには、その重さを感じ、熟慮するとともに、これらを軽々しく使う人に注意する必要があるように思います。
「言っている内容は正しいが、言い方が良くない。」ということを、時折、耳にします。

言っている内容が正しければ、言い方は、そこまで重視することではないのでしょうか。
いえ、言い方が問題は、大問題です。

「人間」という視点を抜きに、組織や経済を語るとき、言い方など大した問題ではなく、情報の内容が重要となるのでしょう。

しかし、「人間」という観点でみたとき、言い方にこそ、その人の姿勢、意図、大げさに言えば、魂が反映されると思います。
客観的には同じ情報でも、言い方次第で、人に与える影響は変わります。

言い方がどんなに悪くても、内容が正しければ、それを受け入れなければならないということはありません。
情報が正しくても、そこに侮辱や卑下といった邪な意図をまとわせた言い方をするのであれば、それは誤りです。
言った側は、情報の正しさを主張して、あるいは、「お前のためを思って」と取って付けたような意図の説明を付して、それを受け入れさせようとするでしょう。

しかし、それらはオブラートに過ぎず、本当に受け入れさせたいのは、まとわりつかせた侮辱や卑下の方という場合も、少なくありません。
情報の正しさなど、実はどうでもよく、相手に劣等感を抱かせて、優越感に浸ることが目的です。

そのような邪な意図を受け入れる必要はないのです。

他人を傷付けるような言い方をして、「言ってることは間違ってない。」などと開き直る例がよく目につくようになった気がします。
言い方に魂が宿るなら、そのような言説は、人間を捨てる行為です。

自分の魂を大切にしながら、人に向き合いたいところだと思います。
「現代ビジネス」に興味深い記事が載っていました。
ロリータモデル兼看護師が、病院ではない会場での、私服参加の勉強会に、帽子を被って参加したところ、講師から、公衆の面前でビンタされ、「医療の勉強の場に帽子を被ってくるとは何事だ!」と怒鳴られたというものです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57853

勉強会等で、帽子を着用したままということについて、マナーの観点からは、是非の意見があるかと思います。
しかし、いずれの場合でも、講師の反応は、行き過ぎというべきではないでしょうか。

筆者は、「ロリータ服やミニハットは、わたしの日常の私服であり、誰かを傷つける意図などある訳ありません。」、「ただそれだけなのに、この先生は、わたしのミニハットに勝手に悪意を見出して、勝手に気分を害して、憎しみの感情を込めてわたしに暴力(ビンタ)したのでした。」とします。

人間が人間として尊重されるとは、その人間の意思に委ねられるべき領域を侵さないこと、その自由を保障することではないでしょうか。

いかなる場合も、帽子の着用が、本人の意思に委ねられるべきとは言いません。
しかし、恫喝や暴力による心身の抑圧を受けない自由は間違いなくあるはずです。

誰の尊厳も侵さない行為の場合、マナーといえるかどうかは、捉え方次第で相対的といえるのではいかと思います。
一方で、他者の尊厳を侵す行為は、許されるべきではありません。

人は、時として、特に、権力を持つと、他者を支配している錯覚に陥ります。
そうすると、自分の領域が侵されていないのに、自分の思いどおりにならないだけで、怒りを感じ、他者の領域に一方的に踏み込み、攻撃するようになります。
自分は偉い、自分は特別と思った瞬間から、人は他者に対して、図らずも、「人にあらず」というような態度がとれてしまいます。

どんな立場にあっても、人間の本質を見据えて、それを尊重することが重要なのではないでしょうか。
一時期、芸能人の生活保護の不正受給が取り沙汰され、その芸能人だけでなく、生活保護制度や生活保護受給者全般をバッシングするような状況が生じました。

一定の条件に当てはまる人に金銭等を給付する制度があれば、極論、必ず不正受給は発生すると思われます。

一方で、不正受給が発覚すると、その不正を行った人だけでなく、制度自体や制度の利用者全般を攻撃しようとする動きが現れます。

平成27年度の生活保護の不正受給は、金額としては全体の0.45%、件数としても受給世帯の2.7%とのことです。これをもって、受給者全般を攻撃することは無理があるでしょう。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170202-OYTET50054/

しかし、このような事実があっても、制度や受給者全般を攻撃する声は止まりません。
もともと、差別や攻撃をしたい気持ちに駆られていれば、それを正当化するための材料のみを欲することになるのでしょう。
その場合、制度を本当に必要とする人がいること、バッシングにより本当に必要な人から制度を遠ざけ、結果として命を失う可能性もあることなど、関係ありません。

このような攻撃は「愛国」を名目に行われがちです。
しかし、本当に国を思うならば、国を構成する一人一人の国民の利益のため、必要な人が制度を使えることと不正を防ぐことの双方に目を配るべきです。

制度があれば、不正は必ず発生します。それは、犯罪がなくならないのと一緒ではないでしょうか。
犯罪を防ぐために、犯罪者でない人までまとめて処罰することなど許されないように、本当に制度を必要とする者まで攻撃することは許されません。

制度の悪用は好ましくありませんが、悪用の悪用もまた同様です。
本当に大切なものを見失わないように、責任感をもって判断していきたいところです。

アドラー心理学は、岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」で一躍有名になったように思います。

 

そのアドラー心理学では、「課題の分離」が重要とされています。つまり、自分と他人との間に境界線を引き、自分が操作できる自分の境界線内の課題にのみ取り組む一方、他人の境界線内の課題は他人に任せるべきというものです。

 

これは、心理学上の概念ですが、法学でいう「人権」と、どこか相通じるところがあるように感じました。

 

憲法は、人が当然に有する正当な権利を「人権」として保障していますが、まさにこれは、他人の境界線内のことに不当に干渉することを禁じているという見方もできるように思うのです。自分が、自分の自由な判断と責任で取り組むべきことに取り組めること、それこそが、人が人として生きていくために必要で正当な権利といえるのではないでしょうか。

 

そう捉えるならば、人権を正しく認識するには、人間として取り組むべき課題や境界線について、ひいては、人間そのものへの深い理解が必要となります。そうでなければ、何が人権として守られるべきか、何をすれば人権の侵害となるのか適切に判断できず、簡単に人権を侵害してしまう一方で、人権とも呼べないようなものを「人権」と主張し傍若無人に振る舞うことを許してしまうことになります。

 

その極致ともいえるような主張が、いじめや差別の問題が取り上げられた際に耳にする、「いじめるのは俺の権利」「俺には差別する自由がある」というようなものだと思います。いじめや差別は、他人の境界線に土足で踏み込む行為です。だからこそ人権の侵害であり、そのような行為が人権として保障されるはずもありません。

 

最近では、『新潮45』10月号の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」で、文芸評論家の小川榮太郎氏が、LGBTに対する差別的な寄稿を寄せた自民党の杉田水脈議員を擁護する主張をしており、その中で、「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」との醜悪な内容を書いています。

http://news.livedoor.com/article/detail/15324006/

 

まさに、自分が気に入らない他人を一方的に否定し、その存在が自分の人権を侵害すると主張して、他人の人権に攻撃を仕掛ける、あまりに倒錯した行為です。

 

人と向き合い、尊重し、共感する。そのような意識を持てば、人権は自然な形で理解できるものだと思います。一方で、そのような人として人に相対する姿勢を忘れ、捨ててしまったのであれば、人権を語る資格などありません。