“迷い”と“願い”の街角で -15ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

藤本理稀ちゃんが行方不明になった事件では、理稀ちゃんを発見したボランティアの尾畠春夫氏が大きな注目を集めました。

理稀ちゃんを発見したことだけでなく、その言動、人柄、生き方が大きな賞賛と共感を呼びました。

着飾った綺麗事でなく、真っ直ぐに人を思って生きる様に、気持ちよさ、清々しさを感じ、心洗われるような気分でした。

このような方が賞賛されるのはよいことですが、それを他人への攻撃に利用する悲しい場面も見られます。

JBPRESSに掲載された「増え続ける警察官と不祥事にみる日本の問題」では、尾畠春夫氏を賞賛する一方、発見できなかった警察の対応を批判します。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54005?display=b

公的機関である警察の課題を指摘するのは、まだ意義あることかもしれませんが、記事の終盤、突如として、LGBTやDINKS(共働きで子供を作らない夫婦)について、「権利だけを主張する我が儘にしか思えない」と批判し始めます。
あたかも、尾畠氏の「天晴れな生き方」と対比しての「あるまじき生き方」と言うかのように。
しかも、DINKSの定義を非常に悪意を感じるものに変えてしまっている上、LGBT批判は、何の根拠もなく行われています。

この記事を尾畠氏が読んだら、自分の生き方を誰かを攻撃する刃にされたことを知ったら、どう思うでしょうか。

善意を賞賛する形をとりつつ、誰かを攻撃する、それは善意をむしろ踏みにじる行為なのではないでしょうか。
結局、議論に勝つのは声の大きい人間だと、よく聞かれます。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/080900086/?ST=smart

実社会を見渡せば、さもありなんですが、それが正しいとは、決していえないでしょう。

議論は、そもそも何のために行うのでしょうか。
時と場合にもよるでしょうが、一般的には、様々な意見を聴き、理解し合い、その上で、合意を形成していくことではないでしょうか。
人間が共同体を形成する社会的な動物であることを踏まえるならば、民主主義の理念を持ち出すまでもなく、そのような合意形成の機能が社会には必要と思われます。

しかし、昨今よく見かけるのは、議論の名を借りた言い負かし合いです。
場合によっては、議論が合意形成の手段であることを逆に解釈して、議論に勝った人間の意思が合意であり、正義だと主張するかのような言説さえみられます。

そもそも、議論を勝ち負けで論じることが誤りです。合意形成が目的ならば、両者とも勝者か、両者とも敗者かのどちらかです。

意見が分かれたとき、その場で言い負かすことを目的とすれば、様々な手段があります。
大きな声で威圧、圧倒するのは典型例ですが、立場や権力を振りかざすこともあり得るでしょう。
さらに、論点をずらしたり、はぐらかしたりして、うやむやにしてしまうことも一つの手段です。

また、自分が経験した例で、悪い意味で驚いた方法がいくつかあります。
①自分は自分の主張が正しい根拠や証拠を出すことなく、相手に対して、一方的に「根拠を示せ」「証拠を出せ」と迫り、相手の主張に文句を付け続けて、「相手が間違っているのだから、自分が正しい」と結論付ける。
(旅行先を海にするか、山にするかの議論で、山のデメリットを列挙して、海の希望者の反論に文句を付け続け、山のメリットも海のメリット・デメリットも触れないまま、山を選択するのは間違い、ゆえに海が正しいと結論付ける。)
②相手を侮辱したり、傷付けたりする態度、言動を議論に織り交ぜて、徹底的に相手を不快にさせ、議論不能にまで追い込んで、自分が議論に勝ったと言い張る。
(「いい年して海に行きたいなんて頭は大丈夫か?」、「山に行く体力や度胸がないから、海なんて言ってるんだろう」などと、相手が折れるまで言い続ける。)
③合意ができていない事項を、さも当然に合意済みの事項として前提にしつつ、その先について議論することで、優位に進める。
(山か海か決まっていないのに、「富士山と阿蘇山のどちらに行こうか」という議題設定をしてしまう。)

これらの手段により、その場限りで言い負かすことはできるかもしれません。
しかし、そこに建設性は全くありません。社会の軋みが増すだけです。

マツコ・デラックスは、学校へのクーラー設置の根強い反対論について、どんなに事実を提示しても、感情論で凝り固まった人には通じないという趣旨の話をしていました。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3735213

その論旨には納得しつつも、そのような人が増え、かつ、社会の主要な立場に立つとすれば、恐ろしいことです。

まずは、なるべく多くの人間が、少しでも他者の立場に思い巡らせることが、何より重要であり、建設的な議論、そして、健全な共同体の形成につながっていくのだろうと思います。
杉田水脈衆議院議員のLGBTの方を揶揄するような寄稿について、当初ほどの騒ぎはありませんが、批判はまだ続いています。

これについては、予想どおりというべきか、杉田議員を擁護する識者も出始めました。
http://agora-web.jp/archives/2034089.html
http://tokyoexpress.info/2018/08/07/%e3%80%8c%e7%94%9f%e7%94%a3%e6%80%a7%e3%80%8d%e3%81%ae%e3%81%aa%e3%81%84%e9%87%8e%e5%85%9a%e3%81%a8%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e2%80%bc-%e6%9d%89%e7%94%b0%e6%b0%b4%e8%84%88%e3%80%8c%ef%bd%8c/

彼らは、杉田議員の発言内容は正しく、誤解を招いただけのことであり、それを曲解しての批判は、杉田議員の人権蹂躙でヘイトスピーチであるというものです。

前者の記事の筆者は、杉田議員への批判を「下劣な攻撃」と断じます。
確かに、差別発言があったとしても、正当な批判を逸脱した攻撃は許されません。批判すべきものを批判すれば足りることです。
そのような意味では、もし事実であれば、記事の中の、朝日新聞社や週刊文春、神戸新聞への批判は分からなくはありません。
しかし、「生産性」で人の価値を論ずるかのような態度に、相模原での事件を重ねたNHKの報道は、的外れではないと思います。生きる価値がないとはしていないとのことですが、人間を生産性の観点で論じることが問題というべきでしょう。
その報道が、杉田議員への脅迫という犯罪を煽ったとする見解も疑問です。

そもそも驚いたのは、杉田議員の寄稿について、「差別的な意図は感じられない」としていることです。
自分の属性をとらえて、「生産性がない」と言われる悔しさ、痛みは、容易に想像できると思うのですが。
彼らの言う「人権」とは、一体何なのでしょうか。

以前、東京都議会で、女性議員に「自分が早く結婚したらいいじゃないか」という野次が飛ばされた問題で、野次を飛ばした議員が、親切心ででた発言と釈明し、それを肯定する新聞記事があったことにも驚きましたが、同じようなものを、今回の記事にも感じます。

発言等の客観的な意味合いはともかく、その言い方や雰囲気として、発する者の意図が言葉に宿ります。

杉田議員の寄稿や都議会の野次には、まとわりつく悪意を、どうしても感じざるを得ません。

憎しみのような悪意ではない、相手の人間としての心情に思いを馳せられない、人を軽んじることを楽しむような、軽薄で無邪気な悪意です。

この社会から、言葉が宿す何かを感じ取る心がなくなっていくことは、本当に怖いことだと思います。
オウム真理教に関する事件の死刑囚13人の執行が短期間のうちに行われたことで、死刑制度を巡る議論が活発になされています。
このうち、次の記事に興味を持ちました。日本では、リベラル派が死刑廃止を訴え、保守派は存続を支持するという構図がありますが、アメリカでは保守派も死刑廃止を訴えているというものです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20180710-00088855/

興味深かったのは、保守派が死刑制度に反対する理由です。
「郵便配達さえ安心して任せられない政府に、どうして自国民の命を奪う死刑制度の運営を任せられるのか?」

この文面を読んだとき、何となく不思議な感覚になりました。それは、国と政府を切り離して考えているように思えたからです。日本では、政府が国の中核ととらえられ、それらを切り離すという発想はないのではないでしょうか。
ひょっとしたら、アメリカと日本では、国の捉え方が随分違うのではないかと思ったのです。

上記の表現で感じるのは、国は、国民の共同体であり、政府はその中で一定の役割を果たしているに過ぎないという印象でした。
一方、日本では、国は、国民とは別に存在し、その中心に政府があるという捉えられ方をしているように感じます。

ジョン・F・ケネディ第35代アメリカ合衆国大統領は、「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるのかを考えよう」と言いましたが、上記の「国」の捉え方の違いで、かなり印象が変わるのではないでしょうか。

一人一人の国民が国という共同体の一部とすれば、その共同体の中で主体的に動き、皆の幸せを実現しよう、という解釈ができます。
一方、国と国民が切り離されれば、国民は国に献身的に尽くし、自己犠牲を厭うべきではないという色彩を帯びるように思います。

前者では、一人一人の幸せが国を豊かにすると考えられますが、後者では、一人一人の国民は国にとって大した存在ではなく、「生産性」がなければ、切り捨ての対象になるのではないでしょうか。国が養ってやってるのだから、十分な献身をしなければ、国の中心である政府の判断で、いつでも排除できる、と。

国民が国の一部ならば、政府がそれをないがしろにするのは自傷行為ですが、国民は国が養ってやってるとすれば、簡単な厄介払いに過ぎません。

国が、国民とは異なるものとして存在するのならば、その意思は誰が決めるのでしょうか。一部の偉い方が、古代のジャーマンのように聞き取るのでしょうか。
日本で愛国心が語られるとき、「国への忠誠心が乏しくてけしからん。」などと、国と国民を切り離して、国民を軽んじる意識がまとわりつきます。
「おまえ達は価値のない存在のくせに生意気だ。もっと忠誠心を、愛国心を持て。」と言われて、その言った人たちが中心にいる国を愛せるでしょうか。
国民は国の重要な一部、大切な構成員、国は一人一人の国民がつながる共同体、だから決して軽んじない、見捨てないとしてはじめて、帰属意識や愛国心が生まれるのではないかと思います。
一時期、「忖度」という言葉が頻繁に取り上げられました。
この言葉自体は、他者の心情をおしはかり、配慮することを指し、悪い意味ではありません。
しかし、一部の人間に忖度した結果、不公平・不公正な状況が生まれ、不利益を被る人が出てくるようであれば、それは問題です。

ところで、組織の中で忖度に長けている人はいるものです。それにより、組織が円滑に動くならばよいのですが、中には、上司の顔色をうかがうことだけが行動原理になってしまう人もいます。

忖度自体は、いいことですが、忖度だけしかできなければ、主体性を失ってしまいます。
そのような主体性を失った人がトップに立つと、場合によっては、悲劇が起こります。

上司等への忖度だけで動いてきたため、自立した思考がなく、判断が不安定となります。
その一方で、我慢に我慢を、忖度に忖度を重ねてきたため、部下にも服従を求めます。部下が意見することなど許しません。
その結果、しっかりした考えもなく判断するにもかかわらず、その判断に部下を服従させることには執着することになります。

自分の意向を部下に強制しますが、自立した思考・決断がないため、結果に対する責任感は乏しくなってしまいます。
本来は権限と責任は対になるはずですが、トップとしての権限を責任転嫁に利用することもあるでしょう。
指示せず、暗黙のうちに行動させる忖度は、権限と責任を切り離す最強の手段かもしれません。

このような事態が社会に溢れたらどうなるでしょうか。
自立した判断力を持たないトップが無責任な決定を行い、部下は判断の余地がないまま、その決定に従うことを強制される。そうすると、誰一人、責任感に基づく判断・行動ができないこととなります。

誰も責任をもって主体的に考え、動かない社会。そるがよい結果をもたらすとは思えません。
コミュニケーションについて興味深い記事を見付けました。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/15006178/

大まかな内容は、コミュニケーション能力が重視されてきた若者世代では、波風の立たない関係を優先し、批判や対立を作り出す姿勢を嫌悪する、その結果、性質上、与党を批判し、対立する立場にある野党が嫌いになる、というものです。

この説には半信半疑なのですが、コミュニケーションとは何かを考える契機として、関心を持ちました。

本当に、コミュニケーション能力重視の結果が、波風立てず、摩擦を起こさずならば、完全にコミュニケーションというものが誤解されていると思います。

コミュニケーションは、意思疎通や合意形成を図るもの、双方向的なものです。
摩擦を割けるために黙っていたら成立しません。
相手を尊重しながら、言葉を交えること、自分を主張しつつも、相手を理解することがコミュニケーションなのでしょう。
さらには、言葉の限界を認識した上で、言葉にならない相手の思いにまで思い巡らさなければ、なかなか十分に分かり合うことはできないのかもしれません。

また、表面的な言葉に惑わされないことも大切でしょう。
大切なものを守るため激しい言葉を使わざるを得ないときもあれば、当たり障りのない言葉を駆使して、他人の心を踏みにじることも可能だからです。
常に、言葉のその奥へ、思いを進めなければならないのでしょう。

逆に、コミュニケーション能力の高い人間を採用しようとして、口先ばかりの人間が増えたという会社に関する記事もありました。
http://lite.blogos.com/article/200865/?axis=&p=1

コミュニケーション能力の重要性が主張されて久しいですが、一方的な忖度や一方的な主張がその結果ならば、この社会は、大きな過ちを犯してきたのだろうと思えてなりません。
民主党政権で環境大臣、復興相大臣を務めた松本龍氏が亡くなりました。
松本氏について強く印象に残っているのは、東日本大震災後に復興大臣として村井嘉浩宮城県知事と面会した際に、知事やマスコミ関係者を恫喝し、被災者を愚弄するような発言をしたことでしょう。
多くの方が、驚き、不快に思ったでしょうし、深く傷ついた被災者もいたことでしょう。

ただ、これについて、同氏の素顔は、「誰からも愛される人柄だった」とし、その真摯さや功績を紹介する記事が掲載されています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180724-00000064-sasahi-pol&p=1

記事に付された読者のコメントは、記事に批判的なものが多いですが、皆様はどう感じるでしょうか。

人について思いを巡らすとき、その一面を過度に重視も軽視もしないことが大切ではないかと思っています。

松本氏が被災地や被災者を愚弄し、傷つけたことが、この記事で正当化されるとは決して思いません。
一方で、松本氏に誠実で優しい側面があったとすれば、それは否定されるものではありません。

善い面と悪い面は、相殺し合って、善い面が多ければ善人、悪い面が多ければ悪人となるわけではないでしょう。
善い面と悪い面は矛盾をはらみながら、どちらも真実として併存するのだろうと思います。
誰かを傷付けた人が、一方で誰かを救った時、傷付いた人の恨みも、救われた人の感謝も、どちらも否定などできません。

人には色々な面があることを忘れずに、一面だけにとらわれすぎないで見つめていきたいものと思います。
ワークライフバランスが取り上げられるようになって久しく、また、最近では、働き方改革という言葉が広がってきました。

そのような話題でよく言われるのが、「働く人を大切にした方が生産性が上がる。」という考え方です。
これ自体は素晴らしい考え方ですし、その通りだと思います。

しかし、このことを「生産性が上がるから、人間を大切にしなければならない。」と解釈するのは誤りだとも感じます。
人間である以上、当然に、人間として大切にしなければなりません。生産性の向上は、結果的にそれについてくるものでしょう。
生産性の向上が認識を大切にする理由なら、人間を酷使してより高い生産性を上げる方法が見付かった瞬間に、それを採ることが最善となってしまいます。

人間を見つめ、理解し、尊重する、それができるのは人間自身しかなく、また、その責任が人間にはあるのではないでしょうか。

組織論や経済論で、人間を語り尽くすことはできません。組織論や経済論で語ろうとすれば、必ず、人間よりも組織や生産性が重視されてしまうと思います。これは、組織や経済活動を漫然と放置すれば、人間がないがしろになる危険性があるということでもあるかと思います。
そのようなときに、人間を大切にした方が組織の活性化や生産性の向上に資するといった組織論や経済論だけで対抗せず、正面から、人間を論じる必要があるのでしょう。それは、立場や役割から離れた、一人の人間としてしかできません。

しかし、最近、人間以外の価値基準で人間を測り、無価値と排斥する風潮を感じます。

相模原市で発生した障害者施設での殺傷事件はその極みというべきでしょう。

また、最近では、自民党の杉田水脈衆院議員が、月刊誌に、LGBTについて、「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がない」などと寄稿し、問題となっています。
https://www.asahi.com/amp/articles/ASL7R6Q7FL7RUTFK01N.html

相模原での事件の犯人も、杉田議員も、「正義感」を振りかざすように、他人の価値を否定しています。
その「正義」の眼差しに、実感を伴った人間はありません。あるのは、国会や社会の歯車だけです。
そして、思うように機能しない歯車を排除することが前段にとって望ましく、それが、より重要で正常な歯車たる自分の権利であり、責務と思っているかのようです。

人間の命は、人生は、その価値は、その人自身のものです。
そのことを忘れ、人間を見失った正義は、凶器でしかありません。
ご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
平成28年10月に生まれた娘は1歳9か月になり、行動の幅がどんどん広がっています。
その成長を嬉しく思うと同時に、私にとっても、妻にとっても縁のない土地で、親族等のサポートを受けられない辛さもあり、妻には苦労をかけてしまっています。

そのような中、インターネットで興味深い記事を見つけました。
家庭を持ってもシェアハウスで暮らし、互いに家事や育児をシェアして効率化しようとする、ある夫婦の実験的な取組です。
https://withnews.jp/article/f0170515000qq000000000000000W01l10101qq000015196A

まだ子どもが生まれておらず、本格的に始まっているわけではありません。
成功するかどうか分からず、また、この方々が成功しても、他の多くの方々に合うとも限りません。私自身が同じような取組に参加したいかと問われれば、やはり抵抗感が強いと思います。
しかし、子育てにおける孤立化、負担感の増大が問題とされる中、それに向き合う「ある一つの答え」として、注目され、希望となり得ると感じました。

しかし、世間には、そのような「ある一つの答え」が存在することを許せないとする声があるようです。

「記事が転載されたポータルサイトでは100件を超すコメントが寄せられました。その大半が記事に対する否定的な内容でした。」とのことでした。
https://withnews.jp/amp/article/f0170726005qq000000000000000W01l10101qq000015605A

しかし、その批判的な声をみていくと、この社会に流れる倒錯した雰囲気を感じざるを得ません。

社会では、個々の人間が自分らしいあり方でその人間性や意思を発現させ、活躍し、尊重されるとともに、一人一人では対応できない共通の課題に連帯して向き合うことが理想だと思います。
しかし、この記事で取り上げられているシェアハウスへの否定的な声からは、逆に、個々人のあり方に土足で介入する一方で、社会的な課題を自己責任で切り捨てる、そんな印象を感じます。

例えば、シェアハウスで暮らす当事者たちの問題に、しかも、既に問題が起きていればまだしも、それが発生していないのに、「たら」「れば」で批判するような声があります。
「事故があったりして子供が怪我などをすると自分の責任を棚に上げて責めるのではないか」
「実際は気が弱そうな人が幼稚園の送り迎えなどを押し付けられるのではないか」

また、取り組む夫婦に対して、一方的に価値観を押し付けるほか、その頭の中を悪意に推測して攻撃するような声もありました。
「子育ては夫婦が作るその家庭の価値観の中で行うべきでは」
「他人を安易に頼りにする危機感のなさと図々しさに心底呆れる」
「自分たちだけで育児できないなら子供作るなと思う」
「親の代わりに同居人をタダ働きさせようという考えではないか」

記事でも指摘しているように、昔の日本には、親族のほか、地域コミュニティー全体で子育てをサポートする状況もあり、それが瓦解したことが、子育てを難しくしているとの指摘もあります。
それは社会として向き合うべき課題のはずで、その観点から、「自分たちだけで育児できないなら子供作るなと思う」との声は、特に看過できません。

誰しも、自分として尊重されなければ、生き生きと人生を歩むことはできませんし、自分だけで生きていくこともできません。
お互い様こそ大事だと思うのですが、それには、他者も自分と同じ人間と知る想像力や共感力が必要となります。
その想像力や共感力が失われてきているのは、自民党幹事長の、子どもを産まないほうが幸せに送れるんじゃないかと、勝手なことを自分で考えてね」との発言からも感じます。

匿名のSNSや絶対的な権力を使えば、自分が傷つくことなく一方的な攻撃が可能です。
一方的な攻撃で生きていけるなら、その方々には、想像力も共感力も要らないのかもしれません。
それでも、そのようなことが続けば、個々の人間も社会も朽ちていく一方です。
少しでも多くの人が想像力や共感力をお互いに使える社会であってほしいと願います。

早いもので、今年も残すところ半月となりました。昨年10月に結婚し、今年の3月に東京から群馬へと転勤となり、そして、ちょうど結婚1周年の10月に長女が誕生するなど、いい意味で盛り沢山な1年でした。

 

そして、生活状況の変化から、それまで走るように続けてきたボランティア活動を一時休止しましたが、その後、一緒に活動してきた方々の力添えで、新たな形で再開することが決まりました。色々なことがこれまでどおりにはできなくなる局面は、新たな形を構築する機会とし得るのでしょう。これを新たな挑戦としたいと思っています。

 

さて、昨年末は、安全保障関連法等の関係で様々な意見が衝突し、日本が分解していくという感じを強く受けてきたと1年を振り返りました。それと比較すると、今年は、リオオリンピックでの日本選手の活躍等、喜ばしい出来事があったことも影響してか、昨年よりも社会が安定しているように感じた1年に思えました。

 

しかし、その安定は、社会が暖かさや安らぎを取り戻したという意味でのものとはいえず、様々な深刻な問題を抱えつつ、それが見えにくく分かりにくくなっているという状態であるように感じています。そのような状態であればこそ、曖昧になって見分けにくい問題を見分け、表面的には見えない問題を見抜くことが重要になってくると思います。

 

私が、その重要性を特に感じたのは、「保育園落ちた日本死ね」とのブログに端を発した一連の騒動でした。

 

保育園に子供を入園させられなかった母親が記載した「保育園落ちた日本死ね」とのブログが国会で取り上げられ、待機児童問題が注目される一方、その表現の過激さへの批判も展開されました。そして、これが「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことが、再び議論を呼んでいます。

 

この言葉への向き合い方は、難しいものがあります。というのも、決して褒められたものではない汚い表現の裏側に、光を当てるべき深刻な問題への切実な思いがあるため、表面的な言葉の膜を抜けて、その奥へと思考を進めなければならないからです。

 

この言葉を手放しで賞賛することは適切ではないと思うのですが、一方で、その表現の観点で、その奥にある問題や苦悩ごと切り捨てることはあってはならないと思われます。

 

表現ぶりを否定することと、その裏の思いを否定することは似て非なるものです。その言葉の奥にある思いを見抜く必要があるのではないでしょうか。

 

そんな意味で、「言葉」が主役となる「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことには、個人的には複雑な感じがするとともに、それを表面的な言葉遣いだけをもって糾弾する意見がみられたことには悲しい気持ちになりました。

 

ダイヤモンドオンラインに掲載された「流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップ10入りで大論争」という記事は、まさにその典型といえるでしょう。

http://diamond.jp/articles/-/110783

 

著者は、この言葉を国会で取り上げ、授賞式に登場した民進党の議員を、次のように批判します。

「政治家というのは日本をよりよい方向に導く役割を担った人たちであるはずなのに、満面の笑みを浮かべて“日本死ね”と喜ぶ愚か者たちに、この先、良識ある有権者は票を投じることはしないだろう。日本死ねと言われたら激高し、ふざけるなと言い返すのが日本の、日本人の政治家ではないのか。」

著者曰く、「保育園落ちた日本死ね」との言葉に対して、政治家が返すべき正しい反応は「ふざけるな」と激高することなのだそうです。

 

そして、この言葉を発した同じ日本で生き、苦しむ母親をも、さらには待機児童問題に取り組む必要性さえも、次のように切り捨てます。

「保育園に落ちて追い詰められた母親の精神状態を否定派はわからないと言うが、追い詰められて絶望すると“日本死ね”になるその思考が私にはわからない。失意のどん底に突き落とされたとき、日本の制度に問題があると言うのは責任転嫁ではないのか?」

 

加えて、ブログを書いた母親の人格にまで攻撃を加えます。

「このブログ主は幼い我が子が物心つくころには“死ね”という言葉を教えるのだろう。」

 

著者は「“死ね”という言葉がもたらす嫌悪感や忌避感を、どうやら前原議員も山尾議員も民進党もわかっていないようだ。」としますが、最近、この記事ほど嫌悪感や不快感を感じたものはありません。

 

「保育園落ちた日本死ね」という言葉が正しいのか、望ましいのか、そのような議論に意味はないと思います。人間は煩悩を抱えた弱い存在です。常に正しい道だけを歩めるわけではなく、そもそも正邪の基準も曖昧です。

 

しかし、個々の人間が、その人生において感じることは正邪を超えた真実です。そして、その真実を汲み取って、正しい道を模索するのが政治なのではないでしょうか。

 

社会の問題が複雑なのは、複雑な存在である人間が営んでいるからです。人間である以上、簡単に割り切れるものではありません。その割り切れなさの中から、向き合うべき問題を見分け、見抜いていくことが必要なのだろうと思います。

 

どんな制度や仕組みを作っても、それらは人間には向き合えません。人間に向き合えるのは、制度や仕組みを作る人間であり、制度や仕組みの中で生きる人間です。もっともっと人間に、人間であることにこだわってもいいのではないでしょうか。

 

そんなことを感じた年の暮れでした。