早いもので、今年も残すところ半月となりました。昨年10月に結婚し、今年の3月に東京から群馬へと転勤となり、そして、ちょうど結婚1周年の10月に長女が誕生するなど、いい意味で盛り沢山な1年でした。
そして、生活状況の変化から、それまで走るように続けてきたボランティア活動を一時休止しましたが、その後、一緒に活動してきた方々の力添えで、新たな形で再開することが決まりました。色々なことがこれまでどおりにはできなくなる局面は、新たな形を構築する機会とし得るのでしょう。これを新たな挑戦としたいと思っています。
さて、昨年末は、安全保障関連法等の関係で様々な意見が衝突し、日本が分解していくという感じを強く受けてきたと1年を振り返りました。それと比較すると、今年は、リオオリンピックでの日本選手の活躍等、喜ばしい出来事があったことも影響してか、昨年よりも社会が安定しているように感じた1年に思えました。
しかし、その安定は、社会が暖かさや安らぎを取り戻したという意味でのものとはいえず、様々な深刻な問題を抱えつつ、それが見えにくく分かりにくくなっているという状態であるように感じています。そのような状態であればこそ、曖昧になって見分けにくい問題を見分け、表面的には見えない問題を見抜くことが重要になってくると思います。
私が、その重要性を特に感じたのは、「保育園落ちた日本死ね」とのブログに端を発した一連の騒動でした。
保育園に子供を入園させられなかった母親が記載した「保育園落ちた日本死ね」とのブログが国会で取り上げられ、待機児童問題が注目される一方、その表現の過激さへの批判も展開されました。そして、これが「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことが、再び議論を呼んでいます。
この言葉への向き合い方は、難しいものがあります。というのも、決して褒められたものではない汚い表現の裏側に、光を当てるべき深刻な問題への切実な思いがあるため、表面的な言葉の膜を抜けて、その奥へと思考を進めなければならないからです。
この言葉を手放しで賞賛することは適切ではないと思うのですが、一方で、その表現の観点で、その奥にある問題や苦悩ごと切り捨てることはあってはならないと思われます。
表現ぶりを否定することと、その裏の思いを否定することは似て非なるものです。その言葉の奥にある思いを見抜く必要があるのではないでしょうか。
そんな意味で、「言葉」が主役となる「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことには、個人的には複雑な感じがするとともに、それを表面的な言葉遣いだけをもって糾弾する意見がみられたことには悲しい気持ちになりました。
ダイヤモンドオンラインに掲載された「流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップ10入りで大論争」という記事は、まさにその典型といえるでしょう。
http://diamond.jp/articles/-/110783
著者は、この言葉を国会で取り上げ、授賞式に登場した民進党の議員を、次のように批判します。
「政治家というのは日本をよりよい方向に導く役割を担った人たちであるはずなのに、満面の笑みを浮かべて“日本死ね”と喜ぶ愚か者たちに、この先、良識ある有権者は票を投じることはしないだろう。日本死ねと言われたら激高し、ふざけるなと言い返すのが日本の、日本人の政治家ではないのか。」
著者曰く、「保育園落ちた日本死ね」との言葉に対して、政治家が返すべき正しい反応は「ふざけるな」と激高することなのだそうです。
そして、この言葉を発した同じ日本で生き、苦しむ母親をも、さらには待機児童問題に取り組む必要性さえも、次のように切り捨てます。
「保育園に落ちて追い詰められた母親の精神状態を否定派はわからないと言うが、追い詰められて絶望すると“日本死ね”になるその思考が私にはわからない。失意のどん底に突き落とされたとき、日本の制度に問題があると言うのは責任転嫁ではないのか?」
加えて、ブログを書いた母親の人格にまで攻撃を加えます。
「このブログ主は幼い我が子が物心つくころには“死ね”という言葉を教えるのだろう。」
著者は「“死ね”という言葉がもたらす嫌悪感や忌避感を、どうやら前原議員も山尾議員も民進党もわかっていないようだ。」としますが、最近、この記事ほど嫌悪感や不快感を感じたものはありません。
「保育園落ちた日本死ね」という言葉が正しいのか、望ましいのか、そのような議論に意味はないと思います。人間は煩悩を抱えた弱い存在です。常に正しい道だけを歩めるわけではなく、そもそも正邪の基準も曖昧です。
しかし、個々の人間が、その人生において感じることは正邪を超えた真実です。そして、その真実を汲み取って、正しい道を模索するのが政治なのではないでしょうか。
社会の問題が複雑なのは、複雑な存在である人間が営んでいるからです。人間である以上、簡単に割り切れるものではありません。その割り切れなさの中から、向き合うべき問題を見分け、見抜いていくことが必要なのだろうと思います。
どんな制度や仕組みを作っても、それらは人間には向き合えません。人間に向き合えるのは、制度や仕組みを作る人間であり、制度や仕組みの中で生きる人間です。もっともっと人間に、人間であることにこだわってもいいのではないでしょうか。
そんなことを感じた年の暮れでした。