アドラー心理学は、岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」で一躍有名になったように思います。
そのアドラー心理学では、「課題の分離」が重要とされています。つまり、自分と他人との間に境界線を引き、自分が操作できる自分の境界線内の課題にのみ取り組む一方、他人の境界線内の課題は他人に任せるべきというものです。
これは、心理学上の概念ですが、法学でいう「人権」と、どこか相通じるところがあるように感じました。
憲法は、人が当然に有する正当な権利を「人権」として保障していますが、まさにこれは、他人の境界線内のことに不当に干渉することを禁じているという見方もできるように思うのです。自分が、自分の自由な判断と責任で取り組むべきことに取り組めること、それこそが、人が人として生きていくために必要で正当な権利といえるのではないでしょうか。
そう捉えるならば、人権を正しく認識するには、人間として取り組むべき課題や境界線について、ひいては、人間そのものへの深い理解が必要となります。そうでなければ、何が人権として守られるべきか、何をすれば人権の侵害となるのか適切に判断できず、簡単に人権を侵害してしまう一方で、人権とも呼べないようなものを「人権」と主張し傍若無人に振る舞うことを許してしまうことになります。
その極致ともいえるような主張が、いじめや差別の問題が取り上げられた際に耳にする、「いじめるのは俺の権利」「俺には差別する自由がある」というようなものだと思います。いじめや差別は、他人の境界線に土足で踏み込む行為です。だからこそ人権の侵害であり、そのような行為が人権として保障されるはずもありません。
最近では、『新潮45』10月号の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」で、文芸評論家の小川榮太郎氏が、LGBTに対する差別的な寄稿を寄せた自民党の杉田水脈議員を擁護する主張をしており、その中で、「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」との醜悪な内容を書いています。
http://news.livedoor.com/article/detail/15324006/
まさに、自分が気に入らない他人を一方的に否定し、その存在が自分の人権を侵害すると主張して、他人の人権に攻撃を仕掛ける、あまりに倒錯した行為です。
人と向き合い、尊重し、共感する。そのような意識を持てば、人権は自然な形で理解できるものだと思います。一方で、そのような人として人に相対する姿勢を忘れ、捨ててしまったのであれば、人権を語る資格などありません。