人間として尊重すること | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「現代ビジネス」に興味深い記事が載っていました。
ロリータモデル兼看護師が、病院ではない会場での、私服参加の勉強会に、帽子を被って参加したところ、講師から、公衆の面前でビンタされ、「医療の勉強の場に帽子を被ってくるとは何事だ!」と怒鳴られたというものです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57853

勉強会等で、帽子を着用したままということについて、マナーの観点からは、是非の意見があるかと思います。
しかし、いずれの場合でも、講師の反応は、行き過ぎというべきではないでしょうか。

筆者は、「ロリータ服やミニハットは、わたしの日常の私服であり、誰かを傷つける意図などある訳ありません。」、「ただそれだけなのに、この先生は、わたしのミニハットに勝手に悪意を見出して、勝手に気分を害して、憎しみの感情を込めてわたしに暴力(ビンタ)したのでした。」とします。

人間が人間として尊重されるとは、その人間の意思に委ねられるべき領域を侵さないこと、その自由を保障することではないでしょうか。

いかなる場合も、帽子の着用が、本人の意思に委ねられるべきとは言いません。
しかし、恫喝や暴力による心身の抑圧を受けない自由は間違いなくあるはずです。

誰の尊厳も侵さない行為の場合、マナーといえるかどうかは、捉え方次第で相対的といえるのではいかと思います。
一方で、他者の尊厳を侵す行為は、許されるべきではありません。

人は、時として、特に、権力を持つと、他者を支配している錯覚に陥ります。
そうすると、自分の領域が侵されていないのに、自分の思いどおりにならないだけで、怒りを感じ、他者の領域に一方的に踏み込み、攻撃するようになります。
自分は偉い、自分は特別と思った瞬間から、人は他者に対して、図らずも、「人にあらず」というような態度がとれてしまいます。

どんな立場にあっても、人間の本質を見据えて、それを尊重することが重要なのではないでしょうか。