人間や命の価値に理由は問わず | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

長く生きられない人を助けるのは無駄だという意見を耳にすることがあります。
しかし、それならば、あと何年生きる人であれば、助けることが無駄でなくなるのでしょうか。
人は皆、いずれ死にます。極端にいえば、永遠には生きられない人間という存在自体が無駄ということになってしまいます。

もちろん、様々な制約の中で何もかもできるわけではありません。
しかし、人間である限り誰でも、命ある限りいつでも、あるいは、命尽きた後であっても、人間として尊重されるべきであり、手を差し伸べること、助けることに意味があると思うのです。

理由はありません。
むしろ、人間や命の価値に理由を求めることは危険なことだと思います。
なぜならば、価値に理由を求める場合、必然的に、それ以上に価値があるものとの関係性で理由が付けられるからです。
人間や命の価値に理由を求めている時点で、人間や命より大切なものがあることが想定されていることになります。

特定の属性を持つ人間について、あれこれと理由を付けて、その存在や命の価値を否定する人も見られます。
これに対して、価値を肯定するため、あれこれと理由をつけて議論するのは危険かもしれません。
それは、「人間や命よりも価値があるものがある」という議論の前提を受け入れてしまうことになるからです。

大学時代に受講した刑法の講義で、担当の教授が、人を殺してはいけない理由は理屈で説明するようなものではなく、人の心の深いところにあると述べていました。
なぜか、そのことが印象に残りましたが、確かに、今の世に必要なのは、人間や命の価値を理屈で考え、議論するよりも、心の深いところにある思いに従って人や社会に向き合うことなのかもしれません。
それだけが、人間や命を軽んじる理屈に対抗できる武器になるように思えます。

(追伸)
あっという間にツツジの季節も過ぎ去りそうですね。
心なしかハナミズキがあまり見られないまま終わってしまったような気がします。