“迷い”と“願い”の街角で -4ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

議論は何のためにするのでしょう。
いつの頃からか、「論破」が流行り始め、相手を言い負かせば自分の意見が正しいと決まるかのような物言いがなされるようになりました。
しかし、本来、議論は互いの言い分を言い合い、理解し合い、より良い考えを得るとともに、その認識を共有するために行うものではないでしょうか。

議論の相手が自分の意見に理解を示し始めたら、当然喜んで受け入れるところかと思います。
ところが、なぜか、そうならないことがあります。
ここぞとばかりに、「さっきは違うことを言ってただろう」と攻め立てたり、「そらみたことか」と嘲笑したりと、不可思議かつ醜悪な言動を始めます。

そもそも、相手の理解を得ようと話をしていたのではありません。
相手を攻撃し、けなすこと、まさにマウントこそが目的だったといえるでしょう。

ここでは、言葉が理解し合うためのコミュニケーションの機能を喪失しており、単に相手を不快にさせ、傷つけるための凶器でしかなくなっています。
一方でもこのような姿勢で臨めば、進んで凶器で刺されて傷つきたい人はいないでしょうから、反撃するか、諦めて去るか、いずれにしても、もはや分かり合うことは不可能です。

たかがマウンティング意識といえばそれまでですが、これが蔓延すれば、社会に様々生じる問題を解消するために必要な関係者の合意が作られなくなるおそれもあります。
そのような社会にならないよう、小さなことですが、自らの姿勢や話し方に気を付けていきたいと思います。

(追伸)

4月の終わりに家族で醤油工場の見学に行きました。

見学ツアーに参加できるだけでなく、子供の遊び場などがあるほか、食事や醤油風味のソフトクリームも美味しかったです。
















人を信じやすい人を「子供」や「未熟」と冷笑して、「人は信用するものではない」と大人ぶる人がいます。
しかし、確かに「人に裏切られる」という経験値は増えているかもしれませんが、「誰も信じない」と嘲笑う姿勢もまた「子供」や「未熟」という印象を与えます。
裏切られる痛みを避けるあまり、信用できる人まで遠ざけ、傷つけることを厭わないのは、自己中心的ともいえるでしょう。

生きていけば自ずと、信用できる人も信用できない人もいること、それを見分けることは極めて難しいこと、そもそも、極端な例を除き、多くの人が両方の要素を持っていることに気づいてくるのではないでしょうか。

「何も信じられない」よりも、「何を信じてよくて、何は信じてはいけないのか分からない」という曖昧さの方が心には負担になります。
裏切られる怖さを心に抱え続けるくらいならば、最初から誰も信じない方が、裏切られる痛みを感じずに済むからです。
むしろ、この怖さや痛みを受け入れることが、大人になるということではないかと思うのです。

(追伸)
過ぎ去った桜や菜の花、ハナミズキの季節。今年も綺麗でした。
季節の巡りが本当に速く感じます。































「躾が全くできていない騒がしい子供の入店お断り」という貼紙をしたお店がインターネット上で話題になっていました。

日本の社会のこういった姿勢が、親子を息苦しくし、少子化を進めるという苦言が呈される一方、店が入店を断っているのは「躾が全くできていない子供」であって、普通の親子を排除するものではないと上記の苦言を批判する声も多々聞かれました。


皆様はどう思われるでしょうか。

公共の場で子供が騒いでも、親が注意もせず放置している状況が問題視されることがあります。

これではさすがに親として無責任と感じられるでしょうし、他の客の迷惑を考えても、そういった親子連れの入店を拒んでも致し方ないといえるでしょう。

この意味で、貼紙の内容は決して間違っていない、まさに正論といっていいと思います。


そう、まさに正論です。

正論なのですが・・・小さな子供を持つ身としては、このお店に入るのは避けると思います。


入店を拒んでいるのは「躾が全くできていない子供だけ」といいますが、「躾が全くできていない」の水準について、考え方は人それぞれです。

中には、「きちんと躾ければ常に子供を静かにさせておけるはず」と考えているような方も見受けられます。

しかし、子供や親の個性にもよるでしょうが、実際には、確実な静寂を保証することなどできず、その躾のために、大声の応報になることも珍しくありません。

人によっては、これも「躾が全くできていない」と捉えられるのではないでしょうか。


考え方自体は正論でも、その正論が常に健全に使われるとは限りません。

ただし、これは「親は子供を躾けるべき」という正論にも、「社会は親子連れに寛容であるべき」との正論にもいえることです。

心がざわついても、安易に正論の刃を振り下ろすことのないよう、冷静さと落ち着きを持っていたいと思うところです。


(追伸)

3月初めに志木市の寺院に梅を見に行きました。紅白の見事な梅、その後、近くの川沿いの施設に立ち寄ると、綺麗な吊るし雛が披露されていました。
































年功序列を廃して、能力に応じて処遇すべきとの意見はかなり前から聞かれていたように思います。
日本社会でも、以前と比べれば若手の登用が活発になったと感じますが、それでもまだ十分に浸透したとはいえないでしょう。

その理由の一つには、年上の部下を年下の上司が指導することへの抵抗感が挙げられ、意識の改善が必要とされています。
ただ、ここで必要とされている改善とはどのようなものでしょうか。年下の上司に指図されることに抵抗を感じない、あるいは、感じても我慢するようになれば、改善といえるのでしょうか。

そもそも、人間は、指図されたり、支配されたりするのを嫌うものであり、その抵抗感を、年上だから、先輩だからと納得させていたのではないでしょうか。
それが納得感の拠り所を失えば、たちまち抑え込んでいた抵抗感が噴出します。
果たして、これを押さえ込むことが今日求められる意識改善なのでしょうか。

おそらく、上司と部下の関係を今のような全人格的な上下や指導・追従の関係とする前提がある限り、年功序列にかかわらない適材適所は実現できないと思われます。
管理者も実務者も役割の違いに過ぎず、互いに役割と人格を尊重する風土が醸成されない限り、抜擢を含むような思い切った人事への抵抗感は払拭できないでしょう。

それは「甘え」と思われるかもしれません。
能力に差がある以上、能力の高い人間が高い地位を得て、能力と地位の低い人間を下に見て指導するのは当然だ、と。
しかし、能力と地位がある者が、その職務を遂行するに当たり、部下を全人格的に下に見て接するのは必然でしょうか、必要でしょうか。
それもまた一つの「甘え」なのではないでしょうか。

さらに、地位に「全人格的な支配力」が付随すると、地位への固執が発生します。
昨今、「老害」という言葉もしばしば聞かれますが、地位を単なる役割の違いに変えていかなければ、地位にしがみつく老害と、地位を失った悲しい「働かないおじさん」と、それに苦しめられる周囲の人達という皆が不幸になる未来を招いてしまうように思うのです。

(追伸)
2月に仕事で松本に行った際、松本駅で待合せまで時間ができたため、その間に松本城を訪れました。
ゆっくりはできませんでしたが、いい気分転換になりました。

























社会の厳しさを説かれ、競争の必要性を煽られ、必死に生きてきたのが氷河期世代といえるでしょう。
そして、その世代の努力は報われることなく、苦難の時代は、そのまま日本の衰退した30年となりました。

しかし、社会を活性化させるはずの自由競争が最も激しかった時代、世代が特に没落したというのは、絶望的な皮肉としかいえません。

私は氷河期の終盤で就職しました。
昭和の時代よりは随分と改善されてはいたのでしょうが、今と比較すれば、理不尽がまかり通っていたように思います。

当時から違和感を覚えていたのは、中身のない些細な決まりを押し付けられ、その違反を厳しく咎められたり、不必要に仲間内での競争を煽られたりと、厳しさといえば厳しさなのですが、社会のために本当に必要な厳しさなのか疑問なものが多かったことです。
社会の荒波といいますが、まだ見ぬ大陸の前に立ちはだかる大海原ではなく、人工的な波が作られた狭いプールのような感覚でしょうか。
上の世代の欲望を満たすために、小さな波のプールに放り込まれ、嘲笑われながら沢山の人が溺れていき、うまく泳いでも泳いでも、褒められこそすれど、新たな大陸にたどり着けることなど当然ありません。
そして、目指すべき大陸を見失い、泳ぐ体力も奪われて今に至るのではないでしょうか。

この状況を一朝一夕に改善することなどできませんが、せめて、この社会に生きる者を、共に新大陸を目指す同志として受け入れてほしいと願わずにはいられません。

(追伸)
2月には仕事で長野経由で松本へと行きました。
長野には雪がありましたが、その後3月になって埼玉で雪を見ることになるとは、この時には思っても見ませんでした。

























ミスをすることは避けられないが、同じミスを繰り返してはいけない。
社会人としての経験が浅いとき、このような指導を受けることも多いかと思います。

そのような時の指導として、「ミスは誰しもが犯すもの、反省して繰り返さないことが大切だ」と言われるのと、「俺は一度のミスは許す、だが繰り返すことは許さん」と言われるのでは、印象はいかがでしょうか。
後者も、同じことを言っているのですが、何ともいえない感じの悪さがないでしょうか。

それを感じるとしたら、前者が、指導の基準を自分の意向のみに求めているところかもしれません。
たまたま、この時に言っている内容自体が不適切とはいえなくても、「お前の生殺与奪は俺の胸三寸」という雰囲気がまとわりついています。

上下関係を重んじた従来の日本では、後者のような姿勢も違和感なく受け入れられたかもしれません。
しかし、これからは上下関係にも公正がより強く求められるでしょうし、それが本来のあるべき姿といえます。
上司にとっては面倒なことかもしれませんが、この公正を突き詰める姿勢がなければ、より良い社会を築いていくことはできないでしょう。

(追伸)
1月から2月初め頃の写真。イルミネーションや近所のホームセンターから見えた富士山は、空気が澄み、また、日が短い冬の風物詩ともいえますが、その季節も終わろうとしていますね。







以前所属していた団体で、活動日の前日に責任者からこのようなメールが参加者宛に送信されました。
「私は最近体調不良で、明日も機嫌が悪いと思います。なので、私を怒らせないように気をつけてください。」
この責任者に対する不信感を募らせる一つの出来事でした。

過去に国会議員による秘書への暴言が問題となった件で、その議員が秘書に叫んだ言葉の一つが「私の心を傷つけるな」だったと記憶しています。

不当な仕打ちを受ければ怒るのは当然かもしれません。
しかし、その場合、相手に要求すべきは、不当な仕打ちをやめることです。
この「私を怒らせるな」は、それを超えて、自分の感情や言動に対する責任を放棄し、それを他人に押し付けるものです。

このようなあり方は、自己中心性や甘えによる恥ずべきもののはずですが、「他人より偉い自分にはその権利がある」、「それができるのが偉い証拠」と勘違いすれば、その恥は歪んだ誇りへと変わり、言動は正当化され、エスカレートします。
それは、他人を傷つけるだけでなく、ますます自分を見失うことにつながるでしょう。
自分も他人も守るため、自分に対して責任を持つ姿勢を失いたくないものと思います。

(追伸)
昨年後半から、新潟、長野、茨城、群馬、栃木、山梨と出張が続きました。
初めて訪れた場所も、久しぶりに訪れた場所もありましたが、普段と違う景色を見るのはいいものです。





















勝手に他人に上から目線の助言や批評をした上に、聞き入れられないと怒り出す。
このようなことをされた経験はないでしょうか。
勝手な助言は単なる「お節介」といえるかもしれませんが、なぜ怒るのか、不思議に感じていました。

内田樹とウサビ・サコ著「君たちのための自由論」の中で内田氏は、マウンティングが優先されがちな日本の組織の特性を指摘しています。

この社会で、ややもすればマウンティングが何よりも優先されると考えたとき、人がマウンティングのみに自分の存在価値を見出すと考えたとき、上述の理由が分かったような気がします。
その人にとって、助言や批評によるマウンティングは、自分の存在価値を示す行為であり、これを拒まれることは、自分の存在価値を否定されることにほかならないからです。

しかし、このようなマウンティングが蔓延した社会は、決して健全とはいえません。
マウンティングを目的とした場合、自分の言い分を相手に認めさせることが最も重要となり、相手の言い分を聞き入れることや、自分の言い分に誤りがあった際にそれを受け入れ、改めることは、屈辱的な敗北を意味します。
行き着く先は、自分の言い分を暴力的に叩きつけ合うだけのマウンティング戦争です。
そこには、異なる考えを受け入れ合う相互理解も、多様な視点の融合による創造・発展もなく、破壊と分断だけが生じます。

マウンティングは、社会全体に蔓延すれば、単なる礼節の欠如にとどまらず、社会を引き裂く大きな弊害をもたらすもののように思われます。

(追伸)
年末年始は実家の東京都練馬区と義実家の埼玉県宮代町を行き来しました。
練馬区では石神井公園の池で子供と久しぶりにボートに乗りましたが、ボートから見える景色は普段と違い新鮮でした。




























かつては、皆が「幸せ」を求め、そのために一丸となって進んでいたのかもしれません。
その結果、社会は豊かになりました。

豊かになった社会では、「お金」が重視されました。
豊かに生きていくために必要な「お金」を得るためには、「幸せ」を犠牲にすることが当然のようになりました。

やがて経済が衰退すると、「お金」も十分に回らなくなりました。
「お金」のために「幸せ」を犠牲にした社会が「お金」を失ったとき、そこには何も残りません。

しかし、「お金より幸せ」への回帰というのも非現実的です。
「お金」が「幸せ」のための重要な手段であることは間違いありません。
問題は手段の目的化、あるいは、盲目的な手段のみへの執着にあったというべきでしょうか。

では、ここから、どこへ向かうのでしょうか。
今一度「幸せ」を描き、そのために「お金」すなわち経済を再構築できれば、それに越したことはありません。
しかし、もう一つの道として、乏しくなった「お金」にさらに執着し、奪い合いによる「不幸」を増幅させていく可能性もあります。
そして、「幸せ」を忘れた社会では、後者の方がより現実味を感じます。

「人間」や「幸せ」の探求すら、「金にならない」と切り捨てた社会の末路といえばそれまでですが、それで諦めるわけにもいきません。
今は自分にできる「幸せ」の模索を続けるしかないように思います。

(追伸)
昨年11月下旬から12月上旬にかけて撮った写真です。
深く色づいた木々と高い空の綺麗な晩秋でした。

























私が小学生の頃、仲間内では既に、綺麗事を捨て去ることが大人になることだという感覚が広がっていました。
夢や希望、優しさといったものを虚構として、冷淡になり、他人の痛みに鈍感になることが大人になることだと思われていたようです。

子供ならではの虚勢だったのかもしれません。
しかし、大人の社会から、そういったものを感じ取っていたことも一面の真実と思います。

綺麗事だけの理想は未熟かもしれません。
しかし、綺麗事を冷笑・嘲笑することは、私が小学生の頃に仲間内から感じていたものと同様、幼稚なのだろうと思います。

綺麗事を社会の中で現実的に追い求めること、それが大人になることだろうと思いますが、今の社会で、私達はどれだけ子供達にそれを示せているでしょうか。
2025年の初めに、少しでも、自分なりに、それを示せる年になればと思っています。

(追伸)
昨年11月上旬から中旬にかけて撮った写真です。
この頃はまだ初秋という印象でしたが、あっという間に過ぎ去っていきました。