“迷い”と“願い”の街角で -4ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

競争は社会の発展のために必要不可欠なものといわれます。
そういった中、日本で、世界で、新自由主義による競争の激化がみられますが、果たして社会は発展しているでしょうか。

思えば、私が子供の頃から「これからは競争の激しい、厳しい世の中になる」というようなことが言われていた気がします。
しかし、そこで言われている競争は、誰かが設けた小さなスタジアムの中で、相対的な優劣を競わされるようなもので、ただただその誰かに認められるための窮屈で無味乾燥なものに感じました。
このような競争は、自ずと蹴落とし合いを招く陰湿なものとなります。

競争が人間の本能としてあるとしても、それだけが人間を形成しているわけではなく、様々な側面から成り立っています。
だとすれば、競争だけを至上視するのではなく、全体として望ましい人間社会を実現するために、一側面である競争を統制する必要があるのではないでしょうか。

しかしながら、無味乾燥な競争に慣れすぎた、あるいは、疲れすぎたのでしょうか。
競争の先にあるべきものは全く見えず、どんな残酷な不幸も対処すべきものではなく、競争の結果として、諦められ、正当化され、見捨てられています。
競争の先を描くことがもはやこの社会でできないとしたら、陰湿な競争の果ての滅亡を待つしかないのでしょうか。

(追伸)
埼玉県のミュージアムスタンプラリーで草加市を訪れました。
松尾芭蕉の奥の細道ゆかりの地、歴史の痕跡が伺える街はいいものですね。







昨今、就職氷河期世代が満足にキャリアを積めず、家庭も持てないままに中高年となり、社会基盤を揺るがしかねないと問題視されています。
私は、就職氷河期の最後の頃に就職しましたが、本当に運が良かったとしか言いようがありません。

インターネットには、主に報われないまま歳を重ねた当事者の声がまとめられたコンテンツもあり、過去と現在の苦境、恵まれた新しい世代への羨望、採用を絞った企業や見捨てた社会が人材不足で苦しんでいることについての因果応報など、様々な主張がなされています。

ただ、この中で気になったのは、ちらほらと、外国人への生活保護支給を挙げて、それよりも氷河期世代を支援すべきとの声があったことです。
外国人という理由だけで今まさに困窮している人を平然と見捨てる人が、社会が、氷河期世代に本気で手を差し伸べるとは到底思えません。
外国人の生活保護を引き合いに出して、それに賛同する人は、決して氷河期世代も助けないとすれば、非常に倒錯した主張となります。

なぜ、このような主張に至るのか、それを考えたとき、一つの推論が頭を過ぎりました。
この社会はもはや、誰かを叩くことでしか連携できないことを確信し、その確信の下で残された唯一の方法としてマイノリティの排撃を介した主張をしているのではないか、と。
私自身、氷河期世代として生きてきた中で、思いやりや正義で社会が連帯することが信じきれずにいます。
連帯のための唯一の希望が誰かを叩くことだとすれば、まさに絶望の社会と言わずにはいられません。

(追伸)
夏の飯能・秩父旅行の2日目は、ダム、蒸気機関車、まつり会館と秩父を観光しました。帰路で大雨が降り、観光中でなかったのが幸いでしたが、かなりスリルのある運転になりました。



















先日の自民党総裁選でも取り上げられた選択的夫婦別姓の是非について、特に保守派とされる方々からは強い異論が出ています。
その異論には様々な内容がありますが、中心となっているのは「家族の絆が壊れる」というものです。

「絆」を、心の結びつきや信頼関係と捉えている方々からすれば、理解の及ばない意見かと思います。
心と心の結びつきである絆が、別姓の選択で壊れるとは考え難いからです。
それでは、別姓が絆を壊すという考えを持つ人は、その背景で何を考えているのでしょうか。

もしかしたら、「絆」は、立場が上の人間が下の人間を縛り付ける権力のことだと認識しているのかもしれません。
相手の心情や意思にかかわらずに従わせ、その関係を維持する鎖を「絆」と呼ぶならば、確かに選択的夫婦別姓の導入は「絆」を破壊するものでしょう。なぜならば、選択的夫婦別姓の導入は、その制約を解き、自由な心情や意思に基づき行動するという方向性で求められているものであり、反対派からすれば、それを主張すること自体が「絆」を破壊する行為となります。

しかし、異なる他者への理解と尊重のない一方的な関係性は、一人ひとりの成長も、社会の成長も導きません。
なぜなら、他者への理解や尊重の過程で、自分になかった視点・観点を手に入れるからです。そして、自分の世界に取り入れることで、自分の世界は広がっていきます。

他者を抑えつけ、思い通りに支配し続ける限り、楽かもしれませんが、気づきも、自己の広がりも、成長もありません。
そして、それが社会の趨勢になれば、社会は硬直、停滞、衰退するだけでしょう。
これもまた、日本の失われた30年の一つの側面であるように思えるのです。

(追伸)
8月のことですが、今年の夏の家族旅行、1日目は飯能市のムーミンバレーパークに行き、その後、秩父市に移動して宿泊しました。
天気予報には直前まで雨マークが付いていましたが、幸い降られずに楽しめました。



























子供達が7歳と4歳になり、何を目指して子育てをしていくのか考えることがあります。

教育については、社会への適応を重んじるのか、個性の発揮を重んじるのかが常に議論されてきたように思います。
かつては前者に偏る傾向がありましたが、その後、それへの反省から後者を重視するようになりました。一方、その教育を受けた若い世代に、社会性の欠如や自己中心的な姿勢が目立つといった弊害も指摘されています(ただ、いつの時代も若者のあり方は批判されがちで、その真偽は定かでありません。)。

教育においては、他者や社会との協調を重んじるべきか、自己の実現・伸長を重んずるべきか。
これについて、今思うのは、双方とも目指さなければ、双方を調和させなければ、人も社会も幸福になれない、発展できないのではないかということです。

人は個性と意思を持っている以上、自由にそれを発現できなければ、生きる意義は感じられないでしょう。
しかし、人が人の中で生きる以上、皆が幸せになるためには、他者への配慮が必要になることはもちろん、個性や意思も他者から認められてこそ、より幸福を感じられるものと思います。
さらに、ある程度の規律がなければ社会は成り立ちませんが、構成員の個性が抑圧され、自由に生きられなければ、社会は決して豊かにならないのではないでしょうか。

他者や社会との協調に傾きすぎれば、管理、抑圧、支配と化していき、自己の実現・伸長に傾きすぎれば、単なる甘やかしと放置と化していく。
個人の幸福と社会の幸福は、どちらかを毀損すると、やがてもう一方も毀損していくようにも感じます。
個人の幸福と社会の幸福の両立を目指し、バランスが崩れていないか常に悩み続けることが教育の本質なのかもしれません。

(追伸)

夏に再度訪れた実家のある石神井公園。暑さの中にも涼を感じました。


























日本の失われた30年を招いた原因については、様々な考察がなされています。
おそらく、一つの原因によるものではなく、多様な要因が複雑に絡み合って、今の状況を招いているのでしょう。
これらの多様な要因の一つとして、個人的には、社会を構成する人々の相互不信があるのではないかと感じています。

経済学等における学説に、ゲーム理論というものがあります。
私も過去にごく僅か学んだのみですが、利害が一致しない複数の者が経済活動を行うとき、
①互いに協力的であれば、全体の利益が最大化する、
②一方が協力的で、他方が利己的な場合、後者は①以上の利益を得て、前者は損失を被るが、全体の利益は①を下回る、
③双方が利己的な場合、双方とも損失を被り、各々の損失は②より小さいが、全体の損失は①②よりも大きい、
といったものと記憶しております。
突き詰めれば、社会で、互いに疑心暗鬼になり、自身の利益のみを守ろうとすればするほど、社会全体は大きな損失を被っていくということになるのでしょう。
今の日本の社会が、③のパターンで溢れかえっているように思えてならないのです。

日本が新自由主義の方向に進み始めた頃、これからは実力主義の競争社会になると盛んに言われていました。
競争による社会の活性化は確かに必要ですが、日本の社会は活性化したといえるのでしょうか。
実際に行われたのは、競争による向上ではなく、奪い合い、蹴落とし合い、そして、それらから全てを吸い上げる搾取でした。
競争が正常に機能するには、公正なルールと最低限の保障が必要なはずです。
しかし、実際には、正直者が馬鹿を見て、それが自己責任と切り捨てられ、社会全体が瓦解する中で、一部の人間がかりそめの利益を手にしているのでしょう。

今、その出口を全く見出だせずにいます。

(追伸)

絵に描いたような夏空を目にして、ゆずの「夏色」を思い出しました。この歌が出た頃は私の青春時代と重なりますが、もう20年以上も前になるのですね。














この世には、決して許してはならないことがあります。
しかしながら、そもそも「許してはならない」とは何を意味しているのでしょうか。

時々、特にインターネット上で、有名人・著名人が過去に行ったことが蒸し返され、炎上することがあります。
これについて、もう過去のことと言えば、「決して許されないことだ」という反論がなされます。

こうして、いつまでも責められ続けることが、「許されない」ということなのでしょうか。
一度でも過ちを犯したら、永遠に、周囲から、傷つけられ、痛めつけられることを甘受しなければならないのでしょうか。
社会の一員として平穏に暮らすことを阻まれ続けなければならないのでしょうか。

これについて、「許してはならない」とは、社会としてそのままにはしておけない、放置すれば様々な大切なものが毀損されるおそれがあるものと思われます。
社会の、人々の生命、平穏、幸せといった価値あるものを守るためにこそ、向き合い、戒めなければならないことがあり、これが「許してはならない」ことなのでしょう。
それでは、過去の過ちを掘り返し、後ろ指を差し続けることはこれに適したことでしょうか、大切な何かを守ることにつながるでしょうか。

過去のことを掘り返して責めることが正当化されるとしたら、その過ちを反省せず、罰を受けず、機があれば同じことを繰り返すなど、またさらに大切なものを傷つけるおそれがある場合でしょう。
そうでなければ、単に誰かを叩きたいという欲求を満たす名目に使っているに過ぎません。

それでも、許されない行為を責めるのは当然だと、正しいことだというでしょうか。
過去に、「正しさ」の御旗による誹謗中傷で何人もが傷つき、場合によっては生命を失ってきました。
このような結果を招いたとき、叩いた人は、許されないことをしたとして、同様に自身が一生後ろ指を差される覚悟があるのでしょうか。

このような叩きの連載は、人を不幸に導く負の渦巻きを社会の中で日に日に大きくしているように感じられてなりません。

(追伸)

6月に実家の近くにある石神井公園を訪れた際の写真。紫陽花も終わりの頃でした。














佐藤美由紀著「世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉」を読了しました。

ムヒカ氏のことが世界で、そして日本でも話題になってから久しくなりましたし、既にムヒカ氏は大統領を退いていますが、今なおムヒカ氏の言葉は示唆に富んでいると思います。


日本では、ムヒカ氏を清貧の大統領という点で注目されていることが多かったように感じます。

しかし、ムヒカ氏から学ぶべきは、その社会や世界への向き合い方、考え方ではないかと思うのです。


ムヒカ氏は貧困対策、格差の是正を重点的に取り組みましたが、そこには消費社会が人から大切なものを奪うという問題意識があり、市場を制御する重要性への認識がありました。

日本では、資本主義の絶対視の下、経済競争の中で人の命が、人生が、健康が、尊厳が傷つけられながら、競争社会や自己責任と今だに正当化されているようにも感じます。

ムヒカ氏は、消費社会で傷つけられるこれらへの慈しみがあるからこそ、政治や社会を変えていけたのでしょう。

今の日本で、人の命、人生、尊厳といったものが、もはや大切とすら思われていないならば、何も変えることはできません。まずは、そこから変わっていかなければならないのでしょう。


また、ムヒカ氏は、大統領になった際、「勝者も敗者もない。我々は支配者を選んだのではない。」と言い、野党との協調を表明しています。

日本では、一時期盛んに、選挙に勝った者は、民意を得たとして、好きなようにやってよいというような言説が、政治家だけでなく、一部の識者やマスコミからもなされました。

まさに対極の姿勢というべきでしょう。


加えて、ムヒカ氏が、大統領になってからも、国民の大半と同じような生活をするとして、質素な生活を続ける一方、それを自身の選択として、人にそれを押し付けようとはしませんでした。

日本では、経済不況の中、生活苦を訴える声に対して、身分や富に恵まれ、さらに本来責任ある立場にあるはずの人が、「清貧」を説く場面も目にします。

ムヒカ氏のような考え方からすれば、まさに倒錯でしょう。 


最後に、ムヒカ氏は、自身の人生哲学として、物質的な欲求を満たすために働く時間は自由ではなく、自分の好きなことに使っている時間が本当の自由とします。

ムヒカ氏とは全く関係のないことですが、昔、子供たち向けの誰かのメッセージで、「損得抜きで行動しよう。気持ちいいよ。」というものを目にして、それが記憶にこびりついていました。

これが久しぶりによみがえり、ムヒカ氏の言葉と重なりました。人間や人生にとって大切なもののために、これから何ができるのか、自分でも問い直していきたいと思います。


(追伸)

先日、仕事で横浜を訪れました。やはり独特のよい雰囲気がありますが、残念ながら用務を済ませてとんぼ返りでした。






東京都知事選が終わりました。
選挙の制度や運用については、これまでも様々な問題や疑問が指摘されていましたが、それらが、ここまで顕在化したのは初めてではないでしょうか。

今回に限らず、昨今の選挙、立候補者や投票行動をみていて、何となく感じてきたことがあります。
それは、この国、社会において人々は、もはや、皆が幸せになることを諦めてしまったのではないか、あるいは、最初からそんなものに価値を置かず、目指してもいないのではないか、というものです。

皆が幸せになど不可能と言われればその通りです。
一方で、不幸が社会にあることを課題として捉え、可能な限り、少しずつ、一人でも多く幸せであるようにすること、その道は諦めてはいけないことでしょう。

しかし、選挙において、立候補者から、それを目指す姿勢はあまりみられず、投票する側も、それを求めているように感じられません。
むしろ、遠い日の破滅を避けられないものとして、破滅をかえって引き寄せないようにする現状維持の姿勢、力のある者に迎合することで社会の中で自らが破滅する順番を遅らせようとする姿勢、傲慢な態度での攻撃者に自らを重ねて酔い、一時の夢で先々の破滅を忘れる姿勢、そういったものを感じてしまうのは、単なる思い込みでしょうか。

少なくとも、市井では、絶えず人を幸せにしようとする営みは絶えていないと思います。
その営みが押しつぶされてしまうことなく、政治にも広がっていくことを願うばかりです。

(追伸)

バラが綺麗だった時期の近所の公園。昨年は様々なところのバラを見ましたが、今年はあまり見ないまま、いつの間にか時期が過ぎてしまいました。














自由には責任が伴うと言われますが、自分の意思で決めた行動に対して起きたことは、全て甘受しなければならないのでしょうか。
自分の意志で就職した企業がブラック企業だった、暗い夜道を帰宅中に犯罪被害にあった、意を決して自分の窮状を訴えたらバッシングに遭った、このような「被害者」を「自分の選択に責任を負え」と批判する向きもみられます。

しかしながら、これらは本当に自由に伴う責任なのでしょうか。
行動に対する理不尽で過度な負担は、本来負うべき責任とは考え難く、そもそも、そのようなものを負わされる以上、そこに自由があるとはいえないでしょう。
そこに自由があるとしてしまうと、極論すれば、拳銃を突きつけられて金銭を脅し取られた場合でも、金銭を出せずに殺されるという選択もできたのに、自分の意思で金銭を出したという理屈さえ成り立ってしまいます。

さらにまた、このような被害者の選択に責任を負わせる理屈の悪質なところは、意識的にか、無意識的にか、加害者の自由な選択による加害行為の責任を不問に付しているところです。
「自由と責任」を問いながら、その実、それらを大きく履き違えた、自由なき責任を押し付け、責任なき自由をはびこらせるようなものとなっています。

一見、もっともらしい内容でありながら、実は、その正反対の方向にある主張は珍しくありません。
世の中を腐らせないようにするためには、これらを適切に見分ける必要があると思います。

(追伸)
速いもので、今年も折り返しになってしまいました。






























先日、7歳の娘を美容室に連れていきました。

まだまだ様々な場面で、他人に対して控えめで臆しがちですが、散髪は嬉しそうで、これも小さな成長の証なのかなと思いました。


あれだけ小さかった娘が、一人で椅子に座って髪を切ってもらっている。それを少し離れた椅子に座って見ていました。

外は春の麗らかな陽気で、花壇にはチューリップをはじめとした春の花々が綺麗に咲いていました。

ラジオからは心地のよい音楽が流れていました。


ふと全てが満たされ、時が止まったように感じました。

気取った言い方になってしまいますが、完璧な瞬間、一瞬の永遠とでもいうような感覚でしょうか。


時折、このようなことがありますが、それは、旅行や学校行事など、大きなイベントなどではなく、日常の中でふと訪れます。


このような時間があることを幸せに感じると同時に、大切にしたいと思いました。


(追伸)

先日、家族で四季折々の花々が楽しめる公園に行きました。この時期は、チューリップ、芝桜、ネモフィラが綺麗に咲いていました。